こちらの方のブログがとても読みやすくよくわかりました。
https://blogs.yahoo.co.jp/tennenkozi/34063674.html
小田原征伐では、先兵となって北条方となっていた唐沢山城を落城させ、
忍城攻略に向かったと言われています。・・・
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宝衍は、戦国時代においては、剣術の達人の一人であり、
また足利学校に学び、学識豊かな人物でもあったと伝えられています。
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唐沢山城は高石垣が良好な状態で残っているそうです。
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/232631
この天徳寺宝衍=佐野房綱
そして養子となった佐野信吉につき従って武蔵国の小見(忍城下)にまでやって来た「坂本氏」がいたのかもしれません。
その佐野信吉ですが、ちょっと評判がよろしくない情報もありましたが…
【我が儘な振るまいが多く、天徳時を仙波に押し込めたというのは、『田沼町史』も『佐野宗綱記』から引用しているので同じ内容になっている。具体的な我が儘としては、「美女を愛し、酒宴遊興にふけり、国の掟を破った」とある。
同時に『田沼町史』では、奉行の福地家の文書から「してみると信吉は、房綱の意を継いで領内の統治に積極的に取り組んでいたことが察せられる」とも述べている。】
この辺りも含めて詳しいことが書かれていた「復刻 津布久・川久保写本 佐野宗綱記」のwebページ。
おもしろいです。このページ!
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/sanomunetunaki.html
この天徳寺様の人となりの分かるエピソードが残っていることは、幸せですね。↑
https://www.sankei.com/life/news/141229/lif1412290001-n1.html