溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「文、ぶん、ブン」の(四),“なごむ”

2017年01月16日 | 随筆

 「日本の原発鋼材 強度不足はなし」の見出しがついた次の記事(16年11月1日、毎日新聞の朝刊二面)。

 『フランスの原発で強度不足の可能性がある鋼材が使われていた問題で、日本の電力会社11社は、強度不足の鋼材は使用してないとの調査結果を原子力規制委員会に報告した。仏規制当局は六月、同国の原発一八基にある蒸気発生器の鋼材が、規定より炭素の含有量が多いため強度が足りない可能性があると発表。同国のメーカーのほか、北九州市の「日本鋳鍛(ちゅうたん)鋼」も製造していた。これを受け規制委は日本の電力各社に、メーカーにかかわらず「鍛造」と呼ばれる同じ製法で作った鋼材を重要部品に使用している場合、炭素濃度に問題がないか調査を指示し、10月末までの報告を求めた。日本鋳鍛鋼の鋼材は日本では六社八原発の計一三基で使用されていることが分かった。今回の報告では、それらを含めて全原発で炭素濃度に問題はなかったという。』

 同じ日付の社会面。「中一自殺 いじめ認定」の見出しの記事。

 『青森県東北町の中学1年の男子生徒がいじめを訴えて自殺した問題で、町教育委員会の「いじめ防止対策審議会」はいじめがあったとする中間報告書を委員長に提出した。委員長は「複数の生徒から、からかいや心ない言葉があったことが確認できた」とのべた。教育関係者らで9月に発足した審議会調査部会は、遺族や学校関係者への聞き取り調査などでいじめの有無を調べていた。今後も調査を続け、年内にもまとめる最終報告で、いじめと自殺の因果関係について明らかにする意向。町教委は中間報告を公表せず、遺族には口頭で伝えた。』

 「で」という助詞に注目して、たまたまこの日の新聞記事を硬派面、軟派面で見たところこんなに多く使われていた。原発重要部分に使われて鋼材の強度不足の疑いをフランスから指摘されている問題と、一向に減らない小中学生のいじめ問題、いずれも今日的な問題で記事の表現にはそれなりの工夫がいるケースだ。しかし、この「で」は文の繋がりがよくなり便利ではあるが、多用すると書かれた内容がぼけたりする。「言語明瞭・意味不明瞭」と言うのに陥りやすいのである。

                                                            (つづく)

 


随筆「文、ぶん、ブン」の(三) “そこに立つ”③

2016年10月31日 | 随筆

 (この人麿の歌・131番は)恋い歌の多い「相聞歌」に加わり、その後挽歌へと向かうが、その相聞の「取り」に位置しているこの長歌。後半部分の訳は、こう。

「この海岸に向けて、和多津の荒磯のほとりに、青々とした美しい藻、海底深くはえる藻を、朝は朝とて溢れるように風が寄せて来るし、夕べもまた溢れるばかりの夕浪が寄せてくる。この浪と一緒にゆらゆらと寄って来る玉藻のように私に寄り添って寝た妻を(または、愛しい妻の手元を)露や霜のおくように後において来たので、この旅路の多くの曲がり角ごとに、幾度となく振り返って見るのだが、ますます遠く妻の里は離れてしまった。ますます高く山も越えて来たことだ。夏草のように、恋しさに萎えては私のことを思っているだろう妻の家の門を、ああ私は見たい。靡け、この山々よ。」

 

「藻」が、心情を表すのに重要な役割を果たす。「人麿歌集にある」と紹介される歌々ににも頻繁に出てくる「霞たなびく」の「たなびく」もそうだが、横に向かって静かに動く「さま」を連想させる。

石見国分寺のある唐鐘海岸から江の川河口にかけての海岸(6㌔くらい)はほとんど磯も、入り江もないのだが、中間にある波子・大崎鼻の周辺にはいい磯=写真=がある。大崎鼻に灯台があり、このあたりに立つと、東西の海岸美を観賞できる。

この歌に、「夏草」とある。ちょうどいい、同じ季節だ。何十年ぶりか、少年時代に潜った磯へ行ってみた。総称してボバと読んでいた海藻類、昔は豊富で、春にはワカメ、カジメ、ホンダワラなどがゆらゆらと靡いていたものだ。荒れた時には波に打ち寄せられる。それを拾って畑に持って行った。とってもいい肥料になるので、祖母に喜ばれた。

近年、この一帯に熊が出るといい、隣の浜田市の山中では噛まれる被害もテレビが伝えていた。大きいの、小さいの、岩が重なり、ビニールロープ、発泡スチロールの漁具、ハングル・ラベルのボトル類など漂流物が間に挟まっている。幸い、流れついた角材を見つけて、それを握りしめ、杖にもなるので用心しながら、岩を伝った。近くの大きな県の水族館へ向けて海水を引いている個所があるので、さすがに水はきれいだ。しかし、藻類は少なかった。海水温度の激しい変化だろうか、漂着も含め藻類は確実に減っていると感じた。

◇           ◇

 柿本朝臣人麿が活躍するいわゆる白鳳万葉期。壬申の乱後であるが、この宮廷歌人は天皇を讃え、皇子たちと付き合うが、持統天皇への歌を詠んでいると、讃歌以上のものを感じるのである。

1300年前の宮廷に思いをはせながら、磯から帰ってくると、テレビが“生前退位“をにじませた天皇のビデオメッセージを流していた。長い天皇家の歴史を背負って、これから進む、「国民の象徴」としての天皇。非常に憲法を意識しておられるな、と感じた。

そういえば持統天皇は女性天皇であった。

(「文・ぶん・ブン」は、つづく)

 

 

 

 

 

 


随筆「文、ぶん、ブン」の(三)“そこに立つ”の②

2016年10月20日 | 随筆

 毎夏、「滞在中にやるべきこと」を決めており、今年の課題は、万葉集における柿本人麿(*1)関係の歌をすべて読み込むことであった。パソコンを持ち込み、中西進さん(*2)の力作『万葉集・全訳注原文付』(講談社文庫、全5巻)を片手に、人麿作品の原文・漢字(いわゆる万葉仮名)を打ち込み、それに声を出して読むが如く、平仮名を振って行く(*3)。PCというのは、こういう時には実に便利に出来ていて、作業が楽である。なぜ、ひちめんどくさいことをやる気になったのか。当時の第一級詩人が抱いていた種々の感覚を知りたかったからである。そして、何よりもこの地を詠んでいるからでもある。しかも、そのいくつかの歌は人麿作品の流れのなかで重要な位置を占めると思うからである。

 万葉集は歌ごとに番号がふられている。番号順に人麿さんの動きを追ってみる。まず最初に、壬申の乱で廃墟となった滋賀の「大津の宮」跡を訪れ、次いで持統天皇の吉野行幸で天皇の統治を「永遠に・・・」と願う。伊勢行幸にちなんで、鳥羽の海で、船に乗っている少女たちが船べりで足を出している様子を、「珠(たま)裳(も)の裾に潮満つらむか」と詠む。珠裳は赤系のスカートか。これが40番。41番で同じ鳥羽の答志島に「今日もかも大宮人の玉(たま)藻(も)刈るらむ」と、おそらく同行の女官たちであろう。海で興じている和やかな風景を想像する。この「玉藻」の「藻」。川の「藻」を含め、人麿さんお気に入りの植物であるとみた。

葦、菅、橘、萩、松など陸上の植物が多い万葉集で、海の生物が出てくると目立つ。気になってしかたないのである。そして人麿さんには海を舞台にした歌が実に多い。

万葉集には人麿作の歌八八首と「人麿歌集にある」とする歌が369首ある。そのうちに海に関係しているのが、ざっと数えて三五首あった。海好きとしてはたまらない。

特に、前から気にはなっていた、巻第二に出てくる石見の地を詠んだ数首である。「石見の国より妻に別れて上り来し時の歌・・・」といのは、まさにその場所が “わが避暑地”そのものなのである。131番の長歌は「石見乃海(いはみのうみ)(石見の海) 角乃浦廻乎(つののうらみを)(角の浦廻を) 浦(うら)無(なし)等(と)(浦なしと) 人社(ひとこそ)見(み)良(ら)目(め)(人こそ見らめ)・・・」で始まる。「石見の海の津野の浦を、船を寄せるによい浦がないと人は見るだろう」。その通りで、「津野の浦」は今の江津市都野津(つのづ)の海岸。地名もそのまま残り、地形もそのまま、一直線に砂浜が延びる。

「人社(ひとこそ)見(み)良目(らめ)(人こそ見らめ) 能咲八師(よしゑやし)(よしゑやし) 浦者(うらは)無友(なくとも)(浦は無くとも) 

従畫屋師(よしゑやし)(よしゑやし) 滷者(がたは)(潟は) 無鞆(なくとも)(無くとも) 鯨(いさな)魚取(とり)(鯨魚取り)海邊乎指而(うみへをさして)(海辺を指して)和多豆乃(わたずの)(和多津の) 荒磯乃上尒(ありそのうえに)(荒磯の上に) 香青生(かあおなる)(か青なる)・・・」

「鯨魚取り」。まさか、鯨は当時もいなかったろう。「漁をする」くらいの感じか、そのあとにくる「海」の枕詞か。歌聖は枕詞や序詞で流れるように言葉を繋げていった。そのリズム感は独特だ。「ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも いさなとり・・・」、7音、5音、7音、5音、曲をつけたくなる。現に、地元の和木小学校の子供たちは、この131番を全文諳(そら)んじているそうだ。

ここの現代語訳は

「石見の海の津野の浦を、船を寄せるによい浦がないと人は見るだろう。藻を刈る遠浅の潟もないと(または、釣りにふさわしい磯もないと)人は見るだろう。たとえ浦は無くても、たとえ潟は(磯は)なくても魚は多い。この海岸に向けて、和多津の荒磯のほとりに、青々とした美しい藻、海底深くはえる藻を、朝は朝とて溢れるように風が寄せて来るし、夕べもまた溢れるばかりの夕浪が寄せてくる」

「和(わ)多津(たづ)」の地名も今に残る。「渡津」と書く。都野津から数キロ東にいった中国地方一大きい「江の川」の河口にある。                                               (つづく) 

(*1)「万葉集」の宮廷歌人。天武・持統・文武の三朝に仕えた。華麗な修辞技巧を駆使。重厚な歌風で「古今集」序に『歌の聖』称されている。

*2=中西 (なかにし すすむ)1929年、東京生まれ。万葉学者、奈良県立万葉文化館名誉館長、池坊短大学長、国際日本文化センター教授、京都市立芸大名誉教授、高志の国文学館館長。

(*3)例えば、琵琶湖畔の、荒れ果てた大津の宮(天智天皇)跡を訪れての長謌の後、三〇番(反歌)はこう。「楽浪之(さざなみの)(さざなみの) 思賀乃辛碕(しがのからさき)(志賀の辛崎) 雖(さきく)幸(あれ)有(ど)(幸くあれど) 大宮人之(おおみやびとの)(大宮人の) 船(ふね)麻(ま)知兼津(ちかねつ)(船待ちかねつ)=楽浪の志賀の辛崎はその名のとおり変わらずあるのに、大宮人を乗せた船はいつまで待っても帰ってこない。」)

 


随筆「文、ぶん、ブン」の(三)

2016年10月14日 | 随筆

“そこに立つ”

 毎年夏には石見の地へ。暑い京都を避けるのか、逃れるのか、とにかく「避暑や」と格好づけしながら、そそくさと高速を400キロ西へ移動する。海沿いの、それこそ立派な“田舎”であるが、昔、国府が置かれ、国分寺も近くに残り、歴史がある。木造二階建て、大きな石垣の庭が日陰を作り、浜風を呼んでくれるので過ごしやすい。実際には窓を締め切った木造建築はすべてを開け、風を入れてやらないと、いっぺんにやつれてしまう。だから管理を兼ねて避暑しているのであるが、この集落には同じように独特の光沢のある赤や黒の“石州瓦”を葺いた大きな家が何軒も空き家で放置されている。いま、東京近辺でも、全国あちこちに見られる空き家問題。ここもそうなのだ。“ええ加減な空き家の持ち主”、それを言われるのも癪なので、“うちは、放置じゃないぞ”と一か月以上滞在している。             ◇

 着くなり、すべての扉の類を開け放ち、浜風を通す。拭き掃除をしてやると、それまでムッとした空気に窒息しそうだった障子や襖、畳に柱たちが喜んでいるようだ。特に二階の八畳には海辺からの風が気持ちよく入ってくる。クーラーなんぞなし。蚊帳を吊って大の字になって安眠できるのである。これが楽しみで来ているのかもしれない。もう一つの楽しみが、早朝のキス釣りである。ここでは朝五時にはサイレンがなる。ワクワクするのである。かなり大きな音で、人々を起こす。漁村の名残なのか。

時報と言えば昼前の十一時と夕方の六時にはチャイムが鳴る。昼は、大人たちにランチ用意を促し、夕は外で遊んでいる子供たちに「もううちに帰りなさいよ」とドボルザークが告げているのかも知れない。しかし、漁師は減って港に十隻に満たない船。日暮れまで道端や浜で遊んでいる子は皆無である。子供の姿はめったに見ない。数が減っている上に家の中で、液晶画面を見ているのかもしれない。ここへは三〇年ほど前からだが、この三つの時報はすでにあった。非常に正確であったが、ことしは、一分以上ずれていた。係の人が時計の調整にずぼらをこいているのかな、と思ったりした。

 釣り人は夜明けが勝負なので、サイレンが大事なのである。鳴ってから起床してはいい場所は確保できない。鳴ったら、それは出かける時、いや浜に出て海況を確かめる時である。八月になるとまだ薄暗いのにである。                                                         (つづく)


随筆「文、ぶん、ブン」(二)

2016年09月05日 | 随筆

“読み込む”の③

般若の経だけでなく、華厳経、法華経そして浄土関係、次々に請来する経典の数々は仏教思想の広がりとともに書き言葉の広がりもたらしたのではないかと思う。そして、もう一つ“心経”を読んでいて感じるのはそのリズムである。軽快である。小学三年の孫が、ある夏、ゲーム機を覗いていたはずなのに、仏壇の前にいた妻に「おばあちゃん、そこ違うんと違う」と突然指摘したのである。羯諦(ぎゃてー)、羯諦(ぎゃーてー)の、あの終盤あたりで一部飛ばしたらしい。「えっ、あんた、いつ覚えたん・・・?」。どうもこのリズムが柔らかな子供の音感機能を刺激していたらしいのだ。

◇              ◇

二世紀から六世紀にかけてインドから中国に入った各種般若経典を合わせると六〇〇巻。それらの“ええとこどり”したエキス、神髄が“心経”だと言われている。言ってみれば、この二七六文字は長大な大般若経の前書きにあたるのではないか。釈迦が真の悟りを得るために出家して苦行に出ていたインド北部。小国が争い、疲弊して民も苦しむという時代である。「教え」は弟子たちによって書かれていったのであろうが、そういう背景があったことを「心経」は感じさせる。

我が新憲法の前文(576文字)はどうか。

「・・・われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」。いいリズムである。そしてなぜこういう文が出て来たのか推測してみる。仏教は、こちら側・此岸から、あちら側・彼岸を考えるが、今、我々が立っているところから大戦前のあちら側を見てみると、・・・。

『政府の行為によって、先の大戦は起こった』のである。その結果は『惨憺たるもの、惨禍である』。全土にわたって自由はあったか『ノー、真逆』である。それどころか言論は圧殺された。諸国民との協和はあったか。『ノー』。民族を対象にした五族協和思想はあったが、何か軍主導の胡散臭さがつきまとい、“諸国民との協和”の発想自体がなかった。主権は国民に存していたか。『ノー』。

そして此岸にあっては「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって」、「平和を愛する諸国民と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう」と決意した。加えて「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努める国際社会において、名誉ある地位を占めたい」と宣言するのである。                                                    

 

主な参考文献=*平田精耕著『仏教を読むシリーズ「一切は空」般若心経+金剛般若経』(集英社、1983年10月、第1刷)

*プラトン著、久保勉訳『ソクラテスの弁明・クリトン』(岩波文庫、1999年7月、第81刷)