下記の記事は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です。
蔓延する「認知症=終わった」感。もうダメかもと諦める本人、人前で恥をかかせないよう行動を縛りつける家族、「あなたが認知症なら、私なんかもっと認知症だよ!」と軽口をたたいてしまう人々、当然のように「誰と一緒に来ますか?」と尋ねる窓口担当者……。元自動車トップ営業マンで、39歳のとき認知症と診断された当事者である著者が、認知症を取り巻く現状と、よりみんなが楽になれるあり方を提案する。『認知症の私から見える世界』を書いたおれんじドア代表の丹野智文氏に聞いた。
認知症はなったとたん「重度」前提
──「家族から車に乗らないでと言われ、車や鍵を隠され免許証を奪われた」。認知症当事者の話にギクッとしました。読んで、身に覚えのある家族は少なくないかと。
当然ですが、症状が進むなどして危険な人には絶対運転させてはいけない。ただ、当事者が認知機能検査をクリアしていて、自己判断できる状況なら、奪うのではなく、自分で決めることを応援してほしいと思うのです。ぶつからない車に換えるとか、乗り続けられる工夫を一緒に考えてほしい。
認知症は、診断直後から重度の症状がすべての前提となり、行動制限・監視下に置かれる。私が39歳で診断されたとき、区役所、地域包括支援センター、どこへ行ってもまず介護保険の話でした。「会社辞めてデイサービスに通ったら?」と。
30代の人間が働き続けるという普通の考えがなかった。進行してから行動を変えるのは難しいけど、段階に応じた工夫や対応で病気とうまく関わっていければ、よりよく生きられるはずです。
──ほとんどの家族と当事者が、主従関係になってしまうとか。
診断翌日から対応が一変する。「これ持っててくれる?」じゃなくて「はい、これ持って」。「ほら行くよ」「ちゃんとして」。言う側は意識して強く言ったつもりはなくても、言われる側はイラッとくるし、落ち込んで自信を失っていく人もいる。認知症になった当人がまず大ショックなのですから。
仕事で使い慣れたパソコンをいじっただけでも「うわあ! すごい」と過剰なまでに褒められる。認知症だからです。書道の先生をしていた方が、「うまく書けなくなったのが自分でわかる。だから褒められてもうれしくない」と言っていました。悪気がないのは承知だけど、プライドが傷つきます。でもなかなか本音は言えない。
家族がすべて先回りするのはよくない
──認知症になると怒りっぽくなる、暴力的になる、というのは?
症状というより環境の問題。当事者が居心地の悪い場になっていないか。毎日小言を浴びせる、外出を禁止する、財布を取り上げるなどしていませんか? 講演に行くと「夫が水道流しっぱなし。どう言ったらいいですか」と聞かれる。それ、いちいち言わなくても止めてあげればいい。注意して本人に気づかせ、脳を鍛え元どおりにさせようとする。でも、物忘れはうっかりや怠惰から来るのではなく、病気の症状です。骨折した人に早く走れとは言いませんよね。
ただ、家族がすべて先回りしてしまうのも実はよくない。自分が時々ボーッとするのは自覚してるし、家族には申し訳ない思いがあるから、不本意でも諦めていく。すると家族なしでは不安で何もできなくなる。認知症当事者の集まりでも、家族が席を立った瞬間に目で追う当事者が大勢います。依存という別の病気。家族も「私がいないとダメ」と共依存の関係になる。自分でやるのを諦めることは、当事者にとっても家族にとってもつらい世界への入り口になる。
──話し方を変えていくといい?
「また忘れたの?」ではなく、「私が覚えてるよ、大丈夫」とポジティブに言ってくれると楽です。「お昼何食べたか覚えてる?」と試すより、「今晩何食べたい?」と聞いてくれたらいい。思い出せずに落ち込むことなく、逆にワクワクする。そのほうがお互い絶対にうまくいくと思う。うちは私が道に迷って帰りが遅くなっても、妻は何も言わない。「心配じゃないの?」と聞いたら、「最終的に帰ってくるし」と。失敗込みで受け入れてくれている。
失敗しないと成功体験もありません。そして当事者から明るさが消えていく。先日パンを焼きながら隣室へテレビを消しに行き、すっかり忘れて焦がしてしまった。妻は「いいよ、また焼けばー」と。次からは目を離さずパンに集中する。あるいはちゃんと焼けるようトースターに工夫を施す。
家族が「いいよ、焼いてあげるから」では失敗体験のまま終わる。やってくれるのを待つ人になってしまう。本人の力を少しでも信じて、応援することが大事だと思います。
認知症の「当事者」になったら
──認知症と診断されたときのために、アドバイスはありますか?
まず病気をオープンにすること。大事なのは、「できること」「できないこと」「やりたいこと」をハッキリ伝えることです。お酒も注意されてないと伝えれば、じゃあ行こうと誘ってくれる。信用できる1人にまずは話してほしい。
それから当事者同士、仲間をつくる。地域で当事者同士が集まれる場は少しずつ増えています。認知症と診断されると「なぜ自分だけが」と落ち込みがち。でも同じ思いや経験をしている仲間がいることを知れば、気持ちはずいぶん楽になる。今、仙台で運転免許を考える集いを開いています。運転をやめた人、悩んでいる人、当事者同士とことん話し合ってもらう。実際に返納した人の経験談を聞くと、自分なりに考えて気持ちに整理がつく。それなら「家族に奪われた」感に駆られなくて済む。
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──当事者側から発信する機会は、徐々に増えつつありますか?
8年前なら認知症の人はしゃべれない、文字が書けないが通り相場で、人前で話すこと自体許されない空気があった。ネットなどで発言すると猛批判を浴びました。でも少しずつ変わってきて、当事者の話を聞こうという人が増えてきた。それで今回本も書けました。
2015年に開設した「おれんじドア」は当事者が当事者の相談に乗る場所。不安を抱えた1人から笑顔になってほしい。本人が元気になり笑顔になれば、家族は絶対楽になり笑顔になるから。当事者にとって家族がいちばん大切だからこそ、家族が楽にならないと。当事者が笑顔になれば、これまでのような偏見はなくなり、結果、それが社会を変えていくはずだと思っています。
中村 陽子 : 東洋経済 記者
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