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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-4 日出づる国の防衛戦略
平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ。
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■1.超大国の侵略の跡■
「このあたりだ。見ろ、あの白骨を」と、高句麗の将官は馬上から叫ぶように言い、通事が訳した。白骨化した死体が、点々と地平線までつらなっていた。推古9(西暦601)年、所は高句麗と隋の国境近くを流れる遼河のほとり、ちょうど朝鮮半島が大陸から突き出す付け根のあたりである。大和朝廷からの使者・大伴咋(くい)は侵略をこととする超大国と国境を接する事が、いかに恐ろしいことか、思い知った。
中国大陸を370年ぶりに統一した隋が、水陸30万の大軍で高句麗に攻め込んだのは3年前、西暦598年のことであった。高句麗は今の北朝鮮から、満洲、遼東半島にかけて広大な版図を持つツングース系騎馬民族国家で、約800年の歴史を持つ東北アジアの強国であった。
この時は高句麗が隋の大軍をよく防いでいる間に、6月の長雨で遼河が氾濫し、中国本土からの補給線が切れるとともに、隋軍の中で疫病が流行した。隋軍は20数万人の死体を原野に晒して引き揚げていった。
「しかし、隋はまたかならず来襲する」 高官は馬首を返して言った。「30万で負けたとなると、次は100万だ。そのとき野を埋めるのは、わが軍兵士の骸(むくろ)であるかもしれないのだ」
高句麗を破ったら、隋の大軍は新羅と連合して、百済を蹴散らし、やがては海を越えて、わが大和の国を襲うだろう。大伴咋の身体は身震いがとまらなかった。
■2.厩戸太子(聖徳太子)の大戦略■
朝鮮半島の南東部を治める新羅が、半島南端の日本の属領・任那を攻撃したのは、前年の推古8(600)年のことだった。大伴咋が大将軍として4年も九州に出陣して牽制していた間は、まがいなりにも平和が保たれていたが、その軍勢がひきあげて数年も経たぬうちに、新羅は軍事行動を起こしたのである。
新羅の狙いは、任那だけではなかった。隋と組んで、北の高句麗、西の百済に侵攻し、朝鮮半島を統一しようという野望を抱いていた。
大和朝廷では、ただちに新羅征討軍を送り込むことが決定され、四国、中国、北九州の豪族の兵士約一万が続々と朝鮮海峡を押し渡った。新羅、百済、高句麗とも陸戦には慣れているが、水軍を建設するほどの国力はなく、日本水軍は独り圧倒的な力で、朝鮮海峡の制海権を握っていたのである。
征討軍は朝鮮半島南端の新羅が支配する旧任那の地に直接上陸して、無人の野を行くが如く、たちまち5つの城を攻め抜いた。すると、新羅はすぐに降伏して、旧任那のうち6地方を返還すると申し入れて、和睦を求めてきた。しかし、朝廷がこれを聞き入れ、朝廷軍を召還すると、新羅は再び任那を制圧してしまった。
大伴咋が摂政の厩戸太子(聖徳太子)から「高麗(こま)に赴(ゆ)きて任那を救え」との特命を与えられたのはこの時だった。太子の戦略は、高麗(高句麗)、百済、日本が同盟を結び、北・西・南から新羅を攻める。朝鮮半島統一の野望を持つ新羅を孤立させ、任那を守りつつ、新興の超大国・隋に対する防壁を朝鮮半島を南北に貫いて築く、という戦略であった。
■3.「このうらみ、末代まで忘れまい」■
大伴咋が高句麗の嬰陽王(えいようおう)に謁見して、日本-高句麗-百済の同盟を築きたいと提案すると、嬰陽王の顔に抑えようもない怒りの色が浮かんだ。「われらは貴国を信ずる。しかし、百済は信用ならん」という王の声は震えていた。
「理由をお聞かせ願いたい」と咋が聞くと、王は答えた。隋の大軍が高句麗の国土をまさに蹂躙しようとしている時、百済の威徳王は隋に対して「皇帝の臣たるわたしどもが、先導をつかまつりましょう」と、阿諛迎合の書状を献上品とともに隋に差し出したというのである。
「卑劣である。絶対に許し得ぬ行為である。このうらみ、末代まで忘れまい」と、王は恨みをむきだしにして百済を罵った。咋は半島情勢の複雑さを、今更ながらに味わった。
「なにゆえに、奸物の百済を貴国は身内のようにつねに慈しみ、救(たす)けてきたのであるのか」と聞く王に、咋はこう答えた。
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されば、百済はいにしえより、わが国の官家(みやけ)であります。官家であれば慈しみ、救(たす)けなければならぬのは、当然のことわりでありましょう
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄。
「官家」とは、天皇に直属する領地というほどの意味である。第15代応神天皇の時代から、我が国は百済、新羅、任那の三韓を「官家」と見なしてきた。隋書倭国伝にも「新羅、百済、みな倭をもって大国となし、これを敬い仰ぐ」とある。
咋は、百済が常に日本に王族を人質に差し出していることを明らかにし、「百済がわが国に謀反いたすことは万が一にもない」と断言した。
それに安心したのか、最高位の重臣が代表して、「われら一同、貴殿を信頼し、その信頼をもって新羅征討の軍を起こすこととする」と約束した。ただし、唯一の条件として、咋が自ら百済に赴き、かの国が裏切ることのないよう、国王以下にこの盟約を徹底させることを要求した。咋は、翌日、従者とともに馬を駆って、百済に向けて半島を南下していった。
咋を迎えた百済も当初、三国の同盟案に強硬に反対した。盟主・日本の要請とあらば、いつでも新羅討伐に立ち上がるが、仇敵である高句麗と手を結ぶことはできない、というのである。漢城(ソウル)はもともと百済の都であった。それを約130年前に高句麗に奪われ、時の百済王は殺され、半島西南部に押し込められたのであった。
■4.国民軍■
互いに仇敵であった高句麗と百済になんとか同盟を約束させ、大伴咋が帰朝したのは、推古10(602)年6月、1年3ヶ月におよぶ長旅であった。
帰路、立ち寄った筑紫(北九州)から長門(山口県)、安芸(広島県)の各港は沸き立つような活況を見せていた。巨木による軍船が建造され、食料、武器、燃料などを満載した帆船が港を埋めていた。新羅討伐のための出兵準備である。約2万5千の兵力を動員するという。
さらに咋を驚かせたのは、朝廷軍の編成が一新されていた事である。従来は朝廷軍とは名ばかりで、大伴氏や紀氏、葛城氏などの大豪族が私兵を引き連れて、連合軍を形成していた。
しかし、今回は地方毎に集められた兵士が中心となっている。しかも将軍は、摂政・厩戸太子(聖徳太子)の同母弟・来目皇子(くめのみこ)である。朝廷軍とは大君が統率する国民軍であるべきだ、という太子の理想が具現されていた。
しかし、筑紫の駐屯所で出兵準備の陣頭指揮をとっていた久目皇子が倒れた、との早馬が都に駆け上ってきた。久目皇子は兄の太子に似て、すぐれた資質を持つ青年だったが、まだ20代と若く、軍を率いた経験もなかった。2万5千の兵を率いるという過労と精神的重圧のためであろう。
■5.三国同盟、失敗す■
来目皇子が重病の床にあって、朝廷軍の出発が遅れている間に、推古10(602)年8月、百済軍が新羅を攻めた。対する新羅は大部隊を繰り出して、立ち向かった。この時点で、日本の大船団が新羅沖に達していたら、挟み撃ちの形ができて、新羅はこれほどの大兵力を対百済戦に集中投入できなかったはずである。百済軍は全滅に近い敗北を喫した。
来目皇子が推古11年2月に亡くなり、あらたに太子の異母弟・当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍に任ぜられた。しかし、筑紫へ向かう途中、身体の弱かった妃を亡くし、悲しみにくれた皇子は飛鳥の都に引き返してしまった。
この頃、こんどは高句麗が千人ほどの精鋭部隊を南下させたが、新羅は国王が陣頭指揮をとって、主力軍で迎えた。日本軍が海上から攻めていればこそ勝ち目もあったが、単独では敵うはずもない。高句麗軍は戦わずして引き揚げた。
咋は愕然とした思いで、自らのまとめた三国同盟の失敗を見つめていなければならなかった。それもこれも盟主・日本の責任である。
咋は、太子に高句麗と百済の情勢を報告した。太子は「新羅を討つに兵を用いず」と一言、言われた。それが何を意味するのか、咋が理解するにはまだ何年もの歳月が必要だった。
■6.「日出づる処の天子」からの国書■
太子の命によって、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として飛鳥の都を出発したのは、推古15(607)年7月だった。筑紫から百済を渡り、陸路、高句麗を経て、隋に入った。百済も高句麗も同盟国であり、何の危険もなかった。
小野妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という一文で始まる国書を差し出した。[a]
超大国、隋に対して対等な外交を申し入れたこの国書が、どれほど革命的なものであったかは、高句麗の嬰陽王が隋の大軍を撃退した後に、差し出した国書と比べてみるとよく分かる。王は勝ち誇るどころか、自らを「遼東糞土の臣(糞尿にまみれた遼東の地を治めさせていただいている臣下)」と蔑んだのである。
九州ほどの大きさでしかない百済や新羅に比べれば、日本は大国であり、世界最大級の仁徳天皇陵を初めとする多くの前方後円墳を作るなど、半島の三国とは桁違いの国力を持っていた。軍事的にも隋を上回る水軍を保有していた。その強国を、高句麗討伐に手こずっている隋が、粗略に扱える余裕はなかった。
翌推古16(608)年8月、小野妹子は特使・裴世清以下12名の使節団とともに帰国した。隋帝からの国書は「皇帝から倭皇に挨拶を送る」と始まる丁重な文面で、「皇(天皇)は海の彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活は融和し、深い至誠の心あり」と、日本の平和な国のありようを讃えている。
■7.新羅の焦り■
この動きに焦ったのが新羅である。隋の力を借りて朝鮮半島を統一しようという野望が一挙に覆された。その隋が新羅にとっては夢のような大使節団を日本に送り、あっという間に対等な友好関係を結んでしまったのである。隋と日本、そして百済、高句麗が結んだら、新羅は完全に孤立する。
新羅の真平(しんぺい)王は、隋帝に高句麗討伐の出兵を乞う書簡を送ったが、隋からはなんの返答もなかった。逆に高句麗は、当分隋からの侵攻はない、と読んで、新羅を攻撃し、国境近くの山城を落として8千人を捕虜とした。
窮地に陥った新羅が調(みつぎ)をたてまつる使者を日本に送ってきた、と聞いたとき、大伴咋は自分の耳を疑った。しかも任那からの使者を伴っている、という。新羅が任那を実効支配したのが、48年も前のことだった。以来、朝廷は任那を奪回すべく、何度も遠征軍を派遣し、あるいは百済を軍事支援して新羅を攻めてきた。
新羅が支配する任那の使者などは、手の込んだ演出に過ぎないが、日本の要求通り任那を復興させ、その使者を伴ってきた、という形式をとって見せたのだった。隋と対等に渡り合う日本の機嫌をとっておこう、という見え透いた戦術だった。
推古18(610)年10月、朝廷は数十年ぶりに新羅の使者を盛大に迎えた。7年前に太子が言われた「新羅を討つに兵を用いず」との言葉がここに現実のものとなったのである。
しかし、咋はこれで安心とはとても思えなかった。隋は高句麗への侵略をあきらめたわけではない。他国を属国としなければいられぬ侵略国家である。わが国との友好を固めたのを機に、ふたたび高句麗侵略に出るに違いない。
■8.随の高句麗侵略と滅亡■
咋の心配通り、611(推古19)年に入ると、隋は113万の大軍を持って高句麗に襲いかかった。少し前の「ゲルマン民族の大移動」が、総計50万人程度と言われているので、それに倍する軍勢である。しかし、あまりの大軍の長距離遠征に糧食が続かず、わずか数万の高句麗軍が果敢な抵抗をしている間に、随軍は飢餓に襲われ、敗退した。
この後も、隋は二度に渡って高句麗を攻めたが、疲弊した国内で反乱や暴動が起こり、ついに618(推古26)年に滅亡してしまう。
その直後、隋の侵略からついに国を守りきった高句麗の嬰陽王は、戦勝の喜びの品々を日本の朝廷に送ってきた。その中には隋軍が運搬に使ったラクダもあった。高句麗の嬰陽王がこれらの品々をすぐに送ってきたのは、当然、日本への感謝があったのだろう。日本の圧力がなければ、新羅が背後で蠢き、高句麗は随との戦いに集中できなかったはずである。
■9.わが国の防衛戦略の根本■
大和朝廷の朝鮮半島政策の根本は、推古天皇の父で、任那滅亡時の欽明天皇の遺言にあった。欽明天皇は、死の病床で皇太子(第30代敏達天皇)の手をとり、「汝(いまし)、新羅を打ち、任那を封建すべし。また夫婦のように相和して、もとの日のごとくならば、死すとも恨むことなし」と語ったのである。
新羅を攻め、領土を奪えと言うのではない。任那を再興し、新羅、任那、百済の三韓が平和的に鼎立してくれればそれで良い。平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ防壁となるというのが、わが国の防衛戦略の根本であった。
「新羅を討つに兵を用いず」という太子の戦略もこの一環で、隋の勢力を引き入れて半島統一を目指した新羅の野望を打ち砕こうというもので、新羅そのものの打倒を目指したものではない。
近代においても、朝鮮半島に高句麗のように独立心旺盛で、安定的な国家が存在して、ソ連や共産中国の防壁となってくれていたら、日清・日露戦争、満洲事変という歴史の流れも大きく変わっていただろう。そして中国と北朝鮮が、わが国の安全保障上、最大の脅威となっている現代においても、この根本は変わらない。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(311) 聖徳太子の大戦略
聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取ったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog311.html
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 八木荘司『古代からの伝言 日出づる国篇』★★★、角川書店、H12
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