坂本臣の祖は「紀氏」 ☆ あらっ「坂本龍馬の祖も紀氏!」 2018-10-20 12:36:19 | 坂本氏 坂本臣の祖 紀氏から続く「坂本氏」 坂本龍馬にも、そして北海道にやって来た坂本直寛にもつながる! 龍馬は69段目。 http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-sakamoto.html
古からのつながり(1)坂本臣 2018-10-17 10:30:47 | 坂本氏 ちょっと目先を変えて「坂本臣」のことを考えてみたいと思う。 坂本臣、紀角宿禰、根使主。 これらは系図上のつながりのあるグループである。さらに草香部氏にもつながりがっていく。 坂本臣の先祖であった根使主は、調べてみるとわかるように才能があり天皇の近くに仕えながらも、そのために罪を犯してしまったのか、はたまた誰かに利用され陥れられたか・・・のようである。 web上にあった系図に拠ると 坂本糠手(あらて)- 坂本財(たから)ー 坂本鹿田 ― 坂本 宇豆麻佐(うずまさ)となる。 糠手は外交官のように、相手国と自国の間を取り持つような役目もしていたようである。 http://kodai4.net/moromoro/tatibana01.html 上記の「起源考」では、その根使主の事件は「氏族の分岐や統合といったものを反映している可能性が高い。」と述べられている。 坂本臣の坂本は『和名抄』の「和泉国和泉郡坂本郷」(大阪府和泉市阪本町付近)とされる。 根使主の歿後、この一族は二分された。 そのひとつが坂本臣となるのだが、坂本臣というのは茅渟に入った草香部氏の別称と解されるそうである。 起源考の方によると、 『書紀』に坂本臣と大河内氏にともに「糠手」という人物が現れる。 坂本臣糠手 推古八年 百済派遣 推古十八年 新羅・任那の使者を迎える 大河内直糠手 推古十六年裴世清を接待(『隋書』では小徳阿輩台) この両者は同一人物であり、複姓であろう。ともに外交に関係し、外国から来た客の接待にあたっている。外交交渉をやりうるのは王権の中でもトップに近い官位の人物に限られる。それがたまたま同じ「糠手」という名であったとは考えにくい。また、坂本氏、大河内氏がなにゆえに王権中枢にいるのかということも問われなければならない。それは両者とも草香部氏に発する氏族だからである。 …だそうである。 大河内は凡河内とも書く。 なお草香部氏に関しては、後日調べることとする。 ~~~*~~~ 坂本臣に話を戻すと、 財(たから)は、天武天皇のために戦い、亡くなっている。 次に、坂本宇豆麻佐(豆は頭と書いてあるものも多い)に注目して見たい。「太秦」と同じ音であることからも、何かしら関係があると思う。絹などの織物・反物と関係がありそうである。 「太秦氏」「秦氏」と、もしもつながるということになれば、古代ユダヤとの関係性も否定できない。 木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ、木島坐天照御魂神社)は、京都府京都市右京区太秦森ケ東町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。 通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」や「蚕の社(かいこのやしろ、蚕ノ社)」とも。古くから祈雨の神として信仰された神社であり、境内には珍しい三柱鳥居があることで知られる。 嵯峨野・太秦周辺は渡来系氏族の秦氏が開拓した地で、広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの関係寺社・史跡が知られることから、木嶋社もまた秦氏ゆかりの神社といわれる。また現在本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が招来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測される[。ただし秦氏の渡来以前にも、木嶋社付近では和泉式部町遺跡などの弥生時代頃からの集住を表す遺跡の存在が知られている。 それは、少し横に置いて、人物を見ていこうと思う。木簡で確認できる人物なのである。 小さすぎて文字が見えなかったので、下記参照。 木簡「上切り折り、下折れ。左右割れ。左辺は加工の可能性もある。 大蔵廣足は天平八年(七三六)正月に正六位上から外従五位下に叙されている。 坂本宇豆は坂本宇豆麻佐であろう。『続日本紀』天平九年正月丙申条に、持節大使藤原麻呂らとともに副使常陸守従五位上として見える。 四七六〇・四七六一号と材など似る。」 と、常陸守 従五位上 坂本宇豆麻佐 である。 他にも続日本書紀で確認することができる。(坂本臣は全部で24カ所の記載があった。) Tokyoboyさんのブログでは、以下のように書かれている。 「坂本臣とは武内宿彌の子孫で、古くから坂本郷(坂本町、寺門町、今福町、観音寺町、桑原町、一条院町)附近を支配し紀伊国を本居とする。一族は大阪湾沿岸一帯に蟠居し讃岐国の方向にもその勢力を及ぼしていたという。 坂本臣平は602年百済使の任についているからこの一族は海事に明るく、海外交渉の実務にすぐれていたに違いない。」 隋とは… https://www.sekainorekisi.com/japanese-history/%E9%9A%8B%E3%81%A8%E3%81%AE%E4%BA%A4%E6%B8%89/ 602年の百済使とは… 推古天皇 10(602)年 10 月に百済の僧勧勒かんろくが来朝し暦本などを献納したこと、陽胡史やこのふびとの先祖玉陳たまふるが勧勒から暦法を学んだことなどが記されています。中国の宋から伝わった元嘉暦を百済では滅亡(661 年)まで使っていた ので、今回の木簡の発見により、『日本書紀』の記述が例証されたといえます。 僧勧勒(かんろく)とは… https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%8B%92 そして蛇足だが、この勧勒の下に「坂本太郎」という歴史学者の名前があったので、そちらのwikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%A4%AA%E9%83%8E_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85) ~~~*~~~ 話を戻すと、 そしてその後、坂本 宇豆麻佐は陸奥に派遣され、常陸国の守護となるのである。 昔の常陸国の範囲はどのようになっているのだろうか? 改新の詔によって国造制が廃止されて、国造に委任されていた行政権は中央政府に移行しし、国郡制となった。 「常陸国」とは「新治、白壁(真壁)、筑波、河内、信太、茨城、行方、香島(鹿島)、那賀、久慈、多珂」の十一郡となる。 坂本宇頭麻佐:氏は坂下とも記される。贈小紫・坂本財の孫で、務広肆・坂本鹿田の子とする系図がある。官位は従五位上・常陸守。勲等は勲六等。
坂本氏を探る(7) 2018-09-24 21:38:57 | 坂本氏 上杉家臣団の中にも「坂本氏」がいるのです。 坂本民部という人物です。 深谷領の侍忍領狼籍 并 坂本忍へ使の事 (成田記) http://www7b.biglobe.ne.jp/~fukajirou/cyuuseishi/oshirannyuu/oshirouzeki-voice.html この坂本民部は、深谷領にいた人なのか、狼藉を働いた者たちのために謝罪に忍城に行った人物のようです。 この人物と同一人物かどうかはわかりませんが近江国の比叡山と関係のある「北獄日吉神社宮司 坂本民部」もいます。 ~~~*~~~ 最上家臣・新田家臣・伊達家臣・仙台藩家臣等に坂本は見えます。伊達家臣は坂本大條氏といいます。 下記は室町時代からの坂元要害と呼ばれている場所ですが、関係しているのは「坂本氏」です。 坂元要害は当初、蓑首城と呼ばれ元亀3年坂元要害(蓑首城)(1572)に坂本三河俊久が築いたとされます。 坂本氏は鎌倉幕府有力御家人だった千葉常胤の三男・武石胤盛の後裔である亘理氏の庶流で南北朝時代時代以降、小斎峠に近い新城山城を拠点としていました。 https://www.miyatabi.net/miya/yamamoto/siro.html http://www.town.yamamoto.miyagi.jp/site/kankou/5767.html 坂本主殿という名前もみえます。(最上家臣団) 創価大学の論文では「坂本主殿は,鳥居氏・保科氏と新しい山形藩主に続けて仕官し,保科氏が会津転封の際にも共に移住している。」とあります。
坂本氏を探る(6)坂本(比叡山東麓)で育った 足利義昭の末裔 坂本 義辰(さかもと よしたつ) 2018-09-24 21:34:15 | 坂本氏 比叡山の東の麓に「坂本」はあります。 ~~~*~~~ 坂本 義辰(さかもと よしたつ、生没年不詳)は、江戸時代後期の陸奥国会津藩士、会津松平家家臣。通称は学兵衛。父は坂本義馮(学兵衛。諱は義応とも) 宝永年間から正徳年間までの松平正容の治世下の会津藩城使に「坂本学兵衛」、宝暦5年(1755年)の御用人に「坂本学兵衛」の名が見られるが、これらは義辰の先祖にあたる。 寛政3年(1791年)に会津藩を通して江戸幕府老中の松平定信に、自身が室町幕府最後の将軍足利義昭の子で近江国坂本で義昭近臣の一色藤長に養育されたという一色義喬の子孫である、という由緒書を提出する。 子孫は松平容敬の御用人を勤める。また幕末の子孫の義続(右兵衛)は戊辰戦争で白河口方面の主将となったが、戦傷死した。その子義劉(栄助)の代で、会津から栃木県足利へ移ったという。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E8%BE%B0 ~~~*~~~ これは、坂本大炊隆中と関係があるのでしょうか? そこはまだ、調査中です。 (仙台藩と会津藩なので、違いますよね??奥羽越列藩同盟で、二藩の坂本氏が同じ白河口で新政府軍と闘っていた…ということでしょうか??) さらに井伊直広の母に「坂本氏」が見え、側室 智貞院(坂本氏)となっています。 子どもは、 忠六郎(?-1772) 南渓院 女子(?-1765) 鶴之亮(?-1769) 女子(?-1771) 直広(1769-1792) 聞溪院、幼名外也 越後与板藩世子 真田幸専(初名直専)(1770-1828) 大暁院、幼名順介 信濃松代藩七代藩主 ・・・となっていて、現在の長野市と関係があります。この母親の坂本氏は井伊家・真田家共に通じ、藩主となる人物も出ていることから、家格も高いのでは、と思われます。
坂本氏を探る(5)成田氏家臣 坂本主水 坂本将監 2018-09-24 14:15:24 | 坂本氏 埼玉苗字辞典 http://saitama-myouji.my.coocan.jp/2-5sa.html 忍城士の坂本氏 成田分限帳に「御物頭・坂本将監」。成田記に「本庄越前守の士卒坂本五兵衛は水練の達人なり」。行田史譚に「坂本主水は遊軍として城中を巡廻す。坂本将監は行田口を守る」と見ゆ。 そして、坂本氏の意味は、『下(もと)は浦の意味で海洋民を指す。坂(ばん)族の海洋民集落を坂本と称す。サカノウエ、バン条参照。』 海洋民と水練の達人の部分が見事につながっています。 将監は↓の参軍、親衛軍、親衛校尉、録事のような意味で使っていると思われます。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BA%9C 主水とは、↓と同じらしいですが、いまいちピンときません。水や調理の調達に関わっていた人でしょうか。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%B0%B4%E5%8F%B8 この「本庄越前守」とは、どなたなのだろうかと思い調べてみますと、他の坂本氏についても少しずつ分かってきました。(ほかの坂本氏は次回へ) この「本庄」は武蔵国、「本荘」は出羽国にあり、そのどちらとも言い難いのですが、置賜郡(出羽)の方には上杉氏の家臣に本荘氏がいました。 また、武蔵国の「本庄氏」はちょっと複雑です。 児玉党系の本庄氏が時家以降に「本庄氏」を名乗り始め、現在の埼玉県本庄市周辺に居館・居城を構えていたそうです。 もう一つ、秩父党系の本庄氏もいます。桓武平氏秩父氏の一族で、本庄城(現在の村上城、新潟県村上市)に本拠を置き、越後上杉氏、長尾氏に従ったそうで、この本庄氏は揚北衆の一氏だそうです。 揚北衆は鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した国人豪族のことで、大きな集団で、加地氏・中条氏も入っています。 上記の坂本五兵衛は、いったいどちらの本庄越前守であったのか…を観ますと、児玉党のようですが、まだ謎の部分も多いようです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E9%95%B7%E8%8B%B1 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E5%AE%9F%E6%98%8E この児玉党系の本庄氏に仕えていた「坂本氏」が成田氏の忍城にいたことになると思います。