ここ数日、ベランダから南の空を眺めては雲の写真を撮っています。
I’ve taken some pictures of clouds in the southern sky
these few days.
姿を変えてゆく雲を見ていると、不思議と時間を忘れてしまいます。
The time goes quickly by
whenever I watch beautiful clouds changing its faces.
ここ久しく使ったことがなかった英文ですが、果たしてあってるかな~?
後で娘の辞書を借りて、確認してみることにします。
私が初めて英語の歌を覚えたのが、母が好きでいつも歌って覚えさせてくれた
『漕げよマイケル』(邦題はこうだったと思うのですが…) でした。
♪ Michael, row the boat ashore Hallelujah…! |
原曲は、ジョージア州の奴隷の人たちに歌われていた黒人霊歌だそうです。
まだ東京の戸越に住んでいた時ですから、幼稚園にもまだ入らない頃のこと。
意味も分からず、何だか楽しそうなそのメロディーをよく口ずさんでいたものです。
母はナット・キング・コール(ナタリー・コールのお父様)やアンディ・ウィリアムス、パティ・ペイジなどが大好きでしたので、私もその影響を受けました。
小学6年の時、カーペンターズに夢中な友人たちの影響で彼らの曲を聴き、口ずさむようになり、そのうちにカーペンターズが、私のある意味での“英語の先生”になっていった訳です。
英語のABCも何となく勝手に覚えて、そのうちその友人たちとみんなで海外文通を始めてしまいました。
私以外はみんな英語を習いに行っているので分かるのですが、そうじゃなかった私は今思うとものすごく無謀でしたね。
それでも文通関連の本を買ってその例文を丸写ししたり、かつて担任だった仲のよい先生に教えていただいたり、訳していただいたり…。そのうちに何とか姉の英和・和英辞書を借りて自力である程度まで出来るようになっていきました。
Heartがあれば何とかなるものです。
稚拙な文章でも、お相手は一生懸命理解してくれました。
その記念する最初の文通相手は、文通斡旋をするクラブから紹介された米国人の女の子だったのですが、本当に偶然なことにも、私と全く同じ年、同じ日に生まれた人だったのです。
びっくりしましたね~、こんなこともあるんだなって。
その後私は中学に入学し、本格的に英語の授業が受けられるようになったので嬉しかったです。
だって、どんどん(勉強以外のことだけど)質問できる環境が整ったわけですものね。
実際はあまり先生にお聞きすることもありませでしたが、今まで?だった英文の文法のからくりも次第に解るようになり、ますます文通にも力が入っていきました。
そのうちに調子に乗ってお相手の国もいろいろ増えて、今までにアメリカ2人、トルコ、アルジェリア2人、バングラディッシュ、フィリピン、オーストリア、東ドイツ、西ドイツ(当時はまだ分断していました)、スウェーデン、ガーナ、エジプト、イギリスなど、よくぞまあ…と言う感じです。
もちろんすべが同時進行ではありませんでした。
女性のひとたちなどは結婚や出産などで忙しくなり、そのうち自然に文通が消滅していったし、日本人だということで別の(物質的な)ものを期待していたのが覗えるようなこともありました。
また、文化の違いを理解できずに一方的に、と言う残念なこともありました。
当時の東ドイツの人などは、少し体制批判的な内容の手紙が届いた後にぱったりと途絶えてしまい、何かあったのではと心から心配したものです。
でも今はドイツは統一されているので、もうその懸念は無用ですね。
きっと今でも元気で暮らしていてくれていると思います。ねっMaren!
外国の人たちの考えやものの捉え方、習慣、風習なども何となく解るようになったことと、少しではありましたが生きた英語が自然と入ってきたことが、私が文通から得たとても大切なものであることは言うまでもありません。
私と関わってくれた多くの“海外の友人たち”に、こころからのThanks!
そして 『漕げよマイケル』 から始まり、その後私のよき“英語の先生”になってくれたカーペンターズをはじめ米国を中心とした70年代のミュージックシーンにも、懐旧の思いも込めて感謝したいと思います。
それらの友人たちのその後は、ようとして分かりません。
住所も変わっていることでしょう。
でも私の手元には今でも彼らからの素敵な手紙の数々が、大切な思い出としてしまってあります。
唯一今でも続いているのは、イギリスのStephenだけです。
彼は家庭のある私を気遣ってくれて、今ではクリスマス・カードだけのやり取りになっていますが、これからもずっと大切にしたい“1度も会ったことのない”友人です。
しかし“1度会ったことのある”友人もいます。
詳しいことは、次回お話することにしましょう。
海外の皆様と文通をしていたりょう様を尊敬します。
私の英語ッたらアメリカンイングリッシュのアジア訛り、さらに文法どうなってんの?これ、状態ですから…。
でも生きた英語を学んだ、という点では同じですね。
私の場合かなり退化していますが…。
やっぱり積極的に使わないとダメですね~。
一時期はマックで注文も思わず英語が出てきたというのに、情けないです。
ではコメントの続きも明日にまた!(笑)
そうそう、とんぼ様はアメリカ留学のご経験があるんですものね
>一時期はマックで注文も思わず英語が出てきたというのに
それって、聞くところによるとそういうものなんですってね~
友人などはしばらく電話にどうしても“Hello”と出てしまうので、変に(いけすかないなどと)誤解されてしまったそうで。
本人そんな気は全然ないのに~と泣きが入ってました。
その友人はどちらかと言うとまだ保守的で差別の残る州への留学で、最初英語を勉強する為のカレッジに入りました。
世界各国からの留学生がいたのですが、その中でも、外でもいろいろとあったそうです。
自分でも「ああああ違う」と思いながらも、日本語と英語の変換がうまくいかないのですよね。
そんな時期が懐かしいです。
>保守的で差別の残る州
酷く差別をされた…ということは幸運にも(?)私はありませんが、小さな波紋があったり、友人の話では沢山ありました。
そうですね、留学生同士の諍いもありました。
戦争や歴史の話をすることはとても大事なのですけど、やたらと好戦的に話を持っていく人もいましたので…。
私にもっと英語力があれば分かり合えたのかな、と思いました。
みんな元気でいるといいな
そこは結構地元でも有名なスポットで、観光客ももちろんジモティも見学に来ていたんだそうです。
そこに彼女らが入ってきた時、ある白人(こういう言い方は好きではありませんが)の人が、『真っ暗でどこにいるのかわからないな~』と大声で言って、仲間と大笑いしていたと言うのです。
セネガルからの留学生たちをやじった言葉だったのは誰の目にも明らかで、彼女は烈火の如く怒りを露にした手紙を殴り書いてきたことがありました。
彼女からの手紙で、私もいっぱい考えさせられました。