「さかはし」さん集まれ~*苗字は歴史の小宇宙

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毛利は大江季光からの苗字ではなかった!

2018-10-29 08:33:37 | 坂本氏

大江季光が毛利季光となる以前の「毛利荘」は・・・

陸奥七郎源義隆流は大江姓毛利氏以前の領主であった。とあり、源義家の息が関係することがわかりました。

http://www.wikiwand.com/ja/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E9%9A%86
源 義隆(みなもと の よしたか)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源義家の七男(六男とも)。

森冠者、陸奥冠者、陸奥六郎または陸奥七郎などと号した。七男であるが、六郎ともいう。官位は無位無官と看做されることが多いが、宮内少大輔従五位下に任ぜられるとも。子には毛利義広、若槻頼隆、高松定隆らがいる。


源 義広(みなもと の よしひろ、生没年不詳)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。治部丞。毛利義広とも。源義家(八幡太郎義家)の七男・源義隆の長男。子に毛利義昭。弟に源頼隆、高松定隆らがいる。

父以来の相模国愛甲郡毛利庄を相伝し、鎌倉幕府の御家人となる(源姓毛利氏の祖)。子孫は美濃国に至り、摂津源氏系の美濃源氏の土岐氏をはじめ、斎藤氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏と主家を転じ、尾張藩の藩士となる。子孫には毛利広盛、毛利広義などがいる。

~~~*~~~

この毛利氏は、もとが源義家なので、源頼朝の側近であった大江広元がその大事な荘を頼朝よりいただいたのか、はたまた婚姻関係で、譲り渡しがあったのか、、、

坂橋氏にとっては、遠い話かもしれないです。






古からのつながり(4)日下宮王家のこと

2018-10-24 23:52:35 | 坂本氏

思うに、古事記の下巻になると策略や焼き殺されたり…と事件が多くなる。
それが現実に生きた王たちの世界だったのだろうか。

あの、奇想天外の架空の神様方の話はどこへ~~。

でも、下巻も今(その時)に向き合って、日本という国を作っていこうとする古代天皇の姿。
気を取り直して次に進もう!

以下は、坂本臣の「時代の状況把握」…である。

【謎の古代豪族 葛城氏】平林章仁
古からのつながり(1)の追記で、なんだかわからなかったのが「日下宮王家」
そこをもう少し調べてみた。
平林氏の文章を書きに記した。

葛城氏は南九州の大豪族とも(その前に吉備氏との連携が書かれていたので)連携していたことがわかる。
それは、ヤマト王権の執政官である葛城円大臣が、河内の日下(東大阪市日下)に本拠を置いた天皇家の有力一族である「日下宮王家」とともに滅ぼされた事件を究明することであきらかとなる。


「『紀』は安康天皇元年二月から雄略天皇の即位前にかけて、次のような出来事があったと記している。…」(と、また坂本臣の事件に言及している。重要なのだが、前と重なる為省略し、エッセンスを選んで書いていく。)

日下宮王家とは、具体的にどのような天皇家一族だったのか。父系は応神天皇や仁徳天皇であるが、注目されるのは母系である。
履中天皇のキサキである草香幡梭皇女(くさかのはたびのひめみこ)の母は、日向長媛という南九州の日向出身の女性であった。律令制以前の日向は、現在の宮崎県に鹿児島県を含む広い地域であり、後の薩摩国に出水郡があったから、その地の縁の女性とみられている。

大草香皇子と草香幡梭皇女(履中天皇のキサキと同名だが別人)の母は、日向髪長媛であり、彼女も日向出身である。
・・・
その日下宮を拠り所とした眉輪王が、危機に際して葛城円大臣を頼ったことは何を意味しているのだろうか。おそらく葛城氏政権と日向諸県君氏らの間に親密な関係が結ばれていたのではないか。・・・ 

その事件の後に雄略天皇によって日下宮王家最後の王となってしまう「眉輪王」と「葛城円大臣」は殺害され、葛城氏と南九州・日向諸県君民の連携も遮断され、葛城氏の権力機構は崩壊し、ほどなく葛城氏そのものが衰退していったと思われる。円大臣は葛城氏最後の大臣であった。

そして、この事件には、紀氏との結合をも分断しようという天皇側の企図が存在したのである。

~~~*~~~

ここに一冊また別の本がある。
「古代天皇と前方後円墳の謎 諏訪大社と善光寺の謎」馬場範明著 文芸社
この中に、「日向は神武天皇の実家、大和は分家の関係」とある。

私は、北海道で生まれ育っているせいか「古墳」は身近ではないし、まだ近くで見たことがない。
今回知った「西都原古墳群」は「現在、高塚墳311基が現存し、その内訳は前方後円墳31基、方墳1基、円墳279基であるが、他に横穴墓が10基、南九州特有の地下式横穴墓が12基確認されている。」と、とてつもなく多くが密集している。

そして馬場氏は言っている。「なぜ西都原古墳と大和に前方後円墳が発生し、そしてその後何年もの間併存し続けたのか。」別に勢力争いではなく、「実家と分家の関係」と喝破していらっしゃる。

涼しいうちに古墳巡りに行ってみたいな!

http://saito-muse.pref.miyazaki.jp/web/panorama.html


古からのつながり(3)仁賢天皇陵の名前「埴生坂本陵」

2018-10-22 15:07:51 | 坂本氏

「歴代天皇・年代事典」米田雄介編 吉川弘文館

↑は、何年か前に銀杏の黄葉を見に「北海道大学」を訪れ、寒かったので生協に入った際に出会った本。その時の携帯写真。(ヒョ== 5年も前だった。)






ここでは、父と母、陵の名前と所在地を記していこうと思う。

応神天皇:父は仲哀天皇。母は神功皇后。
     「恵我藻伏岡陵(えがのもふしのおかのみささぎ)
     大阪府羽曳野誉田

仁徳天皇:父は応神天皇。母は仲姫。
     「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)
     大阪府堺市大仙町

履中天皇:父は仁徳天皇。母は葛城襲津彦の娘=磐之媛
     「百舌鳥耳原南陵」
     大阪府堺市石津ヶ丘

反正天王:父は仁徳天皇。母は葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)
     「百舌鳥耳原北陵」
     大阪府堺市北三国ヶ丘町

允恭天皇:父母は反正天皇に同じ(第二子)
     「恵我長野北陵」
     大阪府藤井寺市国府

安康天皇:父は允恭天皇。母は忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめのみこと)
     「菅原伏見西陵」
     奈良市宝来(垂仁天皇陵の西北に位置)

雄略天皇:父は允恭天皇(の第五子)母は忍坂大中姫命。
     「丹比高鷲原陵」(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
     大阪府羽曳野市島泉    
 
清寧天皇:父は雄略天皇。母は葛城袁大臣の娘 韓姫
     「河内坂門原陵」(こうちのさかどのはらのみささぎ)
     大阪府羽曳野市西浦

顕宗天皇:父は履中天皇の皇子市辺押磐皇子(いしべのおしはのみこ)。
     母は蟻臣(葛城氏)の娘 はえ姫 仁賢天皇の同母弟。
     「傍丘磐坏丘南陵」(かたおかのいわつきのみなみのみささぎ)
     奈良県香芝市北今市
     
仁賢天皇:父母は顕宗天皇に同じ。
     「埴生坂本陵」(はにうのさかもとのみささぎ)
     大阪府藤井寺市青山

武烈天王:父は仁賢天皇。母は雄略天皇の皇女=春日大娘(かすがのおおいらつめ)皇后。
     「傍丘磐坏北陵」(かたおかのいわつきのきたのみささぎ)
     奈良県香芝市今泉

継体天皇:応神天皇の5世孫。父は彦主人(ひこうし)王。近江国在住
     母は越前坂井郡三国にいた振媛(ふるひめ)。
     「三島藍野陵」(みしまのあいののみささぎ)
     大阪府茨木市太田

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仁賢天皇陵に「坂本」の地名が入っている。


mamo
仁賢天皇の娘(二女)が七夕伝説と関係があるようだ。


古からのつながり(2)日下

2018-10-22 11:16:20 | 坂本氏

前回の記事の「『坂本臣氏の祖・根使主(根臣)の事件』が発端となって葛城氏・日下宮王家(くさかのみや)が滅ぼされたからであった。」の中の「日下」を調べた。

日下宮王家と入力してもほとんど出てこないので、これは著者の独自の言葉なのかもしれない。(「謎の古代豪族 葛城氏」平林章仁著)

web情報によると
http://gejirin.com/src/Ku/kusaka.html
クサカの意味 「くさ(鎖・鏈・軍)」+「か(交・構)」
「くさ」は「まとまり・群れ・集団」の意で、「いくさ(軍)」と同じ。
「か」は「かふ(交ふ・構ふ)」の名詞化。

「くさか」に「日下」の漢字を当てるのは、「日の孫が軍を一旦退いた所」「日が下った所」の意味があるのかも知れない。

類語:「くさえ(軍合・孔舎衛)」

それだけではなく、他の説もあり。

しかし、宮と王家が付いているため、上記のクサカ=軍・集団とはまた違っている可能性もある。

わからないことはひとまず置いて、進もう!






古からのつながり(1) 追記

2018-10-20 22:41:24 | 坂本氏

その根使主(ねのおみ)の事件は「氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。」と述べられていたが、この部分を【謎の古代豪族 葛城氏】平林章仁 祥伝社 の本を読み進めながら書いていこうと思う。

何故この事件が「葛城氏」の本の中に書かれなければならなかったのか。

~~~*~~~

それは、『坂本臣氏の祖・根使主(根臣)の事件』が発端となって葛城氏・日下宮王家(くさかのみや)が滅ぼされたからであった。

上記の本よりその部分を書いてみよう。

【 呉(中国南朝)の使節をもてなす宴会の責任者に、根使主を任命した。
根使主は立派な玉縵を着けて出席したが、大草香皇子から詐取したものであることが判明した。根使主は逃げ出して、和泉の日根(大阪府泉佐野市日根野)に稲城を構えて戦ったが、追っ手に殺された。根使主の子孫の半ばは、大草香部として草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)のものとし、他は和泉南部の豪族茅渟県主氏に与えて「負嚢者」(ふくろかつぎのもの)とした。根使主の後裔が坂本臣氏となったのは、これより始まる。

この話は坂本臣氏にとっては不名誉な内容であるが、坂本臣氏起源の話にもなっている。
坂本臣氏は、和泉国和泉郡坂本郷(大阪府和泉市阪本町)を本貫とし、建内宿禰後裔系譜では木(紀)角宿禰の後裔、『新撰正氏録』左京皇別上・摂津国皇別・和泉国皇別の各条でも紀朝臣氏と同祖とする、紀氏の同族である。『紀』では六世紀前半、欽明天皇の頃から、対外関係などで活躍が散見される。ヤマト王権の意思決定会議に出席する大夫を出すことができる有力氏族であり、渡来系の金属工人集団も配下に擁していた。…葛城氏が紀氏と婚姻関係を結ぶほど親密であったこと、坂本臣氏が紀氏と同祖、同族を称していたことなどから見て、事件における根使主の行動は、紀氏が一翼を担っていた葛城氏政権の分裂を物語っていると解される
‥‥そこには安康・雄略天皇側らによる葛城氏と紀氏の緊密な連携関係を分裂・分断させようとする企図を読み取ることができる。】

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まったく別の視点からだが、もしも私が根使主であったなら、玉縵の元の持ち主であった大草香皇子の妹のいる席に、かぶって出ることはしない。
根使主のように重要な任務に就いている人ならば、何かにつけ用心を心がける人物であったに違いない。ならば、なおさらだ。

この話は、たぶん根使主は、何も知らされずに誰かに「天皇がその玉縵をかぶって出るようにとの仰せだ。」と言われ、素直にかぶって出た結果、盗んだ玉縵であることが判明し、根使主自身も陥れられたことに気が付き逃げたのだろう。

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葛城氏についてであるが、息長氏との関係はどのようなものだったのかを調べてみた。

まず、
神功皇后の母は、葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であり、アメノヒボコの裔であるという。息長宿禰王の妃である。

仲哀天皇と神功皇后との息が応神天皇となるわけだが、

応神天皇には、一名の皇后と10名の妃とがいた。
その中に「葛城野伊呂売(かつらぎの のいろめ、怒能伊呂比売?)」 -(武内宿禰女?) がいる。

この当時は神功皇后の下に葛城襲津彦(そつひこ)がいて、古事記の中に登場する。
この襲津彦は、野伊呂売の兄か弟かと思われる。

襲津彦が古事記に出てくるのは上記の本によると神功皇后六十二条である。(ほかにもあるのでいくつか下記に記載する)
「新羅が朝貢しなかったので、襲津彦を派遣して攻撃させた。」

応神天皇十四年是歳条
「…そこで葛城襲津彦を派遣し、弓月の人夫を加羅より召したが、彼は三年経っても帰国しなかった。」

応神天皇十六年八月条
「…葛城襲津彦らの帰国を妨げている新羅を攻撃するように命じた。…」

平林氏によると「以上が、葛城襲津彦の活動についての記事の概要であるが、朝鮮半島諸国と関連するものばかりであることに注目される。これは、葛城氏の権威の源とヤマト王権内での職務を示唆しており、葛城氏の権力の実態を考察するうえで重要なものである。」とある。「葛城氏の主な職掌が対外交渉…」「通訳集団」ともある。

~~~*~~~

神功皇后の母と祖母が葛城氏であり、すでに葛城氏と息長氏とは密接な関係であった。

その葛城氏は朝鮮半島から技術集団を連れ帰り「極楽寺ヒビキ遺跡」のような大型建築物遺構・導水以降などが見つかっていることからも、権力を持っていたことになる。

活躍していた氏族であったにもかかわらず記事にする所伝が少ない、あるいは失態の部分ばかりが記されているなど、これは天皇との関係が良好ではなかった可能性、また他の氏族よりも抜きんでていた事もよる「出る杭は打たれる」的なことであった可能性もありそうである。

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息長氏と葛城氏の関係の概略は一応つかんだとし、では「紀氏」とはどのような関係だったのだろう?

どうもこれには「場所」「水」が関係しているようであるが、まずは系図を見てみようと思う。

紀氏系図を見てびっくりである。(私が忘れていただけ!)
武内宿禰の息子が「葛城襲津彦」なのだ。 
葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ、葛城襲津彦) - 玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖。

葛城氏の発祥が「紀氏」と深い結びつきの中にあった。」との本の中の一文がココで響く。

「紀氏家牃」(きしかちょう)には「…武内宿禰の子はあわせて九(男子七、女子二ぞ)。葛城国造荒田彦の女葛比売(くずひめ)を娶って襲津彦宿禰をもうけた。」とあるそうだ。

大和川の水運、難波の大規模な倉庫群、そのようなことも葛城氏と関係するのだが、ココは追記だったのでそれはまたにしようと思う。