「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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長井時広と大江(毛利)季光

2018-10-15 15:27:59 | 荒木氏
きょうからこちらのブログも「である」調にします。

僧源海(安藤駿河守隆光)、長井時広の帰依を得て、米沢に真宗善勝寺を創建
すると云う。(善勝寺記録)

あの荒木村に聖徳太子像を持ち込んだ僧源海(安藤駿河守隆光)のことである。

この長井時広=大江広元息=季光の兄!である。

長井時広の法名は「斎阿」と言った。その時広が源海に帰依したということであろうと思う。





http://yamagata-np.jp/news/201712/17/kj_2017121700339.php

出羽長井氏

鎌倉幕府別当大江広元の次男時広を祖に持ち、所領である出羽国置賜郡北西の長井荘(山形県長井市)から、長井氏(永井氏)を称した。承久3年(1221年)の承久の乱の際に時広の兄の親広(のちの寒河江氏の祖)が後鳥羽上皇方に味方したため没落し、以後、大江氏の惣領となって繁栄した。後に執権北条氏が台頭してくると接近を図り、評定衆の一人となり、備後国守護にも任じられた。

長井泰秀の代の宝治元年(1247年)に宝治合戦が起き、泰秀は北条氏に味方し長井氏の地位を確立した。一方叔父・毛利季光は三浦氏に味方して敗れて、その一族はほぼ滅亡した。泰秀は親族の毛利氏の救済を願って、生き残った毛利経光に越後国佐橋荘と安芸国吉田荘の地頭職の安堵を図るべく奔走した結果、毛利氏は両荘の地頭職を安堵された。


今まで気にも留めていなかった「長井時広」の人物が浮かび上がってきそうな様々なカケラたち。

隆光は親鸞の弟子。
その親鸞と法然の許で兄弟弟子だった隆寛。
その隆寛とたまたまであった大江(毛利)季光。
そしてその季光のすぐ上の兄であった「長井時広」

身近な者が亡くなった時に、
その人に寄り添う、近づく、何かをしたくなるものなのかもしれません。




荒木氏と松田氏 (4)

2018-10-12 13:45:51 | 荒木氏

「松田家の歴史」さまのpdfよりの情報です。

伊勢神宮禰宜と松田家の一族
波多野遠義、伊勢初斎宮御契に蔵人所衆として従事する。
波多野義通、義通は伊勢にも領地を持っていた関係で妻の一人が
伊勢守光定の女だった。
伊勢守光定の女が義職の母であり、
その子孫が伊勢神宮禰宜の荒木田・大中臣の両氏と結びついている。
―【中島】義康―通定―【荒木田】定秀―朝村―【荒木へ】
―秀能―能成
―朝職―朝修【中島氏】
―義職――義定―― 朝定(息または弟)
―典藤【中島氏】

波多野次郎朝定、義定の子(弟?)

弥次郎、中嶋太郎義泰の兄弟、
母は伊勢神宮外宮の神人荒木田盛長の娘
廣澤實高、廣澤左衛門尉實高、
伊勢神宮の広沢御厨で兵庫県相生市。
伊勢波多野氏。
(吾妻鑑)

~~~*~~~

ここでは、中島・廣澤という苗字も出てきました。
なんか、私には手に負えなくなってきました。。。

さて、天州寺の荒木氏は後に「北岡氏」になっているそうです。

この辺で「荒木氏」に関する話は終わります。


荒木氏と源氏&土岐氏・波多野氏周辺 (3)

2018-10-12 13:42:58 | 荒木氏

荒木善右衛門よりも、荒木村重よりも前のことを書きたいと思います。


波多野氏は遡ると藤原秀郷となります。そして中原親能が波多野氏の下で育てられたことなどからも分かるように中原氏との関係は密接であったと思います。親鸞の周辺もしかりで藤原・中原・波多野がいます。そして、その中原氏は大江氏でもあり、系図も重なっている部分があるほどです。
大江広元も、中原になったり、大江に復姓したり…となっています。

そして、そこに源頼政の父仲政の養子となった土岐氏が絡んできます。(もちろん源氏も絡んできます。)

源頼政の父仲政に養子に入った「光重」。源光信(=土岐光信)の実の息子であったともいわれています。
義兄弟に頼政、頼行、泰政(=池田氏)らがあり、子に重清、重高、頼重、光貞、仲重、保綱らがあります。
源(土岐)光重の仮名は三郎。深栖氏の祖。そして『尊卑分脈』には光重が「波多野御曹司」と称したとwikipediaにもあるように波多野氏と関係がある人物でもあります。

養父・仲政が国司として東国に下向した際、兄たちと共に同行し現地に所領を得て居住したとされる。しかし、所領の位置については下総国とも下野国とも云われており明確でない、とも書かれています。

その息は光貞=光定(伊勢守と思われる)です。

しかし、もう一人光定がおります。それは土岐光衡の孫で土岐光行の息です。
こちらは、光信―光長ー光衡-光行ー光定 となります。

いったいどちらの光定になるのかは、後でゆっくりと考えようと思います。

義職は波多野氏養子に入ったようなのです。波多野義通の妻=伊勢守光定の娘
しかし、息としては系図に現れていない場合もあるので土岐氏からの「養子であった」と仮定して進めます。

その光定ー義職こそ、荒木へと続く系なのではないでしょうか。

義職こそが『カギを握る人物』であろうと思われます。

すると「公暁」との関係・大中臣氏との関係が浮かび上がってくるのです。(中原氏も含まれています。)

土岐光定から波多野義通の養子となる。…として、
義通-義職ー義泰ー通定ー定秀ー荒木朝村…荒木村重

松田氏の系図に拠りますと
義職ー中島義康ー通定ー荒木田定秀ー朝村ー荒木・・・となっています。

義通の妻の一人が伊勢守光定の女(義職の母)だった関係でその子孫が伊勢神宮禰宜の荒木田・大中臣の両氏と結びついている。
とも書かれています。

上記は【松田家の歴史】を参考とさせていただいております。
http://incloop.sakura.ne.jp/matsuda/2017matsudake.pdf

こちらの下から10行目にもその傍証となるようなことが書かれていました。↓
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/senwa/journal.asp?record=361


荒木氏と明智氏(2) 荒木善右衛門 

2018-10-11 11:06:50 | 荒木氏

荒木村重のwikipediaによると「荒木善兵衛も荒木村重の子であり、有岡城落城の際に幼い善兵衛を細川忠興が預かって家中で育てた。成長すると無役の御知行三百石を賜り、後に丹後大江山の細川家高守城代などを務めた。」


ここの一文で荒木善兵衛が荒木村重の息であったことが判りました。
そして次のようなものも出てきました。

「津々堂のたわごと日録」さんのブログよりです。
https://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/7c450601bdde30fdefc405d96763b279

「荒木善兵衛
荒木村重の子。天正7年に摂津有岡城(伊丹城)が没落した際に荒木村重はその子善兵衛を明智光秀の陣所に連れて行き、光秀は細川忠興に依頼して善兵衛を丹後加佐郡河守(現大江町)の城に入れてもらった。慶長5年の田辺籠城には大手を守り、細川氏の豊前移封に従って門司城付となり、そこで病死した(閥閲・年譜)。但し「寛政譜」等の諸書は村重の子に新五郎村次と弥四郎村基の両人を挙げるのみ。光秀の女婿だった新五郎が善兵衛と同人か。」

明智光秀と関係があったのです!
すごい展開です。

しかもこの丹波加佐郡河守(大江町)は九里の祖蓮忍入道が地頭であったか~と思われる場所です。別な蓮忍かもしれませんが。ピンポイントででてきましたね。細川家高守城も河守御荘の「こうもり」から来ているものと思われます。

なぜ明智光秀に・・・と考えるに、それは荒木氏が土岐氏とのつながりがあるからだと思うのです。
(荒木村重は池田氏の娘を娶っていることからも、またその出自からも土岐氏と関係がありそうなのです。)

明智光秀の娘が荒木村重に嫁ぎ、離縁し、従弟佐馬助光春に嫁いだようです。(明智光秀:徳永真一郎著)

総合してみますと、細川忠興の妻(後にカソリック教徒となり細川ガラシャとなる)も明智光秀の娘であり、荒木村重の妻も明智光秀の娘であり、と、姉妹であったことから明智光秀を通して細川氏の所に村重の息を預けたことが予測できます。

ちょうどガラシャとなる前の名前「明智玉(珠)」が娘を出産する年あたりが幼き荒木善右衛門を預かった年となりそうです。

この善右衛門がさらに以前記事にしていた「谷氏」とも繋がり、「佐々(前野)氏」とも繋がってきます。
やはり、九里と近い間柄の荒木氏です。

で、「坂橋」はどこにいるのでしょう。私にもまだわかりません。方向違いでないことを願うばかりです。



荒木氏と毛利氏 (1)

2018-10-11 11:01:18 | 荒木氏

時代は天正時代で織田信長と荒木村重の話です。 (武家家伝荒木氏より)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/araki_k.html

荒木村重が、天正六年信長に反逆する。その背景には、畿内方面の複雑な軍事・政治情勢があった。村重は籠城十ケ月ののち有岡城を脱走、残された妻子や城兵の多数は信長に虐殺された。村重は毛利氏のもとに亡命、ついで出家し、晩年は堺に住んで茶の湯で名をなし、豊臣秀吉にもお伽衆として仕えた。その後、村重は機会を得て旗本となったが罪を得て、絶家となった。

何故、毛利氏に‥‥そこにヒントがありそうです!
荒木氏と毛利氏、どのようなつながりがあって頼って行ったのでしょう。

天州寺(行田市)に荒木氏がお寺を立てたのはその後の慶長12年1607年で、毛利氏との縁がそうさせたのではないかと…勝手に想像していますが、次回さらに詳しく調べたいと思います。

~~~*~~~

さらに、江戸 天明時代 
前回の記事に登場しました「天明年間に牧野の十村役、荒木初穂といふ人の書上に…」の部分ですが、ぬぬぬさんのブログ、この牧野の十村の解釈が難しいのですが、もしかすると『長岡の牧野郷二十村』のことではないかと?? となると長岡です!!!

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せきどよしおの仏像探訪記に「天州寺」が詳しく書かれておりました!
https://www.butsuzoutanbou.org/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E5%9F%BC%E7%8E%89%E7%9C%8C/%E5%A4%A9%E6%B4%B2%E5%AF%BA/

この最後の方に書かれていた【有綱】という人も毛利氏と荒木氏をつなぐ人ではないかと思います。
大江広元の妻であり、季光の母親である「多田仁綱の娘」の多田氏と関係がありそうと…仁綱の出家後の名前は「正阿源宥」

多田源氏の源明国と源頼政の父親である仲政は兄弟です。
そしてさらにその前の代では国房がいて、光国―光信と土岐氏になっていきます。
どうもこの辺りが荒木氏と大江季光をつないでいるものと思われます。



仁綱が有綱とも名乗っていたなど、何か情報をお持ちの方、どうぞよろしくお願いいたします。

※もしかすると…
義澄の跡は長子の三浦義村(?-1239年)が継いだ。義村の弟である有綱・重澄は、それぞれ山口氏、大河戸氏を称した。義村は評定衆の宿老に就任。

この「有綱」ではないでしょうか。毛利季光の妻は「三浦義村」の娘であったはずですので、妻の叔父の事であったかもしれません。(追記)