溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

「平均的きにしい論」③”アメリカの意志”の2

2015年10月13日 | 日記

呼びかけ人「確かに、これら名前の挙がった軍人のうち、荒木、梅津、土肥原、小磯らは東條とともにA級犯罪容疑で起訴された28人の中に入っている。しかし、起訴されていない固有名詞も多い。この記事作成の動機が何であったか、GHQの文書が出てくればはっきりするのだが・・・。この掲載記事の範囲で判断するしかないが、占領政策を推し進めるうえで必要な部分を時間の流れを追って書いておくという姿勢が読み取れる。当然のこととしてアメリカの正当性を論じなければならないし、自然と“多目的”になったのではないかな。GHQによる新聞用紙統制下、検閲下というなかで連載期日を12月6日からと指定しての掲載だ。米軍による歴史観だと決めつけられても仕方ないが、これを記述するのに際し、多くの日本人が先の大戦をどう受け止め、推し進めた人物たちをどう思っているかを推し量りたかったのではないかな。占領政策を進めるうえで世論というものを強く意識しているのがうかがえる。」

山好き「歴史記述である以上、自然な“流れ”というものがなければならない。日本軍の中国大陸侵攻は詳しいが、そこから太平洋戦への挑み方が一足飛びの感がある。天皇に関しての記述が少ないのも気になる。原爆に関しても少なすぎる」

呼びかけ人「同時並行してドイツを中心としたヨーロッパでの戦況にも多くのスペースを割いている。第2次世界大戦のなかでの日本の位置を描こうと努力している。日本軍の動きに合わせてアメリカ側の国務省の動きを詳細に描いている。ヨーロッパ、中国の戦い方を同時並行的に扱い第二次大戦全体を俯瞰するようになっている」

文明史好き「それにしても。70年前のGHQの慌ただしい動きはすごいね。財閥解体、農地改革や婦人参政権は有名だが、年表だけで辿ってみたんだけど、金融、鉄鋼・造船、繊維、漁業・捕鯨などの産業、それに医療、教育、文化と非常に多岐にわたっている。日本製ペニシリンの市販を森永製菓と万有製薬に限り認可するとか、日本の警察官が進駐軍将校に敬礼を行うよう覚書を出すとか、映画検閲に関する覚書、奄美大島を含む琉球列島・小笠原群島などに対し日本の行政権を停止する覚書・・・、その動きの中の一つがこの『太平洋戦争史』の歴史記述なわけだが、同じ教育部門が扱ったのに、日本語の“ローマ字化”がある。日本語は漢字が多すぎて難解、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせていると若い将校がローマ字表記を提案する。しかし、それはどうかなという意見もあって、じゃ「読み書き」の世論調査をやってみようとなった。15歳から64歳までの老若男女17000人を対象にした全国調査をやってみると、なんとなんと98%近い識字率だった。世界的にも例を見ない高さで、この計画は即中止となった。言語というのは民族を特徴付けるもので、民族の心にまで入り込んで、変革を求めようとは、強引すぎるよね。

呼びかけ人「原爆については、連載10日目“無条件降伏”の見出しのところで、こんな風に触れている。 “TNT二万トンの破壊力を有するこの一弾は広島の兵器廠都市の60%を一掃してしまった。偵察写真によれば6・9平方㍄の同市のうち4・1平方㍄が完全に粉砕され、同地区の五つの主要工業目標は吹き飛び、・・・投下後四時間にわたって塵埃と煙が市内を包み・・・直ちに損害の程度を見極めようとすることは不可能であった”と。 たしかにそっけない。そのあとに“ソ連軍進軍を再開”の記事を挟んで“第二回の原子爆弾”の見出しで長崎を書いている。たった百字程度だ。“・・・戦略航空部隊は今度は長崎に投下した。広島の爆弾よりも遥かに大きな破壊力と火災を起こさしめた。爆発の煙は5万㌳も空中に立ち昇り175㍄以上の遠方から望見された”と。 爆撃機のパイロットの報告をそのまま綴っている感じだ」

文明史好き「広島8・6からちょうど一か月後の、九月初めに、あのバーテェット記者が広島に入り『全世界に私は警告する』と人類が初めて経験した、その酷い症状、その惨状を発信、原爆がいかに非人道的であるかを告げている。マッカーサーは烈火のごとく怒り、直ちに日本国外へ追放している。それを考えると、あの時点(「太平洋戦争史」の連載)でGHQはあまり書きたくなかっただろうな」

呼びかけ人「天皇に関してだが、前文の真珠湾攻撃のくだりで“警告なしに攻撃したことは陛下ご自身の御意志ではなかったのだ”と触れている。そして連載の最後の、ポツダム宣言が発せられところで、“ついに日本をして無条件降伏及び連合軍の占領を基礎条件としてこれを受諾せしめた。日本国民にとってこれは公正にして強硬な条項を提出した。即ち軍指導者の排除(但し天皇はその限りに非ず)、武装解除、戦争犯罪者への峻厳なる処罰、日本領土中の諸地域の占領、軍需生産の破壊、・・・日本国民の根本的な自由及び民主主義的傾向への再覚醒などを要求した”と但し書きで記述するが、GHQの天皇に対する考えがはっきり出ている」                                         

                                                            (つづく)

 


随筆「平均的気にしい論」(その3) の1

2015年10月05日 | 日記

“アメリカの意志”

山好き「女将さん、お久しぶり。約束より、ちょっと早く来ちゃった。時間があったので、さきほど、ここ祇園花見小路をぶらぶらして、建仁寺まで行ってきたけど、中国語が飛び交っていた。すごいもんだね」

女将「昼だけやけど・・・。おいでやす・・・お友達、次々来たはりますえ・・・」

呼びかけ人「みなさん、ご苦労さん。一か月前に送った新聞連載『太平洋戦争史』(*1)のフロッピー、読んだ感想を聞かせてほしい。目の前の串揚げを味わいながら・・・」

詩人「きょうの案内文に概要が書かれていたので、助かったけど、旧字体なので結構難しい漢字があったり、表現も今とは違って難解なところもあった。旧制中学だが副読本として同じものを読んだとあったが、当時の学生の国語レベルは高かったんだ。それにしても軍人の名前がやたら出てくるね。荒木(貞夫)大将、南(次郎)大将、金谷大将、石本権四郎大尉、梅津美治郎大将、土肥原賢二少将、阿部信行大将、駐米日本大使野村吉三郎大将、さらに小磯国昭大将、杉山元帥、畑元帥そして東条英機大将。まだまだあるが当時の新聞読者はみんなよく知っていた大物軍人なのだろう。だが、戦後生まれの我々は東条や小磯以外、突然文中に飛び出して来るって感じで、“これ誰や”だった。まず“連載”前文に相当する「はしがき」に荒木が登場する。その部分を要約すと・・・。

『これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取扱いなどであるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは“真実の隠蔽”であろう。それは一九二五年(大正一四年)治安維持法が議会を通過した瞬間に始まる。この法律が国民の言論弾圧を目的として終戦(一九四五年)まで約二十年間にわたりその過酷の度を増し、政治犯人がいかに非道なる取扱いを受け、人権を蹂躙せられたかは既に世人のよく知るところである。・・・一九三〇年(昭和五年)の初期、日本の政治史は政治的陰謀、粛清、そしてそのころようやく台頭しつつあった軍閥の専制的政策に反対した政府高官の暗殺によって大転換を画したのであった。・・・一九三一年(昭和六年)総選挙は国民が政府の政策に全く不満であり、*支那に対する宣戦せられざる戦争の責任者たる関東軍に対し各方面とも明らかに反対であるという争うべからざる証明を与えた。ことの急展開に驚愕した軍部は現代において最も残忍なる粛正工作の一つを行うに至り、また軍部が政府の支配力を獲得することによって来たるべき擾乱の時代に彼等の支配力を拡大し地位を確保するに至った。(すなわち)一九三二年(昭和七年)一一月九日、選挙運動の最中に大蔵大臣佐々木準之助が暗殺され、五月五日には団琢磨が反動団体血盟団の一員によって暗殺された。引き続き五月一五日の午後には犬養首相の暗殺された有名な五・一五事件が勃発した。 

五・一五事件が起きた昭和八年(一九三三年)から昭和一一年(一九三六年)までの間に所謂“危険思想”の抱懐者、主張者、実行者という“嫌疑”で検挙された者の数は五万九千を超えた。荒木大将の下では思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成さられ、国民に対し、その指導者の言に一切の批判を許さぬことを教えることになった』

と、荒木大将の行状を説明している。そして梅津 美治郎。彼は終戦時の参謀総長である。ここに出てくる軍人の固有名詞はこの歴史記述の作成動機と関連があるように思うがどうか」

文明史好き「東京裁判だろ。僕も感じた」

呼びかけ人「ここに出てくる軍人の名前はその時々の政権中枢にいて満州侵攻など歴史的事件で大きな役割を演じている。南(次郎)大将は、満州事変勃発時の第2次若槻内閣の陸軍大臣。国際協調を方針とする民政党政権の路線に同期の金谷範三参謀総長とともに寄り添いつつも、陸軍内部の推進運動や世論に突き上げられ、最終的には関東軍に引きづられた。土肥原賢二少将は、大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の情報機関で対中国工作を開始し、天津特務機関長に出世、満州事変の際には奉天臨時市長となり、同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるなど、特務機関畑を中心に要職を歴任し、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「アラビアのロレンス」ならぬ「満州のロレンス」と恐れられた。阿部信行大将は金沢藩の藩士の子として生まれ、陸士9期生、陸大19期生、2・26事件後に、陸軍大将を最後に予備役に編入。3年後に内閣総理大臣になっている」

文明史好き「起訴へ向けた予備審査的な色彩があるのかな」

                                                            (つづく)

*1=は昭和二〇年一二月六日から一〇日間、日本の新聞「毎日」、「朝日」、「読売」に掲載されたGHQ提供の、主題「太平洋戦争史」、副題「奉天事件よりミズーリ降伏協定調印まで」の記事。


 “五万字の歴史書”の(五)

2015年09月07日 | 日記

 

全体の印象だが、やはり“軍国主義”“軍閥”の用語が目立つ。特に前文と本文前半だ。後半は“言論”。原文はmilitarismなのだろう。現代史研究で使われだした比較的新しい用語なのだが、ポツダム宣言で採用しているのでここで使われるのは自然の流れだろうし、当時は“なるほどり”なしでも読者は理解したであろうが、七十年後の読者にはどうも漠としている。“軍閥”にいたってはもっと漠としてる。民主主義の対極、非民主主義か。アメリカ側から見れば産業も教育もすべてがそこに集中した特殊政治機構。今様に言い換えると先軍政治か。もう一つは陸軍や海軍などの閥を含む、もっと広くて強いきずなの集団を言ったのか。軍人を取り巻くムラか。

一三〇〇年前に官僚制がスタートしたターニングポイントに大和の“まほろば”を描いた歴史書が、今も面白く読まれるように、二十世紀の半ば、時代の節目に推定一〇〇〇万部に現れたこの“連載”は「militarism and speech」として、ずっと先でも重要史料として使われるか。使われるようなき気がするのである。(おわり)

 

 

 

 


“五万字の歴史書”の(四)

2015年09月01日 | 日記

 初日の掲載は昭和十一年の2・26事件まで。行数は一〇〇〇を超す。かなりの分量だ。そして、書き出しの訳者・中屋氏のひとこと、「この一文は、事実を記述したものである。これによって日本国民は過去十数年間に日本において何が行われたかを知りうるであろうし、またこれによって日本国民は今後真の自由を得る方向を示唆するものであることを信ずる」と述べ、序文(はしがき)へと移る。序文は日本の軍国主義者の権力の乱用、国民の自由剥奪・・・と書き始め、昭和五年、日本の政治史は政治的陰謀、粛清、そしてそのころ台頭しつつあった軍閥の専制的な政策に反対した政府高官の暗殺によって大転換期を画した・・・と、この歴史記述の大筋を紹介する。言わば総論か。二日目の掲載は、「世界混沌に乗じ日独伊制覇を強行」と昭和六年(一九三一)から十年間のヨーロッパの動きを追う。こうして各論を読み進んで行くと、それぞれの場面、ピース、ピースの取材先はどこだろうと気になる。後半のアメリカの動きは自分のところの軍の動きだから正確に把握できるが、日本の動きを詳しく知るにはどういう取材をしたのだろうか。チームを作り、執筆者を割り当てて原稿が集まっても、翻訳の時間もいる。共同通信メンバーと何回か打ち合わせをしたようだし、これだけの分量を書き上げるとなるとかなり効率のいい取材をしないといけない。おそらく大半の記事はすでに新聞その他のメディアに出ていた周知の事実、即ち資料として使える新聞の綴じ込み、切抜きをチェックしていったのではないかと、と見る。大毎編集局で言えば、社会部長席そばのギー、ギー鳴る扉を開くとすぐ左にあった調査部。康煕字典など重厚な図書が並び、綴じ込みもびっしりと並び、事件ごとに整理されていた切抜きの束。ネタの宝庫でもあった。あれだ。同じような資料室が東京にあって、スタッフはできるだけ活用したのではないかと想像してしまう。  

昭和六年暮れに、もう治安維持法が動きだし新聞への圧迫が強まっていたのに都新聞が軍部の台頭を嘆き、「もし政府が軍部に屈服するならば国民の不幸はこれに過ぐるものはない」との社説に、『連載』は注目している。それに続く2・26事件を扱った個所では、時事新報(東京)の「軍閥蜂起を以て天皇の御稜威に対する公然の挑戦・・・」との社説を引用している。その後の方では「軍部の“戦争商売”に非難集中」の見出しがつき、「国民は外国に対し如何なる戦争もしてはいけない」という書き出しの北海タイムズについて「軍部は他の諸国が好戦的意向を有していると非難し、排外思想を鼓舞することに努力を集中したが、これらの主張が明らかに誤謬であることを明瞭に暴露した」と社説を高く評価し、「因みに同紙は自由主義的傾向を持つ地方紙で当時弾圧の厳しかった最中においてなお敢然と真理を語る勇気を持ち合わせていた」と絶賛している。(つづく)


“五万字の歴史書”の(三)

2015年08月25日 | 日記

 こういった雰囲気で編集局は推移していくが、藤田さんが抱えていたあのポツダム宣言文の原稿、その宣言文に対し、我が国の中枢は誰一人決断できずに天皇にげたを預けた。この瞬間の日本人の平均的な気持ちを藤田日記と井上さんのナンパ原稿はよく伝えている。とにかく宣言文を見てみよう。

第四項目「無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を受け続けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶ時がきた」と国民に呼びかける。そして「軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序は現れえない」(第六項目)から、「新秩序が確立されるまで日本国領域内諸地点を占領」(第七項目)し、第十項目で「民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除されるべき。言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されること」を要求し、最後の第十三項目で無条件降伏を強く迫る。

そして、三か月半後の十二月初めの2階編集局を想像してみる。あくまでも勝手な想像。

――そばの連絡部から次々回ってくる横長のモニター原稿を整理部デスクが沈痛な面持ちで読んでいる。前もって東京からGHQ提供の長い記事を送ると連絡を受けてはいたものの、それまでに報道してきた、事実のとらえ方が一八〇度違う。見出しも十分吟味しないと・・・。臨時の交番会議を開いてもらおう。あの日の夜、何度も何度もポツダム宣言文を読み返していた社会部デスクも「そうかGHQはこういう手できたか。総じて良く書けている。素直に受け止めたらいいんじゃない」と意見を述べた。編集幹部も「じゃそういうことで」と言ったあと、小声で整理部デスクや校閲部デスクに「東京とよく相談してに整合性を持たせ、、天皇についての記述、敬語には十分配慮してほしい」と言った。

 こうして刷り上がった十日間の毎日大阪の紙面をマイクロコピーで取り出し、読んでみた。用紙は統制化、紙質もインキも粗悪だったのだろう活字がにじんで読みづらい。判読不可能な個所もある。天眼鏡を当てたり、二十一年春に東京神田の高山書店から発行され、旧制中学で副読本として使われた新書版ほどの同内容のものを広島・尾道の古書店で見つけ、それを参考に読みすすんだ。五万字の連載は大別すれば中国大陸での日本陸軍の動き、それと太平洋での日米海戦の模様を大きな戦ごとに、つないでいこうという方式で書かれている。その出来事を、昭和六年(一九三一)秋の奉天(現・瀋陽)郊外の満鉄線路爆破から始まる満州事変を起点とし、同二十年九月、東京湾上・ミズリー号艦上で無条件降伏の調印が行われた時を終点とした。

戦時中満州の地で、ソ連国境付近で生まれ、各地を転々とし二十年には小一で朝鮮国境に近い都市にいたので、連載前半部分の中国大陸での動きは「やはりそうだったのか」の思いで一気に読んだ。そして、頭がクラクラした。