『日本人が忘れてはいけない歴史』
ソ連軍による占領予定には、
北海道の約半分までもが
計画されていたのです。
占守島の守備隊が
時間稼ぎをしてくれた、
そのおかげで北海道は
ロシアに占領されなかった……
特攻隊や沖縄戦とは違い、
なぜかあまり語られることはない、
マスコミにも取り上げられる事のない
占守島の戦い。
戦争が終わったのに、
その三日後に
家族に会えるという望みを捨てて
終戦後も必死で日本を守る為に
戦って戦死した方々、
終戦後も不法に長期間にわたって
シベリア等の極寒の僻地で
強制労働に従事させられた方々。
そして多くの人が命を落とした
シベリア抑留事件。
ロシアの侵略はまさに鬼畜そのもので、
民間人の大量虐殺や、
強盗同然の強奪行為、
日本人女子への集団強姦など、
多くの日本人が犠牲となりました。
夫と子供の前で、
ロシア兵は日本人女性を集団強姦し、
その裸体を切り裂き虐殺して、
裸の女性の死体を戦車に吊るして
侵略をしたのがロシアです。
戦後のソ連の国家犯罪も
我々日本人が
忘れてはいけない歴史の一つです。
占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)
終戦を迎えた8月15日から三日経った
8月18日の早暁午前1時頃に
終戦による武装解除の準備を進めていた
千島列島北端の占守島の日本軍守備隊に対し、
ソ連軍が突然上陸、攻撃をかけてきた
日本軍最後の戦いのことです。
占守島は、北方諸島の最北端にある、
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島です。
海抜200m未満の丘陵と沼地、
草原が入り混じり、
樹高1mくらいの這松や榛の木が
群生していて、
夏は15度で濃霧が発生し、
冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。
東西20km、
南北30kmあまりの小島だが、
北はカ ムチャッカ半島、
東はアリューシャン列島と交差する要所で、
日本領の最北端でした。
日本はアリューシャン列島を西進してくる
アメリカ軍の侵攻に備えて、
戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000を
ここに置いていたのですが、
すでにアリューシャン列島の
アッツ島やキスカ島は、
米軍によって陥落していました。
占守島の防衛隊は終戦を知り、
日本の敗北に涙したものの、
これでやっと帰れる。
家族に会えると、その顔は
希望に満ちたものになっていました。
そこへ突如、
ソ連軍が猛烈な砲撃の下に
奇襲上陸を開始し、
攻撃を仕掛けてきたのでした。
やむなく日本軍は
解除準備を始めていた武装を整え直し
自衛戦闘を行ったのです。
戦闘は激烈を極め、
日本軍の死傷者約600名、
ソ連軍の死傷者約3,000名に および、
日本軍が有利な状況で
上陸部隊を殲滅する体制でしたが、
ポツダム宣言受諾後の戦いであり、
自衛を目的とした戦闘であったため、
札幌の方面軍司令部 から
「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」
との軍命令が届き、
停戦交渉を開始せざるを得なくなった。
しかしソ連軍は停戦軍使を射殺するなど、
一向に攻撃を収める気配が無く、
戦闘が続行される中、
とうとう札幌より
「停戦すべし」との命令がくだり、
8月21日に戦闘が終結しました。
その時守備隊は
泣いて悔しがったと言います。
その後彼らは
日本に帰れると騙されてシベリアへ送られ、
極寒の地で数年にわたり
強制労働を強要され、
その数は65万とも
それ以上ともいわれています。
その1割の兵士は
故郷へ帰るという望みはかなうことなく
多くの人が命を落としました。
ここで重要な事は、日ソ中立条約は
1946年4月まで有効であった
にも関らず、
ソ連が日ソ中立条約を
一方的に破棄しての侵攻は
重大な条約違反であり、
これぞまさに侵略行為だ、という事です。
これは北方領土を含む千島列島・
南樺太などにも当てはまる事ですが・・
そしてようやく抑留から開放され、
帰国した彼らを待っていたのは、
世間の無関心と反戦平和の風潮で、
占守島のことを知る人は全くいなかった。
ちなみにソ連政府機関誌
「イズヴェスチャ」は
「占守島の戦いは、
大陸における戦闘より
はるかに損害は甚大であった。
8月18日はソ連人民の悲しみの日である」
と述べています。
なんと当初のソ連軍による占領予定には、
北海道の約半分までもが
計画されていたのです。
スターリンは、
ヤルタ会談の密約で参戦の見返りとして、
樺太と北方領土を占領する約束を
ルーズベルトから取り付けていたのですが、
ルーズベルトがこの世を去り
トルーマンに北海道北部の占領を反対され、
卑劣にも日本の降伏後に
大軍を送り込んできたのであります。
もし1日で占守島が没落していたら・・・
占守島の日本軍守備隊の功績は
計り知れません。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
日本人であれば、
知っておかなければいけない
大切な出来事ですが、
多くの人、
特に若い世代に真実が
伝えられていません。
教育の場所などで、
もっと時間を割いてでも
伝えていきたいことですよね。
日本中、世界中に
この真実が伝わることを願い、
シェアお願いします。
『日本人が忘れてはいけない歴史』
ソ連軍による占領予定には、
北海道の約半分までもが
計画されていたのです。
占守島の守備隊が
時間稼ぎをしてくれた、
そのおかげで北海道は
ロシアに占領されなかった……
特攻隊や沖縄戦とは違い、
なぜかあまり語られることはない、
マスコミにも取り上げられる事のない
占守島の戦い。
戦争が終わったのに、
その三日後に
家族に会えるという望みを捨てて
終戦後も必死で日本を守る為に
戦って戦死した方々、
終戦後も不法に長期間にわたって
シベリア等の極寒の僻地で
強制労働に従事させられた方々。
そして多くの人が命を落とした
シベリア抑留事件。
ロシアの侵略はまさに鬼畜そのもので、
民間人の大量虐殺や、
強盗同然の強奪行為、
日本人女子への集団強姦など、
多くの日本人が犠牲となりました。
夫と子供の前で、
ロシア兵は日本人女性を集団強姦し、
その裸体を切り裂き虐殺して、
裸の女性の死体を戦車に吊るして
侵略をしたのがロシアです。
戦後のソ連の国家犯罪も
我々日本人が
忘れてはいけない歴史の一つです。
占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)
終戦を迎えた8月15日から三日経った
8月18日の早暁午前1時頃に
終戦による武装解除の準備を進めていた
千島列島北端の占守島の日本軍守備隊に対し、
ソ連軍が突然上陸、攻撃をかけてきた
日本軍最後の戦いのことです。
占守島は、北方諸島の最北端にある、
面積で言うと琵琶湖程度の小さな島です。
海抜200m未満の丘陵と沼地、
草原が入り混じり、
樹高1mくらいの這松や榛の木が
群生していて、
夏は15度で濃霧が発生し、
冬にはマイナス15度で猛吹雪になる気候。
東西20km、
南北30kmあまりの小島だが、
北はカ ムチャッカ半島、
東はアリューシャン列島と交差する要所で、
日本領の最北端でした。
日本はアリューシャン列島を西進してくる
アメリカ軍の侵攻に備えて、
戦車隊を擁する精鋭守備軍2万5000を
ここに置いていたのですが、
すでにアリューシャン列島の
アッツ島やキスカ島は、
米軍によって陥落していました。
占守島の防衛隊は終戦を知り、
日本の敗北に涙したものの、
これでやっと帰れる。
家族に会えると、その顔は
希望に満ちたものになっていました。
そこへ突如、
ソ連軍が猛烈な砲撃の下に
奇襲上陸を開始し、
攻撃を仕掛けてきたのでした。
やむなく日本軍は
解除準備を始めていた武装を整え直し
自衛戦闘を行ったのです。
戦闘は激烈を極め、
日本軍の死傷者約600名、
ソ連軍の死傷者約3,000名に および、
日本軍が有利な状況で
上陸部隊を殲滅する体制でしたが、
ポツダム宣言受諾後の戦いであり、
自衛を目的とした戦闘であったため、
札幌の方面軍司令部 から
「戦闘を停止し、自衛戦闘に移行」
との軍命令が届き、
停戦交渉を開始せざるを得なくなった。
しかしソ連軍は停戦軍使を射殺するなど、
一向に攻撃を収める気配が無く、
戦闘が続行される中、
とうとう札幌より
「停戦すべし」との命令がくだり、
8月21日に戦闘が終結しました。
その時守備隊は
泣いて悔しがったと言います。
その後彼らは
日本に帰れると騙されてシベリアへ送られ、
極寒の地で数年にわたり
強制労働を強要され、
その数は65万とも
それ以上ともいわれています。
その1割の兵士は
故郷へ帰るという望みはかなうことなく
多くの人が命を落としました。
ここで重要な事は、日ソ中立条約は
1946年4月まで有効であった
にも関らず、
ソ連が日ソ中立条約を
一方的に破棄しての侵攻は
重大な条約違反であり、
これぞまさに侵略行為だ、という事です。
これは北方領土を含む千島列島・
南樺太などにも当てはまる事ですが・・
そしてようやく抑留から開放され、
帰国した彼らを待っていたのは、
世間の無関心と反戦平和の風潮で、
占守島のことを知る人は全くいなかった。
ちなみにソ連政府機関誌
「イズヴェスチャ」は
「占守島の戦いは、
大陸における戦闘より
はるかに損害は甚大であった。
8月18日はソ連人民の悲しみの日である」
と述べています。
なんと当初のソ連軍による占領予定には、
北海道の約半分までもが
計画されていたのです。
スターリンは、
ヤルタ会談の密約で参戦の見返りとして、
樺太と北方領土を占領する約束を
ルーズベルトから取り付けていたのですが、
ルーズベルトがこの世を去り
トルーマンに北海道北部の占領を反対され、
卑劣にも日本の降伏後に
大軍を送り込んできたのであります。
もし1日で占守島が没落していたら・・・
占守島の日本軍守備隊の功績は
計り知れません。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
日本人であれば、
知っておかなければいけない
大切な出来事ですが、
多くの人、
特に若い世代に真実が
伝えられていません。
教育の場所などで、
もっと時間を割いてでも
伝えていきたいことですよね。
日本中、世界中に
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『ねずさんのひとりごと』より
「60年の時を経て届いた手紙」 抜粋
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ナガタカズミ海軍中尉の日記」
七月四日
命令に従い、私は艦隊司令部に出頭した。
いまや司令部は前線と化し、空襲の真っただ中にある。
生きて帰れるかわからなかったが、任務終了後、無事に戻ることができた。
とうとう最後の抵抗をする判断が下された。
ひと月にわたる激しい戦艦の砲撃と、絶え間ない空襲に対抗し、前線のわが軍人、兵士達は立派に戦った。
このように絶望的な状況下で戦えるのは日本人だけであろう。
しかし敵の圧倒的な火力を目のあたりにして、さすがの大和魂も歯が立たない。
サイパン島は小さすぎる。
身長150センチと小柄な私でさえ隠れることが困難だ。
七月五日
あと一日か二日で最後を迎える。
何も思い残すことはない。
出来る限りのことは行った。
私の心はおだやかで満ち足りている。
これが運命だ。こうなることが決まっていたのであろう。
どのように名誉ある最期を迎えられるかのみを考えている。
わが妻、シズエへ。
何も言い残すことはない。
君と結婚して十七年がたった。
幸せな思い出に満ちた十七年だった。
来世への思い出でこれ以上のものはないだろう。
君になんとか恩返しをしたかった。
感謝の気持ちでいっぱいだ。
私のぶんも、子供たちを可愛がってほしい。
私が至らぬために、子供たちに迷惑をかけるかと危惧している。
これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。
体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。
今後日本は、本当に困難な時期を迎えるだろう。
日本は、あらゆる勇気を奮い起して困難を乗り越えねばならない。
君は優しすぎる。
父親を亡くした息子たちのよい相談相手になってやり、彼らを強く、廉直な日本人に育ててくれ。
日本がある限り、暮らしに困ることはないだろう。
万一の時が来たら、日本人として名誉ある最期を迎えてほしい。
高宮の父、兄姉、そして板付の義母、義兄、それから「てつお」にくれぐれもよろしく伝えてくれ。
コン、マサ、ヤスへ。
強い正直な日本人になってくれ。
将来の日本を担ってほしい。
兄弟どうし、互いに強力しあい、全力を尽くしてお母さんを助けてあげてくれ。
コンとマサ、君達は兄としてヤスの面倒をよく見てやってくれ。
この日記を託す森海軍中佐は、瀬尾の同級生である。
機械が出来次第、瀬尾に会いに行き、何が起きたのか細かい事情を聞いてほしい。
敵の戦闘機の砲撃や空襲が頭上を飛び交っている。
これまで過ごしてきた年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。
体を大切にして、末長く充実した人生を送ってほしい。
カズミより
ナガタシズエ様
(昭和十九年七月五日)
~~~~~~~~~~~
この日記(遺書)は、家族には届けられませんでした。
全員玉砕してしまったため、届けれる人がいなかったのです。
取材班は苦労の末ナガタさんの遺族を見つけます。
妻の静江さんは、95歳になっていました。
静江さんに、60年前に夫が残した最後の手紙を渡します。
静江さんは、静かに日記を読み始めます。
「敵の戦闘機の砲撃や空襲が飛び交ってる・・・」大変な状況やったんやな・・・
そのあと、静江さんは声を立てて泣き崩れてしまいます。
大粒の涙がぽろぽろとあふれています。
$子どもへ伝える大切なもの
「これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。
体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。
和美より
長田静江様」
静江さんは、和美さんの遺書を読んでいたのです。
静江さんは、日記を読み終えた後も泣き続けました。
重松氏が、沈黙を破るように口を開きます。
「静江さん、ひとつ教えてください。
ボクは、この日記を持ってきてよかったですか?
本当は、持ってくるべきではなかったかもしれないと思っていました。
迷いがありました。」
それは事実でした。
ここに来るまで重松氏は、他人の古い悲しみを呼び覚ますだけではないのかと、その権利が戦後生まれの自分にあるのか。どうしても届けたいと思うのは、自分のエゴじゃないのか、と真剣に迷っていたのです。
そして、いま、目の前で泣き続ける老婆を目の前にして、重松氏は自分の選択に自信がなくなっていたのです。
静江さんは、声を震わせながら、重松氏を見つめて言いました。
「夫がそんな気持ちであったかと思うと、ありがたい気持ちでいっぱいになりました。
見せてもらって、ほんとうによかったです。
ありがとうございました」
$子どもへ伝える大切なもの
静江さんは、サイパンへ出征する和美さんを見送った日の光景をはっきりと記憶していました。
それは昭和19年2月のことでした。
静江さんは、線路沿いの道端で、列車を待っていました。
「ここでよい、と言われて家の前で別れたのですが、私はもう一度姿を見たいと思って、いちばん下の康をおんぶして、日の丸の小旗を手に、近くの国鉄の線路まで急ぎました。
そして線路わきに立っておりました。
間もなく通りかかった汽車の窓に目を凝らしておりましたら、主人はこぼれるような笑顔で、デッキに立っていました。
ふだん、笑顔なんか見せたことないので、私はびっくりしました。
軍服姿で、白い歯を出して、こちらに笑いかけたのです。
主人は軍の申しを頭の上で高く大きく回しながら振っております。
いつまでもいつまでも振っておりましたよ。
そしてその線路がまっすぐなんですよね。
笑顔は見えなくなり、帽子もだんだん小さくなり、最後、鉛筆の芯ほどの黒い天になって消えて行きました。
私は夢中で小旗を振りながら、熱い涙をこらえることができませんでした」
静江さんは立ち上がると、重松氏と渡辺氏に深々と頭を下げていいました。
「思い出をいただいて、こんな嬉しいことはありません」
「最高の宝物をいただいた思いです」
重松氏は、長田邸を出たあと、長田家の墓へ向かい、和美さんの霊につぶやくように報告します。
「長田さん、日記、お届けしましたよ」
【必見!大拡散!!!】沖縄暴力プロ市民
新聞が非暴力に抵抗運動、と賞賛するヘイワ団体の姿。
初心者マークの女性にも容赦なく襲い掛かり、取り囲み、ナンバープレートを勝手に撮影しまくっています。
自分たちがカメラを向けられると、「肖像権を知らんのか、勝手に撮るなー!」とヒステリックに騒ぎます。
そして新聞はさも、この行為を犯す連中のことを、「善良な市民による平和運動であり、オスプレイ賛成派から嫌がらせを受けていて、至近距離から勝手に撮影までされている」と、援護射撃を行うのです。
しかし、いくら新聞がそう書いたところで、真実は隠せません。
これからもどんどん、公開していこうと思います。
国民はもう、騙されませんよ。
【必見!大拡散!!!】沖縄暴力プロ市民
http://youtu.be/qEczZNpLa_g
【必見!大拡散!!!】沖縄暴力プロ市民
公開日: 2013/03/11
【拡散】沖縄暴力プロ市民
3月5日、普天間基地野嵩ゲートを出て右折しようとした女性海兵隊員の乗った車が、オスプレイ配備に反対する平和市民団体から襲撃された。
複数名の活動家が、女性海兵隊員の車を取り囲み、窓ガラスにプラカードを押し当て、
車を叩いたり蹴ったりした。
女性米海兵隊員が携帯からPMO(憲兵隊)に連絡しようとしたところ、
警察官は女性に「携帯電話を下ろせ」(電話するな)と言ったというから驚きである。
後続車(男性米海兵隊員)がその一部始終をスマホで撮影していた。
count 00:07あたりから
男性活動家(A)は、制止しようとした警察官を突き飛ばした(公務執行妨害)。
(A)は、この動画(http://www.nicovideo.jp/watch/sm19631352)の中にも出てくる。
メガホンで "Marines Get Out!"と叫ぶジジィと同一人物だ。
count 00.13あたりから
ベージュの服を着た活動家(B)は、女性米海兵隊員、ナンバープレート、後部座席に乗っていた子供の顔まで撮影した。この写真を何に使うつもりか?
プラカードを持った女性活動家(C)は、3月3日、佐真下ゲートで、オスプレイ見学会に参加した女性に対し、「なんで私の顔を撮影するんだ」と因縁を付け、女性の頭を持っていたプラカードでひっぱたいた。
(被害に遭った女性によると、(C)のほうが先にビデオ撮影をしていた。こちらは証拠の動画を提供してもらった。)
また、3月9日午後4時頃、(C)は、1人で野嵩ゲートのフェンスのテープを除去していた周辺住民の女性の顔を振り向きざまに撮影し、逃げ去った。
警察も取り締まらない、逮捕しない。平和のためなら何をしても許される。
「命どぅ宝」とは、「自分の命は宝、他人の命はどうでもよい」という意味である。
無法地帯沖縄は、暴力的な活動家にとっては天国だ。
普天間飛行場は危険だと言いながら、宜野湾市の人口が増加しているのはこういう理由なんだろう。
「日本人をレイプしたかったら、
夜、ヘッドホンやイヤホンしてる人を
追って、人通りの少ない道に入ったら
気絶させてレイプしてください」
ってパンフレットに書いてる
中国の観光会社があるらしいよ。
気をつけてね夜道。
@Genius Humans
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あまりにも怖いでのでシェアします。
真実なのかデマなのか定かでは
ありませんが、気を付けるに越した事は
ないですね。