「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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毛利氏から坂氏 Mr.Mouri to Mr.Saka. Mr.Saka to Mr.Sakahashi (It is my imagination.)

2018-09-30 11:50:57 | 坂橋氏

頂いたコメントからのヒントで、以下のようなことを仮想してみました。
まず、系図を貼ってみようと思います。


これは、安芸坂氏の系図で、毛利親衡から始まっています。(毛利氏の始祖は大江広元四男季光です。)

其の親衡の父は毛利貞親で、越後国南条荘が与えられています。
その時点で、父貞親が安芸国吉田、息の親衡は貞親から譲られた河内国加賀田郷と越後国の南条荘(越後佐橋庄)を持っていたことになります。

ここで、安芸国と越後国のつながりができています。今の広島県と新潟県です。

系図を観ますと、親衡の息に「坂匡時」がいて、さらに桂氏・光永氏・志道氏・坂元氏が現れます。

明治時期はもう侍ではなかったでしょうが、それ以前は侍であったかもしれません。

この安芸国と越後国の離れた場所に共に「坂橋」がいることの意味は、ひょっとするとそのようなことからかもしれません。

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翻訳はgoogle翻訳をベースにしています。もしも変な箇所がございましたら、ご一報をお願いいたします。

In hints from comments received, I tried to imagine the following things.
First of all, I'd like to attach a genealogy.


This is a genealogy of Mr.Saka in Aki Province.
Mr.Saka's beginning is with Mouri affinity.




https://en.wikipedia.org/wiki/M%C5%8Dri_Tokichika

坂本氏と平井氏 のつながり 坂本龍馬と平井加尾 平井収二郎

2018-09-26 22:09:18 | 坂橋氏

http://www.kaononiwa.jp/hiraikao.html

坂本龍馬と初恋の人かもしれない「平井加尾」そして加尾の夫や兄のことまで載っています。

そして一絃琴まで登場して…宮尾登美子の記念館に行き一絃琴も見てきたばかり。(北海道伊達市)←この9月30日で閉館です。

この一頁に凝縮されている坂本龍馬を取り巻く仲間たち、悲しいけれど、いい話です。






坂本氏を探る(7)

2018-09-24 21:38:57 | 坂本氏
上杉家臣団の中にも「坂本氏」がいるのです。

坂本民部という人物です。

深谷領の侍忍領狼籍 并 坂本忍へ使の事 (成田記)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukajirou/cyuuseishi/oshirannyuu/oshirouzeki-voice.html

この坂本民部は、深谷領にいた人なのか、狼藉を働いた者たちのために謝罪に忍城に行った人物のようです。

この人物と同一人物かどうかはわかりませんが近江国の比叡山と関係のある「北獄日吉神社宮司 坂本民部」もいます。

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最上家臣・新田家臣・伊達家臣・仙台藩家臣等に坂本は見えます。伊達家臣は坂本大條氏といいます。

下記は室町時代からの坂元要害と呼ばれている場所ですが、関係しているのは「坂本氏」です。

坂元要害は当初、蓑首城と呼ばれ元亀3年坂元要害(蓑首城)(1572)に坂本三河俊久が築いたとされます。
坂本氏は鎌倉幕府有力御家人だった千葉常胤の三男・武石胤盛の後裔である亘理氏の庶流で南北朝時代時代以降、小斎峠に近い新城山城を拠点としていました。


https://www.miyatabi.net/miya/yamamoto/siro.html


http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/site/kankou/5767.html

坂本主殿という名前もみえます。(最上家臣団)
創価大学の論文では「坂本主殿は,鳥居氏・保科氏と新しい山形藩主に続けて仕官し,保科氏が会津転封の際にも共に移住している。」とあります。



坂本氏を探る(6)坂本(比叡山東麓)で育った 足利義昭の末裔  坂本 義辰(さかもと よしたつ)

2018-09-24 21:34:15 | 坂本氏

比叡山の東の麓に「坂本」はあります。

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坂本 義辰(さかもと よしたつ、生没年不詳)は、江戸時代後期の陸奥国会津藩士、会津松平家家臣。通称は学兵衛。父は坂本義馮(学兵衛。諱は義応とも)

宝永年間から正徳年間までの松平正容の治世下の会津藩城使に「坂本学兵衛」、宝暦5年(1755年)の御用人に「坂本学兵衛」の名が見られるが、これらは義辰の先祖にあたる。

寛政3年(1791年)に会津藩を通して江戸幕府老中の松平定信に、自身が室町幕府最後の将軍足利義昭の子で近江国坂本で義昭近臣の一色藤長に養育されたという一色義喬の子孫である、という由緒書を提出する。

子孫は松平容敬の御用人を勤める。また幕末の子孫の義続(右兵衛)は戊辰戦争で白河口方面の主将となったが、戦傷死した。その子義劉(栄助)の代で、会津から栃木県足利へ移ったという。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E8%BE%B0


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これは、坂本大炊隆中と関係があるのでしょうか? そこはまだ、調査中です。
(仙台藩と会津藩なので、違いますよね??奥羽越列藩同盟で、二藩の坂本氏が同じ白河口で新政府軍と闘っていた…ということでしょうか??)


さらに井伊直広の母に「坂本氏」が見え、側室 智貞院(坂本氏)となっています。
子どもは、
忠六郎(?-1772) 南渓院
女子(?-1765)  
鶴之亮(?-1769)  
女子(?-1771)  
直広(1769-1792) 聞溪院、幼名外也
越後与板藩世子
真田幸専(初名直専)(1770-1828) 大暁院、幼名順介
信濃松代藩七代藩主

・・・となっていて、現在の長野市と関係があります。この母親の坂本氏は井伊家・真田家共に通じ、藩主となる人物も出ていることから、家格も高いのでは、と思われます。