溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「文、ぶん、ブン」の(三)“そこに立つ”の②

2016年10月20日 | 随筆

 毎夏、「滞在中にやるべきこと」を決めており、今年の課題は、万葉集における柿本人麿(*1)関係の歌をすべて読み込むことであった。パソコンを持ち込み、中西進さん(*2)の力作『万葉集・全訳注原文付』(講談社文庫、全5巻)を片手に、人麿作品の原文・漢字(いわゆる万葉仮名)を打ち込み、それに声を出して読むが如く、平仮名を振って行く(*3)。PCというのは、こういう時には実に便利に出来ていて、作業が楽である。なぜ、ひちめんどくさいことをやる気になったのか。当時の第一級詩人が抱いていた種々の感覚を知りたかったからである。そして、何よりもこの地を詠んでいるからでもある。しかも、そのいくつかの歌は人麿作品の流れのなかで重要な位置を占めると思うからである。

 万葉集は歌ごとに番号がふられている。番号順に人麿さんの動きを追ってみる。まず最初に、壬申の乱で廃墟となった滋賀の「大津の宮」跡を訪れ、次いで持統天皇の吉野行幸で天皇の統治を「永遠に・・・」と願う。伊勢行幸にちなんで、鳥羽の海で、船に乗っている少女たちが船べりで足を出している様子を、「珠(たま)裳(も)の裾に潮満つらむか」と詠む。珠裳は赤系のスカートか。これが40番。41番で同じ鳥羽の答志島に「今日もかも大宮人の玉(たま)藻(も)刈るらむ」と、おそらく同行の女官たちであろう。海で興じている和やかな風景を想像する。この「玉藻」の「藻」。川の「藻」を含め、人麿さんお気に入りの植物であるとみた。

葦、菅、橘、萩、松など陸上の植物が多い万葉集で、海の生物が出てくると目立つ。気になってしかたないのである。そして人麿さんには海を舞台にした歌が実に多い。

万葉集には人麿作の歌八八首と「人麿歌集にある」とする歌が369首ある。そのうちに海に関係しているのが、ざっと数えて三五首あった。海好きとしてはたまらない。

特に、前から気にはなっていた、巻第二に出てくる石見の地を詠んだ数首である。「石見の国より妻に別れて上り来し時の歌・・・」といのは、まさにその場所が “わが避暑地”そのものなのである。131番の長歌は「石見乃海(いはみのうみ)(石見の海) 角乃浦廻乎(つののうらみを)(角の浦廻を) 浦(うら)無(なし)等(と)(浦なしと) 人社(ひとこそ)見(み)良(ら)目(め)(人こそ見らめ)・・・」で始まる。「石見の海の津野の浦を、船を寄せるによい浦がないと人は見るだろう」。その通りで、「津野の浦」は今の江津市都野津(つのづ)の海岸。地名もそのまま残り、地形もそのまま、一直線に砂浜が延びる。

「人社(ひとこそ)見(み)良目(らめ)(人こそ見らめ) 能咲八師(よしゑやし)(よしゑやし) 浦者(うらは)無友(なくとも)(浦は無くとも) 

従畫屋師(よしゑやし)(よしゑやし) 滷者(がたは)(潟は) 無鞆(なくとも)(無くとも) 鯨(いさな)魚取(とり)(鯨魚取り)海邊乎指而(うみへをさして)(海辺を指して)和多豆乃(わたずの)(和多津の) 荒磯乃上尒(ありそのうえに)(荒磯の上に) 香青生(かあおなる)(か青なる)・・・」

「鯨魚取り」。まさか、鯨は当時もいなかったろう。「漁をする」くらいの感じか、そのあとにくる「海」の枕詞か。歌聖は枕詞や序詞で流れるように言葉を繋げていった。そのリズム感は独特だ。「ひとこそみらめ よしえやし うらはなくとも いさなとり・・・」、7音、5音、7音、5音、曲をつけたくなる。現に、地元の和木小学校の子供たちは、この131番を全文諳(そら)んじているそうだ。

ここの現代語訳は

「石見の海の津野の浦を、船を寄せるによい浦がないと人は見るだろう。藻を刈る遠浅の潟もないと(または、釣りにふさわしい磯もないと)人は見るだろう。たとえ浦は無くても、たとえ潟は(磯は)なくても魚は多い。この海岸に向けて、和多津の荒磯のほとりに、青々とした美しい藻、海底深くはえる藻を、朝は朝とて溢れるように風が寄せて来るし、夕べもまた溢れるばかりの夕浪が寄せてくる」

「和(わ)多津(たづ)」の地名も今に残る。「渡津」と書く。都野津から数キロ東にいった中国地方一大きい「江の川」の河口にある。                                               (つづく) 

(*1)「万葉集」の宮廷歌人。天武・持統・文武の三朝に仕えた。華麗な修辞技巧を駆使。重厚な歌風で「古今集」序に『歌の聖』称されている。

*2=中西 (なかにし すすむ)1929年、東京生まれ。万葉学者、奈良県立万葉文化館名誉館長、池坊短大学長、国際日本文化センター教授、京都市立芸大名誉教授、高志の国文学館館長。

(*3)例えば、琵琶湖畔の、荒れ果てた大津の宮(天智天皇)跡を訪れての長謌の後、三〇番(反歌)はこう。「楽浪之(さざなみの)(さざなみの) 思賀乃辛碕(しがのからさき)(志賀の辛崎) 雖(さきく)幸(あれ)有(ど)(幸くあれど) 大宮人之(おおみやびとの)(大宮人の) 船(ふね)麻(ま)知兼津(ちかねつ)(船待ちかねつ)=楽浪の志賀の辛崎はその名のとおり変わらずあるのに、大宮人を乗せた船はいつまで待っても帰ってこない。」)