1月18日(月)
朝、障子を開けて外を見た。
雪である。
6cmぐらいかな?
テレビでは大雪だと言う。
あれっ!そうかな?これぐらいで大雪?
ず~っと前の東京では、ずんずん積もる雪に、車で帰る苦労をしたことがある。
その前には渋谷の宮下町の坂道で、滑って転びそうになったり学校のぐちゃぐちゃの運動場に敷かれたむしろの上を校舎まで歩いた思い出がある。
あの頃の東京の雪はひどかった。それに、比べて、今日の雪は少ないと思う。
しかし、日頃、雪が降らない場所では、雪に対する注意や対策がわかっていないからだろう。
交通機関までが、日頃の便利さに抗うようだ。
幸いと、我が家のある地域は雪があまり積もらない。
積もったらどうしよう!と思う。
以前の私は、率先して雪かきをしたものだった。
もう、そのような元気は無い。
立つのも厳しいからだ。
雪といえば、思い出は多い。
戦後、途中で、学校へ行くにも、田んぼの真ん中の縄手で雪を払えなくて、休んだこともある。あの時はきつかった。こういう時の田舎暮らしは辛いものだ。
交通機関は可成り厳しくなる。多くの人達の苦労が一度に吹き出した感じだ。
ああ、今は責任のある仕事についていない事を幸いだと思う。
それに、今日は、やはり病院の予約はしなくてよかったと思う。
~~~~~~~~~~~
<仁川の冬:その1>
仁川の冬は厳しかった。朝鮮は三寒四温がはっきりしている。
めったに降らない雪が降ると、なかなか、雪は解けずに滑りやすくなる。
電柱などの周りにかき寄せられた雪はそのまま春まで解けないことが多かった。
子供達は面白がって、雪の小山に足をずぶりと入れる。
入れた足の穴は、そのまま、春の訪れを待つ事になる。
これも、この街の風物詩ではないかと思う。
時には、坂道の多い仁川では、凍りかけた雪道で誰それさんが転んだと言うニュースも伝わった。
道路にまいた水が凍って、姉がスケートをした事を思い出す。
霜焼けやヒビになった痛む手を、手袋も出来ずに寒い朝礼で我慢した事もあった仁川の冬。
春を迎えるまでの『我慢の子』だった。
私たちは教室に入ると、一斉に石炭ストーブに当たりに行ったものだった。
それにしても、春の日差しを浴びるようになって、電信柱の雪の山が日に日に解けていく様子は、まさに仁川の冬の思い出である。
朝、障子を開けて外を見た。
雪である。
6cmぐらいかな?
テレビでは大雪だと言う。
あれっ!そうかな?これぐらいで大雪?
ず~っと前の東京では、ずんずん積もる雪に、車で帰る苦労をしたことがある。
その前には渋谷の宮下町の坂道で、滑って転びそうになったり学校のぐちゃぐちゃの運動場に敷かれたむしろの上を校舎まで歩いた思い出がある。
あの頃の東京の雪はひどかった。それに、比べて、今日の雪は少ないと思う。
しかし、日頃、雪が降らない場所では、雪に対する注意や対策がわかっていないからだろう。
交通機関までが、日頃の便利さに抗うようだ。
幸いと、我が家のある地域は雪があまり積もらない。
積もったらどうしよう!と思う。
以前の私は、率先して雪かきをしたものだった。
もう、そのような元気は無い。
立つのも厳しいからだ。
雪といえば、思い出は多い。
戦後、途中で、学校へ行くにも、田んぼの真ん中の縄手で雪を払えなくて、休んだこともある。あの時はきつかった。こういう時の田舎暮らしは辛いものだ。
交通機関は可成り厳しくなる。多くの人達の苦労が一度に吹き出した感じだ。
ああ、今は責任のある仕事についていない事を幸いだと思う。
それに、今日は、やはり病院の予約はしなくてよかったと思う。
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<仁川の冬:その1>
仁川の冬は厳しかった。朝鮮は三寒四温がはっきりしている。
めったに降らない雪が降ると、なかなか、雪は解けずに滑りやすくなる。
電柱などの周りにかき寄せられた雪はそのまま春まで解けないことが多かった。
子供達は面白がって、雪の小山に足をずぶりと入れる。
入れた足の穴は、そのまま、春の訪れを待つ事になる。
これも、この街の風物詩ではないかと思う。
時には、坂道の多い仁川では、凍りかけた雪道で誰それさんが転んだと言うニュースも伝わった。
道路にまいた水が凍って、姉がスケートをした事を思い出す。
霜焼けやヒビになった痛む手を、手袋も出来ずに寒い朝礼で我慢した事もあった仁川の冬。
春を迎えるまでの『我慢の子』だった。
私たちは教室に入ると、一斉に石炭ストーブに当たりに行ったものだった。
それにしても、春の日差しを浴びるようになって、電信柱の雪の山が日に日に解けていく様子は、まさに仁川の冬の思い出である。
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