溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「文、ぶん、ブン」(1)

2016年04月04日 | 日記

 

“『は』の不思議”

 「平均してよい文章を書いているのは、新聞記者諸君以外に求めることはできない」と言ってくれたのはフランス文学者・評論家の多田道太郎さん(*1)。『文章術』(朝日文庫)という多田さんの本は、文を考えるうえで実にいろんなことを教えてくれる。まず辞書。普通には本を読むために必要とか、外国語を知るために必要だと考えるが、一番大事な辞書の用途は文を作る時なんだという。日本語では漢字を正しく使うことが重要。例えば「読後カン」「人生カン」のカン。いざ書こうとして戸惑う。読書の後に「良かったな」と想うのは「感想」だから、「読後感」、人生を広く捉え哲学的に考えてみるのは仏教用語からきた「観」。「手紙や文章を読んでいて、この種の間違いを目にすると、この人のレベルは大体こんな感じだなと評価されてしまうから、いつも辞書をそばに置いておいた方がいいと、おっしゃる。そういう多田さんがこれらをそろえておけばほぼ完璧と言ったのは、大槻文彦『大言海』、小学館『日本国語大辞典』、金田一京助他編『新明解国語辞典」』、白石大二編『新例解辞典』の四冊。この選択で広辞苑をはじめ岩波ものが一つもない。

それで辞書を意地悪く比較してみたくなった。一言で説明しにくい言葉。例えば「意味」。どう説明しているか。

『広辞苑』(第一版第一刷)は「言語によって示されている内容。意義。」

『新明解国語辞典』(第四版)は「その時その文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか。用法。“君の言ってるのと僕の言うのとは(同じ言葉だが)――が違うんだよ。――ありげな。)”」

 こんなに違う。

講談社も『日本国語大辞典』を出しており、写真を多く添え、英語表現もできるだけ添えている。読者の気持ちになって作っているな、と感じる。使う方としてはそこがうれしい。(つづく)


随筆「平均的気にしい論」(その4)“精神の自由”の③

2016年01月21日 | 日記
呼びかけ人「今西さんといえば、『棲み分け論』が有名だよね。若いころのカゲロウの幼虫観察から導
き出した。そうや、そうか現場は確か出町柳から少し上流の加茂川だった? それでか、出町柳あたり
へ行ってきたというのは?・・・それで、その『アイデンティフィケーション(identification)』っていうのは
何?『 アイデンテティー(identity)』(自我同一性)と関係あるのかな?」

山好き「群れで行動するサルの観察から導き出した独特の“理論”で、的確に表現するのは難しいのだが、僕はこう受け止めている。子ザル(オス)が母親に抱かれて成長する過程で、群れの中には何匹も子ザルがいるのだが、その中の一匹だけが将来にボスになる。ボスになるためには、危険が迫った時にはちゃんと群れ全部に聞こえるような独特の声を出す能力や、自分が身を挺して群れを守る勇気とか、危険察知の能力も高くないといけないし、マナーも会得する必要がある。そして何よりもまして、自分を取り巻くメスたちから信頼されないといけない。それらを、子ザルの時から、母親やボスを対象に同一視(アイデンティフィケーション)し、行動観察しているらしく、自然に自分の立ち位置を認識する。それらを総じて、この言葉が使われているように思う。群れの中で学ぶ能力といえば、石で貝を割る行為が知られているが、今西さんはあの行為をサルにとっては立派なカルチャーだという。

呼びかけ人「僕は一九四五年十二月は満州にいて、北朝鮮国境に近い厳寒の地で避難生活を送っていた。六歳だった。七歳で引き揚げてきたが、満州体験というのは、ものの考え方に影響を与えていると自覚している。人間にもアイデンティフィケーションというのはありそうだ。」

文明史好き「人間が歴史を知るというのは立派なカルチャーなんだ。『歴史』とは本能的な自己認識行為だろう。そうならば、よそ様の認識行為じゃなくて・・・。そうか、七〇年前の連載記事『太平洋戦争史』をすべて検証してみて、日本人の手で独自の歴史記述をやってみたら、と言うことか。ナショナリズムというデリケートな部分も扱わないといけない。その時は『精神の自由』というものが、絶対に必要になってくる。毅然として取り組むにはね。思い切りやってみたら。面白いな、それ。」

(おわり)

 


随筆「平均的気にしい論」(その4)のつづき

2016年01月11日 | 日記

“精神の自由”の②

詩人「この新聞連載『太平洋戦争史』(*1)は、長文なわけだが、それだけではない、読み終えた後、非常な疲労感を覚えた。眩暈(めまい)がするほどだ。この感情って何だろう。そして、『歴史』って何だろう。ヒストリー(history)とネーション(nation)の関係は? と次から次に疑問がわいてきたんだ。

文明史好き「我々の民族意識が関係しているのではないだろうか。ラグビーW杯、深夜にも関わらず興奮した。サッカーでも野球でも国際試合になると、にわかファンになって、年甲斐もなく興奮する。あの独特の感情があるからなんだ」

呼びかけ人「僕は、島根の出身だけど。竹島に韓国大統領が上陸したとき、土足で我が家に上がられたような、嫌な感じがした。竹島は隠岐の島の北にあって昔、隠岐の漁師がアシカ漁をしていた。その漁の写真を見たことがある。隠岐の島は古事記にも出てくる。韓国側にも鬱陵島に近いからそれなりの歴史があるのだろうが・・・。尖閣諸島もそれぞれ歴史がある。北方領土もそうだが、領土問題のさいに受ける独特な感情は、背後にそれぞれの歴史があってネーション(nation)と関係している。そしてナショナリズム(nationalism)を刺激する。歴史って衝突の種になる意外と厄介なものなのだ」

文明史好き「若いころ買って読んでなかったヘーゲルの著作を開いてみた。そこでは歴史のとらえ方には三つあり、先ず①事実をそのまま書いたもの、次に②反省を加えたもの。そして③哲学的な歴史―――と言う。新聞連載『太平洋戦争史』は①のつもりで書かれたのだろうが、言論の自由がなかったからこんなことになったという「言論史」も含んでいるし、どんな理由があるにしろ「非人道的な残虐行為は許されない」という考えを加えている点では反省を促す②の要素もある。

山好き「先の大戦を知っている我々は、当時子供だったが、この連載記事には、あれやこれやと、考えさせられた。どうしてもひっかかったのがアメリカ人の手による歴史記述であるということ。チャールズ・ダーウィン*2の『種の起源』が出て、アメリカの思想界が進化論に大きな影響をうけ、「適者生存」という言葉が政治学や社会学に登場するようになった。ちょうど東京湾に黒船が来るようになった時期だが、発展したプラグマティズム思潮があらゆるところに影響を与えて行く。産官学が一体となって進めた大戦に勝利を収め、大変な自信を得たアメリカが、その思想のもとで書いたと言えないか。

・・・唐突で恐縮だが、自然学の今西錦司さん(1902~1992)が好んで使っている『アイデンティフィケーション(identification)』という言葉を思い出したんや」

*(1)新聞連載『太平洋戦争史』・・・1945年12月にGHQの提供(英文)、共同通信の高山健弌氏(後に東大教授)が翻訳し、6日から日本のほとんどの新聞に10日間にわたって掲載された。「奉天事件よりミズリー降伏協定調印まで」とのサブタイトルが付き、全体で約5万字。

 

                                                           (つづく)

随筆「平均的気にしい論」(その4)

2016年01月03日 | 日記

 “精神の自由”

女将「そないに熱うならんで・・・、冷えたビール、注ぎまひょ。今夜は、もうあんさんたちだけや。思い存分にお話しておくれやす」

山好き「ここ、祇園へ来る前に出町柳のあたりから加茂川―鴨川沿いを歩いてきた。しばらくぶりだが、水がきれいになったね。ええ運動になった。ビールがおいしいよ」

呼びかけ人「終戦の年、十二月の新聞連載『太平洋戦争史』(*1)はGHQ,アメリカ人による歴史認識といって言いのだが、今日につなげて論を進めてほしい。

文明史好き 「幕末に黒船がやって来たころころからアメリカは、中国大陸を非常に意識していた。経済的な理由だろう。そのために日本の協力が欠かせなかった。やんやと言って、開国を迫っている。ペリー提督の艦隊は嘉永六年(1853年)六月に大統領の開国・通商を求める親書を携えて東京湾・浦賀にやってきた。幕府は1年ほど待ってくれと言うが半年後の翌年1月に再来航し、三月に全十二カ条からなる日米和親条約を結ぶ。その第二条で、下田と函館を開港し、この二港で薪、水、食料、石炭など必要な物資の供給を受けることができるとしている。艦隊は、北太平洋の航路を使っていたのだろうが、清国をはじめ東アジアはいかにも遠い。琉球にも寄港していたが、補給能力が格段に高い江戸と函館を要求。特に函館は燃料の石炭を大量に補給したかったのではないか。冷蔵庫もない時代だから、乗組員がビタミンB1不足による脚気やビタミンC不足による壊血病でよく倒れる。新鮮な野菜、肉、それに大量の水が欲しい。それはなんといっても江戸だ。当時から日本のことを良く調べている。今日でも、例えば福島原発の大事故の直後に空母を出すなど艦隊の動きは素早かった。日ごろから日本の核施設を十分に調べ上げているということだ。あの『太平洋戦争史』を読んでいて感じたのだが、昭和に入っての日本の政治、特に大陸侵攻へ向けての動きは正確に把握していたということ。中国大陸についても、日本を通じていろんな研究ができていたのではないかと思う。例の“南京大虐殺”についての記述も、『太平洋戦争史』が書かれた一九四五年秋の時点での蒋介石・国民政府を大いに意識したものになっている。

呼びかけ人「そこの部分を紹介してみようか。まず、“南京における悪逆行為”という見出しをつけて、記述は『十二月七日に南京の郊外陣地に対する日本軍の攻撃が開始され一週間後には上海戦での中国側の頑固な抵抗に対する怒りをここで爆発させて日本軍は恐るべき悪虐行為をやってしまった』と書き始め『近代史上最大の虐殺事件として証人たちの述べるところによれば』ということで、淡々と描いている。

こうだ。『この時、実に二万人からの男女、子供達が殺戮されたことが確認されている。四週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。その中で日本兵はますます凶暴性を発揮し、一般市民に対し殺人、暴行をはじめ、あらゆる苦痛を味わしめたのである。日本軍が南京に入城して数日間というものは首都の情勢は全然わからなかった。と同時に一部残留していた外国人の安否に関しても様子が判明しなかった。日本軍はかかる事実が外部に漏れることを恐れてあらゆるニュースソースに対して厳重なる検閲を行った。しかし、このニュースもついに外部に伝えられ、日本軍の軍紀の混乱、無節操ぶりは遂に明るみにさらけ出された』とし、次に、“罪は将校達にも”との見出しをつけて次のように書く。

『大掠奪ならびに暴虐行為は全市にわたって行われ、保定をはじめ北支で占領された都市や町々と同じように南京の凶悪事件中には明らかに将校たちによって煽動された事件も多く、中には将校自身が街の商店の掠奪を指揮していたのさえ見受けられた。また中国軍の敗残兵狩りをやって、縄でしばりあげ、四,五十人ずつ一束にして死刑を行った事件も将校が指揮していた。婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。暴力にあくまで抵抗した婦人達は銃剣で刺殺された。この災難を蒙った婦人の中には六十歳の老人や十一歳の子供たちまで含まれていた。中国赤十字の衛生班が街路上の死体取り除きをやった時に彼らの持ってきた棺桶は日本兵に奪われ、日本兵はそれで勝利の祝火を燃やした。その上数名の赤十字従業員は無残に斬殺され、その死体は彼等が取り除こうとしていた死体の上に重ねられた。街のある所では南京電力会社の従業員五十四名が惨殺されたが、クリスマスになって日本軍司令部は電燈を点けたいが電力会社の従業員はどこに行ったのかと尋ねてきた。ある午後男達は病院の裏庭に引き連れられさんざん斬殺の練習台に使われた。二人ずつ背中合わせに縛られ、その目の前で教官は刺殺するのにどこを突けば最も効果的であるかを教え込んだ。そして彼らの大部分は縄を解かれる前に斬傷のため死んでしまった。 大虐殺を行う一方日本軍は空から次のようなビラを撒いた。“各自の家庭に帰って来る良民には食糧と衣類を与える。日本は、蒋介石によって踊らされている以外の全中国人の善き隣人であることを希望する”と。その結果としてビラが撒かれ翌日早くも数千の良民が避難先から、爆撃で破壊された彼らの家に帰ってきた。ところが、早くも次の朝は数々の悪逆事件が判明して、折角の空からの甘言も地上軍の凶行によって滅茶滅茶になってしまった。母親は暴行され子供はその傍で泣き叫んでいた。またある家では三,四歳の子供が一間で突き殺され、家族の者は一室に閉じ込められて、焼き殺されていた。南京地区官憲は後になって暴行を受けた婦人の数を少なくとも二千名と推定した。大晦日に中国難民区の役員が日本大使館に呼び出されて「明日はお祝いをするから各自自発的に間に合わせでよいから日本の旗を作って旗行列をやってもらいたい、内地の日本人は日本軍がこんなにも歓迎されているニュース映画を見て喜ぶであろう」と大使館から説明された。惨殺は次第に減少した。三月に入って官製の東京放送局は次のようなニュースを全世界に放送した。“中国人がこんなにたくさん殺されたのは不良中国人達の仕業であり、私有財産の破壊者達はすでに逮捕され、死刑を執行された。彼らの大部分は蒋介石陣営に不満を抱く中国敗残兵たちであった”。死人に口なし。しかし、日本兵は彼等自身が持っている写真で、その恐るべき犯行を十分証明することが出来るはずである。この南京の残虐行為こそ結局中国を徹底抗戦に導く結果になったのである』・・・。以上である。(つづく)

*(1)新聞連載『太平洋戦争史』・・・1945年12月にGHQの提供(英文)、共同通信の高山健弌氏(後に東大教授)が翻訳し、6日から日本のほとんどの新聞に10日間にわたって掲載された。「奉天事件よりミズリー降伏協定調印まで」とのサブタイトルが付き、全体で約5万字。

 


“随筆『平均的気にしい論」(その3),アメリカの意志”③

2015年10月19日 | 日記

詩人「当時のGHQの動きに非常に気をもんでいたのが、文化人類学者で詩人でもあるルース・ベネディクト女史なのだ。例の著作『菊と刀』の最後の方の章“子供は学ぶ”で、敗戦直後の日本人について、こんな風に書いている。

――日本人は彼らの生活様式のために高い代価を払ってきた。彼らは、アメリカ人が、呼吸する空気と同じように全く当然なこととして頼り切っている単純な自由を、自ら拒否してきた。今や日本人は、敗戦以来デモクラシーを頼りにしているのであるが、われわれは、全く純真に、かつ天真爛漫に、自分の欲するままにふるまうことが、どんなに日本人を有頂天にさせるものであるかということを思い起こさなければならない。この喜びを誰よりもよく表しているのは杉本夫人であって、杉本夫人は、彼女が英語を学ぶために入学した東京のミッションスクールで、なんでも好きなものを植えてよい庭園を貰ったおりの感銘を書き記している。先生は生徒の一人一人に、一片の荒れたままの土地と、なんでも生徒の望むとおりの種とを与えた。

“この何を植えても良い庭園は私に、個人の権利という、今までに経験したことのない、全く新しい感情を味あわせてくれた。・・・そもそも、そのような幸福が人間の心の中に存在しうるということ自体が、私にとっては驚異であった。・・・今までに一度だって仕来りに背いたことのない、家名を汚したことのない、親や、先生や、町の人たちの顰蹙を買ったことのない、この世の中の何物にも害を加えたことのない私が、好き勝手にふるまう自由を与えられたのである”

――ほかの生徒たちはみんな花を植えた。ところが彼女が植えたのは、なんとジャガイモであった。

 “この馬鹿げた行為によって私の得た、無鉄砲な自由な感情は、誰にもわからない。自由の精神が私の門戸をノックした”

そしてこの後に、女史は、杉本夫人の庭にある鉢植えにされた菊について、

――毎年品評会に出されるために、小さな目につかない針金の輪をはめこんで正しい位置に保たれるが、この針金の輪を取り除く機会を与えられた時の杉本夫人の興奮は、幸福な、また純粋無雑なものであった。

天皇について女史も非常に気を遣いながら、

―― ―九四五年八月一四日(日本は一五日)に日本の最高至上の声として認められている天皇が、彼らに敗戦を告げた(玉音放送のこと)。彼らは敗戦の事実が意味する一切の事柄を受け容れた。それはアメリカ軍の進駐を意味し、・・・(同時に)彼らの侵略企図の失敗を意味した。そこで彼らは戦争を放棄する憲法の立案に取りかかった。

そして「天皇制の保存は非常に重大な意義があった」とも。ここまで読むと、先の杉本夫人の『菊』は天皇のことではなかったかと思う。すなわち“神格化”という枠を外して自由を得たのだ、と詩人らしい表現・・・。ついでに言うと、最初に軍人の固有名詞の多さの指摘があったが、彼らが帯びる、『刀』についてだ。「身から出た錆」は自分で始末する、自己責任の言葉で、帯びる人間には刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同時に自分の弱点、持続性の欠如、失敗などから来る当然の結果を承認し、受け容れなければならない。自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも遥かに徹底して解釈されている。日本人は、西欧的な意味において<刀を棄てる>{降伏する}ことを申し出た、と綴っている。

そして、GHQの占領政策についてはこんな風だ。

「一定の(占領)政策が、果たして望ましいのか、望ましくないのかということを確信をもって判断するだけの日本文化に関する知識を有する人間は少数しかいないありさまだ」と危惧して「日本が平和国家として立ち直るにあたって利用することのできる日本の真の強みは、ある行動方針について“あれは失敗に終わった”と言い、それから後は、別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している。・・・対日戦勝日の五日後、まだアメリカ軍が一兵も日本に上陸していなかった当時に、東京の有力新聞である毎日新聞は敗戦と敗戦がもたらす政治的変化を論じつつ“しかしながら、それはすべて、日本の究極の救いのために役立った”と言うことができた。この論説は、日本が完全に敗れたということを、片時も忘れてはならない、と強調した。日本を全く武力だけに基づいて築き上げようとした努力が完全に失敗に帰したのであるから、今後、日本人は平和国家としての道を歩まねばならない、と言うのである。・・・日本人の辞書では、ある個人もしくは国家が、他の個人もしくは国家に辱めを与えるのは、誹謗や、嘲笑や、侮辱や、不名誉の徴標を押し付けることによってである。日本人が辱めを受けたと思い込んだときには、復讐が徳になる。・・・アメリカの日本占領が効果を収めるかいなかは、アメリカがこの点において慎重にふるまうかいなかにかかっている」とGHQに対して、はっきり言っている。そして、ソ連とアメリカの軍拡競争に巻き込まれるのを恐れながら、平和な世界の中にその位置を求めるであろうと期待した。

その一方で「もしそうでなければ、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう」と、今日の安全保障関係をも予想したようなところまであるが? ともかくに天皇を国家の首部にし、戦争放棄、封建制度撤廃を原則とした憲法は一九四七年(昭和二二年)に施行された。そして女史は翌年秋、ニューヨークで冠状動脈血栓で急死した。六一歳だった。結局、ずうっとアメリカにいてこれらを書いたのだ」

女将「えらい女ごはんでしたんや・・・」

                                                              (つづく)

参考文献=*「近代日本総合年表」(岩波書店1968年11月第1版)

*「菊と刀(日本文化の型)」(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳、講談社学術文庫、2013年第30刷)

*フリー百科事典「ウイキペディア」から「極東国際軍事裁判」「連合国軍最高司令官総司令部」などの項目