溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

平均的〝気にしい〟論(その4)

2015年05月18日 | 日記

 平均的な“気にしい”が、今、もっとも気になっている日本人論は、七〇数年前、先の大戦で終結に向けて米軍に提出された長文の報告書である。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史の手によるものだ。戦後間もなくの1948年(昭和23年)に単行本として出版され、『菊と刀』のタイトルがついていた。義理や人情といった日本人の精神構造を扱ったので、60年世代が多く手にした。「菊」は天皇制、「刀」は武士道の象徴である。文化人類学という学問はフィールドワークがモットーだ。ベネディクト女史が、「過去と世間に負い目を負う」「万分の一の恩返し」「義理ほどつらいものはない」「汚名をすすぐ」「人情の世界」「徳のジレンマ」、これらを書くのにどこでどうやって取材したのか、江戸時代の日本人の暮らし、カースト(階層制度)などが考察されているが、出身のコロンビア大学や図書館で膨大な資料を調べられたのだろう。しかし戦時下に日本人に直接面接して、論を進めている部分がいきいきとしている。日本史資料と合わせての判断だろうが、調査の依頼主は軍である。当時米軍は太平洋南方で日本軍と激しく戦っていた。マッカーサーのいたフィリピンでも、その先のオーストラリアでも。死の行軍、栄養失調でフラフラになって海岸に出てきて逮捕された日本軍兵士数十人。収容所で「生きるべきか」「死ぬべきか」、トイレットペーパーを投票用紙に「死ぬべき〇」「生きる×」の印をつける。結果は8割が〇。捕虜としての汚名を清算しようとなったのである。密林のなかで、食べる物がなくなり、天国へ召された仲間兵士へナイフをあてていたおぞましい風景があったらしい。真珠湾の攻撃自体からして、あんなことこんなこと、米軍にとってはわからないことだらけ。不可解、不気味な日本人をどう理解したらいいのか。そこでアメリカ先住民族研究で大きな業績をあげていた女史に白羽の矢が立ったのだと推察する。女史は戦場に飛び日本人捕虜、もちろんアメリカ本土の日本人からも聞き取り調査を行うのであった。この調査委嘱は終戦の前の年になされた。ということは一年という短い時間で義務をはたしたことになる。この報告書は勿論作戦に生かされ、GHQは、戦後処理、占領政策に女史の深い洞察を生かしたはずである。そして終戦の年の十二月八日、日本の新聞すべてに『太平洋戦争史』というタイトルの一面全頁記事が展開されのである。全文GHQの手による記事で一週間続く。検閲下とはいえ、新聞史上例を見ない出来事だ。世界的にみても、戦勝国が相手国の言論機関に歴史記事を展開したことがあるだろうか。日本人の心をつかんだから、できたのだろうか、今思うと不思議な現象である。(おわり)

*参考文献=*フリー百科事典「ウィキペディア」(Wikipedia)、「蝶々夫人」項目

「二一世紀の資本」(トマ・ピケティー著、山形活生、守岡桜、森本正史訳、みすず書房第7刷)

「菊と刀 日本文化の型」(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳、講談社学術文庫第30刷)

 神谷周孝著「若者に捧げる戦争教科書 元兵士と学生の対話」(文芸社初版)

*同志社大学社会学会「評論・社会科学」第91号(2010年3月)、同101号(2012年3月)から三井愛子著、「新聞連載・太平洋戦争史の比較調査」(上)、(下)


随筆「平均的〝気にしい〟論」(その3)

2015年05月12日 | 日記

 この島国が外からはどう見えているか。日本人以外の眼というのはやはり気になる。日本人は今も昔もとっても“気にしい”である。

 古くはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生。松江にいて日本人論をいっぱい書いてくれた。プッチーニ先生の手によるオペラ「蝶々夫人」は二〇世紀初めにイタリア・ミラノ座で初演された。話の筋はアメリカ・フィラディルフィアの弁護士の短編小説がもとで、戯曲を経て台本が書かれたという。当時好まれたジャポニスムに乗って「宮さん宮さん」や「さくらさくら」「かっぽれ(豊年節)」といった日本の音楽を多く収集、日本情緒豊かにつくられてゆく。ミラノにいて長崎の没落藩士令嬢の蝶々さんに思いを馳せた。いやドライで無神経な海軍将校を描くことでアメリカ人を皮肉りたかったのか。いやいや、やはり舞台は終始坂のある長崎なので、立派な日本人論の展開だと思う。世界中で演奏される「マダム・バタフライ」は首に父の遺品の刀を取り出して「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と、アリア・・・。さぞ悔しかろにと辛くさせる。名曲である。フランスの経済学者はどう見みているか。ピケティーさんによる話題の分厚い書物を手にしてみた。一か月前、図書館に予約していたのが、ようやく順番が回ってきた。早く読んで次の予約者に回してあげないといけないのだが、あせればあせるほど頭に入ってこない。難解、解読不可能だ。半ばさじを投げて終わりの方だけ、数式が少なそうなところを拾い読みした。日本の“積極的資本主義”は出てこない。グローバルな資本移動と富の格差の理論展開なので個別状態は全体を見ながら判断しなさいと言っているのかな。

                                                               (つづく)


随筆「平均的〝気にしい〟論」(その2)

2015年05月06日 | 日記

 横書きにはそれなりのメリットがある。英語をはじめとした横文字言語、アラビア数字が使いやすい。逆に言えばこれらは縦書きには絶対にむかない。情報のやり取りにはスピードが要求されるので横書きが圧倒的に便利である。世界は、横書き言語が絶対多数だから仕方ないといえば仕方ない。

 しかしである、横書き文化には疲れる。

 例えば、メール。文章といってもいいが、手書きの味は出しにくい。極端に言えば筆跡がないから、誰が書いたのかもわからない。何とかうまい方法はないものか。メールに自分にしかわからないサインを入れるようにしてみた。署名のようなものだ。野球のブロックサインのように複雑にしたら、誰にも見破られないだろうが、こちらが“キー”を忘れてしまったら、なんにもならない。

 近年は少なくなったが、時々縦書き書簡をもらう。たとえ便箋一枚でもうれしくなるのである。心を感じる。日比野さんのように芸術にまで昇華可能なのが縦書きの良さである。

 行書と切っても切れないのが漢字の書き順である。漢字を崩して書くには書き順に従って書かないとうまくいかない。朝ドラ『マッサン』で、エリーの命を救うために、政孝氏が離婚届に署名しかけるシーン。姓の亀井を書き始め、亀の旧字「龜」にとりかかる。万年筆でクを書いて次のタテ棒に進んでいる。どんな書き順でいくのか、興味深々・・・。だめだ、そこへ特高の野郎が土足で乗り込んできたため肝心なところはとんでしまった。

 そういえば、このところ日本ないし日本人の礼賛番組が多い。谷啓さんの時からよくみている「美の壺」。進行役が草刈さんに代わってもなかなか味があり、ついつい見てしまう。アンティークな陶磁器など美を感じさせるものの鑑賞マニュアルはありがたい。必ずしも日本的なものに限定はしていないが、庭園、和菓子、畳・・、「和」が多い。同じくNHK・BSが作る「cool japan」。日本人の知恵がいっぱい出てくる。欧米だけでなくアジア、アフリカ、南米と各国からきている若者がそれぞれ個性的なコメントを寄せる。これも家族でよく見る。衣食住に関するものから習慣、町の風景まで、具体的に取り上げ、鴻上さんが「coolですか」と問い、日本人の手先の器用さに感心しつつ、こちらまで「クール」と親指を突き出したくなる。木曜のランチ時間に見惚れる「サラメシ」も肩の力を抜いた面白いつくりだ。中井貴一さんのナレーションが実にいい。高層建築の鉄骨を組み立てる現場。クレーンの中で頬張る大きな握り飯。地方によっていろんな「おにぎり」が出てくる。特有のランチ風景を見ていると、やはり立派な日本人論に思えてくる。(つづく)