3月31日(日)
寒い日が続く。
少しは大丈夫だろうと、割合と薄手の服装で家を出た。油断大敵!
皆、冬の服装に変わった様子で、毛の襟が付いたコートを着たり流行りのダウンコート?で寒そうに歩いている。歩行者天国の銀座も同じ。
靴まで、冬そのものと言った感じだ。私は珍しく、冬用の靴は片付けたばかりだから、全てが世間の人と反対と言った感じだった。
有楽町の駅前では、今日も賑やかにイベントのテントが広場いっぱいにはられていた。その様なテントと人の中をくぐり抜ける様にして何時ものコースへと進む。
今日も、同じ女性のAさんに作曲を習う。習うと言っても、私の事だからメチャメチャだ。それでも、色々な音をアレンジすると、何とか聴けるものになるらしい。と言うのは、あまりにも『作曲』する事に不遜な態度と言うものだろうか?
私だって、音楽そのものは嫌いでは無い。むしろ、好きだと自信を持って言える。ただ、自分が何かを演奏すると言う事になると、全く自信が無い。
家には適当な楽器があると言うのに、一つとして満足に演奏したり出来ない。
同じ兄弟姉妹6人でも違いがあるのだと、常々、痛感している。絵を描く事が好きな人間と、音楽を好みすぐれている者と別れているらしい。
特に、私の直ぐ上の姉は歌が上手だ。
若い頃から歌手になりたかったが、固い考えの我が家の親は許さなかった。
彼女は『浪曲師』にさえなっても良いと思ったらしい。
姉は女学校の頃、舞台で独唱をした事がある。なかなか上手だと思ったが、母は歌う事よりも学問が大事と言う感じだった。
終戦後、私達は滋賀県の父の故郷へ引き揚げた。或る時、姉は私に「宝塚音楽学校を受けるから、学校の証明書を貸して欲しい」と言った。勿論、キ真面目な私の事だから、貸さなかった。
今でも、彼女は言う。「私は宝塚の舞台で歌を歌いたかったの」と…ゴメンネ!
その後、姉は放送局の歌番組にも応募した。何回か入賞して賞品をもらって帰り、家族を喜ばせ驚かせたものだ。
ある時、日劇の舞台で、歌番組の優勝者達が歌う事になった。勿論、姉もだ。中学生だった島倉千代子も入賞者として歌った。
「若い人は得をするわ。譜面が読めなくても…若いと言う事で歌手になれる」と、よく姉は言っていた。あの時の姉の心情を今にして思う。
当時は、20歳ぐらいでも歳を取っていると言って、芸能界では採用されなかった時代で、今の様な基準の緩やかな時では無かった。
思えば、姉は何時も僅かな年齢差で損をしている。だから、宝塚入試に私の年齢の証明が欲しかったのだ。でも、バレただろうな?
ムカシは何事にも年齢制限が厳しかった。そうした時代は私自身にもあったけれど、姉達の世代程、厳しいものでは無かった。
今、可成りの年齢で、歌手として出ている人がいる。そうした人の活躍ぶりを見るたびに、世の中には、才能があってもついていない人もいるんだなぁとつくづく思う・
今、考えても、本当に姉は歌が上手だと思う。音楽専門学校で勉強をしたり、家でもコールユーブンゲンをよく練習していたので、そばにいる私も何となく覚えてしまったものだ。
それなのに、私には音楽の才能は???ゼロか!
神様は、二物を与えて下さらない様だ。
私も、本当は、パソコンにしがみつくよりは、ピアノの練習でもしたら健康的なのに、一向に変わろうとしない。
* バッサリ切られても、季節が来れば芽が出る。こんな気持を持ちたいものだ。
寒い日が続く。
少しは大丈夫だろうと、割合と薄手の服装で家を出た。油断大敵!
皆、冬の服装に変わった様子で、毛の襟が付いたコートを着たり流行りのダウンコート?で寒そうに歩いている。歩行者天国の銀座も同じ。
靴まで、冬そのものと言った感じだ。私は珍しく、冬用の靴は片付けたばかりだから、全てが世間の人と反対と言った感じだった。
有楽町の駅前では、今日も賑やかにイベントのテントが広場いっぱいにはられていた。その様なテントと人の中をくぐり抜ける様にして何時ものコースへと進む。
今日も、同じ女性のAさんに作曲を習う。習うと言っても、私の事だからメチャメチャだ。それでも、色々な音をアレンジすると、何とか聴けるものになるらしい。と言うのは、あまりにも『作曲』する事に不遜な態度と言うものだろうか?
私だって、音楽そのものは嫌いでは無い。むしろ、好きだと自信を持って言える。ただ、自分が何かを演奏すると言う事になると、全く自信が無い。
家には適当な楽器があると言うのに、一つとして満足に演奏したり出来ない。
同じ兄弟姉妹6人でも違いがあるのだと、常々、痛感している。絵を描く事が好きな人間と、音楽を好みすぐれている者と別れているらしい。
特に、私の直ぐ上の姉は歌が上手だ。
若い頃から歌手になりたかったが、固い考えの我が家の親は許さなかった。
彼女は『浪曲師』にさえなっても良いと思ったらしい。
姉は女学校の頃、舞台で独唱をした事がある。なかなか上手だと思ったが、母は歌う事よりも学問が大事と言う感じだった。
終戦後、私達は滋賀県の父の故郷へ引き揚げた。或る時、姉は私に「宝塚音楽学校を受けるから、学校の証明書を貸して欲しい」と言った。勿論、キ真面目な私の事だから、貸さなかった。
今でも、彼女は言う。「私は宝塚の舞台で歌を歌いたかったの」と…ゴメンネ!
その後、姉は放送局の歌番組にも応募した。何回か入賞して賞品をもらって帰り、家族を喜ばせ驚かせたものだ。
ある時、日劇の舞台で、歌番組の優勝者達が歌う事になった。勿論、姉もだ。中学生だった島倉千代子も入賞者として歌った。
「若い人は得をするわ。譜面が読めなくても…若いと言う事で歌手になれる」と、よく姉は言っていた。あの時の姉の心情を今にして思う。
当時は、20歳ぐらいでも歳を取っていると言って、芸能界では採用されなかった時代で、今の様な基準の緩やかな時では無かった。
思えば、姉は何時も僅かな年齢差で損をしている。だから、宝塚入試に私の年齢の証明が欲しかったのだ。でも、バレただろうな?
ムカシは何事にも年齢制限が厳しかった。そうした時代は私自身にもあったけれど、姉達の世代程、厳しいものでは無かった。
今、可成りの年齢で、歌手として出ている人がいる。そうした人の活躍ぶりを見るたびに、世の中には、才能があってもついていない人もいるんだなぁとつくづく思う・
今、考えても、本当に姉は歌が上手だと思う。音楽専門学校で勉強をしたり、家でもコールユーブンゲンをよく練習していたので、そばにいる私も何となく覚えてしまったものだ。
それなのに、私には音楽の才能は???ゼロか!
神様は、二物を与えて下さらない様だ。
私も、本当は、パソコンにしがみつくよりは、ピアノの練習でもしたら健康的なのに、一向に変わろうとしない。
* バッサリ切られても、季節が来れば芽が出る。こんな気持を持ちたいものだ。