「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

公開グループfacebook≪「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙≫

麻績部

2018-11-18 07:24:55 | 雑記

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%AE%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE

神麻績氏の住む麻績郷(おみのさと)で荒衣を織らせた。

荒妙は麻績部(おみべ、麻績氏とも)が奉織し、それぞれ封戸22を与えられていた。神宮に仕えたこれらの一族は神服部(かんはとりべ)、神麻績部(かんおみべ)とも呼ばれた。
服部は三河国より赤引の糸(あかびきのいと)と呼ばれる絹糸を入手していた。

麻績部には土師器を調進する一団がいたほか、信濃国などの東国に進出し、機織などの技術とともに天白信仰を伝えたと考えられている。


この信濃国などの「など」に「武蔵国・下野国」も入っていたのではないだろうか?
織物と土器と信仰。

このようにして広まってきたのか…と思うと感慨深い。

ちなみに天白信仰とは
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%99%BD%E4%BF%A1%E4%BB%B0

天白信仰(てんぱくしんこう)は、本州のほぼ東半分にみられる民間信仰である。その分布は長野県・静岡県を中心とし、三重県の南勢・志摩地方を南限、岩手県を北限として広がっている。

信仰の対象・内容が星神・水神・安産祈願など多岐にわたることから様々な研究・解釈が行なわれたが、1980年ころから伊勢土着の麻積氏の祖神天白羽神(あめのしらはのかみ、長白羽神の別名)に起源を求める説が紹介されることが多くなった。

藤原姓小見氏にも繋がってくるのかもしれないと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%99%BD%E7%BE%BD%E7%A5%9E

ウツハタ【内幡】昔、タテノミコトが太田の郷で織った織物。この織物は縫わなくても
そのままで着物になったという。

↑も関係がありそう。(茨城方言民俗語辞典 )

猿丸大夫(さるまるだゆう) と 小野氏

2018-11-03 21:06:54 | 小野氏

『奥山に紅葉ふみわけなくしかの声きくときぞ秋は悲しき』猿丸大夫

葛城氏の末裔であったかもしれない小野妹子。
小野妹子の生母は葛城氏の末裔とされ、そのことは小野妹子が大和朝廷に仕えることができた一因であるとされているそうです。

小野篁から始まる(線は繋がっていないようだが…)横山党となっていく「小野氏」の始まりは下記の系図となります。




http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/%89%8E%8A%DB%91%E5%95v/5/

『日光山縁起』に拠ると、小野(陸奥国小野郷のことだといわれる)に住んでいた小野猿丸こと猿丸大夫は朝日長者の孫であり、下野国河内郡の日光権現と上野国の赤城神が互いに接する神域について争った時、鹿島明神(使い番は鹿)の勧めにより、女体権現が鹿の姿となって小野にいた弓の名手である小野猿丸を呼び寄せ、その加勢によりこの戦いに勝利したという話がある。これにより猿と鹿は下野国都賀郡日光での居住権を得、猿丸は下野国河内郡の宇都宮明神となったという。下野国都賀郡日光二荒山神社の神職であった小野氏はこの「猿丸」を祖とすると伝わる。また宇都宮明神(下野国河内郡二荒山神社)はかつて猿丸社とも呼ばれ奥州に二荒信仰を浸透させたといわれている。『二荒山神伝』にも、『日光山縁起』と同様の伝承が記されている。『二荒山神伝』は江戸時代初期の儒学者林道春が、日光二荒山神社の歴史について漢文で記したものである。


3. 陸奥国小野郷の比定地として、現在の福島県南会津郡下郷町(旧長江村)の小野岳、同県田村郡小野町、新潟県東蒲原郡阿賀町(旧実川村、後に鹿瀬町小野)、山形県東田川郡庄内町狩川などが挙げられる。

猿丸神社という名前のお社もあります。
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/sightseeing/walk/p12.html

猿丸神社(さるまるじんじゃ)

 禅定寺峠のかたわら、本町と大津市曽束町との境界に鎮座し、祭神は、猿丸大夫です。
 猿丸大夫は三十六歌仙の一人として知られていますが、『古今和歌集』に詠み人知らずとして「奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき」として詠まれた歌が猿丸大夫の作といわれています。

 伝記に「住吉猿丸大夫、近江栗太郡田上川を溯り、隣村小田原村を経て此の地猿丸の北麓に当たる渓間経路を西に上り、怪岩、奇石多き絶佳の風光を賞嘆されしとて、人此岩を猿丸大夫腰掛石と云う。昔時、大石曽束と禅定寺との境界論争がよく行われたので、社殿を現在の処に遷した」とあります。

住所 宇治田原町大字禅定寺小字粽谷44
ここは綴喜郡なのです。京都府と滋賀県の県境にあります。



藤原実範の妻が『小野資通の娘 』であったこともココと関係してくるのではないだろうか?と思ったりしています。
そして、横山党ともこの時代からの付き合いかも知れません。

猿丸大夫と言えば、大友黒主の名も挙がってくるのですが、下記のページが面白かったです。
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/blog-entry-44.html

この記事は「九里を探して三千里」ともリンクしていて、だんだん区別をつけ難くなっている私です。



世界の中の「サカ族」

2018-11-03 19:54:43 | 坂橋氏

乗馬の技術を最初に身に付けたのはインド=ヨーロッパ語族だとされていますが、その一派である中央アジアのサカ人によって紀元前4世紀のモンゴル高原に乗馬の技術が伝えられてとされています。

このサカ族のサカは鹿を意味し、鹿をトーテムとしたことに由来するようです。後のモンゴル帝国の建国神話で蒼き狼と白き牝鹿が結婚してモンゴル人の祖先が誕生したとされていますが、これは鹿をトーテムとするサカ族が狼をトーテムとする北狄テュルクに乗馬技術を伝えたことで、モンゴル高原に遊牧騎馬民族が誕生したことの比喩なのかもしれません。

サカ(Saka)は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ(Sakai)と呼んだ。また、中国の史書では塞(そく)と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある。

・・・で、私の調べている「さかはし」ですが、橋は椅子の「椅」とも書き、「さかい」とも呼べるのです。

https://books.google.co.jp/books?id=2rYFhbox2RIC&pg=PA85&dq=%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%80%80%E3%82%B5%E3%82%AB&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwji_MOth7jeAhULwLwKHZ9aDiAQ6AEIKTAA#v=onepage&q=%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%80%80%E3%82%B5%E3%82%AB&f=false

さて、関係がありますかどうか?