溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

“五万字の歴史書”の(二)

2015年08月19日 | 日記

 毎日、朝日、読売に載った記事全部を子細に調べた論文が同志社大学社会学会の紀要「評論・社会科学」の2010年(91号)と、2012年(101号)にある。現在、大阪経法大教養部の三井愛子准教授の手による『新聞連載・太平洋戦争史の比較調査』(占領初期の新聞連載とその役割について)である。それによると、連載はCIEの課長、ブラッドフォード・スミス氏が指揮して制作された。彼は、その前に戦時情報局(OWI)にいて、心理戦争活動に従事、太平洋地域を担当していた。コロンビア大学の出身で戦前に東京帝国大学や立教大学で英語を教えていた。CIEで書かれた英文を共同通信の中屋健弌氏(後に東大教授)が翻訳し、各社へ配信した。受け取った各社は、結構自由に見出しをつけ、レイアウトした。記事も、付け加えることはないが、内容がダブっていると、合わせて短くするという作業もしている。したがって掲載している記事の量は各社まちまち、一番多いのが毎日(東京)の五八七〇〇字。次いで朝日(東京)の五五九〇〇字、読売はそれよりちょっと少なく五三九〇〇字。配信された原稿は六六〇〇〇字とみられる。とすると一〇〇〇〇字以上削っている勘定だ。三井レポートはあの当時マスメディアは戦争報道の責任を問うて大きく揺れていた、民主化への激しい動きだが、この連載は受け入れやすい状況にあったのではとみる。

 GHQは真珠湾の十二月六日が近かったし、大衆、世論あるいは臣民というか、役人、政治家、経済人、労働者、そして復員軍人も含め、混乱を極めるマス(mass)の動きを見ながら,今が、グットタイミング、と配信したのではなかろうか。

  問題は、「真相はこうだ」が果たしてそうなのか、どうか。その前に、あの当時の編集局を想像してみよう。大阪毎日の場合である。本社は堂島にあった。大阪大空襲でもビクともしなかった頑強な社屋2階の編集室。この時の社会部デスク、藤田信勝さんは、日記にこう書いている。

八月十五日。来るべきものが来た。しかもあまりにあっけなく来たことに対して全く茫然たる有様、精も根もつきはてて思考力もなくなったというかたちだ。しかし、今日もまだ戦争がつづけられている。今朝から大型機、小型機が何回と襲って来た・・・(昼、玉音放送あり)今夜の社内は、さすがに興奮している。三階の客室で社会部の同僚がビールと酒で興奮していた。「暗幕をとってしまえ、戦争はすんだんだ」「最後の夜!歴史的な夜!ok!」興奮と怒号、それから軍歌の合唱。足で床を踏み鳴らしたので、ついに階下の役員室から文句が出て、この興奮の夜宴も終わらざるをえなかった。このような興奮は社内では例外的で、(速記者の集まる)連絡部(交番席=編集局長・局次長の席とデスク連が常に打ち合わせをする重要席あり=から見て、整理部の向こう)では送稿してくる原稿を総がかりでとっている・・・連絡部長が、速記者から渡される原稿を一枚々々受け取って「バカタレ!」とひとりごとしながらしきりに興奮していた。彼の息子は海軍特攻隊にいるはずだ。武装なき日本に、米、英、中国の武装軍隊が駐兵したとき、果たしてどんな状態になるのか。想像するだに恐ろしい。新聞社は今日の形では存在することはできないであろう。新聞記者を一生の仕事として選び、新聞記者として働き、新聞記者として死ぬことをただ一つの人生の目的とした僕にとってもすべてが終わりになるかも知れぬ。ポツダム宣言の全文をもって・・・。

 十六日付社会面に向けては、アタマ用に、後に作家に転じる井上靖さんが原稿を書いていた。

十五日正午・・・それは、われわれが否三千年の歴史がはじめて聞く思いの「君が代」の奏でだった。・・・日本歴史未曾有のきびしい一点にわれわれはまぎれもなく二本の足で立ってはいたが、それすらも押し包む皇恩の偉大さーーすべての思念はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくのみだった。・・・詔書を拝し終わるとわれわれのの職場毎日新聞でも社員会議が二階会議室で開かれた。・・・一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは、今日も明日も筆をとる!・・・。(つづく)


随筆「平均的気にしい論」(そのⅡ)

2015年07月07日 | 日記

 

“五万字の歴史書”(一)

 終戦の1945年(昭和20年)、12月6日付から新聞に大々的に展開された「太平洋戦争史」の連載。今の感覚で言えば、不思議な出来事なのだ。外国の提供による自国の歴史記述が全新聞に 1週間続いたの。マスコミ研究者の一部の目に留まっていたが、一般には忘れ去られた現象なのである。

日本の近現代史を知るために広く利用されている岩波書店の近代日本総合年表(初版1968年)に1行もない。連載と同じ時期にラジオで『(太平洋戦争の)真相はこうだ』が放送されており、そのことは「社会」の欄で触れているが、似たような内容だと思われる新聞の方は年表のどの欄にもない。岩波の編集スタッフの眼にとまらなかったのだろうか。扱いかねて意識的に外したのかだろうか。継子扱いにしたとしたら、なぜだろう、大いに気になるのである。

 昭和が終わった時、すぐに毎日新聞社が出版し,現代史研究に非常に便利な『昭和史全記録 Chronicle1926-1989』も扱っていない。似たようなことを電波で流した『真相はこうだ』の方はある。『岩波年表』にも「12月9日真相はこうだ放送開始」とだけだが、ある。『昭和史全記録』はこんな風に紹介している。

  ――これはCⅠE(GHQの民間情報局Civil Informastion and Education Section)ラジオ課の若い中尉が脚本を書き、反軍思想の持ち主が満州事変以来の戦争の“真相”を太郎という少年に物語るという形式をとり、10回続いた。事実に反する部分もあり、戦争の記憶から離れたがっていた日本人の心理を逆なでするもので、非難の投書が殺到した。(つづく)


平均的〝気にしい〟論(その4)

2015年05月18日 | 日記

 平均的な“気にしい”が、今、もっとも気になっている日本人論は、七〇数年前、先の大戦で終結に向けて米軍に提出された長文の報告書である。アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史の手によるものだ。戦後間もなくの1948年(昭和23年)に単行本として出版され、『菊と刀』のタイトルがついていた。義理や人情といった日本人の精神構造を扱ったので、60年世代が多く手にした。「菊」は天皇制、「刀」は武士道の象徴である。文化人類学という学問はフィールドワークがモットーだ。ベネディクト女史が、「過去と世間に負い目を負う」「万分の一の恩返し」「義理ほどつらいものはない」「汚名をすすぐ」「人情の世界」「徳のジレンマ」、これらを書くのにどこでどうやって取材したのか、江戸時代の日本人の暮らし、カースト(階層制度)などが考察されているが、出身のコロンビア大学や図書館で膨大な資料を調べられたのだろう。しかし戦時下に日本人に直接面接して、論を進めている部分がいきいきとしている。日本史資料と合わせての判断だろうが、調査の依頼主は軍である。当時米軍は太平洋南方で日本軍と激しく戦っていた。マッカーサーのいたフィリピンでも、その先のオーストラリアでも。死の行軍、栄養失調でフラフラになって海岸に出てきて逮捕された日本軍兵士数十人。収容所で「生きるべきか」「死ぬべきか」、トイレットペーパーを投票用紙に「死ぬべき〇」「生きる×」の印をつける。結果は8割が〇。捕虜としての汚名を清算しようとなったのである。密林のなかで、食べる物がなくなり、天国へ召された仲間兵士へナイフをあてていたおぞましい風景があったらしい。真珠湾の攻撃自体からして、あんなことこんなこと、米軍にとってはわからないことだらけ。不可解、不気味な日本人をどう理解したらいいのか。そこでアメリカ先住民族研究で大きな業績をあげていた女史に白羽の矢が立ったのだと推察する。女史は戦場に飛び日本人捕虜、もちろんアメリカ本土の日本人からも聞き取り調査を行うのであった。この調査委嘱は終戦の前の年になされた。ということは一年という短い時間で義務をはたしたことになる。この報告書は勿論作戦に生かされ、GHQは、戦後処理、占領政策に女史の深い洞察を生かしたはずである。そして終戦の年の十二月八日、日本の新聞すべてに『太平洋戦争史』というタイトルの一面全頁記事が展開されのである。全文GHQの手による記事で一週間続く。検閲下とはいえ、新聞史上例を見ない出来事だ。世界的にみても、戦勝国が相手国の言論機関に歴史記事を展開したことがあるだろうか。日本人の心をつかんだから、できたのだろうか、今思うと不思議な現象である。(おわり)

*参考文献=*フリー百科事典「ウィキペディア」(Wikipedia)、「蝶々夫人」項目

「二一世紀の資本」(トマ・ピケティー著、山形活生、守岡桜、森本正史訳、みすず書房第7刷)

「菊と刀 日本文化の型」(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳、講談社学術文庫第30刷)

 神谷周孝著「若者に捧げる戦争教科書 元兵士と学生の対話」(文芸社初版)

*同志社大学社会学会「評論・社会科学」第91号(2010年3月)、同101号(2012年3月)から三井愛子著、「新聞連載・太平洋戦争史の比較調査」(上)、(下)


随筆「平均的〝気にしい〟論」(その3)

2015年05月12日 | 日記

 この島国が外からはどう見えているか。日本人以外の眼というのはやはり気になる。日本人は今も昔もとっても“気にしい”である。

 古くはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)先生。松江にいて日本人論をいっぱい書いてくれた。プッチーニ先生の手によるオペラ「蝶々夫人」は二〇世紀初めにイタリア・ミラノ座で初演された。話の筋はアメリカ・フィラディルフィアの弁護士の短編小説がもとで、戯曲を経て台本が書かれたという。当時好まれたジャポニスムに乗って「宮さん宮さん」や「さくらさくら」「かっぽれ(豊年節)」といった日本の音楽を多く収集、日本情緒豊かにつくられてゆく。ミラノにいて長崎の没落藩士令嬢の蝶々さんに思いを馳せた。いやドライで無神経な海軍将校を描くことでアメリカ人を皮肉りたかったのか。いやいや、やはり舞台は終始坂のある長崎なので、立派な日本人論の展開だと思う。世界中で演奏される「マダム・バタフライ」は首に父の遺品の刀を取り出して「名誉のために生けることかなわざりし時は、名誉のために死なん」と、アリア・・・。さぞ悔しかろにと辛くさせる。名曲である。フランスの経済学者はどう見みているか。ピケティーさんによる話題の分厚い書物を手にしてみた。一か月前、図書館に予約していたのが、ようやく順番が回ってきた。早く読んで次の予約者に回してあげないといけないのだが、あせればあせるほど頭に入ってこない。難解、解読不可能だ。半ばさじを投げて終わりの方だけ、数式が少なそうなところを拾い読みした。日本の“積極的資本主義”は出てこない。グローバルな資本移動と富の格差の理論展開なので個別状態は全体を見ながら判断しなさいと言っているのかな。

                                                               (つづく)


随筆「平均的〝気にしい〟論」(その2)

2015年05月06日 | 日記

 横書きにはそれなりのメリットがある。英語をはじめとした横文字言語、アラビア数字が使いやすい。逆に言えばこれらは縦書きには絶対にむかない。情報のやり取りにはスピードが要求されるので横書きが圧倒的に便利である。世界は、横書き言語が絶対多数だから仕方ないといえば仕方ない。

 しかしである、横書き文化には疲れる。

 例えば、メール。文章といってもいいが、手書きの味は出しにくい。極端に言えば筆跡がないから、誰が書いたのかもわからない。何とかうまい方法はないものか。メールに自分にしかわからないサインを入れるようにしてみた。署名のようなものだ。野球のブロックサインのように複雑にしたら、誰にも見破られないだろうが、こちらが“キー”を忘れてしまったら、なんにもならない。

 近年は少なくなったが、時々縦書き書簡をもらう。たとえ便箋一枚でもうれしくなるのである。心を感じる。日比野さんのように芸術にまで昇華可能なのが縦書きの良さである。

 行書と切っても切れないのが漢字の書き順である。漢字を崩して書くには書き順に従って書かないとうまくいかない。朝ドラ『マッサン』で、エリーの命を救うために、政孝氏が離婚届に署名しかけるシーン。姓の亀井を書き始め、亀の旧字「龜」にとりかかる。万年筆でクを書いて次のタテ棒に進んでいる。どんな書き順でいくのか、興味深々・・・。だめだ、そこへ特高の野郎が土足で乗り込んできたため肝心なところはとんでしまった。

 そういえば、このところ日本ないし日本人の礼賛番組が多い。谷啓さんの時からよくみている「美の壺」。進行役が草刈さんに代わってもなかなか味があり、ついつい見てしまう。アンティークな陶磁器など美を感じさせるものの鑑賞マニュアルはありがたい。必ずしも日本的なものに限定はしていないが、庭園、和菓子、畳・・、「和」が多い。同じくNHK・BSが作る「cool japan」。日本人の知恵がいっぱい出てくる。欧米だけでなくアジア、アフリカ、南米と各国からきている若者がそれぞれ個性的なコメントを寄せる。これも家族でよく見る。衣食住に関するものから習慣、町の風景まで、具体的に取り上げ、鴻上さんが「coolですか」と問い、日本人の手先の器用さに感心しつつ、こちらまで「クール」と親指を突き出したくなる。木曜のランチ時間に見惚れる「サラメシ」も肩の力を抜いた面白いつくりだ。中井貴一さんのナレーションが実にいい。高層建築の鉄骨を組み立てる現場。クレーンの中で頬張る大きな握り飯。地方によっていろんな「おにぎり」が出てくる。特有のランチ風景を見ていると、やはり立派な日本人論に思えてくる。(つづく)