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集会報告、読書記録、観劇記録などの「ときどき日記」のショート版

侵略に耐えたアイヌの歌や踊り

2021年12月01日 | 展覧会・コンサート

 

11月27日(土)午後、有楽町マリオンでアイヌ文化フェスティバル2021(主催:公益財団法人アイヌ民族文化財団をみた。
アイヌは北海道の先住民族で、固有の文化を発展させた。この日の演目は、口承文芸、紙芝居、舞踊、音楽の4つだった。内容が芸能なので、写真や動画で紹介するのが最適だが、残念ながら場内撮影はいっさい禁止だった。録音禁止は著作権の関係もあり仕方ないが、撮影はフラッシュを焚かなければよいのではないかとも思うが仕方ない。下記の出演者の写真はすべてプログラムからであることをお断りする。

山田良子さんは曾祖母がアイヌで、千歳市在住。千歳アイヌ文化伝承保存会に所属。口承文芸というものの、わたしには歌に聞こえた。「良子のヤイサマ(即興歌)」と「新冠イヨンノッカ(子守唄)」「千歳のイヨンノッカ」など4つの子守唄だったからだ。楽譜がなく、口移し、言い伝えで伝承するということなのかも。オホルルルル、トゥルルルルなど巻き舌を使って声をふるわせる発声が独特だ。

三橋とら紙芝居は「サランポ」(アイヌのエコバッグ)と「武四郎物語り」。サランポは魚、山菜、弁当などを入れるカゴで、シナやオヒョウの木の樹皮を剥ぎ取り、洗い、晒し、干し、ほぐして糸にし、直径10-30センチに編み上げたもの。北海道の名付け親・松浦武四郎(1818-1888)は三重県松阪の生まれ、16歳から旅を始め、1844年から蝦夷地探検をスタートする。1869(明治2)年北海道と名付け、アイヌ文化の紹介も行った。
演者の三橋さんは、東京都荒川区出身、どうもアイヌとの関わりはないようだ。母も紙芝居師で跡を継いだという。

アイヌルトムテは、釧路市出身者とその家族のグループで、名前は道を照らすという意味だそうだ。この日舞台に上ったのは8人、うち男性が1人だった。古式舞踊となっていたが、踊りだけでなく歌も歌えば、ムックリ(口琴)も演奏していた。他との違いは、(1、2人でなく)グループで演じている点だった。
舞踊なので、立って踊るのがメインだが座り歌や輪になって踊るものもあった。
アイヌはあらゆるものに魂が宿ると考え、動物や水・風など自然になりきる踊り、たとえばツル、キツネ、クジラ、バッタ、トドマツ、ハンノキなどを表現したり、狩猟を描写したり、豊穣を祈る踊りなどがある。

カピウ&アパッポは姉・床絵美と妹・郷右近富貴子の阿寒湖の姉妹デュオで、アイヌ語でカピウはカモメ、アパッポは花の意味だそうだ。口琴ムックリと撥弦楽器トンコリの演奏も交え歌を歌った。トンコリは琴をタテにしたような楽器だが、フレームはなく弦をただはじくだけのようなので、5弦であれば音は5音しかないらしい。したがってシンプルな音楽だったが、音はとてもクリアーだった
「眠くなる音楽」との解説があったが、シンプルなのでたしかにそのとおりだった。
最後に、演奏者全員が登場し、輪踊りや歌を歌ってフィナーレとなった。2時間半弱(休憩20分含む)のステージだった。
「ヘイホー」「ヤッセー、アッセイ」など日本の民謡の掛け声に似た歌詞、こぶしを回すような歌い方、朗々とした声など日本の民謡大会を聞くような気がした。そういえば盆踊りに似た手の振りもみられた。これなら民族音楽や民謡を聞く芸能コンサートとそう変わらない。

しかしプログラムとともに配布された「アイヌ民族――歴史と文化(2021.3 A5判 40p  公益財団法人アイヌ民族文化財団 以下ページ数はこのパンフのもの)を読んで考えさせられることが大きかった。
アイヌの祖先は擦文人オホーツク(文化の)人だが、アイヌ文化の成立は12-13世紀といわれる。史料のうえで確認できるのは15世紀なので、日本中央の室町時代、それほど遠い昔ではない(p4)。15世紀のコシャマインの戦い、17世紀のシャクシャインの戦いなどで和人に反抗したが、和睦の際のだまし討ちで支配下に置かれ漁場労働を担うことになる。支配体制は、徳川幕府直接統治の時期と松前藩統治の時期が交互にあった。
アイヌはもとは昆布、干サケ、ニシンを収穫し、本州からの鉄製品、漆器、酒などと交換する交易者でもあった。しかし松前藩が支配すると、和人の商人に商場を運営させ手数料を取る場所請負制に入れ替わった。アイヌは交易者の地位を奪われ、商人がアイヌに低賃金で過酷な漁場労働をさせるようになった。幕府はロシアへの対抗もあり、髪形、着衣、名前などを本州風に改めることを強要し、耳飾り、入れ墨、クマの霊送りなど伝統的な風俗・習慣を禁じようとし強い反感をかった(p7)
維新後の1869(明治2)年、新政府は蝦夷地を北海道と呼び改め一方的に日本の一部にし、アイヌを「平民」とする戸籍を作成した。開拓使はアイヌ民族の言語や生活習慣を事実上禁じ、和風化を強制した。またアイヌの土地や資源を取り上げ、サケ漁やシカ猟を禁止した。開拓優先の政策でアイヌの人は食べるものにも困るようになった。また1875(明治8)年の千島・樺太交換条約で、サハリン(樺太)や千島に住んでいたアイヌの人たちを北海道や色丹島に強制移住させた(p8)
1899(明治32)年、アイヌの生活困窮が極まると政府は北海道旧土人保護法を制定した。これは農業のための土地を「下付」し、日本語や和人風の習慣による教育でアイヌ民族を和人に同化するものだった。しかしアイヌ民族への土地下付の上限が1万5000坪だったのに対し和人へは150万坪を限度に開墾した土地を無償で払い下げるもの(1897年の北海道国有未開地処分法 1872年の北海道土地売貸規則では和人1人に10万坪)だったので、明らかな民族差別だった。また学校も和人児童とは別学が原則で、アイヌ語など独自文化を否定し、教育内容にも格差が設けられた(p8-9)
このあたりまで読むと大日本帝国の朝鮮への植民地支配の歴史や敗戦後の朝鮮学校への仕打ちとほとんど同じであることに気づく。土地を取り上げ移住させ、名前や文化を奪い日本人風にする。職まで奪ったことは知らなかったが、生活に困窮したため朝鮮から日本本土に移住し、日本人があまりやりたがらない鉱山、道路工事、ダム建設、炭鉱労働に就かざるをえなかったことは、同じかもしれない。植民地経営は、明治後期に始まったわけでなく、明治初期あるいは江戸時代に北海道で練習した「成果」だったわけである。
おそらく島津の琉球征伐や1879年の沖縄県設置もアイヌ支配と類似していると考えられる。

こうした歴史を背負った芸能・文化だと思って、思い返すと違う光景が見えてくる。 
また舞台で、紙芝居師の三橋とらさんが「自分が何民族か、考えたほうがよい。しかし答えはまだ出ない」と語っていた。たしかに自分の国籍はわかるが、民族というとなにかピンとこない。「民族」という言葉からは、ナチスの「ゲルマン民族(アーリア人)、映画「民族の祭典(1838)が思い浮かぶ程度だ。
わたしはアイヌのことをほとんど知らない。思い返しても、学生のころ北海道旅行に行き、阿寒湖の観光施設で舞踊や芸能をみたこと、1年半くらい前に東京駅近くのアイヌ文化交流センターをみに行ったことくらいの知識しかない。
今後、アイヌ差別を、沖縄や朝鮮、台湾、中国東北部、その他アジアへの日本の「侵略」の歴史と並行してながめ、考えるようにしたい。 

☆上記のパンフのほかに、もう1冊「人権の擁護(2021.8 A5判 64p 法務省人権擁護局)が入っていた。12月4-10日が人権週間ということもあるのだろう。主な人権課題として、女性、子ども、高齢者、障害のある人のほか、アイヌの人びと、差別、感染者等(HIV・肝炎)、ホームレス、北朝鮮当局によって拉致された被害者等、17の課題が列挙されている。
「アイヌの人びと」の項には、「近世以降のいわゆる同化政策等により、今日では、その文化の十分な保存・伝承が図られているとは言い難い状況」とあり、「アイヌの人びとに対する理解を深め、偏見や差別をなくすことが必要です」と訴えている。
しかし17のなかに在日朝鮮人の項がない。「外国人」はあるが、内容をみると欧米、ブラジル、中国、東南アジア、中近東、アフリカなど一般的な外国人差別のようにみえる。「ヘイトスピーチを許さない」にはもちろん賛成だ。しかし特別永住者を含め75万人(2020末)もいるのに1ジャンルとして在日朝鮮人がないのはどうも変だ。
考えてみると、自公政権が率先して高校無償化除外など差別政策を行っているのだから、法務省で扱うことがそもそもムリなのかもしれない。

●アンダーラインの語句にはリンクを貼ってあります。 



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