羚英的随想日記

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■みちのく岩手の旅 その四■

2006-08-21 16:27:56 | 風の吹くまま
源義経終焉の地といわれる 『高舘義経堂』 は小高い丘陵の上にあります。
ふもとにあった(ホッ^^;)簡易駐車場に車を停めて、少し急な坂道をしばらく上ると発券所が見えてきました。

そこから階段を上がると道が左右にと分かれます。
この高舘は細長くこじんまりとした丘陵地なのですね。
まずは右に行き、松尾芭蕉の句碑へ。




松尾芭蕉句碑

門人の河合曾良(かわい そら)を伴い、芭蕉が江戸を出立し 『おくのほそ道』 の旅に出たのは元禄2年(1689年)の旧暦3月27日(5月16日)でした。
奥州藤原氏が滅亡して、500年目の年でもありました。
彼らが平泉を訪れたのは、同年旧暦5月13日(6月29日)のことです。

彼らは先ず最初に、この高舘を訪れたそうです。

三代の栄輝一睡の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野(でんや)に成(なり)て、金鶏山のみ形を残す。先(まず)高舘にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高舘の下(もと)にて大河に落入(おちいる)。泰衡等が旧跡は衣が関を隔てて南部口をさし固め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。偖(さて)も義臣すぐつて此(この)城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ。

 夏草や 兵共が 夢の跡

【口語訳】
藤原氏三代の栄光も一夜の夢のようにはかないものであり、表門の跡は一里手前にある。秀衡の館の跡はすでに田や野となりはてて、金鶏山だけが昔日の面影を残している。まず高舘に登ると、眼下に北上川が流れ、この川は南部地方から流れてくる大河である。衣川は和泉が城をめぐって流れ、高舘の下で北上川と合流する。泰衡らの旧跡は、衣が関を間に置いて南部地方からの出入り口を押さえ、蝦夷の侵入を防いだものと思われる。それにしても、忠義な家臣を選び出しこの高舘の館にこもり、奮戦したその功名も一時の夢と消え去り、今その跡は叢となってしまっている。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と杜甫の詩を口ずさみ、被っていた笠を脱ぎ敷いて、いつまでも涙をながしていた。



かつて栄華を誇った平泉の興亡に、この地で散り果てた義経の苛酷な運命を偲び、芭蕉は思い馳せながら、時が経つのも忘れてたたずみ涙していたのでしょう。

芭蕉の句に続いて、曾良も一句詠んでいます。


 卯の花に 兼房みゆる 白髪かな
  
(城跡の周りに咲く卯の花を見ていると、歳いった兼房が白髪を振り乱して戦う悲壮な姿が思い浮かばれる)
兼房とは増尾十郎兼房のことで、義経が討たれる2日前にこの平泉に到着し、壮絶な戦死を遂げた60歳を超える義経の家来でした。

この句碑の上部に刻まれている字は、松尾芭蕉直筆の拓本だということです。 
近くで写そうと思ったところ、毛虫が何匹も付いている!と娘に指摘され、おののき諦めることにしました



道を戻り、今度は反対側にある 『義経堂』 に行きます。



義経堂

このお堂はさらに階段を上った丘の頂上にあります。
天和3年(1682年)、仙台藩主・4代伊達綱村公が義経を偲んで建立したもので、堂内に本尊として祭られている義経公の木造も、創建時に製作されたものだそうです。

花の芳しい好い香りのするお香が焚かれていました。


階段を下りた所には小さい宝物館があり、義経一行の軌跡を辿ることが出来ます。
源義経に関しての詳細は、あえて言及する必要もないかと思います。
ここで、「義経は好色といわれているが、記録に出てくるのは3人の女性だけ」 というようなことが資料に記してありました。
「好色」とは、ちょっと言葉が…。
どうもこの言葉には嫌らし感がありますし。
女性が放っておかなかった、と解釈したいところです。

その3人の女人は、正室・河越重頼の娘(出自には諸説ある)、平時忠の娘静御前です。
義経は最後に立てこもった念仏堂で妻子(子は女の子であったといいます)の命を絶ち、自分も自刃したといいます。
その妻子の墓と伝えられているものが金鶏山にありますが(その前の道を往復したのですがついぞ見つけられず、後でやっと場所が分かったほど、人知れずひっそりしたところです)、その妻が誰だったのかは定かではありません。
正室の河越重頼の娘だったというのが定説のようですが、奥州で妻帯し、その妻というのが藤原秀衡の忠臣・(最初の平泉から同行した郎党の継信・忠信兄弟の父)佐藤基治(元治)の娘であり、最期を共にした妻だとする説もなかなか興味を引きます。

余談ですが、かつて図書館で見た本には、
「源義経と佐藤基治の娘の子・安若丸は佐藤基信と称している」
という記述がありました。(苗字・紋・地名などの第一人者、丹羽基二氏による)

この基となる記録が正しいのならば、義経には平泉に(最初の平泉時代から?)妻がいて、「最期を共にした妻」 は佐藤基治の娘であったと考えても不自然ではない感じがします。


義経の兄である鎌倉の源頼朝の圧力に屈し、亡き父・秀衡の遺言を破った4代・泰衡は、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲いました。 平泉兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず念仏堂にこもり、妻と4歳の娘の命を絶った後、自害して果てたといいます。
文治5年(1189年)閏4月30日、31歳の波乱の生涯を閉じました。




高舘から北上川の流れを望む

画像の義経堂の右方向を見ると、眼下にはとうとうと流れる北上川が見えます。
対岸にある束稲山の裾野が少し写っていますが、この山は藤原の黄金文化が花開いた往時には、一万本もの桜が植えられていた名所であったといいます。

幾度にもわたる洪水や氾濫で北上川はその流れも変わり、高舘は半ば侵食され狭くなってしまいましたが、ここからの眺望は昔も今も平泉随一と言われているように、雄大なその光景にしばし時を忘れてしまいます。
晴れていたならば、なおのこと美しかったことでしょう! 

ただ、この川筋に沿って近年開通のバイパス工事が進められ道路もすでに作られていて、残念ながらこの景観を損ねている感が否めません。
芭蕉がこれを見たならば、いったいどう思ったことでしょうか。


芭蕉といえば、実は彼らがここ高舘を訪れた時には、すでに義経堂は建てられていたことになります。
柱の色のまだ新しい木の香りが漂うお堂であったでしょうに、芭蕉はこの義経堂のことは一言も言及していないんですね。
いにしえの、滅び去った夢の都のもののふたちの魂に、遥か思いを馳せた芭蕉にとっては、真新しいお堂は空々しく感じられ意味を成さなかったのか、偲び震える己の心をさらに揺さぶるには足らなかったのかも知れません。 


戯言、と思って下さい。
この高舘は、義経の最期の地ではありません。
ここを実際に訪れて、そう私は感じました。
いえ、何も感じなかったというのが正直なところです。
揺さぶられる思いが、何故か沸き上がることがありませんでした。
美しい地ではありますが、ゆかりの地でもあるのでしょうが、ここではない、そう思えてなりませんでした。


毛越寺の管轄でもあるこの高舘義経堂を出発し、次は混雑を覚悟して『中尊寺』 へと向かいます。


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6 コメント

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ああ、ここが・・・ (どんべ)
2006-08-22 09:40:09
お堂の上から光と馬がどかーんと飛び出した場所ですね。

・・・そんなひとつの場面が浮かんで(あれはどうなんだろうな)きましたが、

実際にごらんになったりょうさま、羨ましいです。

ここには行った事がないので嬉しい写真です。

そしてやはり奥州の頑なに黙して語らぬ佇まい、りりしく感じます。

芭蕉も私の大好きな歌人。

歌も、その振る舞いもです。

またステキな旅を続けてください。

ゴーゴーイースト。



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夏草や 兵共が 夢の跡 (とらねこ)
2006-08-22 11:23:03
夏草や 兵共が 夢の跡・・・・

まさに平泉はそんな思いがするところ・・・しかし義経の最後の地ではない・・・私も頭の片隅では思っていることでもあります・・・。



平泉は只今、世界遺産登録へ向けて加速中、岩手の宝、いやっ、東北の宝、いやいや日本の宝、世界の宝・・・笑・・・・これらも必要でもありますが、アテルイ、安倍氏、藤原氏に義経・・・奥州史を語る上では必要不可欠な地域、世界遺産としなくても大事にしなければならないことはいうまでもないこと、これが基本だと認識しております。平泉の歴史、遺産を未来へ残す・・・やったるぞぉ・・・笑



すばらしいレポ、次も期待しております。
返信する
無知だった私… (羚英)
2006-08-22 16:46:31
どんべ様



こんにちは(^^)



平泉は確かに2度目だったんですが、ポイントを拾い上げていただけで、詳しくは全然知らないも同然でした。

『夏草や~』の句も、このようなシチュエーションで詠まれたなんて、知らなかったし…

「えんぴつで奥の細道」やっぱり買ってやってればよかった~



この義経堂のお香が、本当に良い香りだったんですよ。

ご本人の木像は、よく本などで目にすることのある、あの白いお顔のちょび髭で。

でも、気持ちがスルーしたというか、何もイメージ出来なかったというか、少なくともここではないかも、って感じました。

 

>奥州の頑なに黙して語らぬ佇まい

その通りですね!

控えめな佇まいでありながらも、存在感の実に大きい、奥州は人も史跡もそうであって、昔も今も、脈々と継がれているすばらしい文化だと思います。



芭蕉と曾良の様子を描いた『芭蕉行脚図』(森川許六筆)はいつも、“関根勉さんが真似している大滝秀治さん”に見えて仕方がありませーん!

今度見かけたら、よーく見てみてネ



まだまだ暑い日が続くけど、お体ご自愛下さい
返信する
1番好きな句です (羚英)
2006-08-22 17:21:59
とらねこ様



こんにちは(^^)



この短い17個の文字の中に、思いの全て言い表せている、秀逸で素晴らしい句です。

盛夏のみぎり安土の廃墟に立ったとき、芭蕉が平泉で杜甫の詩を思い出したように、私は芭蕉のこの句が頭をよぎり、しにしえ人を偲びました。



>世界遺産

指定されて欲しいような、一方ではそっとしておいて欲しいような、そんな思いです(汗)

2008年に登録予定だそうですね。

島根の石見銀山が来年登録予定で、鎌倉と彦根城も暫定リストに入っているといいますね。



義経最期に関しては、生存説もろもろありますが、少なくともこの高舘ではないのではと思います。

後の人が、悲運な武将を偲び、最期の地にふさわしい平泉随一の景観を誇るこの地を最期の地と定めた、なんて思います。

北上川の写真を撮る時、山を撮らずに川の上流を写したのは、何故かそちらを写さねばと感じたからでした。

霊感がおありのとらねこさんでしたら、何となく分かっていただけるかなと(笑)

このレポートを書くにあたって、初めてまともに資料を見渡してみると、衣川がキーポイントだということが後で分かりました。

衣川の近くにあった館が、義経たちの住まいだったのではとの説が浮上しているそうですね。

この写真は衣川が合流するあたりを写しているんです。

まっ、こじ付けではありますが(笑)妄想族の私はそんな風に考えふけってしまいます。
返信する
えんぴつで奥の細道 (類平)
2006-08-22 21:27:28
 実は恥ずかしながら『えんぴつで奥の細道』をやっておりまして(^_^;)。

 目下30日目の『尿前の関』です。これ終了しましたら、吉田兼好の徒然草に行こうかと(笑)。



 以前、古の『枕詞』を探す旅を題材にした本を読んだ時、その著者も、現在の風景を見て、少なからず違和感を覚えているようでした。実際、僕自身もそんな感じです。

 この『えんぴつ~』で、改めて、奥の細道に触れたことで、芭蕉自身も、さらに遡った時代の歌人が用いた『枕詞』を求めて旅をしていた節が、いたるところに場面として出てきています。『枕詞の地』と思われるところに到着して、感動したり、幻滅したり(笑)。芭蕉も人間だったんだなぁ…と(笑)。

 学生時代には、何にも感じなかった事が、この歳になって、面白く感じています。



 現在の『枕詞の地』に立てる…。現代人として、感想は色々とありますが、物凄いロマンを感じますよね(笑)。

 義経同様、芭蕉も謎多き人物ですが、一日の歩行距離などを見ると、公儀隠密と揶揄されてもおかしくないなぁと思う場面もあります。その謎が、現代人の想像や身勝手な思いを受け入れてくれる気がします。



 これからも、浪漫を感じる旅行記楽しみにしております!
返信する
やってたんですか^w^ (羚英)
2006-08-23 22:31:10
類平様



こんばんは(^^)

いいなぁ~

本屋さんに行く度に、ぼーっと眺めては溜息ついている私に、子どもたちが『欲しいんでしょ?買ったら?』と(笑)

でもこういうものは、心を穏やかに自分だけの時間で気持ちを置いてやりたいし、今の私にはその時間は到底持てそうもなく諦めていました。

徒然草…これもいいなぁ。



年をとると、あいや年を重ねると、以前とは違ったものの捉え方になっていることもあり、私も面白く感じます。

より深く拘ってみたり、否定的だったものが客観的にとらえられたり。

時にはあっさりと流してしまえたり(笑)

その気持ちの変化もまた、1つの発見になります。



芭蕉は西行の和歌の中にある平泉に想いめぐらせたことでしょうね。

2度かの地を訪れていたという西行法師が、束稲山の美しい風景に感動し

「ききもせず 束稲山のさくら花

吉野の外にかかるべしとは」

と詠んでいますし。



芭蕉も曾良も間者でしょ、多分(爆)

瑞巌寺をしつこく探っていたそうだし、仙台藩の動向を探る任務があったに違いありません!

ほら、昔からヒーローには仮の姿がつきものでしょ?



次のエントリーが延滞しそうです~。

どうやってまとめたらいいか、なるべく簡素に分かりやすくと思うのですが…。

時間的にも余裕が無く、暫くかかるかも知れません~
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