溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「文、ぶん、ブン」の(二)のつづき

2016年08月29日 | 随筆

“読み込む”の②

 ところで祖母の読経ではないが、西国札所の一つ、伏見の上醍醐寺に上ると必ず「般若心経」をあげる人たちに出逢える。本堂の崖下でちょろちょろ清水がわいており、必ず水筒にいただくのだが、杓で注いでいると、木々の間から、きれいな読経が届くのである。まさに声明(しょうみょう)である。四国の八十八か寺でも同じようなお遍路さん風景があるのだろうが,ここ上醍醐は森閑とした山中なのでことさら清々しい。

 そこで自分でもできないかトライしてみたのである。臨済宗の寺からもらった掌にのる経本を開くと、仮名も振ってある。仏さんの前に座って鉦をならし、「観自在(かんじーざい)菩薩(ぼーさー) 行(ぎょう)深(じん)般若波(はんにゃーはー)羅蜜(らーみー)多時(たーじー) 照(しょう)見(けん)五蘊(ごーおん)皆(かい)空(くう) 度(どー)一切(いっさい)苦(くー)厄(やく) ・・・」とやってみる。何度も何度もやってみるが、上手くいかない。タイトルを含め、たったの二七六文字。ほとんど一字一音であるから、音の数でも多くない。それなのに、なぜかマスターできない、情けない。

 恐らく、理屈から入ろうとするからだろう。“有文字人間”はすぐ表意文字即ち漢字を一字ずつイメージする。するとタイトルの摩訶(まか)般若(はんにゃ)波(は)羅(ら)蜜(みっ)多(た)心経(しんぎょう)の、のっけから引っかかる。「どう考えても不思議だ」の「摩訶不思議」の摩訶か。古代インドの標準文章語・サンスクリットのマハーの音に漢字をあてているので、漢字のイメージを探っても無理。意味は「大いなる」といったところか。「般若」もそう。直訳すると「真実の智慧」。日本語大辞典(講談社)は「煩悩を断って悟りにいたるためのもとなる真実・最高の知恵」と仏教語としての説明を加えている。僧侶たちは、このお経を略して「心経(しんぎょう)」と呼ぶそう。心の本来の在り方を説く経典との意味を強めながら。

 お経も文、文章である以上読み込めば理解できるだろうと挑んでみるが、かなり手強い。サンスクリット語がうまく漢訳できずに、そのまま音に漢字を当ててあるからだ。「波(は)羅(ら)蜜(みつ)多(た)」も、後半になると罣礙(けーげー)、得阿耨多羅三貌(とくあーのくたーらーさんみゃく)三(さんぼ)菩提(ーだい)ときて、最後に羯諦(ぎゃてー)、羯諦(ぎゃーてー)、波羅羯諦(はらぎゃーてー)、波羅僧羯諦(はらそうぎゃーてー)、菩提薩婆訶(ぼーじーそわかー)、と。しかし、漢訳されているところは「色(しき)不異(ふい)空(くう)」「空(くう)不異色(ふいしき)」「不生(ふしょう)不滅(ふめつ)」「不増不減(ふぞうふげん)」なんとなくわかる。ただ「色(しき)」については解説書の助けがいる。「色事ではなく、現象の世界を意味する」と。

そして中ほどにくると、「無」が連続する。「無色無受想(むしきむじゅそう)行(ぎょう)識(しき)」「無眼(むげん)耳鼻(にびー)舌(ぜつ)身(しん)意(にー)」・・・「無無明(むーむーみょう)亦(やく)無無明明尽(むーむーみょうじん)」「乃至(ないしー)無老死(むーろうしー)」「亦無老死尽(やくむーろうしーじん)」・・・「無智(むーちー)亦(やく)無得(むーとく)」と。「空」も多い。

「無明の深みにはまる」という言い方があり、煩悩に覆われて道理をはっきり理解できない恥ずかしい精神状態を言うのだが、ここから来たのだろうか。「我々、何もないところから出てきて、何もないところへ帰って行くわけですから本当に何もないのです」と解説書。そして「無智(むーちー)亦(やく)無得(むーとく)」。「智もなくまた得ることもなし。無所得を以ての故に」と読むのだそう。

プラトンの『ソクラテスの弁明』で、ソクラテスは、とにかく俺の方があの男より賢明である、と考えながら言う。「私たち二人は善についても美についても何も知っていまいと思われるが、しかし、彼(あの男)は何も知らないのに、何かを知っていると信じており、これに反して私は、何も知りはしないが、知っているとも思っていないからである。されば私は少なくとも自ら知らぬことを知っているとは思っていないかぎりにおいて、あの男よりも智慧の上ですこしばかり優っているらしく思われる。」と言ったが、「無智(むーちー)亦(やく)無得(むーとく)」の釈迦の考えと重なるのだ。不思議でならない。(つづく)


随筆「文、ぶん、ブン」の(二)

2016年08月20日 | 随筆

 “読み込む”の(1 )

 明治18年生まれの祖母は字を読もうしなかった。当然書こうともしない。嫁である母や孫たちが「教えようか」と言っても、「今日は天気がいいから畑へ行かんと・・・」と笑顔で背負い籠に鍬を載せて出て行った。その時代、村の娘たちに出来たばかりの尋常小学校へ行かせる雰囲気はなかったようだ。日清戦争から日露戦争へと続いたころだ。

戦後、選挙に参加できるようになってもこの時分の女たちは、晴れ晴れとしなかった。投票用紙に候補者の名前を書かないといけないからだ。最も苦手とする「書く」という行為である。投票日近くになると近所のおばさんが候補者の名前の字を仮名、確か片仮名だったと思うが、教えに来る。祖母は難聴気味であったために、おばさんはつい大きな声になり、投票の秘密も何もあったものではない。投票日だけ覚えておけばいい7字の形。祖母にとっては「識字とは面倒なもの」なので、仮名文字だけなら簡単だと思うのだが、でも覚えようとしなかった。

 生まれ育った石見の地は、島根県の西半分。総選挙は全県一区・定数5で、自民4、社会1のお決まりの結果だったとはいえ、投票率は常に90㌫超の高率で、全国一は祖母たち明治の女たちが担っていたわけである。

     ◇

 日本語の書き言葉が始まったのはいつごろか。漢字が入ってきてからだといわれる。祖母の名は「コメノ」であった。女の子の名に植物から取るのがはやったのだろうか、米、即ち水稲を連想させる。水稲栽培の技術とともにはいってきたのかもしれない。その後の飛鳥・奈良時代には仏教伝来が、書き言葉の広がりに大きく貢献したであろう。万葉集で描かれる自然や恋心を“万葉仮名”(漢字ばかり)で読んでいると、この時代に書き言葉が急激に発達していく、激しい言語の動きのようなものを感じる。それまで、即ち漢字が伝わるまで、われわれの祖先は文字を持たなかった。“無文字”だったのである。識字率ゼロである。

 無文字と言っても、字を書かない、読まないということで、言語そのものがなかったわけではない。祖母は「よう、帰ってきんさった」「早う食べんさいや」などの方言がもっぱらだったと思うが、立派な日本語をしゃべっていたし、毎朝仏壇の前でお経を唱えていたのである。畑を耕し、いつ麦の種をまくか、いつサツマイモの苗を植えるか、その時期をちゃんと記憶していた。冬には、日本海の冷たい風を受けながら、岩のりを採りに行ったし、ワカメ採りの季節には腰まで海につかっていた。海に出るにはその時の天候や潮の流れ具合をちゃんと把握しておかないといけない。収穫に大きく影響するし、間違った判断は死につながる。板ワカメにするには、刈り取ったのを莚(むしろ)に広げて、乾かさねばならない。雨が来たらおしまいである。失敗したのを見たことがない。戦後の食糧のない時代に祖母の知恵が満州から命からがら引き揚げてきた嫁と幼い孫四人を救ったのである。義務教育ですべてが文字を持つ“有(う)文字”世代になったといっても生きる底力は“無文字”世代が上だったかもしれないのだ。

 


随筆「文、ぶん、ブン」(1)のつづき

2016年04月21日 | 随筆

“『は』の不思議”の③

 三条件の一つ「間違えが少ない」は、「間違え」がゼロになるのに越したことはないのだが、人間のやること、どこかに“落とし穴”があってゼロにすることは難しいので多田さんは「少ない」としてくれたのだが、書く方はあくまでゼロを目指して努力しないと。そこで思い当たるのが国語教師のようなデスク。原稿をチェックしていて「この動詞の五段活用を言うてみい」と言われた。これにはまいった。学者の間で、これほどえげつないやりとりはないだろう。

 ところで文章というのは書き出しが難しい。それが決まれば気が楽になる。新聞文章の場合は時間的に余裕がないので、予め決めておくといい。悩む時間を省略できる。早い話、パターン化だ。定型文。昔からあるのが突発的に起きる事象に、「何日何時ごろ、どこそこで・・・」という日時スタート型。もう一つが主体を先にもってくる「何々は・・・」の「は」(ワの音)の助詞の付いた型。「首相は〇〇日・・・」というやつ。あとは、どちらにも属さない自由な出だし。非定型としておこう。使われ方を調べてみると二つの定型は戦前も戦前、明治のころから、頻繁に出てくる。日時型は事件、災害など発生ものに使われるから当然社会部の書く原稿。対して「は」型は硬派面、政治部の書く原稿に多い。

 多田さんが助詞「は」のつく文章について面白い指摘をしている。「象は鼻が長い」は、一つの文に二つも主語がある。これはおかしい、と国語文法会で大論争になった。主語というのはヨーロッパの言葉の直訳で、日本語として考えると、「が」と「は」ははっきりと、はたらきが違う。国語学者によると「は」の方は状況を提示していて、「何々についていえば」という意味で、ここでは「象についていいますと、鼻が長い」ということになる。「私は九時に起きました」――「私についていいますと九時に起きました」となり、「ついていいますと」のところは省略してもいい。省略の妙を教えてくれているのだが、文法的にいうと、助詞のはたらき方の違いなのである。「は」は文語で「も」「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などと同じ係り助詞。下(次)にくる熟語に影響を及ぼす。「がは「の」「に」「で」「から」などと同じ格助詞。「体言について、その語が、他の語に対して持つ関係を表す、と『日本語大辞典』(講談社)は説明する。しかし、新聞記事で使う「は」は格助詞に近いはたらきをする。「ジャック アンド ベティ」で「これはペンです」(主語+述語)と言われた中学・英語を思い出す。あのころから、主語のない文章に会うと、「誰が何を言ってるの?」と問いたくなったり、気分が落ち着かないのである。文明開化以来、すっかりヨーロッパ的な感覚になっているのか・・・。万葉仮名を読んでいると「波」の音を当てて「は」は使われているが、多田さんの指摘の通り、主語+述語的なつかい方ではない。

 「日本国憲法」をみてみよう。前文で、「日本国民は・・・」と書き出し、この国の主人公は国民であると宣するために3回も「日本国民」を使い、「われらは」を入れると7回も主語扱いをする。「国民」「われら」を主部とすると、述部はどうなっているか。最初のセンテンスの中だけで、国会における代表者を通じて行動し、自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、主権が国民に存することを宣言し、憲法を確定する・・・。「日本国民」の後に「についていいますと」を入れれば、すんなり入ってくる。だから、ここの「は」も格助詞でなくて万葉時代と同じ、係り助詞なのだ。    

                                                            (おわり)                

*1多田 道太郎(ただ みちたろう・1924―2007)フランス文学者、評論家。京都大学人文科学研究所教授(西洋思想研究部門)、武庫川女子大学生活美学研究所所長などを歴任。ボードレールが専門だが、ほかにカイヨワの「遊び」論に関心が深く、大衆文化、関西文化、日本人論などについて数多くの評論を書き、現代風俗研究会の二代目会長を務めた。多田道太郎ほか編の『クラウン仏和辞典』で1978年毎日出版文化賞(企画部門)を受賞。

 


随筆「文、ぶん、ブン」(1)のつづき

2016年04月12日 | 随筆

 

“『は』の不思議”(2)

 せっかく褒めてもらったのだが、実のところ文章つくりの教育を、系統だって受けた記憶がないのである。もちろん教える側に回った記憶もない。「三つの条件」の心構えを、改めて振り返ってみた。すると、あの時がそうかな、と思い当たることもある。

 毎年、夏になると高校野球地方予選が全国で始まる。駆け出しの記者は必ず警察を担当しながら、この高校球児を、甲子園に行くまで担当させられる。望遠レンズでの撮影の難しさを覚え、暗室で焼き付けしながらセンスのなさを嘆き、複雑なルールブック「野球規則」をめくりながら、「野手選択・フィルダースチョイス」とは何かを知る。スコア・ブックを付けながら原稿を書く。見逃した選手の動きは、そばにいる大会運営の手伝いをする高校生たちに聞く。すべては事実を正確に記録するためである。ワンサイドのつまらない試合もあればスリリングな試合もある。多くの根っからの高校野球ファンが見ていて翌日の紙面を楽しみにしていてくれる。ここで“多田三条件”が必要になってくるのだ。すなわちたかが野球、「わかり易く」なくてはならないし、数字や選手名を間違っては折角の記事が台無しだ。もちろん「面白く」なくてはならない。一緒に見ていた高校生は翌日の記事に対して自分たちの感受性でもって鋭い批評を浴びせてくることもある。たとえ五行でも疎かにできない。あの複雑怪奇な野球規則を読み込めれば、刑法や刑事訴訟法を繰り返し読む自信はついてくる。そういう意味でも高校野球の取材は新聞記者の“基礎体力”を付けてくれるのである。(つづく)