22 珠玉の価値観
吾輩が最初にレイト夫人を見た時の印象を書き留めておかねばなるまい。
カチさんがレイト夫人を親念のもとに連れていって、彼女が感激した話はしたと思うが、こういうことはそのあと、しばしばあったわけではない。
立場上、彼女は忙しかったということだろう。
その忙しい合間に、我々は彼女と出会うという幸運を得た。
そこはホテルの大広間だった。
彼女は吾輩を見た時に、にやりと笑った。吾輩が猫族だったせいかもしれないという直感が頭にひらめいた。
しかし、その彼女の微笑がなんともいえないものだった。微笑と言えば普通相手に心地よい感じを与えるものと相場が決まっていると吾輩は思っていたのだが、この人の微笑には魔性が潜んでいると思えるような感じが悪いものだった。さすが、独裁者ヒットロリーラを陰で操るというご婦人だけのことはあると吾輩は思った。しかし、彼女がカチの方を見ると、彼女からその魔性は消え、普通の母親に変身してしまうのだから、不思議といえば不思議、当たり前と言えば当たり前というべきか。
しかし、このレイト夫人にカチが学んだ親念の教えが徐々に吹き込まれていくことによって、レイト夫人は良い方向に変わっていく。人間というのはこんなに価値観によって、変わりうるものなのか、肌身で知ったのは驚きだつた。
吾輩とハルリラと吟遊詩人はトラカーム一家にしばらく滞在していた。我々はカチさんとトラーカムさんと一緒になって、親念の教えを勉強した。そしてカチさんは自分の母親である大統領夫人のレイトの所に足しげく通い、レイト夫人の変貌ぶりを我々に話してくれた。
それ以外の普段の時の我々は、広いバルコニーの長椅子に座り、読書したり、遠くの丘陵の見えるひろびろした緑の景色を楽しんでいたが、時々、丘陵の向こうの海岸にまで散歩することがあった。
そして、岩の上に乗っかり、ぼんやり海の響きを聞いているのが三人とも好きだった。
ある時、吟遊詩人は言った。
「戦争は人を愚かにする。やることも残虐になる。沢山の市民が犠牲になる。人間の理性は科学を発達させたが、同時に兵器も発達させた。ヒトが生き延びるためには軍縮しかないのだ。ヒトが生き延びるためには、日本国憲法の第九条をモデルにしたカント九条を宇宙に広めていくしかないのだ。昔のように、向こうが拳固をふりあげたから、こちらも拳固を振り上げるという子供の喧嘩みたいな発想は捨てるべきなのだ」
「そうだよね。戦車や軍艦を見て、恰好いいという感覚を捨てるべきだよね。聖書にあるように、野の百合の花の方がずっと美しくかっこいいのさ」とハルリラが言って、高笑いをした。「俺のような武人がこんなことを言うとは俺も変わったものだ」
「そうだよ。軍縮が人類を救う。軍拡を続ければ、必ず戦争になる。そして、近代戦は勝っても負けても破滅的な危害を市民に加える」と吟遊詩人が言った。
「ここのトラカームさんとこで見た、映画「戦場のピアニスト」を見ると、つくづくそう思いますね」とハルリラが言った。
「あれはいい反戦映画ですね」と吾輩は言った。
「建物の中から、沢山のユダヤ人を引きずり出し、男も女も後頭部からピストルで残虐に殺していくナチスのドイツ軍人を見たあと、別の善良なドイツ人もいたということは救いでした。主人公であるユダヤ人の名ピアニストが逃げ惑い、腹もへり、衣服もぼろぼろというみじめな姿で、ある廃墟の群れの一角にある、焼け残ったビルの中の屋根裏で、食糧をあさっていると、かなり、階級の高そうなドイツ軍人が『そこで何をしている』と静かに問う。ピアノがこのビルの中にあったので、それを弾いていたのだろう。主人公がピアニストであることを告げると、将校は弾いて欲しいと言う。主人公の演奏に将校は感動して、食糧を与え、寒さにたえるためのオーバーを与え、もう少し、我慢すれば、君を解放してくれる軍が来るという意味の情報まで知らせてくれた。沢山の残虐なことをしたナチスの中にそういう良い軍人がいたというのは救いですね」と吾輩は言った。
「そのドイツ人をそういう気持ちにさせたのはショパンの音楽でしょう。文化こそ人の価値観を良い方向に変える。親鸞聖人の価値観がまるでショパンの音楽のように、大統領の心の中に入り込んだのだ」と吟遊詩人が言った。
「彼が心を入れ替えてくれるということもあるのかな」とハルリラが言った。
「近いうちに大統領演説があるそうだ。」
「大統領演説」
「そう」
「猫族の人達に対する迫害もこれで終わる。そうすれば、我々は銀河鉄道に戻り、次の旅に出ることになるな」
「次はどんな所かな」とハルリラが言った。
「宇宙は広大だ。わが銀河系の天の川は二千億の星の集まり。つまり、二千億の太陽があるというが、アンドロメダ銀河は一兆個の太陽があり、生物が住める惑星もそれは無数にある。いい惑星もあれば悪い所も」
「気が遠くなるほどあるんだね」とハルリラが言った。
「地球よりももっと住みやすい惑星があるんだそうだ。ここも気候はいい。空気もいい。悪かったのはヒットリーラの政治だけだった。しかし、それも親鸞の教えによって、価値観が引っくり返され、今度の大統領演説が楽しみだ」
「良くなるんですか」
「良くなる。もうすぐ平和が来ると思うよ」と吟遊詩人は微笑した。
「ハルリラさん。この国が良くなるならば、士官の道はどうですか。トラカームさんあたりに口をきいてもらうとか」
「確かに、士官もいいがあなた方と一緒に旅することに興味を持つようになったのですよ。ラーラさんはコリラ君という良い伴侶が見つかった。ここにいて、恋人を探すのもいいが、あなた方の旅にも魅力がある。その中で自然に伴侶が見つかったら、その土地で士官をするということにしました」
「ドミーさんはどうなったの ? 」
「ドミーさんは解放されて、永遠平和を願うカント商店街で書店兼カフェーで働いているそうだ」
「ああ、そう言えば、カント九条と永遠平和を宇宙の惑星にという標語のもとに、最近カント商店街と改名した所が話題になっている。あそこは道路の突き当りが高い階段になっているから、馬車が通れないために、道路がまるで細長い公園のようになっている。ヒトだけが道を歩き、カフェーでは戸外の椅子に座り、静寂と美しい太陽の光を楽しめるというわけだ。以前から人気のあった所だ」
それから、我々は沈黙して、海の波の音を聞いた。夕方までぼんやりしていた。
日が海に沈む姿は荘厳だった。真紅の太陽が水平線に近くになるにつれて、青かった空はあかね色に変わり、そして、徐々にその淡い色から濃い色に変化していく、それを見ていたハルリラは腰から真剣を抜き放ち、「こんな武器のいらない惑星が見つかったら、俺のような武人でも海と溶け合う太陽に永遠を感じることがあるかもしれない」と叫んだ。
帰り、緑の丘陵の上を歩き、ちょっとした買い物のために市街地に寄ったら、猫族のデモに出会った。
茶色のジャケットを着た猫族の男が先頭に立って、声をあげている。猫族としては、虎族なみの体格を持った男である。目は丸く、黒い口ひげがピンと左右に伸び、黄色い温和な顔をきわだたせている。
「スピノザの神をたたえよ。たたえよ。スピノザ。大自然の中に見る神。
かぐわしい草花があたりに緑のじゅうたんとなる頃、タンポポの花が咲く。そして、樹木の上には梅の花から、桜の花へと、満開を楽しむと、それはやがてひらひらと地上に降り、土色の大地は雪が降ったように、白くなる。その白さの中に春のいのちのピンクが見えるのは何という美しさだ。スピノザの神はこのピンクのようなものだ」
「やがて、吹く風。降る雨。それらと一緒に散っていく春よ。
そして、美しい恒星の光がわが惑星にこの世ならぬ光の束をもたらす。
おお、この光の中に、スピノザの神を見る」と、若い女が男の後ろから大きな声をあげた。ジーンズと緑のカーディガン、それに赤いベレー帽をかぶった女だった。
「どこからか響く、ヴイオロンの響き。その旋律の中にスピノザの神を見る。
雷がなり、ざっと降る夕立のあとに、天空にかかる虹の橋。そこにスピノザの神を見る。
自然は神そのものだ。
自然は神が姿を現わしたものだ。
五月になると、草や木が成長しあたりが新緑に覆われる
その緑の木陰に身を寄せて 小鳥たちは楽しげに鳴いている、この小鳥たちの生きる喜びに、スピノザの神の声を聞く者は、新しいわが惑星の門出を信じるだろう。歌えよ。奏でよ。生きることだ。我らもその神の一部なのだから、この喜びを共にわかちあおうではないか」と先頭の男が言ってから、プラカード「信仰と思想の自由」を大きくかかげる。
同時に、後ろの女は「カント九条をこの惑星にも根付かせよう」というプラカードをかかげる。その後ろには、「表現の自由」のプラカード。その後ろには、「基本的人権の確立」のプラカードという風に続いている。
「スピノザはあの男達の精神のよりどころだったのだよ。それだけに、ティラノサウルス教という邪教には我慢できなかった彼らはスピノザに夢中になったのだと思うよ」と吟遊詩人は言った。
「自然イコール神ということなんでしょ」とハルリラが言った。
「そうか。我々がご来光に手をあわせる気持ちと同じだね」と吾輩は言った。
「神という実体が形を現わしたのが自然と意識ということになるのかな。スピノザは汎神論だな。仏教は真如という風に言うこともあるが、スピノザの神と真如はイメージは似ているが、まるで違う」と吟遊詩人は言って、微笑した。
それから、数日して我々はトラカーム一家から少し離れた広場のオープンカフェの椅子に座った。吾輩はブラジルコーヒーを注文したが、吟遊詩人はキリマンジャロを注文した。ハルリラはしばらく迷ってから、ビールを飲むことにした。広場には、多勢の観客が集合していた。周囲のカフェーの椅子に座る者。広場に沢山並べられているベンチに座る者。みな、前方の大統領が現れる演壇に注目していた。
「大統領演説が始まります」という女のアナウンサーの声が聞こえる。ヒットリーラは自慢の小判のような山吹色のふさふさした髪の毛を殆ど切り落とし、黒っぽい肌が露出した頭になって、顔も黄色い髭をそってしまったので、まるで卵と岩のコラージュのような顔になって、テレビに登場した。
ブルーの帽子に、山吹色の民族衣装を着た大統領は演説した。
「皆さん。私は悪人だった。ティラノサウルス教を信じ、強者こそ、生きる価値のある者で、天国も強者のものと思っていた。
強ければ、悪いことも許されると信じた。そこで猫族の人には大変、申し訳ないことをした。不幸なことであったが、最悪の結果は避けられている。収容所ではいまだ強制労働だけで、死者も病人も出ていないということだ。今、ここに直ぐ解放することを宣言する。彼等には医療と年金を与える。
わしは悪人だった。しかし、親鸞さまはその悪人と自覚した者こそ救われるとおっしゃつてくれた。本来ならば、わしは地獄に行っても、当然の男だが、そういう悪を身にまとったわしのような心の貧しい男を救ってくださるのが阿弥陀仏だと親鸞さまはおっしゃった。わしは阿弥陀仏に帰依する。」
そこまで言うと、大統領はコーヒーを飲んだ。この国はコーヒーが飲料として盛んにのまれる。そのせいか、吾輩の飲むのも天下一品、うまい。
それに大統領のコーヒーカップは、茶室で使われる黒楽茶碗のあの渋みのある肌の黒色だった。
大統領はそこまで言うと、一呼吸してまた始めた。
「わしの悪人としての自覚とこの阿弥陀仏の救いへの感謝への気持ちとして、全ての民族の平等、信仰の自由、表現の自由、基本的人権、戦争の放棄が書かれたカント九条を含む平和憲法を取り入れる。
こうして、わしは隣の国と文化交流それから、芸術交流をしていけば、国民と国民が理解し合える。そうすれば、軍備など最小限で良いということが分かった。残った金は福祉にまわせる。
確かに、今の状況では、隣の国の軍備増強は気になる。しかし、軍拡は間違いだ。
お互いに軍拡を続ければ、いずれは戦争になることは目に見えるようだ。
隣の国民もこの軍拡が間違いと気づいてくれれば、軍縮にいくように政府に働きかけるであろう。そのためにも、国民と国民の文化交流が大切だ。スポーツ・芸術ありとあらゆる文化活動そうしたお互いの交流が、人の心をなごませ、大きくする。そのことによって、国民がお互いに理解し合えれば、軍縮は可能になる。そして、我々の国と隣の国は平和共存できるという確信を抱くようになる。」
大統領は帽子を取って、テーブルに置き、コーヒーに少し口をつけた。
それから、手を合わせ、しばらく目をつぶった。瞑想なのだろうか、ティラノサウルス教ではこういうことはしないというから、画期的なことである。そして彼はおもむろに、再び話し始めた。
「親念さまには感謝する。なにしろ、あの浄土から還相回向によって、舞い降りてきたといわれる素晴らしいお坊さんである。
私は以前は、できの悪い者、煩悩深き凡夫が神仏によって救われることはあるまい、わしのいきつく先は地獄だ。しかし、わしはそんなものは信じない、と思っていた。そして、猫族の人達を迫害した。
私は自分の悪に苦しむ心もないわけではなかったが、わしは開き直り、ますます悪の道にまっしぐらで、猫族の人達をいためつけようとすら考えていた。心の底では、自分のことを救いようがないとは思っていた。
そういう時に、
親念さまは 仏さまは、悪人と自覚し反省した凡夫をまず救ってくださるという。こんな教えに出会ったのは初めてで、わしは生まれて初めて、感動した。
わしの心に、悪を自覚する心が残っていたことは驚きで、手遅れにならない内に、わしの全ての悪い行為は全廃することを誓ったのだ。
阿弥陀仏に包まれていることを知ると、不思議にわしに慈悲の心が湧いてくる。
猫族の皆さん、まことに申し訳なかった。ここに民主主義にもとづく大統領選挙をあたらしく始めることを宣言する」
そのあとの、大統領の演説が終わった時の一人の記者の質問も衝撃的な内容だった。
「隣国が軍拡をしているのに、わが国が軍縮をしたら、軍事バランスが崩れて、隣国の強硬論の勢力によって戦争が引き起こされるのではないか」
「それは分かる。だから、軍縮は同時にするものだ。何事も過渡期というものがある。その間は、最新鋭の防衛力と知略を使って我が国を守る。その間もカント九条を全面的に取り入れて、平和を訴えていく。その方が説得力があるではないか」
いつの間に、レイトが大統領の横にいた。トラーカムは見て、驚いた。一年前に見た時も、昔の天使のような美しさは年のせいか、掻き消えてしまっていた。昔の美人の顔立ちは残っていても、顔に品性もなくなっていたのは中身が年齢が上がるにつれて、にじみ出してきたに違いない。吾輩が見たあの魔性の微笑もその名残りだつたのかもしれない。
この日の彼女は微笑していた。地獄から生還した喜びがあるとでも思えるような不思議な微笑だった。
大統領の演説の内容はトラーカムにとって、奇跡としか思えなかった。価値観が正しい方向に転換することによって、この惑星にも奇跡は起きたのだ。
地球の歴史で、第二次大戦に起きたナチスの野蛮なことが、この惑星で再び行われる危険性があったにもかかわらず、親鸞の教えにある素晴らしい価値観への転換によって、危険は回避された。
地球のナチスの残虐さはこの惑星にまで、知られていた。なにしろ、六百万人のユダヤ人の虐殺。人間はここまで残虐になれるのかと、絶望的な気持ちになるほど、善の仮面をかぶったナチスの蛮行はひどかった。
それがこの惑星では、回避されたのだ。
こうして、我々は大統領に感謝され、この国の一番のホテルに招待された。
吟遊詩人が言った。
「良い価値観への転換が争いのない社会にするために必要だということがこの惑星での経験でよく分った。僕も随分勉強になったよ」
「本当にそうですね」とハルリラが言った。
吟遊詩人はうなずいて、ヴァイオリンをかきならした。
そして、一呼吸置くと、歌を歌った。
ふと思う、旅の悠久の流れ
人間社会の善だの悪だのと争うことも夢のよう
ピストルと排気ガスは消え、わが山荘に、梅のような花が降っている、
そこで、永遠の古典を読み、神仏の空気を吸おう、
街角は花壇にあふれている、果物と音楽
ベンチで人が微笑し、やわらかい雲が塔をつくっている
私は歩いている、無一物で歩いている
向こうから、友が来る、無一物でやってくる
おお、友よ、ここに透明な田園と森をつくろう
そしてどこからともなく訪れる妖精の国としよう
汚れのない、砲弾のない、花のような、宝石のような街角
人が永遠を食べることの出来る町をつくろう
空気がおいしい街角、呼吸して霊気を感じられる街角があれば
太陽が神である街角、友よ、そのカフェーで珈琲を飲もうではないか
(つづく )