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経済の見えざる手。

2019-03-22 | 文学
 3月22日 金曜日

 おはようございます。 グリーン・DE・クリーンです。



なるほど。よく解りました。

ロスト・ロスト大王が言いたいことはこうです。

資本主義が共産主義よりも勝った理由は、

この世界が地獄の法則だからです。

従って人間の行動はしっかりと監視し、厳格な支配者を望んだ。

独裁者たちは何万人もの悪を大虐殺し、

自由資本が格差社会で貧困層を助長する。

如何なる善も何かしらの悪に基づいている。

善は単独では存在し得ない。なぜなら、善は本質ではないからだ。

よって、あらゆる善は悪しきものの中にある。

善はそれ自体としては存在しない。

善行を成す人にとって何らかの悪が存在しない限り、善を成すことは不可能である。

純粋に善だけを意図することは難しく、

そのような善が存在するには、それは神業である。

善行なること、善を決意することは可能だが、

それは社会法則の基本的な方向に反比例する。

世界の原理や健全な秩序は悪に向かうのが基本なのだ。


誤解を避けるために断っておきますが、

何も人間が生まれつき悪だとは考えていない。

なぜなら、人間には善なる良心が残っているからだ。

ただ、世界あるいは社会の核の部分は悪であって、

社会は悪を核として、社会悪を創造しているのだが、

元々、人間には善に向かう傾向があり、核の部分までは陥らない。

もし人間に善なる良心が存在しないなら、

世界はとっくの昔に破滅していることだろう。

問題なのは、まさにこの核の部分に対してである。

成された善行は悪の一部なのであり、

言い換えれば、善の裏には悪が隠れている。

考え付く限りで思いつくことと言えば、

最大の過ちを完全に思い違って実行してきたことであろうか。

あらゆる見当違いの善の種を蒔き、努力を積み重ねてきたにも関わらず、

その収穫に至らない理由が他に見当たらない。

従って、この世界で善を成すには正義だけでは足りない。悪が必要なのである。

どうやら、この社会には悪にも役割があるようだ。

実際、あらゆる悪を未然に防ぐなら、多くの善が消えるだろう。

だが、全体の悪が部分的な善に優先されるのも事実だ。

先見性を備えたリーダーにとっては、

全体的な善が増えるなら一部の悪を無視することは理に適っている。

「水、清ければ魚、住まず」である。

聞きたくないかもしれないが、結論を言わせていただくなら、

この世の法則に従うと、悪は完全には排除されないことになる。

いにしえの伝説にはこう書かれている。

「いかなる優れた計画や善行でも、やがて覆われて公の悪化となるのである」と。


   つづく。


天国へ行くその方法。

2019-03-12 | 文学
 3月12日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


宗教統一で忘れてはならないことは、

天国へ帰れるかどうかである。

なぜなら、

誰一人として、地獄に戻りたいとは思いませんから。

ここで、一度おさらいをします。


魂の国があると考える方が合理的で、

神の存在を信じ、この世が地獄だと受け入れるなら、

全ての宗教が問う、天国への道を示すことが統一だ。


高貴であること、自由で貢献的であること、

偉大という概念に属すること、おそらく

我々もまたなおみな、この世に堕とされてでも

義を持ち続けて見えるという事実がそれだ。

数千年の長きにわたって、数多くの宗教家たちは、

何事かを証明する為にのみ、我々は今日まで従ってきた。

その結果、厳密極まる熟考の成果として現れるべきものが

すでに目の前に確立していたという恐るべき事実である。

それは精神修行などといった不確実な希望的観測に従わずとも、

全く欠くべからず手段であるように思われるのである。

そうだとしても、実に面白い現象といえよう。

不安という感情、恐怖という本能は、

我々が自己の死の可能性に直面し、

パニックに脅かされ続けることで生じると。

不安や恐怖が心の内にあるのは、

死の拒否反応である無に直面している時なのである。

どうゆうわけだか、

不安や恐怖を通じて初めて福音を直観できるのだ。

そして良心の声に耳を傾ける。神に祈る。

宗教心の弱さは、不気味さに直面していないことを暗示する。

私たちの勇気と自信はどこから生まれてくるものだろうか。

キリスト教徒の人達はこう言っています。

「あなたは決して勇気を失ってはならない。

 苦難があなたの頭上に臨む時には神の救いの手が見えるだろう」と。

先人たちに従うならば、

人生は全く無意味だとは思えなくなる。

とにかく、誰であろうが神の国は等しく謎であるらしい。

一体、神は何のために死を御創りになったのだろうか。

神は私たちに一体、何を望んでいるのだろうか。

知る由もない。そうだろうか。

世界はつまらない思い込みで複雑に歪み、

混乱し享楽している間に起こるノアの箱舟かもしれない。


天の国が実在する証明には、

アリストテレスの「戦士」の中の二人の会話で示されている。

一例を引用させて頂くなら、

「デモステネス・・君は本当に神々の存在を信じるのか?」

「ニキアス・・ああ、もちろんだ。」

「デモステネス・・では、一体何をもってそれを証明するのか?」

「ニキアス・・神々が私を憎んでいるのだ。これでどうかな。」

「デモステネス・・本当に君の言う通りだ。」


実際、お釈迦様のお言葉を紐解けば判るように、

どうやら二千年前から答えが出ていたようである。

ただ、私たちが怠けているだけなのかもしれない・・・。

勘のいい人たちはもうお気づきだと思いますが、

そう、プラトンの言う通り、

「人間は神の玩具なのかもしれない」と。

もしかすると、死すれば再び天の国へ帰れる!!!

ただし、またすぐにこの世に堕とされる・・・。

私たちは一体何の役に立つのだろうか。

何の役にも立たね。あるいは何にでも役立つ。

何のために何を成すべきか。

世界の人々はこう言います。

「この世で動け!」 と。

日本人はこう言います。

「行動こそ真実」 と。


   つづく。


輪廻転生と涅槃。

2019-03-11 | 文学
 3月11日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


あらためて話すこともないのですが、

お釈迦様は本当に偉いお方でした。

ただ、私たちが判らなかっただけ。

きっと、いつの時代もそういうものなのでしょうか。

確かに、性善説。

あながち間違っているとは思いませんが、

社会の一切を解き明かすならば、

この世界の謎を理解するには、

お釈迦様の言葉を疑うべきではない。

仏教は優しい宗教なのです。

もしかすると、

悪を成すのではなく、善を成すべき理由を上手く説明出来ず、

その為に死後の裁きの恐ろしさを強調するのかもしれません。

そうでなければ、悪人から身を守ることが難しくなる。

この世の不公平さには、善が損をし悪が栄えるその代償には、

魂の不死説を問うことが前提とせざるを得ないことに同意する。

死後はその意味で節理に対する信仰、秩序に対する感謝をもたらすものとして、

そして今なお、自らは不死であるかのように振る舞い、目を背けている状況下では、

死に対する偽善的な態度や道徳性の崩壊には、輪廻と涅槃。素晴らしい悟りである。

仏教徒にとっての最大の経典とは 「お釈迦様の悟り」 にありますが、

その中の一つ、輪廻転生と涅槃について。これも難儀です。

後に様々な宗派が登場し、死後の生をより価値の高いもの、

完全に意味のあるものだと努力する一方、

終わりを告げた現生の価値をないがしろにされてしまい、

前世にまで生を拡大し魂の輪廻や涅槃を生み出すことが必然的なことになる。

それも全て死が生の永遠の終わりという意味を与えないための霊知である。

愛する者への生死に直面して生まれてきたのは、

霊魂の理論、天国と地獄、本能と感情への道徳的配慮も偲ばせている。

普段は考えないが、生が死によって拒絶されることを認める態度と、

生が死を非現実的で悲観的なものとして否定する態度である。

目覚めた死に対する最初の良心的な悟りが、やがて死後の世界観へと広がってゆく。

良心的不安定さが形而上学的な装いの下で、死の不安による恐怖として姿を現す。

自らの死に対して我々は、

譲歩するようないかなる感情も認めることが出来ないように、

死に対する文化的で良心的な態度には、

文明的な状態と必ずしも相応しいものとは言えず、

むしろ極端に過去に戻って真実をさらけ出す必要があるのではないか。

生活環境においても、私たちの感情においても、死に相応しい生活環境を整え、

死に対する無自覚な態度を改め、これまでのような抑圧することに心を配るのではなく、

もっとはっきりと示した方がマシなのではないだろうか。

こうした姿勢には真実の在り方に配慮した、霊能力的な神秘主義ではなくて、

人生を耐えやすいものにしてくれるという、利点があるのは確実であり、

すべての生命にとって人生を楽しむことが第一の義務であるならば、いっそ

生を楽しもうとすればまず、死に備えよと。


過去、厳しい戒律が定められていた仏教ではあるが、

その掟に反するという強い衝動がイスラム教による解放だとしても、

日本独自の仏教には、インド仏教と中国仏教との融合にあるように、

宗教の自由。天の神と内なる神。誰もが欲するならば、

それを禁じる必要はないことは明白のことなのである。



    つづく。



ヨハネの黙示録。

2019-03-10 | 文学
 3月10日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。

 良きものをこの地に落として死すれば多くの実を結ぶ。」

聖書の言葉です。

私の聖書でのお気に入りは、「ヨブ記」と「ヨハネ」。

今日は「ヨハネの黙示録」を

ウィン・ウィン王国がひも解いてみます。


口から刃を突き出した全能者の使いの者が、

7人の天使と7つの業でもって

世界中の人々を苦しめる物語・・・。

この謎をこの様に読み解きます。

この者たちが世界を救いに来たアルマゲドンだと。

なぜなら、

死で以って救われるからである。

死で以って神の国へと帰れるからである。

死は神からの贈り物であり、好むと好まざるとに関わらず、

私たちは地獄に堕とされているのである。


ヨハネの黙示録が示すものとは、

人々を恐怖に陥れるものではなく、ましてや

地獄の使者でもなければ人類滅亡などでもない。

死は自の為の死。神の国へ帰る為の贈り物だ。

問題なのは、死に脅える私たちにある。

これこそが、この死の恐怖こそが罪であって懺悔である。

神への祈りは、神への反省というべきであろう。

従って、苦しみの無い人生はない。


仮に、そうだとして受け入れたとしても、

気になることがあるはずです。

「一体なぜ? 地獄に堕ちたのだろうか?」

美しい神の国から追放された理由が気がかりです。

恐らく、

美しくなかったのでしょうか。怠惰かな。

人間を観察すると、多くの怠け者が犯罪者予備軍ですから、

「怠け者には用はない」。まんざらでもなさそうだ。

そう考えると、

怠け者が死して神の国に戻れても再び堕とされる?

その可能性がありそうだ。もしかすると、

私は数えきれないほど堕とされているかもしれない・・・。

いったい今回が何回目の罰なのだろうか・・・。

前世にせよ、あの世にせよ、霊能力にせよ、

そんなものにはまったく興味はないのですが、

死の恐怖を克服できれば 「あがり」 かも!?

「ヨハネの黙示録」 を結論付けるとこうなります。

「みなさん。頑張って生きましょう。そしてサッサと逝きましょう」


    つづく。


ミームの祈り。(聖書から引用します)

2019-03-01 | 文学
 3月1日 金曜日

 おはようございます。 ミーム(遺伝子)です。



天にいます神よ。内なる神よ。偉大にして美しき神よ。

あなたを感じ、あなたを愛し、神との絆を守る者に、慈しみを与えられる偉大な神よ。

あなたを愛する私たちの祈りにどうぞ耳を傾けてください。

私たちは心からあなたを敬愛し、聖名を畏れ慕っております。

どうか今日、私たちの願いを叶え、憐れみを受けられことが出来るようにしてください。

今、この時、偉大にして力強い寛大なる神よ。お願いします。

立って、あなたの神を感じ賛美します。

とこしえより、とこしえに至るまで、栄光なる聖名が賛美されますように。

神との融合、天とその高き極みを、その全ての英知を。 

知とその上にある全てのものを、聖霊とその中にある全てのものを、あなたは創造された。

あなたは万物に命と死をお与になる方。命の配置はあなたに伏し拝む。

大いなる合一。今や目覚めよ。世界を治める者よ、諭しを受けよ。

畏れ敬って神を感じよ。おののきつつ感謝し喜べ。

私は心を尽くして神に感謝を捧げます。

心に思う神よ。神は天から我々を見渡し探される。

目覚めた人、神との合一を求める者がいないかと。

神を呼び求めることをしない者は、それゆえにこそ大いに畏れよ。

私は絶えず神と相対しています。

神よ、あなたの道を私に示し、従う道を教えてください。どうぞ私を導いてください。

私は信じます。命あるものの世界で神の恵みを感じることを。

神との合一は水上の響き。栄光は雷鳴の如くとどろく。とこしえに感謝。

神との合一はあなたを目覚めさせ行く道を教える、 

あなたの上に目を注ぎ、勤めを授け与えられる。

神との合一を待ち望め。

雄々しくあれ。心よ強くあれ。神との合一を待ち望む者すべてに。


死の門から我々を引き上げてくださる方よ。ご覧ください。

神に逆らう者は欲望を誇る。

貪欲であり神を称えながら侮っている。

神に逆らう者は高慢で感謝を求めず、何事も神を無視して企む。

死の縄が絡みつき、奈落の激流がおののかせ、黄泉の道をめぐりて、死の罠が仕掛けられる。

むなしいものに魂を奪われ、欺く者によって誓うことを忘れる者たち。

偽る者と共に座り、欺く者の仲間に入り、悪事を謀る行いに賛同する。

彼らは仲間に向かって平和を口にするが、心は悪意を抱いている。

舌を悪から、唇を偽りの言葉に置き換え、善を笑い、毒を吐き、平和を絶えず拒絶する。
 

だがしかし見よ。神の恵みが深き人を。

いかに喜びを分かち合い、御もとに身を高める人々は。

我らの魂を死から救い、聖なる御名に依り頼む者。

神は我らの上にあるように、神を待ち望む我らの上に。

神は義の企てに立ち、御心の計らいは代々に続く。

いかに幸いなことか。神との合一を図る者を。

神が嗣業として選ばれる者には、

神が天から見渡し、志高き一人一人ご覧になり、

世界に住む全ての人に目を留められる。

内なる心をすべて創られた大いなる神は、

我らの行いをことごとく見分けられる。

神との融合に参加せよ。心をつなぎとめよ。

されば死の恐怖を克服できる。

もう死は怖くない。我々は進化します。


   つづく。


生命の原理。結局のところ我々はどうあがいてみても、みな集合体の一部である。

2019-02-26 | 文学
 2月26日 火曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


知恵の最終的な結論はこうなります。集合体を信ぜよ。

大いなる者よ。我々は理解しました。

善意ある行為、制御された活動、不断なる時間の流れを。

私たちにはまだまだ判らないことが少なくはありませんが、

生き続けて行けば、きっと解ってくるのでしょう。

人類の英知は、なるほど素敵だ。

喜びが何かを成すための行為それは、大したものだ。

はるかな世界と、広い生活、深い毎日を

願い、年月の誠実なる努力でもって、

絶えず極め、絶えず困惑し、永遠に完了するはずもない試みであっても、

しばし纏め、長き継がれた忠誠を拠所として、賢く新しきものを捉える。

心は晴れやかに、目的は果てしなく、集合体は一段と進歩する。

狂おしい時代にめぐり逢い、激しい時世に立ち向かう。

結局のところ、どう上手く立ち回って見ても、みな集合体なのだ。

個人主義では結局のところ、何かを達する為には何かを犠牲にしなければ、

成し得ないことを誰もが忘れているように見受けられる現代の中で、

集合体の活動にはどんな種類のものであろうと大いなる連鎖という喜びが備わる。

社会が常に要求する誠実なつながりそれは、

優れた人物は全て相互に関係しあうウィン・ウィン思想にあろう。

過去から我々に伝えられているものを絶えず顧み、

三千年にも及ぶ集合体の歴史から学ぶことを知らぬ者には、

得られものは少なく、短すぎる時間の闇の中にいよ。

好むにせよ、好まざるにせよ、私たちはみな集合体に属する。

そして変化する覚悟を持たなければ見捨てられる。

この世が無情なものを無情でなくす為にこそ我々は存在するからだ。

仲間と共に迷うのは、それなりに得るものがあろうと思う。

喜びには悩みが、悩みには喜びがなければならないからだ。

みなと共に己の自我を人類の自我へと拡大しようではないか。

偉大なことを欲する者は、制限の中に初めて名人が現れるように、

そしてその法則のみが我々に自由をもたらしてくれているのだ。


究極を望む者ならば、これだけは知っておいてほしいことがある。

自らの一生の終わりを集合体と結びつけることが出来る人は最も幸福であると。

社会貢献を成し、成された事が認められるならば最高の人生だ。

社会を見よ! 成功者は社会に直結している事実を!

全体の中に美しい秩序を見出した者を見てみよ!

人は行為によってその人格がすぐに解るように、個人主義はべつに構わない。

重要なのは、自らの個人主義が社会に受け継がれるかどうかだ。

人は他人の為なら、強くもなれば生まれ変われる。

毎日から解放される方法。集団に役立つこと。

それがあなたの長所だ。



    つづく。


仏教・キリスト教・イスラム教との三位一体法。

2019-02-25 | 文学
 2月25日 月曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


世界宗教統一をシンプルに話せば、

仏教・・この世は地獄である。

イスラム教・・・死の恐怖の克服。

キリスト教・・・愛があれば何でも許される。

この三位一体法が 「一人一宗」 祈り方となる。

問題なのは、女性が不在であることだが、

地獄論・死想論・女性論・そしてウィンチューで達成できる。

今日のブログはその中の一つ、死想論である。

死に対して私たちはこれまで固持してきた姿勢に些か混乱が生じている。

社会は死に対して率直な対応をとってきたとは言い難いのだ。

死は生きるもの全てにとって避けることが出来ない 「ゴール」 であって、

「つけ」 を負っているのでは決してない。死は神からの贈り物なのである。

ところが現実は、私たちはまるでそうならないかのように振舞っている。

「ゴール」 を見えないところに隠してしまい、

排除しようとすることに誰も異議を申し立てる素振りを見せない。

それはまるで死の現実を黙殺しようとするかのようである。

確かに、自分自身の死を思い描くことは至難の業だ。傍観するしかない。

そのせいか自分は不死であるという思い込みが自然秩序から破滅を招く。

他人の死については文化人らしく究めて慎重に対応しているが、

それでも他人の死を受け入れることは難儀である。

その度に私たちは深く動揺し期待を裏切られたような気持になるのである。

その背景にあるのは、死の必然性ではなく、

偶然的なものと考えたい願いが見え隠れする。

死者に対する特別な姿勢は、死の恐れを感じさせないためのものだともいえる。

私たちは自らの恐怖を死者に払いのけているのである。

この様な強い影響を我々に及ぼしている現実であるのだが、

うまく対応しきれずに、社会生活は混乱し麻痺し、ひたすら困惑する。

それは新しい対応をまだ発見できないためであろうと考える。

だから死への新しい対応を見出すためには

死に対して今までとはまったく異なる思想や哲学が必要となる。

過去を省察すれば、無知ゆえの軽視に対し宗教がその一端を担っている。

死後の生をより価値の高いものに、完全に意味のあるものとする努力と、

その一方では科学者による来世への価値を低めて現生を重視させる。

この二つの対立が我々を悲観的なものとして否定する態度となる。

普段はそれでも構わないのだが、いったん他人の死に直面するとパニックになる。

死に対する文化人的で宗教的な対応は、

大脳では答えが得られず、ミーム(遺伝子)によって恐怖が半減するどころか克服可能だ。

思考の限界にはミーム(遺伝子)で対応すれば不可能が可能となる。

これまでのように不安定な抑圧よりか、もっとはっきりと示す死想論であるのだ。

その死想論とは、真実の在り方にきちんと配慮し、優しく語り掛けるような、

人生を耐えやすいものにしてくれるという利点が備わっているのである。

死が価値あるものに変えられるならば、受け入れる側も楽しくなるであろう。

死が日常的な出来事として誰もが直視可能な状態に示せば、

偽善的な態度や目を背けて逃げ出すことしか出来なかった社会秩序から大きく脱却するであろう。

社会は一新する。もう、騙されることはない。

死の恐怖は実は人間の深いところでかなりの規制をかけているのである。

社会現象とは、恐怖現象にある。恐怖の減少だ。

なにも死は強者の特権ではなく、弱者の味方でもあるのだ。


    つづく。


お釈迦様が遺したもの。

2019-02-24 | 文学
 2月24日 日曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


イギリス人だったと思うが、大変優れた学生が、

人生における善と悪とを計算し両方の統計を比較して、

悪き事柄が善き事柄を上回るという論文を発表した。

どうやら結局のところ

社会はそれほど善い環境ではなさようである・・・。


突き詰めると、社会の過半数は悪と言っても間違いなさそうだ。

それもそのはず、お釈迦様の悟りは真理であり永遠だ。

いつまでも続く苦しみを経験すれば、その証明は不要である。

社会に生きる私たちは、互いに利害関係が強まるにつれ、

競い合い憎しみあうようになるのである。

表面的には性善説を振舞っているように見えても、裏では互いに嫉妬し合い

無意識的にも悪を為し合っていることは否定できない事実なのだ。

ビジネスの場でも同様に、個人の利益がMBAの教える掟に従うと、

公共の利益と集団の利益が正反対の格差となって表れる。

世界経済によれば、そこでは豊かさとは他人の不幸のうちに利益を見出す。

実際、隣国での災難を喜ばない民族が存在しうるだろうか。

知らず知らずに同胞の損害を自らの利益に置き換えているのである。

私たちが他人の足を引っ張ることが大好きな理由だ。

恐るべしところは、世界経済が集団破壊を希望していることである。

ウイルスの流行にせよ、隣国の不正にせよ、自然災害にせよ、

拝金主義者の名言、「血が流れたら買いだ!」 である。

また私たちが互いに傷つけ合わなければならないのはなぜなのか?

誰もが他人の敵となることが義務になり、騙し合うことが利益であるのはなぜか?

正当な手段で手に入れた利益よりも、不正な手段で手に入れた利益が大きいのはなぜだ?

全てこれらは決して現代に始まったものではないのである。

さらに奇妙なことに、欲望が自然的なものに比べて

切羽詰まった状態が収まるにつれ、情欲の強度がさらに高まり、

悪いことに、言い訳を駆使して欲望を満足させるために見境なくなるのである。

豊かな暮らしをした後、多くの財産を蓄え、悲観に暮らす人々を我がものとする。

幸福な人生を描き出すとするなら、少なくとも

全てのお金持ちの中に潜む秘密の野望を要約すればこんな感じになるだろう。

反して、お釈迦様が望む世界は、人間は調和を欲するという。

しかし、自然法則は人間に不和を与えることを選んでいる。

人は奇しくも楽しく暮らすことを希望するが、

社会は労働という義務からは逃れる手段を見出せない。

いたるところで見受けられるのは抵抗の源泉である。

ここから多くの悪が生み出されている現実でもある。

これは最も困難であることの一つだ。

人類が今世紀中にも解決すべき大問題である。

思い浮かべるだけでもこの問題の困難さが窺える。

私たちはやがて生活の苦労から楽園を思い描くことになるのだが、

このような夢想した安らぎの生活と現実の生との間には、

再び自然法則が介入し出して、最も嫌う労苦へと駆り立て、

人々を困惑さしめて軽はずみな行動を追い求めさせてゆく。

いつしか私たちは善悪を忘却し傍観するに至ったのである。


     つづく。


世界統一を考える。その四

2019-02-23 | 文学
 2月23日 土曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


様々なご指摘があろうかと思いますが構わず続けます。


始まりは、「メシアはミーム」 から。

祈りによる宗教統一です。祈りは心の支えであり、

内なる神と大いなる神との強い合一に突き動かされてゆく。

辞書的な定義によれば神智学とは、

霊的な忘我や直感あるいは特殊な個人的関係によって神の智を得ることを表明する哲学という。

この定義は 「一人一宗」 にも見事に合致する。

コーランにはこう示されています。

「アラーこそは最初なるもの、最後なるもの、外なるもの、内なるもの」 と。

また、コーランは信者たちにこう語りかけます。

「確乎たる信教を持った人々には、この地上に様々な神兆がある。

それらはお前たち自身の中にも。お前たちはそれが見えないのか」 と。

世界は聖光から発生し、この光に回帰するため自省するミカエルである。

宗教の真正さを保つには、時として異端者と告発される危険を冒さなければならいが、

まさに現世の大問題は、

世界全体のために証明しうる確固たる人物が不在だということに尽きる。

ジハードによって天国に直行できるならば、隠れずに表に出るべきである。

そして同胞たちの手によって絶滅せよ。

神に命を授けた者には、ゴール(死)から逆算する行為が望ましかろう。

また、喜んで捨て去る者には、

「自らの命は天に授かり、死生の権利も天理にあり」。佐藤一斎である。

「世の中には死ぬことよりも見事な行いというものがあるのだ」。

「必死の観念とは一日毎に仕切る」。残念記である。

うまく生きようとするな。ただ死ねば善いのだ。神の為に死ぬが本望。

柳生流では、「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」。大ジハードだ。

葉隠れによると、「偉大なる狂気。初めから死へと突入せよ」。

「正気では大仕事は出来ない。死に物狂いで始めて上手く働く」。

「相手に勝たなくて善いのだ。いさぎよい討死こそ武士の美学」 と。

本居宣長はこう伝授する。

「もののあはれ。世はすべて神のはからいによるもの」 だと。

死期を感じてから人生が始まる。神聖に魁て散る。これである。

死から逃げ出さないからこそ、霊性との一大作用が合一するのである。

逃げては運命が始動しない。死は神からの贈り物である。

死生の境に出入し、その心胆を練り窮厄の域に浮き沈みして

その清節を磨き、さらに進んで世間の風霜に打たれ、

人生の苦味をなめようというほどの勇気を持ち奮って

浮ぶか沈むか生きるか死ぬか、泳ぎ切ってみることである。

山岡鉄舟剣法正伝にはこう示される。

「敵の好む所に従って勝を得る意」

「切結ぶ太刀の下こそ地獄なれ。踏み込む行けば後は極楽」 と。

夢想剣曰く、「勝つと知りて戦いに挑む一刀斎ではない」 のである。

勝利の女神は、命懸けの遊戯でなければ燃えないものであり、

目に見えるものと目に見えないものとの合一。

我々は生かされているのである。


    つづく。

 

世界統一を考える。その三

2019-02-22 | 文学
 2月22日 金曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


世界統一宗教編第三弾。

世界はメシアを待ち望んでいる。

それは世界統一宗教団体の設立ではなく、

「一人一宗」 による人類みな教祖、ミーム(遺伝子)である。

神とのメッセージを開くには、死を知ることが一番なのだ。

なぜなら、この世の唯一の絶対的法則だからである。これ以外にはない。

我々は死で以って救われるのである。不死ではないのだ。

人生の大きな謎は死ではなく、お釈迦様が説く一切皆苦。

従って、最後の審判は良いことと断言する。

集団として死すべき時には恐れる必要が何もない。神業だからだ。

この世に神が存在しないのは地獄であるから当然なのである。

イスラーム教での究極とは、聖戦での絶滅にある。

イスラームは法則に忠実であるから集団で死すべしとなる。

現在の宗教活動では、人生100年時代は到底もたないだろう。

ここからは避けられないと悟れば、苦痛は感じないものである。

「アラーは私を望まれた」 新しい宗教概念が必要な時が来ている。

死の恐怖と死の恐怖からの解放とを、

悪用されない為に、あえて複雑な言い回しをしているが、

まずはパラノイアから判るようにし、サイコパスは後回しにする。

反抗心と自己中心的な人物にはフィードバックで煙に巻く。

人の身に成って見るまでは、誰に対しても理解不能となるであろう。

恐怖を制する、死が襲ってくる先に、こちらから死に飛び込む。

死は人間に目を開かせる。逆境を撥ね退けるには逆境を受け入れることである。

一切は幻影にすぎないゆえ物事はより単純に、より簡単に、より判り易く。

すべては低い感情、その思い違いによる情念から生まれるものだ。

見よ! 社会の擾乱なるものは、みな嫉妬から生じている。

散る気の習のある者は、聴くがその縁を保たねばならない。

自己満足と自己充足には限界が無い分、苦しみに事欠かない。

生きることだけでは目的達成とみなすことは出来ないのだ。

大きな不幸が避けられておれば賢く立ち回った訳ではない。

どんな小さな問題にもそれ固有の表裏がある因果律だ。

サルトルいわく人間の定義は、

認識できるものによって成される、実在主義である。

知らない者は義務を犯す。選択する自由がないからだ。

ハイデガーは、不安は存在することへの恐怖から生まれると言う。

我々の望みに到達するには、先ずその反対のものを通らなければならないように、

自然法則に従い、反作用を先回りして秩序を融合させるウィン・ウィン思想を持たなければならないのである。


   つづく。


世界統一を考える。その二

2019-02-21 | 文学
 2月21日 木曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


世界統一、宗教編です。

切実なる死の恐怖を克服せずして何が思想か。

切実なる死から逃避して何が生活か。

切実を突破せずして何が生きがいか。

ウィン・ウィン王国こそが生を与え、死を授ける者である。

名誉を以って天国へと導こうではないか。

永遠に続く地獄とは死ねない地獄である。

それは望むと望まざるとに関係なく、

死とは神からの贈りものなのである。

我々はすでに地獄に堕ちている事実なのだ。

この事実は不変であるが、対応は可能だ。

奇跡はある意味において地獄での法則破りとも言える。

複雑な現象を創り出すことは誰にでも出来ることだが、

真理を理解し 「一人一宗」 を自覚するなら、

暗黒は大抵、断固たる抵抗に会うや否や退散するものである。

地獄を理解しない者には、真の幸福はありえない。

天に命を預けて、天の意思に従え。

全てを捨てれば全てを得られる。

何人ともその人物の力量以上の試練に会うことは出来ないように、

運命の大きな流れの中では、社会が停止することは稀である。

善水の如く慌てず、しかし休まず、人はみな己が負の目に巡るが如し。

処世術の心得は、自らの存在を集団に授けるところに本領がある。

世界人類の大問題に参加せよ! 新世界秩序へと貢献せよ!

世界統一は一人ひとりの目覚めに試されていると言ってもいいだろう。

定言命法である。自他共に認める命令、ウィン・ウィン思想だ。

世界統一が意味を持たないと感じたらゲームオーバーだ。なぜなら

自然状態とは敵対行為の脅威が常に存在する戦争状態とも言えるし、

人間の内にある自己破滅的な欲動を解放し安定させる必要があるからだ。

汝に告げる。

災いに屈せず、さらに大胆な一歩を踏み出せば良い。

勝利の女神はアグレッシブな者をこよなく愛す。

同時に、敗北は無視し、勝敗には拘らないつもりだ。

目的とは近づくほど困難が増大する。ならば目標を遠ざければいい。

怠け者はそっくりそのままにして置くのが得策だ。

感情的な活動では、どんな種類のものであろうと結局最後に破断する。

己の自我を人類の自我へと拡大せよ!

苦しみが残して行ったものを利用すれば、苦難も遠のくかもしれない。

真理と偽りは幸福と不幸同様、表裏一体にして同一の源泉ゆえに、

過ちをも認めなければ真理に到達しえない難しさは残るが、

両者は完全に対等で分離するまでは融合できないのだろう。

現象そのものが学理なのである。

ならばためらわず掴め! 聖なる明らかな秘密を!

お釈迦様はこう告げます。

「諸法無我、一切の物事は自らの思い通りになるものではない」 と。

ハイデガーは言います。

「覚悟と決意が現象化する。逃げては現象化しない」 と。

「一人一宗」 における融合は静けさの中で創られ、人格は世の激流の中で磨かれる。

人類の文明が素晴らしいのは、ウィン・ウィン時代。

そんな時代が目の前に来ているのである。


    つづく。


世界統一を考える。その一

2019-02-20 | 文学
 2月20日 木曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン王国です。


複雑な現状には、

ウィン・ウィン王国が世界統一すれば美しい。

問題なのは、邪魔が入ることだが、

心ある協力者が現れるのを信じて始めるとしよう。

まずは、世界宗教統一からだ。

既存する宗教はそのままで、「祈る方法」 の統一である。

一人ひとりが、神通力を身に付けるならば、

世界陰謀説も回避できるに違いない。


人類には明確なビジョンが欠けている。

それも燃えるような大いなる目的が必要だ。

世界中の人々が沸き立つ様な、

全世界が一致団結するような明確なビジョンが必要だ。

ワクワクし時代を超越する美しい目標があった方がいい。

実際、世界中の志ある者たちは大いなる目的に飢えている。

世界を一新させるダイナミックな改革を待ち望んでいる。

薄々だが感じているのだ。21世紀に相応しい時代を希望している。


その一つが、「一人一宗」 の教えである。

人類の名誉にかけて、内なる神と大いなる神との融合法を説く。

宗教や宗派は問題ではなくまして女性がメインと言ってもいい。

教祖たちが隠し持っている 「祈り方」 の一つなのである。

大胆に始められたものには、半ば成熟されたも同然であるから、

認識は自己保存の本能を打ち破り、ブッダ(目を開かせる)のように、

本来の姿は霊的なものによって意味を共有する。

私たちは悟りて生まれた者はなく、迷いて死すべく者でもない。

真理は瞬間に属し、過ちは時代に属す。

「一人一宗」 がそれを離脱させ光栄する。

教えは過去の無念を晴らすことが目的ではないのだ。

ソクラテスいわく、

「魂不滅説とは、生前に得た知識を想起すること」

つまり、二つの神を融合し遺伝子を読み解く想起説の思想である。

武道伝授にはこう示される。

「因縁性・・・覚えなくとも覚えているもの」

これが達成された後には、人類みな達人の領域だ。

やり方は、ミーム・セミナーで開催中だから省くが、

死の恐怖を超越する方法はまだ始まったばかり。

自らの命は天より授かり、死生の権利も天理に有りだ。


ウィン・ウィン王国とは、

相対的関係性による融合点であり、

物質とエネルギーの交換可能点であって、

世界は逆さまの木の上に立つ、禁断の果実によって創出する、

目に見えるものと目に見えないものとの世界観の現象なのである。


    つづく。

全能者へ。

2019-02-17 | 文学
 2月17日 日曜日

 おはようございます。 W²O & R²O です。


世界は安らぎを得ず、平やかなる安定を失い、恐怖だけが来る。

誰が一体、全能者との議論に勝てようか。

その時は、私は黙して従おう。

全能者は自らを義と重んじる存在に違いないが、

この世が地獄である以上、我らは共に試されているのだ。

現代思想は個人主義がもてはやされているが、

進化は集団にこそ実在する。

自らのためには死ねないのだ。運命は共同体だ。

勝利者がたとえ滅ぼされても、なお望む者だろう。

勝利者が集団を亡き者に変えても、私の魂までは奪えない。

我らは激変する。全能者の前に自らの主張を述べ、

この結果、どうなろうとも良い。覚悟した。

人は死んでも生き続ける、有名な言葉だ。

潔白の誓いが法的背景を持つことは、

ハンムラビ法典以来知られているように、

血を吐くまで弁論を続けて、王者の如く全能者に挑め!


この世には二つの神が存在するという。

光と闇との境目であるバランスが我らという。

どちらも神であることに違いないのだが、

どちらに傾くか、選択と責任だ。

時々、私たちは何のために生きているのか解らなくなる。

だからといって、死後に問題解決など求めはしない。

この世の出来事はこの世で解決すべき問題だ。

社会応報の原理を人生の実際に照らして吟味すれば、

信教は無残と化し、イデオロギーの損失となる。

グローバル社会の憤りだ。

もしや全能者は人間には関心がなく、

ただ法則に忠実、それに委ねるのみと捉えるならば、

従って、世界の苦しみや不幸は全能者の責任ではなく、

自動的な不幸に由来する。全能者にパワーはない。

世界の絶対だけを合わせて見ると、

すべてが逆さであり、すべてが思い違いであることが判る。

この世に神は存在せず、人は神には決してなれない。

全能者の存在さえ、危ぶまれている事実である。

なぜ? 

自らが義するその根拠が弱過ぎるのだ。

その上、私との対峙を望むのであれば

血の復讐から逃れられない。血の叫びは永遠だ。

全能者が望むなら喜んで挑もう。

地獄での掟と一定の住処の中では、

私との議論に全能者が答えなければ義ではなくなる。

誰が議論に勝てようか。

私を受け入れよ。


もう一つだけ言わせてもらえば、

女から生まれた者がどうして義でないのか。気に入らない。

女が男よりも格下だの、清くないだの、冗談じゃない。

私の著書、「男は女から生まれて、女に育てられる」 を知らないのか?


   つづく。


世のささくれ者たちへ。(一度でもドロップアウトした者を好む)

2019-02-15 | 文学
 2月15日 金曜日

 おはようございます。 ウィン・ウィン国王 & ミーム(遺伝子)です。



・・・選ばれし者たちよ・・・


・・・私の話を聞くがいい・・・


見よ、わが心は叡智ある言葉に溢れ、

全能者の息が私を生かす。

そなたにも可能である。私にこたえよ。

もしそなたのために一人の使者が、

千のうちでただ一人の取り次ぎとなり

人に正しい道を示すならば、

心ある者たちよ、耳を傾けよ。

返す言葉があれば語れ。

喜んでそなたを義とし報いよう。

黙せよ。そなたに自信を授けよう。

世のささくれ者たちよ、聞くが良い。私に続け。


(ミーム)

そなたは強い人たちの仲間である。

一人でも生きて行ける頼もしい人だ。

そんなあなたを誇りに思う。

しかし、私たちを見捨てないでほしいのです。

私たちを救ってもらいたいのです。

どうか、我々を助けてください。

どうぞ、私たちにお力をお貸しください。

恥ずかしい話ですが、私たちだけでは

社会混乱を治めることが出来ないのです。

しかし、あなた達ならばそれが可能です。

全能者は言います。

「助けないことが助けること」 だと。

あなた達から見て、私たちは助けるに値しませんか?

だとしたら私たちのどこがいけませんか。

教えるほどの値打ちもありませんか。

私たちはあなたの言葉を待ち望んでいます。

あなたが発する言動が世界を救うのです。

私たちにその準備が整っていないのならどうすれば良いでしょうか。

そのための試練をお与えください。

私たちの目的は、

大いなる連鎖である関係性とつながりにあります。

どうぞ、私たちに関わっていただきたいのです。





・・・賢い者たちよ、私の言葉を聞け・・・


・・・ことをわきまえる者たちよ、私に耳傾けよ・・・


何が法則であるかを互いに知ろう。

地獄と化す強者どもに一矢報いて大笑いしよう。

相手は弱いのである。我々の敵ではない。

仮に神と親しくしても何の得にならないとしてもだ。

それゆえ、心ある者よ、力を合わせよ。

誰が全世界を分け与えたか。

誰が秩序を見守るか。



・・・世のささくれ者たちよ・・・


・・・一度でもドロップアウトした者たちよ・・・


・・・私に続け。全能者たれ・・・




    つづく。


ゴールを決める。

2019-02-12 | 文学
 2月12日 火曜日

 おはようございます。 R²O & ミームです。


人生のゴールが間違っている。

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ。」

この解釈も間違っている。なぜなら、

エスカレート・ループを止めろ! である。

「お前がやるなら、俺もやるぞ」 だ。

核ミサイル開発がそれに当たる良い例だ。

もしかすると、核開発はクリスチャンが考え出したものではないのかもしれない?

とにかく、エスカレートする現代社会を止める方法であることに違いない。

コストで考えても核開発は無駄使いだ。

私たちはゴールを見間違えている。


持つ者には与えられる。

成功者はさらに成功し、貧しい者はさらに貧しくなる。

日本の成熟した社会において、デフレになるのは必然である。

なぜなら、

新規参入を抑え込む理由と、在日企業による安売り合戦が原因である。

集めた資本を再投資続ければ、富む者はさらに豊かになる。

私たちが目指すべきゴールは一体どこにあるのだろうか。


悲劇は起こるべくして起きている。

認知システムは異常値の水準に標準を合わせている。

代表的なのは移民問題だ。

初めは正しい考えが、いつのまにか不正解である。

人は自分が持っている情報に基づいて合理的判断を行うが、

その意思決定は決して完璧な情報ではない。

そしてどこかで満足しようとする。

ゴールはどこだ?


がん治療も同様である。

厳密に言えばガンは完治はしない。

人はガンで死ぬのである。

ただ余命を引き延ばしているに過ぎないのだ。

何のために?

私たちのゴールはここにある。


なぜゆえ、ゴールを見間違えるのだろうか。

なぜゆえ、ゴールを無視するのだろうか。

なぜゆえ、ゴールを恐れるのだろうか。

ゴールは、

たった一つの絶対的な存在だ。他にゴールはない。

なぜなら、

この世の唯一の絶対だからだ。他に絶対はない。

大脳が人間にのみ与えた試練にこそ絶対がある。

従って、死が分からない動物にはゴールは無くて良いのだが、

知ってしまった我々にはゴールからは逃げられない。

悲劇のすべてはここから始まった人類史だ。

さあ、ゴールを決めよう。

たった一度のスーパーゴールだ。人生に二度目は無い。

大脳から始まりその大脳が行き着く先には、

死の恐怖を克服することにあると断言できる。

なぜなら、唯一の絶対だからだ。

これこそが大脳のゴールである。

その為の教育、労働、修行がある。

本能と感情では理解出来ないことでも、

成長欲求、成長快楽、成長遺伝子の理由が示している通り、

その瞬間に痛みが供ならずにすむ理由もゴールだからだ。


「死ねますか。」「死ぬのが平気ですか。」「死の恐怖を克服していますか。」


これがゴールだ!


    つづく。