その根使主(ねのおみ)の事件は「氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。」と述べられていたが、この部分を【謎の古代豪族 葛城氏】平林章仁 祥伝社 の本を読み進めながら書いていこうと思う。
何故この事件が「葛城氏」の本の中に書かれなければならなかったのか。
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それは、『坂本臣氏の祖・根使主(根臣)の事件』が発端となって葛城氏・日下宮王家(くさかのみや)が滅ぼされたからであった。
上記の本よりその部分を書いてみよう。
【 呉(中国南朝)の使節をもてなす宴会の責任者に、根使主を任命した。
根使主は立派な玉縵を着けて出席したが、大草香皇子から詐取したものであることが判明した。根使主は逃げ出して、和泉の日根(大阪府泉佐野市日根野)に稲城を構えて戦ったが、追っ手に殺された。根使主の子孫の半ばは、大草香部として草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)のものとし、他は和泉南部の豪族茅渟県主氏に与えて「負嚢者」(ふくろかつぎのもの)とした。根使主の後裔が坂本臣氏となったのは、これより始まる。
この話は坂本臣氏にとっては不名誉な内容であるが、坂本臣氏起源の話にもなっている。
坂本臣氏は、和泉国和泉郡坂本郷(大阪府和泉市阪本町)を本貫とし、建内宿禰後裔系譜では木(紀)角宿禰の後裔、『新撰正氏録』左京皇別上・摂津国皇別・和泉国皇別の各条でも紀朝臣氏と同祖とする、紀氏の同族である。『紀』では六世紀前半、欽明天皇の頃から、対外関係などで活躍が散見される。ヤマト王権の意思決定会議に出席する大夫を出すことができる有力氏族であり、渡来系の金属工人集団も配下に擁していた。…葛城氏が紀氏と婚姻関係を結ぶほど親密であったこと、坂本臣氏が紀氏と同祖、同族を称していたことなどから見て、事件における根使主の行動は、紀氏が一翼を担っていた葛城氏政権の分裂を物語っていると解される。
‥‥そこには安康・雄略天皇側らによる葛城氏と紀氏の緊密な連携関係を分裂・分断させようとする企図を読み取ることができる。】
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まったく別の視点からだが、もしも私が根使主であったなら、玉縵の元の持ち主であった大草香皇子の妹のいる席に、かぶって出ることはしない。
根使主のように重要な任務に就いている人ならば、何かにつけ用心を心がける人物であったに違いない。ならば、なおさらだ。
この話は、たぶん根使主は、何も知らされずに誰かに「天皇がその玉縵をかぶって出るようにとの仰せだ。」と言われ、素直にかぶって出た結果、盗んだ玉縵であることが判明し、根使主自身も陥れられたことに気が付き逃げたのだろう。
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葛城氏についてであるが、息長氏との関係はどのようなものだったのかを調べてみた。
まず、
神功皇后の母は、葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であり、アメノヒボコの裔であるという。息長宿禰王の妃である。
仲哀天皇と神功皇后との息が応神天皇となるわけだが、
応神天皇には、一名の皇后と10名の妃とがいた。
その中に「葛城野伊呂売(かつらぎの のいろめ、怒能伊呂比売?)」 -(武内宿禰女?) がいる。
この当時は神功皇后の下に葛城襲津彦(そつひこ)がいて、古事記の中に登場する。
この襲津彦は、野伊呂売の兄か弟かと思われる。
襲津彦が古事記に出てくるのは上記の本によると神功皇后六十二条である。(ほかにもあるのでいくつか下記に記載する)
「新羅が朝貢しなかったので、襲津彦を派遣して攻撃させた。」
応神天皇十四年是歳条
「…そこで葛城襲津彦を派遣し、弓月の人夫を加羅より召したが、彼は三年経っても帰国しなかった。」
応神天皇十六年八月条
「…葛城襲津彦らの帰国を妨げている新羅を攻撃するように命じた。…」
平林氏によると「以上が、葛城襲津彦の活動についての記事の概要であるが、朝鮮半島諸国と関連するものばかりであることに注目される。これは、葛城氏の権威の源とヤマト王権内での職務を示唆しており、葛城氏の権力の実態を考察するうえで重要なものである。」とある。「葛城氏の主な職掌が対外交渉…」「通訳集団」ともある。
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神功皇后の母と祖母が葛城氏であり、すでに葛城氏と息長氏とは密接な関係であった。
その葛城氏は朝鮮半島から技術集団を連れ帰り「極楽寺ヒビキ遺跡」のような大型建築物遺構・導水以降などが見つかっていることからも、権力を持っていたことになる。
活躍していた氏族であったにもかかわらず記事にする所伝が少ない、あるいは失態の部分ばかりが記されているなど、これは天皇との関係が良好ではなかった可能性、また他の氏族よりも抜きんでていた事もよる「出る杭は打たれる」的なことであった可能性もありそうである。
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息長氏と葛城氏の関係の概略は一応つかんだとし、では「紀氏」とはどのような関係だったのだろう?
どうもこれには「場所」「水」が関係しているようであるが、まずは系図を見てみようと思う。
紀氏系図を見てびっくりである。(私が忘れていただけ!)
武内宿禰の息子が「葛城襲津彦」なのだ。
葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ、葛城襲津彦) - 玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖。
「葛城氏の発祥が「紀氏」と深い結びつきの中にあった。」との本の中の一文がココで響く。
「紀氏家牃」(きしかちょう)には「…武内宿禰の子はあわせて九(男子七、女子二ぞ)。葛城国造荒田彦の女葛比売(くずひめ)を娶って襲津彦宿禰をもうけた。」とあるそうだ。
大和川の水運、難波の大規模な倉庫群、そのようなことも葛城氏と関係するのだが、ココは追記だったのでそれはまたにしようと思う。