愛国保守のメルマガ特集

現在の日本は危険な状態です。国内に反日勢力が蠢いています。在日朝鮮人、中国人がいます。また、外国のスパイが野放しです。

韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 : 3-4 日出づる国の防衛戦略

2014-05-18 10:22:29 | 韓国問題



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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-4 日出づる国の防衛戦略

 平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ。
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■1.超大国の侵略の跡■

「このあたりだ。見ろ、あの白骨を」と、高句麗の将官は馬上から叫ぶように言い、通事が訳した。白骨化した死体が、点々と地平線までつらなっていた。推古9(西暦601)年、所は高句麗と隋の国境近くを流れる遼河のほとり、ちょうど朝鮮半島が大陸から突き出す付け根のあたりである。大和朝廷からの使者・大伴咋(くい)は侵略をこととする超大国と国境を接する事が、いかに恐ろしいことか、思い知った。

 中国大陸を370年ぶりに統一した隋が、水陸30万の大軍で高句麗に攻め込んだのは3年前、西暦598年のことであった。高句麗は今の北朝鮮から、満洲、遼東半島にかけて広大な版図を持つツングース系騎馬民族国家で、約800年の歴史を持つ東北アジアの強国であった。

 この時は高句麗が隋の大軍をよく防いでいる間に、6月の長雨で遼河が氾濫し、中国本土からの補給線が切れるとともに、隋軍の中で疫病が流行した。隋軍は20数万人の死体を原野に晒して引き揚げていった。

「しかし、隋はまたかならず来襲する」 高官は馬首を返して言った。「30万で負けたとなると、次は100万だ。そのとき野を埋めるのは、わが軍兵士の骸(むくろ)であるかもしれないのだ」

 高句麗を破ったら、隋の大軍は新羅と連合して、百済を蹴散らし、やがては海を越えて、わが大和の国を襲うだろう。大伴咋の身体は身震いがとまらなかった。


■2.厩戸太子(聖徳太子)の大戦略■

 朝鮮半島の南東部を治める新羅が、半島南端の日本の属領・任那を攻撃したのは、前年の推古8(600)年のことだった。大伴咋が大将軍として4年も九州に出陣して牽制していた間は、まがいなりにも平和が保たれていたが、その軍勢がひきあげて数年も経たぬうちに、新羅は軍事行動を起こしたのである。

 新羅の狙いは、任那だけではなかった。隋と組んで、北の高句麗、西の百済に侵攻し、朝鮮半島を統一しようという野望を抱いていた。

 大和朝廷では、ただちに新羅征討軍を送り込むことが決定され、四国、中国、北九州の豪族の兵士約一万が続々と朝鮮海峡を押し渡った。新羅、百済、高句麗とも陸戦には慣れているが、水軍を建設するほどの国力はなく、日本水軍は独り圧倒的な力で、朝鮮海峡の制海権を握っていたのである。

 征討軍は朝鮮半島南端の新羅が支配する旧任那の地に直接上陸して、無人の野を行くが如く、たちまち5つの城を攻め抜いた。すると、新羅はすぐに降伏して、旧任那のうち6地方を返還すると申し入れて、和睦を求めてきた。しかし、朝廷がこれを聞き入れ、朝廷軍を召還すると、新羅は再び任那を制圧してしまった。

 大伴咋が摂政の厩戸太子(聖徳太子)から「高麗(こま)に赴(ゆ)きて任那を救え」との特命を与えられたのはこの時だった。太子の戦略は、高麗(高句麗)、百済、日本が同盟を結び、北・西・南から新羅を攻める。朝鮮半島統一の野望を持つ新羅を孤立させ、任那を守りつつ、新興の超大国・隋に対する防壁を朝鮮半島を南北に貫いて築く、という戦略であった。


■3.「このうらみ、末代まで忘れまい」■

 大伴咋が高句麗の嬰陽王(えいようおう)に謁見して、日本-高句麗-百済の同盟を築きたいと提案すると、嬰陽王の顔に抑えようもない怒りの色が浮かんだ。「われらは貴国を信ずる。しかし、百済は信用ならん」という王の声は震えていた。

「理由をお聞かせ願いたい」と咋が聞くと、王は答えた。隋の大軍が高句麗の国土をまさに蹂躙しようとしている時、百済の威徳王は隋に対して「皇帝の臣たるわたしどもが、先導をつかまつりましょう」と、阿諛迎合の書状を献上品とともに隋に差し出したというのである。

「卑劣である。絶対に許し得ぬ行為である。このうらみ、末代まで忘れまい」と、王は恨みをむきだしにして百済を罵った。咋は半島情勢の複雑さを、今更ながらに味わった。

「なにゆえに、奸物の百済を貴国は身内のようにつねに慈しみ、救(たす)けてきたのであるのか」と聞く王に、咋はこう答えた。

__________
 されば、百済はいにしえより、わが国の官家(みやけ)であります。官家であれば慈しみ、救(たす)けなければならぬのは、当然のことわりでありましょう
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄。

「官家」とは、天皇に直属する領地というほどの意味である。第15代応神天皇の時代から、我が国は百済、新羅、任那の三韓を「官家」と見なしてきた。隋書倭国伝にも「新羅、百済、みな倭をもって大国となし、これを敬い仰ぐ」とある。

 咋は、百済が常に日本に王族を人質に差し出していることを明らかにし、「百済がわが国に謀反いたすことは万が一にもない」と断言した。

 それに安心したのか、最高位の重臣が代表して、「われら一同、貴殿を信頼し、その信頼をもって新羅征討の軍を起こすこととする」と約束した。ただし、唯一の条件として、咋が自ら百済に赴き、かの国が裏切ることのないよう、国王以下にこの盟約を徹底させることを要求した。咋は、翌日、従者とともに馬を駆って、百済に向けて半島を南下していった。

 咋を迎えた百済も当初、三国の同盟案に強硬に反対した。盟主・日本の要請とあらば、いつでも新羅討伐に立ち上がるが、仇敵である高句麗と手を結ぶことはできない、というのである。漢城(ソウル)はもともと百済の都であった。それを約130年前に高句麗に奪われ、時の百済王は殺され、半島西南部に押し込められたのであった。


■4.国民軍■

 互いに仇敵であった高句麗と百済になんとか同盟を約束させ、大伴咋が帰朝したのは、推古10(602)年6月、1年3ヶ月におよぶ長旅であった。

 帰路、立ち寄った筑紫(北九州)から長門(山口県)、安芸(広島県)の各港は沸き立つような活況を見せていた。巨木による軍船が建造され、食料、武器、燃料などを満載した帆船が港を埋めていた。新羅討伐のための出兵準備である。約2万5千の兵力を動員するという。

 さらに咋を驚かせたのは、朝廷軍の編成が一新されていた事である。従来は朝廷軍とは名ばかりで、大伴氏や紀氏、葛城氏などの大豪族が私兵を引き連れて、連合軍を形成していた。

 しかし、今回は地方毎に集められた兵士が中心となっている。しかも将軍は、摂政・厩戸太子(聖徳太子)の同母弟・来目皇子(くめのみこ)である。朝廷軍とは大君が統率する国民軍であるべきだ、という太子の理想が具現されていた。

 しかし、筑紫の駐屯所で出兵準備の陣頭指揮をとっていた久目皇子が倒れた、との早馬が都に駆け上ってきた。久目皇子は兄の太子に似て、すぐれた資質を持つ青年だったが、まだ20代と若く、軍を率いた経験もなかった。2万5千の兵を率いるという過労と精神的重圧のためであろう。


■5.三国同盟、失敗す■

 来目皇子が重病の床にあって、朝廷軍の出発が遅れている間に、推古10(602)年8月、百済軍が新羅を攻めた。対する新羅は大部隊を繰り出して、立ち向かった。この時点で、日本の大船団が新羅沖に達していたら、挟み撃ちの形ができて、新羅はこれほどの大兵力を対百済戦に集中投入できなかったはずである。百済軍は全滅に近い敗北を喫した。

 来目皇子が推古11年2月に亡くなり、あらたに太子の異母弟・当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍に任ぜられた。しかし、筑紫へ向かう途中、身体の弱かった妃を亡くし、悲しみにくれた皇子は飛鳥の都に引き返してしまった。

 この頃、こんどは高句麗が千人ほどの精鋭部隊を南下させたが、新羅は国王が陣頭指揮をとって、主力軍で迎えた。日本軍が海上から攻めていればこそ勝ち目もあったが、単独では敵うはずもない。高句麗軍は戦わずして引き揚げた。

 咋は愕然とした思いで、自らのまとめた三国同盟の失敗を見つめていなければならなかった。それもこれも盟主・日本の責任である。

 咋は、太子に高句麗と百済の情勢を報告した。太子は「新羅を討つに兵を用いず」と一言、言われた。それが何を意味するのか、咋が理解するにはまだ何年もの歳月が必要だった。


■6.「日出づる処の天子」からの国書■

 太子の命によって、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として飛鳥の都を出発したのは、推古15(607)年7月だった。筑紫から百済を渡り、陸路、高句麗を経て、隋に入った。百済も高句麗も同盟国であり、何の危険もなかった。

 小野妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という一文で始まる国書を差し出した。[a]

 超大国、隋に対して対等な外交を申し入れたこの国書が、どれほど革命的なものであったかは、高句麗の嬰陽王が隋の大軍を撃退した後に、差し出した国書と比べてみるとよく分かる。王は勝ち誇るどころか、自らを「遼東糞土の臣(糞尿にまみれた遼東の地を治めさせていただいている臣下)」と蔑んだのである。

 九州ほどの大きさでしかない百済や新羅に比べれば、日本は大国であり、世界最大級の仁徳天皇陵を初めとする多くの前方後円墳を作るなど、半島の三国とは桁違いの国力を持っていた。軍事的にも隋を上回る水軍を保有していた。その強国を、高句麗討伐に手こずっている隋が、粗略に扱える余裕はなかった。

 翌推古16(608)年8月、小野妹子は特使・裴世清以下12名の使節団とともに帰国した。隋帝からの国書は「皇帝から倭皇に挨拶を送る」と始まる丁重な文面で、「皇(天皇)は海の彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活は融和し、深い至誠の心あり」と、日本の平和な国のありようを讃えている。


■7.新羅の焦り■

 この動きに焦ったのが新羅である。隋の力を借りて朝鮮半島を統一しようという野望が一挙に覆された。その隋が新羅にとっては夢のような大使節団を日本に送り、あっという間に対等な友好関係を結んでしまったのである。隋と日本、そして百済、高句麗が結んだら、新羅は完全に孤立する。

 新羅の真平(しんぺい)王は、隋帝に高句麗討伐の出兵を乞う書簡を送ったが、隋からはなんの返答もなかった。逆に高句麗は、当分隋からの侵攻はない、と読んで、新羅を攻撃し、国境近くの山城を落として8千人を捕虜とした。

 窮地に陥った新羅が調(みつぎ)をたてまつる使者を日本に送ってきた、と聞いたとき、大伴咋は自分の耳を疑った。しかも任那からの使者を伴っている、という。新羅が任那を実効支配したのが、48年も前のことだった。以来、朝廷は任那を奪回すべく、何度も遠征軍を派遣し、あるいは百済を軍事支援して新羅を攻めてきた。

 新羅が支配する任那の使者などは、手の込んだ演出に過ぎないが、日本の要求通り任那を復興させ、その使者を伴ってきた、という形式をとって見せたのだった。隋と対等に渡り合う日本の機嫌をとっておこう、という見え透いた戦術だった。

 推古18(610)年10月、朝廷は数十年ぶりに新羅の使者を盛大に迎えた。7年前に太子が言われた「新羅を討つに兵を用いず」との言葉がここに現実のものとなったのである。

 しかし、咋はこれで安心とはとても思えなかった。隋は高句麗への侵略をあきらめたわけではない。他国を属国としなければいられぬ侵略国家である。わが国との友好を固めたのを機に、ふたたび高句麗侵略に出るに違いない。


■8.随の高句麗侵略と滅亡■

 咋の心配通り、611(推古19)年に入ると、隋は113万の大軍を持って高句麗に襲いかかった。少し前の「ゲルマン民族の大移動」が、総計50万人程度と言われているので、それに倍する軍勢である。しかし、あまりの大軍の長距離遠征に糧食が続かず、わずか数万の高句麗軍が果敢な抵抗をしている間に、随軍は飢餓に襲われ、敗退した。

 この後も、隋は二度に渡って高句麗を攻めたが、疲弊した国内で反乱や暴動が起こり、ついに618(推古26)年に滅亡してしまう。

 その直後、隋の侵略からついに国を守りきった高句麗の嬰陽王は、戦勝の喜びの品々を日本の朝廷に送ってきた。その中には隋軍が運搬に使ったラクダもあった。高句麗の嬰陽王がこれらの品々をすぐに送ってきたのは、当然、日本への感謝があったのだろう。日本の圧力がなければ、新羅が背後で蠢き、高句麗は随との戦いに集中できなかったはずである。


■9.わが国の防衛戦略の根本■

 大和朝廷の朝鮮半島政策の根本は、推古天皇の父で、任那滅亡時の欽明天皇の遺言にあった。欽明天皇は、死の病床で皇太子(第30代敏達天皇)の手をとり、「汝(いまし)、新羅を打ち、任那を封建すべし。また夫婦のように相和して、もとの日のごとくならば、死すとも恨むことなし」と語ったのである。

 新羅を攻め、領土を奪えと言うのではない。任那を再興し、新羅、任那、百済の三韓が平和的に鼎立してくれればそれで良い。平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ防壁となるというのが、わが国の防衛戦略の根本であった。

「新羅を討つに兵を用いず」という太子の戦略もこの一環で、隋の勢力を引き入れて半島統一を目指した新羅の野望を打ち砕こうというもので、新羅そのものの打倒を目指したものではない。

 近代においても、朝鮮半島に高句麗のように独立心旺盛で、安定的な国家が存在して、ソ連や共産中国の防壁となってくれていたら、日清・日露戦争、満洲事変という歴史の流れも大きく変わっていただろう。そして中国と北朝鮮が、わが国の安全保障上、最大の脅威となっている現代においても、この根本は変わらない。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(311)  聖徳太子の大戦略
 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取ったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog311.html

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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 : 3-3 大和朝廷の百済・任那救援

2014-05-11 10:11:10 | 韓国問題

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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-3 大和朝廷の百済・任那救援

 高句麗の侵攻から百済、任那を守るべく、大和朝廷は大軍を送り込んだ。
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■1.「大和朝廷の軍勢は百済を助けて、高句麗とはげしく戦った」

 中国と北朝鮮の国境をなす鴨緑江の北岸に、巨大な石碑が建っている。自由社版の歴史教科書は、その写真を載せ、次のような説明文をつけている。

__________
高句麗の広開土王(好太王)碑 高さ6.4m。この碑文に391年、朝鮮半島に出兵した大和朝廷が、高句麗と戦ったことがしるされている。[1,p60]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 本文には、当時の情勢をこう説明している。

__________
 そんな中(JOG注: 中国が内乱のために影響力が弱まった)、朝鮮半島北部の高句麗が強大になり、4世紀初めに、朝鮮半島にあった中国領土の楽浪郡を攻め滅ぼし、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。

百済は大和朝廷に助けを求めた。大和朝廷は、もともと、貴重な鉄の資源の供給地である半島南部と深い交流をもっていたので、海をわたって朝鮮に出兵した。このころから、半島南部の任那(みまな、加羅(から))に影響力をもったと考えられる。

 大和朝廷の軍勢は、百済を助けて、高句麗とはげしく戦った。高句麗の広開土王(好太王)の碑文には、そのことが記されている。高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落としたが、百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった。[1,p60]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 369年に百済王が倭王(日本書紀では神功皇后)に送った七枝刀(ななさやのたち)が、石上神宮に所蔵されている。長さ74.9センチで、左右にそれぞれ3つの枝がでて、剣先と合わせて7つの枝がでているという意味だ。高句麗との戦いに備えて、百済が大和朝廷に助けを求めた際の献上品である。

 ちょうど、朝鮮戦争で北朝鮮が韓国に攻め込んだのに対し、国連軍が参戦して侵略を阻止したのとよく似た戦争が、西暦400年前後に起きたのである。


■2.倭国は東アジアの大国だった

 東京書籍版は、広開土王(好太王)碑については、注で以下のように記している。

__________
 高句麗の好太王(広開土王)の功績をたたえる石碑には、好太王がしばしば倭の軍を破ったことが記されています。[2,p26]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 石碑そのものが好太王の功績を称えるためのものだから、「しばしば倭の軍を破った」と誇るのは当然である。東書版が北朝鮮の歴史教科書で、かの国の祖先であろう高句麗の視点から書くなら、これでも良い。

 しかし、わが国の歴史から見れば、5世紀初頭の大和朝廷が朝鮮半島に大軍を送りこむほどの軍事力、経済力を備えていたという歴史事実の方が重要であって、個々の戦闘でしばしば負けたとしても、さしたる重要事ではない。

 この100年ほど前に書かれた「魏志倭人伝」では、東アジアで君主国として機能しているのは、高句麗と倭のみで、半島中南部は70余国に分立している後進地域であったと書かれている。さらに高句麗は人口15万人ほどに過ぎず、倭国はすでに100万人規模の大国であったという[a]。

 西暦391年に大和朝廷が激しく高句麗と戦った時期の天皇は、第15代応神天皇であった。応神天皇陵は全長418メートルあり、次代の仁徳天皇陵全長485メートルに次ぐ最大級の古墳である。

 仁徳天皇陵の建造は、1日2千人が働いたとしても約16年かかるほどの大土木工事で、そんな巨大古墳を二代続けて建造できるほどに、当時の大和朝廷の国力は充実していたのである。[b]


■3.百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)、、、

 この戦いの背景について、東書版の本文では、中国の南北朝への分裂を記述した後に、こう説明している。

__________
 いっぽう朝鮮半島では、高句麗(コグリョ、こうくり)と、4世紀におこった百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)の三国が、たがいに勢力を争っていました。大和政権は、百済や、小国が分立していた加羅(カラ、から、(任那(イムナ、みまな)地方の国々と結んで、高句麗や新羅と戦いました。[2,p32]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 記述内容の比較に入る前に、まずふりがなに言いがかりをつけておく。コグリョ、ペクチェ、シルラなどという韓国語読みが、なぜ日本の、それも中学の教科書に必要なのか、という点である。

 そもそも地名や人名の呼び方は、各国語さまざまで良いというのが国際常識である。たとえば、フランスの「パリ」は、英語では「Paris, パリス」、ドイツ語では「Paris, パリース」、イタリア語にいたっては「Parigi, パリージ」などと、隣接国でも勝手に呼んでいる。

 フランス人が英語で話す時は「Paris, パリス」と言うのが常識である。逆にフランスの首都なのだから、イギリスの教科書にも「パリ」と書けと要求したら、非常識な中華思想の持ち主と軽蔑されてしまう。

 まして義務教育である中学の歴史教科書とは、各国民が持つべき歴史常識を次世代の子供たちに伝えるためのものである。日本語では百済は「くだら」であり、「ペクチェ」などと言う日本人はいないのだから、ふりがなは「くだら」で十分である。

 このシリーズで何度も述べてきたように、東書版では随所に半島寄りのアンバランスな視点が見られる。よほど愛国的な半島出身の執筆陣が書いていると邪推しているが、それならそもそも韓国語で、韓国か北朝鮮の歴史教科書を書いたらどうか。


■4.正反対の歴史観

 次いで本文の比較をしてみよう。

 自由社版では、高句麗が南進し、百済が助けを求めたので、大和朝廷が出兵した、という経緯が記されている。さらに、「高句麗は、百済の首都漢城(現在のソウル)を攻め落としたが、百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった」と結果を記している。

 大和朝廷が参戦したのは、百済の救援のためであり、それによって百済は独立を守れたのだから、戦争目的は達成できた、ということになる。

 東書版に描かれた光景はまったく異なる。高句麗と百済、新羅の勢力争いに、大和政権が百済、任那と同盟して参戦した、と描かれている。これでは単に、朝鮮半島での勢力争いに加わったというだけである。

 さらに、その戦いで、高句麗がしばしば勝ったという。これでは、豊臣秀吉のはるか以前から日本は朝鮮半島を侵略しようとしていたが、高句麗の強兵に阻まれた、という言い方でもできよう。

 歴史観の違いとはこういう事である。この二つの中学歴史教科書はまさに正反対の歴史観を唱えているわけである。


■5.半島南部は大和朝廷の勢力圏

 もう一つ、自由社版にあって、東書版にないのが、任那と大和朝廷との関係である。自由社版では「大和朝廷は、もともと、貴重な鉄の資源の供給地である半島南部と深い交流をもっていた」「このころから、半島南部の任那(みまな、加羅(から))に影響力をもったと考えられる」と、記している。

 この100年ほど前にかかれた『魏書』では「「魏志倭人伝」と並んで「韓伝」「高句麗伝」など、半島の情勢も伝えているが、そこには半島南端部は「倭」の領土である、という認識が示されている。そして半島南東部では倭人が鉄の採取を行っていた、という記事がる。[a]

 考古学的に見ても、半島西南端の栄山江地域には、5~6世紀に築造された日本独特の前方後円墳が10数基も築造されている[a]

 同時に日本列島からもたらされた遺物、列島からやってきた人物が現地で製作したと思われる遺物が半島南部から少なからず出土している。任那の地には倭人が集団で移住していたのである[3,p23]。

 百済、新羅との関係においても、両国から王族などが人質として大和朝廷に送られた。ただし、これは純粋な人質というよりも、次代の王族を「親日派」として育てようという狙いもあったようで、405年に百済で王が没すると王位継承争いが起こり、大和朝廷は人質として来ていた王子を送還して、その即位を支援している。[3,p45]

 こうして見ると、大和朝廷は任那をほぼ直轄領土として治めており、さらにその北側の百済、新羅を服属国として勢力圏内においていた、と言ってもよさそうである。そこに高句麗が攻め込んできたら、大軍を送って防衛するのは宗主国の当然の努めである。

 こうした史実から見ると、自由社版の「深い交流」「影響力」という表現は控えめながらも妥当であり、東書版のあたかも対等な同盟のような書きぶりは、史実にそぐわないと言える。


■6.南朝への上表文

 高句麗を牽制するために、大和朝廷が打ったもう一つの手は、中国の南朝宋と結ぶことだった。自由社版はこう説明する。

__________
 南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、次々に使者を送ったことや、大和朝廷の支配が広がっていくようすが書かれていた。大和朝廷が南朝に朝貢したのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部への軍事的影響力を維持するためだった。[1,p61]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 さらに倭王武(第21代・雄略天皇)が送った次のような上表文が引用されている。

__________
 昔からわが祖先はみずからよろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川をわたって落ち着くひまもありませんでした。東は毛人(1)を55か国、西は衆夷(2)を66カ国、海をわたって北の95カ国(3)を平定しました。(「宋書倭国伝」より)

(1)東北地方の人々のことか。(2)九州地方の人々のことか。(3)朝鮮半島のことか。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 東北地方や九州地方を平定したとは、日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語を思い起こさせる[c]。雄略天皇の治世は456年から479年であるが、大和朝廷が高句麗と激しく戦った391年は、その曾祖父・第15代応神天皇の時代であった。

 その応神天皇の母親が三韓征伐の神功皇后であり、祖父にあたるのが日本武尊である。こうしてみると、大和朝廷は代々、国内および朝鮮半島の平定のために務めてきたわけで、「よろい・かぶとを身につけ、山野を越え、川をわたって落ち着くひまもありませんでした」というのも、実感の籠もった言葉である。

 東書版でも、この上表文は引用されているが、「海をわたって95国を平定しました」という部分については、自由社版のような「朝鮮半島のことか」という注釈はない。海をわたったら朝鮮半島だというのは言わずもがなのことだからか、あるいは大和朝廷が半島に勢力を広げていた事実を少しでも隠したいのか、、、


■7.中国の冊封体制には従わない、という外交方針

 倭王武の上表文の目的は、高句麗に対抗すべく、国内および高句麗を除く朝鮮半島全域での軍政権を宋に認めさせることであった。上表文の冒頭で、東北、九州、朝鮮半島での平定の歴史を訴えているのは、そのためである。

 しかし、南朝の宋は北魏と対立中であり、南北両朝に両属外交を展開していた高句麗を敵に回すわけにはいかなかった。そのため、倭王の要請は聞き入れられなかった。

 そして、これを最後に、大和朝廷から中国へ遣いを送ることはなくなった。望みを聞いて貰えない以上、つきあっても意味はない、という事であろう。

 中国の王朝から、周辺国の王が位を授けられ、領土の支配を認められることを冊封と呼ぶ。わが国の君主で、冊封を受けたのは、卑弥呼と、この倭王武を含めた倭の五王のみである。[3,p83]

 卑弥呼は、魏と高句麗との対立が激化したタイミングを見計らって遣いを送り、高句麗を共通の敵として、魏との一種の同盟関係を結んだ[d]。倭の五王も、高句麗との対決のために宋と同盟関係を作ろうとしたが、中国が南北朝に分裂していたので実現しなかった。

 こう見ると、中国王朝の冊封体制とは、わが国にとっては、利用価値のある時だけ、それに従ったという外交手段に過ぎないと言えよう。

 倭王武で途絶えた外交関係の途絶は、隋が中国大陸を統一し、それに対して聖徳太子が遣隋使を送るまで120年余も続く。そして、太子は隋に対して、あくまで対等な立場で国書を送っているのである。それでも隋は高句麗との対決上、使者を丁重に扱っている。

 雄略天皇は、この上表文を最後に、中国王朝との断交を決意したようだ。この時期に、国内では「治天下大王」という称号が用いられ始める[3,p79]。これは中国の皇帝を世界の中心とする中華思想からの離脱であって、以後、中国の冊封体制には従わない、というのが、大和朝廷の外交方針として定着していくのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(685) 倭国は東アジアの大国だった。
 中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。
http://blog.jog-net.jp/201102/article_1.html

b. JOG(766) 歴史教科書読み比べ(5) ~ 古墳はなぜ作られたのか?
 その規模と数で世界史的にも特筆すべき日本の古墳が作られた理由は何か。
http://blog.jog-net.jp/201209/article_4.html

c. JOG(584) 日本武尊 ~「安国(やすくに)」への道
 日本武尊は大君から「服(まつろ)わぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せ」と命ぜられた。
http://bit.ly/ZHTBGE

d. JOG(759) 歴史教科書読み比べ(4):邪馬台国の戦略外交
「魏志倭人伝」から、朝貢外交を学ぶか、戦略外交を学ぶか。
http://blog.jog-net.jp/201207/article_7.html

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2. 五味文彦他『新編 新しい社会 歴史』、東京書籍、H17検定済み

3. 熊谷公男『大王から天皇へ 日本の歴史03』★★★、 (講談社学術文庫) 、H10
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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 : 3-2 倭国は東アジアの大国だった

2014-05-04 09:43:56 | 韓国問題

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韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-2 倭国は東アジアの大国だった

 中国の史書は、倭国が国家の統合度と人口規模でずば抜けた大国であったと記している。
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■1.古代中国の見た朝鮮半島

 古代史の研究にはかならず出てくる「魏志倭人伝」は、西暦280年から290年頃に編纂された『三国志』のうちの『魏書』の一部であるが、この書は我が国のみならず、「韓伝」「高句麗伝」など、東アジア各地の地理、歴史、国情を伝えている。たとえば:

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「高句麗伝」
 国の広さはほぼ2千里四方で、戸数は3万戸である。人々の性格は凶悪性急で、さかんに他国を侵攻し、財物を盗む。

「韓伝」
 韓は帯方(JOG注: 朝鮮半島の中西部)の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している。・・・

 馬韓(JOG注: 韓の3つの地域の一つ)は、月支国など全部で50余国。・・・馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥がいるが村落が整備されず入り乱れているためよく統治することができない。北部の帯方郡に近い諸国は礼俗をわきまえているが、遠い地域では全く囚人や奴卑のようで礼俗は備えていない。
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 一方で、『魏書』は我が国に対しては「風俗は規則正しく、婦人は淫らでなく、嫉妬をしない、盗みがなく、訴訟も少ない」などとやけに好意的である。中国が手を焼いていた隣接地域と比較して、友好的な外交関係を結んでいた倭国への「えこひいき」もあるかと思う。


■2.東アジアの大国・倭国

「凶悪性急」などという主観的な評価は別にして、これら「倭人伝」「高句麗伝」「韓伝」などをもとに、当時の東アジアの国勢調査という形でまとめたものが、大平裕氏の『日本古代史 正解』に出てくる。それによると:

1)君主国として機能しているのは高句麗と倭のみで、半島中南部の三韓の地は村落共同体が首長をいだいているといった後進地域であること。人口こそ、合計14万5千戸と多いが、70余ヶ国に分立している。

2)君主国としてまとまっていた高句麗(現在の満洲から北朝鮮を占める)は、人口わずか3万戸。一戸平均5人とすると、15万人に過ぎない。

3)倭国は人口15万戸。邪馬台国に従わない周辺国家を含めると、20万戸を超える。人口にして100万人規模である。


 こうして見れば、国家としての統合度、および人口規模において、当時の東アジアで倭国がずば抜けた大国であった事が分かる。

 その大国ぶりは、魏の厚遇ぶりにも現れている。邪馬台国の卑弥呼は「親魏倭王」の称号を与えられているが、これは229年の大月氏国に与えられた「親魏大月氏王」と同格で、外臣に与える称号としては最高のものであった。遣使の二人にまで銀印青綬が与えられ、さらに銅鏡100枚をはじめ高価な品々を贈った。

 倭国の使節がやってきたのは、魏が、それまで遼東半島を押さえていた公孫氏を滅ぼした翌年である。政情さだまらぬ朝鮮半島を抑える上で、大国・倭を心強い味方と歓迎したのだろう。


■3.朝鮮半島南部に倭国の領土があった

 もう一つ「韓伝」から分かることは、朝鮮半島南部に倭の領土があった、ということである。「韓は帯方の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と接している」との表現から、この事が窺える。

 倭との間で海を挟んでいたら、東西のみならず、南も「海をもって境界とし」という表現になっていたはずだ。「接している」とは、地続きだ、という意味である。

 三韓の一つ、半島南東部で日本海に面していた「弁辰」(後の新羅の地を含む)は12ヶ国からなり、そのうちの一つ「涜廬」に関しても、再度「倭と接している」という記述がある。

 さらに、「弁辰の国々からは鉄を産出する。韓・わい(「さんずい」に「歳」)・倭が、鉄を採取している」とあり、倭人が鉄の採掘まで行っていた事が窺われる。

 また、魏志倭人伝の中で、有名な邪馬台国までの行程を表現した部分で、帯方郡から海岸沿いに南へ下り、さらに東へ行くと、「其の北岸の狗邪韓國(くやかんこく)に至る」という一節がある。韓半島の南端を、「其の北岸」と言っているのは、「倭国の北岸」という意味にとるのが、一般的な解釈である。


■4.新羅の4代目王は倭人

 朝鮮最古の史書『三国史記』は、新羅、高句麗、百済の歴史を述べており、高麗王朝(918-1392)がそれまでの古史書をまとめて、1145年に完成させた。我が国で言えばその400年以上前に編纂された『日本書紀』にあたる。

 その「新羅本紀」の4代目王・脱解王初年(西暦57年)の条には、こう記されている。

__________
 脱解はそもそも多婆那(たばな)国の生まれだ。その国は倭国の東北1千里にある。[2,p23]
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 倭国の中心が近畿地方にあったとすれば、その東北1千里(400キロ強)という多婆那国は新潟県あたりとなる。脱解は多婆那国の王妃から卵で生まれたという奇怪な伝説があり、それで海に流され、辰韓の海岸に流れ着いたという。「新羅本紀」では初代王も卵から生まれたという伝説があるので、おそらく王を継ぐにふさわしい人物だという権威付けであろう。

 2代目王は脱解が賢者であることを知り、自らの長女を嫁がせ、さらに最高官職である大輔(総理大臣兼軍司令官)に任じた。その後、14年間も大輔として活躍し、3代目の王は自身に息子が二人いたにも関わらず、脱解を4代目王に推挙した。

 脱解は王位につくと、翌年には瓠公(ホゴン)を大輔に任命する。瓠公も倭人で、瓠(ひょうたん)を腰に下げて、海を渡ってやってきたので、瓠公と称される。なにやら浦島太郎を連想させる。

 いずれにせよ、新羅は4代目王も総理大臣も日本人だった。その後、5~8代目は3代目王の血筋に戻るが、13代目を除いて9~16代目は脱解の子孫が続いている。これが「新羅本紀」の記録なのである。

 そしてこの記録をまとめた高麗王朝は、「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」と自らを位置づけている。[2,p15]


■5.新羅も百済も倭国を敬仰していた

 倭人が王となった事を堂々と書く「新羅本紀」には、現代の韓国人が「朝鮮が先進文明を日本にもたらした」と主張するような尊大な姿勢はまるで感じられない。

 7世紀半ばに完成した中国の正史『隋書』には、こんな一節がある。[2,p13]

__________
 新羅も百済も○国(倭国)を大国とみている。優れた品々が多いためで、新羅も百済も○国を敬仰し、常に使節が往来している。
(○:人偏に「妥」、『隋書』では倭国をこう表記した。)
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 先に、「弁辰」(後の新羅の地を含む)で、倭人が鉄を採掘している、という『韓伝』の記事を紹介したが、考古学の世界では、半島では3世紀になっても刀剣は鋳鉄だったが、日本列島では進んだ鍛造品が作られていたことが、明らかになっている。[2,p48]

 鋳鉄は、溶解させた鉄を型に流し込んで作るが、伸びが無く、堅くて脆い。鍛造は鉄を叩いて成形する際に、金属内部の空隙をつぶし強度を高める。後の日本刀の工法である。

 また日本独特の墓制である前方後円墳は3世紀頃から作り始められているが、半島西南端の栄山江地域には、5~6世紀に築造された10数基の前方後円墳が見つかっている。この頃の半島南端部には、100メートル近い墓を作る倭人の強力な勢力があった。[2,p79]

 こうした考古学上の発見と合わせて考えると、半島南端部は倭人が勢力を張り、また新羅地域にも倭人が住んで、鉄の採掘などをしていた。進んだ技術で「敬仰」されていた倭人の一人が王位を継承したことを、新羅や高麗の人々は自然に受け止めていたのであろう。


■6.倭国の進攻

 しかし倭人が王となった新羅に対しても、倭国はたびたび進攻を試みている。『新羅本紀』によれば、紀元前50年、第一代王の時に「倭人が出兵し、辺境を侵そうとしたが云々」が最初である。

 倭人の4代王・脱解の治世では、西暦59年「夏5月、倭国と国交を結び、互いに使者を交換した」と、倭人同士のよしみか、一度は友好関係を結ぶが、西暦73年には「倭人が木出島(蔚山市)に侵入、王は角干羽烏(かくかんうう)を派遣したが敗退、羽烏は戦死した」とある。

 このような記述で、紀元前50年から364年の400年間に、12回もの侵攻があったと『新羅本紀』は述べている。

 この364年の侵攻が、『古事記』『日本書紀』に伝えられる「神功皇后の三韓征伐」だというのが、[1]の著者・大平裕氏の見解である。氏は、神功皇后が当時の半島情勢の中で果たした役割について、こう述べている。

__________
(神功皇后は)・・・大和朝廷の偉大な皇后であり、朝鮮半島では、倭国の権益圏内にあった伽那、加羅地方の宗主国として新興の新羅と戦い、半島中部に進出して高句麗の南下に備え、百済の支援を精力的におしすすめた人物なのです。
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 当時の朝鮮半島は、新羅、高句麗、百済、そして倭国領土と、あたかも今日のバルカン半島の如くに錯綜・拮抗していた。この地域が新羅か高句麗に統一されてしまうと、我が国は半島南部の権益を失うだけでなく、日本列島そのものにも危機が及ぶ。

 地政学的に言えば、朝鮮半島は我が国につきつけられたハンマーであり、それが敵対する強国に握られることは、日本にとって安全保障上、最大の問題であった。日清戦争、日露戦争、そしてアメリカが戦った朝鮮戦争も、すべてここに起因している。したがって、百済をバックアップして、新羅や高句麗から守ろうするのは、理に適った戦略なのである。[a]


■7.神功皇后の新羅征討

 大平氏は、神功皇后の新羅征討を次のように、簡潔に記述している。

__________
 仲哀天皇の崩御後、神功皇后は臨月にもかかわらず神功皇后元年(362年)、対馬より水軍を進め、新羅の地に上陸して王都まで兵を進出させました。

新羅王はほとんど抵抗することなく降伏、自ら首に白い組みひもをかけ手を後ろでに縛り、土地の図面と人民の籍を封印して皇后に奉じ、「今から以後、天地とともに長く、(降)伏して(馬)飼部(かいべ)となります。・・・また海(路の)遠いのをものともせず、年毎に男女の調(みつぎ)を貢上しましょう」と申し出ています。
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 一方『新羅本紀』には、次のように記されている。

__________
 9年(364年)夏4月、倭兵が大挙して侵入してきた。王はこの報告を聞いて(倭軍の勢力に)対抗できないことを考慮して、草人形を数千個作り、それに衣をきせ、兵器をもたせて吐岩山の麓にならべ、勇士1千人を斧けん(山へんに「見」)の東の野原に伏せておおいた。倭軍は数をたのんでまっしぐらに進撃してきたので、伏兵を出動させて倭軍に不意うちをしかけた。倭軍が大敗して逃亡したので、追撃して倭兵をほとんどすべて殺した。[1,p185]
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 紀年に2年の食い違いがあり、また勝敗の記述も異なるが、共通しているのは新羅が正面からの抵抗を諦めざるをえないほどの圧倒的な大軍を倭国が送ってきたことである。

 最近、韓国教員大学の研究者たちによって、倭軍が新羅の東海岸から上陸したという研究成果が公にされている。神功皇后の実在を疑う向きもまだまだ多いが、その問題とは別に、当時の日本が、多くの軍船で大軍を半島に送りうる、まさに「東アジアの大国」であったことは、両国の史書を見ても動かない事実である。


■8.建国記念の日に

『古事記』『日本書紀』は7世紀前半に、朝廷の統治を正当化するために創作された物語、と主張したのは、大正年間、今から100年近くも前に研究を行っていた津田左右吉である。そしてこの見方が、戦後の自虐史観に利用されて歴史学研究を拘束し、今も初代・神武天皇[b]からここで述べた神功皇后まで十数代の天皇、皇后の実在が否定されている。

 しかし『古事記』『日本書紀』を否定するばかりで、それではどのように我が国が建国されたのか、その史実を探究しないのであれば、それは歴史学の名に値しない。

 その一方で、『古事記』『日本書紀』と中国、朝鮮の史書の比較研究、さらには考古学的研究が進み、古代の我が国の姿がおぼろげながら明らかになりつつある。

 本編では、そのごく一部を紹介したが、歴史学がイデオロギー的制約から解放され、真の学問的研究成果によって国民が先人たちの歩みに想いを馳せる、そんな「建国記念の日」が待ち遠しい。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(468) 日出づる国の防衛戦略
 平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog468.html

b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」
 神話にこめられた建国の理想を読む。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog074.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 大平裕『日本古代史 正解』★★★、講談社、H11
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2. 室谷克実『日韓がタブーにする半島の歴史』★★、新潮新書、H12
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4106103605/japanontheg01-22/