毎日、朝日、読売に載った記事全部を子細に調べた論文が同志社大学社会学会の紀要「評論・社会科学」の2010年(91号)と、2012年(101号)にある。現在、大阪経法大教養部の三井愛子准教授の手による『新聞連載・太平洋戦争史の比較調査』(占領初期の新聞連載とその役割について)である。それによると、連載はCIEの課長、ブラッドフォード・スミス氏が指揮して制作された。彼は、その前に戦時情報局(OWI)にいて、心理戦争活動に従事、太平洋地域を担当していた。コロンビア大学の出身で戦前に東京帝国大学や立教大学で英語を教えていた。CIEで書かれた英文を共同通信の中屋健弌氏(後に東大教授)が翻訳し、各社へ配信した。受け取った各社は、結構自由に見出しをつけ、レイアウトした。記事も、付け加えることはないが、内容がダブっていると、合わせて短くするという作業もしている。したがって掲載している記事の量は各社まちまち、一番多いのが毎日(東京)の五八七〇〇字。次いで朝日(東京)の五五九〇〇字、読売はそれよりちょっと少なく五三九〇〇字。配信された原稿は六六〇〇〇字とみられる。とすると一〇〇〇〇字以上削っている勘定だ。三井レポートはあの当時マスメディアは戦争報道の責任を問うて大きく揺れていた、民主化への激しい動きだが、この連載は受け入れやすい状況にあったのではとみる。
GHQは真珠湾の十二月六日が近かったし、大衆、世論あるいは臣民というか、役人、政治家、経済人、労働者、そして復員軍人も含め、混乱を極めるマス(mass)の動きを見ながら,今が、グットタイミング、と配信したのではなかろうか。
問題は、「真相はこうだ」が果たしてそうなのか、どうか。その前に、あの当時の編集局を想像してみよう。大阪毎日の場合である。本社は堂島にあった。大阪大空襲でもビクともしなかった頑強な社屋2階の編集室。この時の社会部デスク、藤田信勝さんは、日記にこう書いている。
八月十五日。来るべきものが来た。しかもあまりにあっけなく来たことに対して全く茫然たる有様、精も根もつきはてて思考力もなくなったというかたちだ。しかし、今日もまだ戦争がつづけられている。今朝から大型機、小型機が何回と襲って来た・・・(昼、玉音放送あり)今夜の社内は、さすがに興奮している。三階の客室で社会部の同僚がビールと酒で興奮していた。「暗幕をとってしまえ、戦争はすんだんだ」「最後の夜!歴史的な夜!ok!」興奮と怒号、それから軍歌の合唱。足で床を踏み鳴らしたので、ついに階下の役員室から文句が出て、この興奮の夜宴も終わらざるをえなかった。このような興奮は社内では例外的で、(速記者の集まる)連絡部(交番席=編集局長・局次長の席とデスク連が常に打ち合わせをする重要席あり=から見て、整理部の向こう)では送稿してくる原稿を総がかりでとっている・・・連絡部長が、速記者から渡される原稿を一枚々々受け取って「バカタレ!」とひとりごとしながらしきりに興奮していた。彼の息子は海軍特攻隊にいるはずだ。武装なき日本に、米、英、中国の武装軍隊が駐兵したとき、果たしてどんな状態になるのか。想像するだに恐ろしい。新聞社は今日の形では存在することはできないであろう。新聞記者を一生の仕事として選び、新聞記者として働き、新聞記者として死ぬことをただ一つの人生の目的とした僕にとってもすべてが終わりになるかも知れぬ。ポツダム宣言の全文をもって・・・。
十六日付社会面に向けては、アタマ用に、後に作家に転じる井上靖さんが原稿を書いていた。
十五日正午・・・それは、われわれが否三千年の歴史がはじめて聞く思いの「君が代」の奏でだった。・・・日本歴史未曾有のきびしい一点にわれわれはまぎれもなく二本の足で立ってはいたが、それすらも押し包む皇恩の偉大さーーすべての思念はただ勿体なさに一途に融け込んでゆくのみだった。・・・詔書を拝し終わるとわれわれのの職場毎日新聞でも社員会議が二階会議室で開かれた。・・・一億団結して己が職場を守り、皇国再建へ発足すること、これが日本臣民の道である。われわれは、今日も明日も筆をとる!・・・。(つづく)