愛国保守のメルマガ特集

現在の日本は危険な状態です。国内に反日勢力が蠢いています。在日朝鮮人、中国人がいます。また、外国のスパイが野放しです。

米軍が捕虜にした朝鮮人慰安婦の尋問調書

2014-12-31 12:03:34 | 韓国問題

 米軍が捕虜にした朝鮮人慰安婦の尋問調書

 

 下記のアメリカ陸軍の公式文書は、1944年にビルマのミートキナにおいて米軍が捕虜にした韓国人慰安婦20名と民間業者2名の尋問調書であるが、当時の慰安所、慰安婦の実態に関するもっとも重要な資料の一つといえる。

 なぜなら、これはうわさ話、あるいは後になってから集めた情報ではなく、現地で慰安婦本人の尋問に基づいた情報であるからである。もちろん、日本軍に対して敵対的な感情を持っていた米兵の尋問であり、予断に基づいた解釈も含まれていることは当然予想される。しかし、基本的には実態を反映した内容であるとみることができる。

 この報告書の最も大事なポイントは、「序文」のところで「慰安婦は売春婦にすぎない」という明確な性格付けをしていること、「給与と生活条件」のところで実収入が、月平均750円(上等兵は月10円なのでその75倍)という超高収入であったと記録されていることである。

 つまり、米軍は慰安婦を超高収入を稼ぐ売春婦、という認識をしていたのであり、「性奴隷」などとは全く考えていなかったのである。
 慰安婦の真実を知るため、そして海外の人達に理解させるために、極めて貴重な資料である。英文の案内は下記の通り。

 

 US Office of War Information
UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION
Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49

   This official US record made by direct interrogation of comfort women captured on the battlefield is one of the most important source materials related to documenting the real comfort women.  
In 1944, the United States Army captured some Comfort Women in Burma and were interrogated by the U.S. Army. The Army filed “Report Number 49” and it stated that the ladies were well-paid prostitutes. 
It clearly defined a "comfort girl" as nothing more than a prostitute or "professional camp follower." (Preface) It also stated that their average month net pay was 750 Yen, which was 75 times higher than that of a private first class soldier’s pay of 10 Yen. (Pay and Living Condition)
These show that the comfort women were merely very highly paid prostitutes, and having absolutely nothing to do with “sexual slavery.”

*Whole copy of Report No.49:  http://www.sdh-fact.com/CL02_4/8_S1.pdf

 日本語訳全文:http://hassin.org/01/wp-content/uploads/No49.pdf
  (「実を世界に発信する会」事務局長 茂木弘道)


韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観 : 歴史は国民の背骨

2014-06-16 16:16:37 | 韓国問題

韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観
歴史は国民の背骨

 中韓の間の歴史紛争を見れば、歴史問題の重要性が理解できる。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 転送歓迎 ■■■■■


第3部では、特異な韓国史観を見てきましたが、前号ではそれが我が国の歴史教科書に大きく影響を与えている様をご紹介しました。しかし、それが我が国の中で、大きな問題となっていないのは、我々が、自分達の歴史に真剣に向き合ってないからではないでしょうか。

 中国と韓国の間の激烈な歴史論争を見ていると、その内容自体の妥当性はひとまず置くとしても、両国の真剣さに比べて、我々は何か大事な事を忘れているのではないか、と思えてきます。

 本講座の最終号として、この点を考えて戴けたら、と希望します。

  本編にて、ステップメール講座「韓国問題 歴史編」を終了します。4ヶ月半にわたる御受講ありがとうございました。

 JOG週次最新号は引き続き、お送りします。また別のステップメール講座も開講次第、毎週のJOGにて御案内いたしますので、よろしくお願いいたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 中国と韓国は、日本に対して歴史観の問題で、いろいろ言ってくるが、実は両国の間でも「歴史紛争」が勃発している。これを見ていると、「歴史」が政治や外交に持つ意味がよく分かる。

 
中韓歴史紛争の発端は:

__________
 韓中の“歴史紛争”は昨(2003)年夏、中国社会科学院傘下の歴史研究組織が高句麗の歴史を「中国の地方史」と位置付ける大掛かりな「東北工程(プロジェクト)」を推進していることが韓国に伝わり大騒ぎとなった。

 高句麗は紀元前後から七世紀にかけ、朝鮮半島北部から中国大陸(旧満洲)にかけて存在した朝鮮族の国家とされる。しかし中国は現在の領土を基準にその領域内の歴史を「中国史」とし、辺境民族の歴史的な独自性を否定する動きを見せている。

このため韓国では「中国による歴史侵略」「歴史覇権主義」などと非難を高め、逆に現在の中朝国境地帯の朝鮮族自治州などを「中国に奪われた領土」として“奪還”を主張する声さえ出ている。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 2004年には、中国外務省のホームページ資料の韓国史に高句麗の歴史が含まれていないことが判明し、韓国外務省は「高句麗の歴史はわが民族のルーツであり、民族の基本にかかわる重大な事柄。




中国政府が善隣友好の精神に立ち歴史歪曲(わいきょく)を直ちに中断するよう、深い関心をもってその態度を注視している」と強い遺憾の意を表明した。

__________
 韓国政府の抗議を受けた中国政府は、韓国側の「高句麗史復活の要求」を無視したまま問題の古代史部分の全体を削除してしまった。中国としては非難をかわすため問題部分をはずしたものだが、韓国側は「ごまかしだ」として逆に反発を強めている。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その後、両国政府は事態の改善で“合意”していたが、中国の歴史侵略は止まるところを知らない。

__________
 ところが最近、中国科学院の歴史研究書が高句麗史の“中国化”をさらに推し進めているほか、韓国が韓民族国家だったとする渤海国(7~10世紀)についてもこれを否定。




また古代中国の支配圏が現在のソウル付近にまで広がっていたとする内容が含まれるなど「中国史の膨張ぶり」が判明し韓国の学界や世論を刺激している。[2]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 
中国の手は「韓民族の聖地」白頭山にまで及びつつある。

__________
 中朝国境地帯にある白頭山(中国名・長白山)をめぐって韓国と中国の間で“争奪戦”が始まっている。




中国が最近、白頭山での2018年冬季オリンピック誘致計画を発表するなど、白頭山一帯の開発と国際的知名度アップに力を入れているためで、これに対し韓国側では「“韓民族の聖地”である白頭山から韓国(朝鮮)イメージを排除し、ひいては白頭山を中国の山にしてしまおうとする陰謀」として強く反発している。[3]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 相手の出方を見ながら、隙を見せれば、ひたひたと寄せていく中国のやり方は、日中中間線での海底油田開発でもおなじみである。一方、韓国の方も反撃に出る。

__________
「上海は韓国の古代王朝の領土だった」とする韓国の学者が出版した歴史書が、中国の新聞に紹介され、同国内で大きな波紋を広げている。ネットの掲示板には「非常識」「無責任だ」といった反論が殺到。

日本の竹島の領有権をめぐっては「日本が韓国の領土にちょっかいを出す」などと韓国寄りの書き込みが大半だったが、自国のこととなるとさすがに放っておけず、「朝鮮半島こそ中国領だった」といった書き込みであふれ、韓国批判一色となっている。[4]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 民間の一学者の研究書だが、JOG(261)[a]でも紹介した「百済の王室が日本を制圧して天皇家となった」とか、「万葉集は朝鮮語で書かれている」というのと同様の「トンデモ史観」の一つにしか思えない。歴史侵略の方法としては、中国の方がはるかに巧妙である。

 こうした中韓歴史紛争の背景を、産経新聞の「主張 みんな歴史に真剣なのだ」が見事に解き明かしている。

__________
 中国としては現在の領土を絶対視し、その領土内のすべての歴史を「中国の歴史」に編入し「中国の偉大さ」や「大きさ」を確認するという意図のようだ。




経済発展で自信を深めている中国の、膨張主義ないし大国主義的な国家意識、民族意識の高まりが背景にあることは間違いない。

一方、韓国の方はかねてから中国大陸にまで広がった高句麗に郷愁があり、隋や唐と戦った高句麗の歴史は大きな誇りとして民族的な“元気の素(もと)”になってきた。

 韓国はそうした歴史を意識することによって自らを支え、民族の将来に希望や期待を持つこともできたというわけだ。この「民族の歴史」が否定されるとあっては黙っておれない。




マスコミや学者はもちろん、政府当局者まで「民族の根幹にかかわる重大問題」と中国の“横暴”を非難している。[5]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 中国の歴史侵略や、韓国のトンデモ史観はいただけないが、両国が自分の歴史を守ろうとする真剣さは、我々日本人も見習うべきだろう。

 歴史で攻撃されたら、とにかく友好のために、事実の確認もせずに謝って水に流そうというのは、現在の日本人の悪しき習性である。




歴史は一国の国民の背骨である。背骨が折れたり、曲がったりしては、その国民は国際社会の中で、背筋を伸ばして歩けないのである。

■リンク■
a. JOG(261) 韓国製トンデモ日本史
 日本は百済の残党が土着原住民を制圧して作った国?!
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog261.html


■参考■
1. 産経新聞「高句麗帰属問題 韓国、中国に“抗議” 歴史紛争、
外交問題へ発展」、H16.08.07 東京朝刊 1頁
2. 産経新聞「【緯度経度】ソウル・黒田勝弘 好ましい韓中歴史
紛争」、H18.09.16 東京朝刊 7頁
3. 産経新聞「韓中が白頭山“争奪戦”」H18.09.09 東京朝刊
6頁
4. 産経新聞、「韓国学者『上海は新羅の領土』 『非常識』中国
で大反論」、H18.05.17 大阪朝刊 7頁
5. 産経新聞、「【主張】高句麗論争 みんな歴史に真剣なのだ」
H16.08.16 東京朝刊 


韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観 : 3-5 朝鮮は中国の服属国ではなかったのか?

2014-06-16 16:06:02 | 韓国問題

■■■ Japan On the Globe ■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観
3-5 朝鮮は中国の服属国ではなかったのか?

「朝鮮は中国の属国ではなかった」とする韓国の歴史教科書にもの申す。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 転送歓迎 ■■■■■


■1.韓国による歴史教科書修正要求は内政干渉か?■

__________
「朝鮮を中国の『服属国』として表現したものは削除必要」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 韓国はこのような修正要求を35項目、文部科学省の検定を終えたわが国の中学歴史教科書に対して、平成13(2001)年5月7日に突きつけてきた。



これは扶桑社の「新しい歴史教科書」だけでなく、他の7社のすべてを含んでいる。ついで、中国も5月16日に「新しい歴史教科書」に8項目の修正要求を行った。

 これに対して日本の世論は「不当な内政干渉」だ、という声が圧倒的であった。5月25日にテレビ朝日で放映された「朝まで生テレビ」の視聴者からの電話アンケートでは、有効回答数598件中、「明らかな内政干渉である」とする回答(286件)が、「要求されて当然だ」とする回答(117件)の2倍以上であった。

 検定途中に扶桑社版の不合格工作を元・外交官が行ったり、田中外相が「事実をねじ曲げていることを承知の上でつくった教科書を合格とするような検定制度は問題だ」と発言したりと、あいかわらず国籍不明の外務省は別にして、文部科学省、および、首相官邸の対応はおおむね毅然としたものであった

 遠山敦子・文部科学相は、韓国の修正要求の翌日、「検定制度上、明白な誤りがない以上、合格後に修正を行うことはできない」と述べ、小泉首相も森前首相以来の干渉拒否の姿勢を支持した。


■2.民対民で国際ディベートを■

 事実上のゼロ回答に、韓国政府は次々の報復措置を打ち出した。来年のサッカー・ワールドカップまでに行う予定であった日本の歌謡曲のCD販売や娯楽番組のテレビ放映の規制解除の中断(これは陰で韓国の国内産業の保護という見方もあるが)、小、中、高等学校の相互訪問中止、8月末に南アフリカで開かれる世界人種差別撤廃会議での問題提起、等々。

 日本政府はこれらについては静観しているが、民間では韓国内の反日感情の高まりを危惧して、日本からの観光客が7月には急減したという


さすがに韓国でも「学生交流までやめさせる必要はあるのか」との冷静な声も出てきた。

 韓国政府が日本の民間が書いた歴史教科書を修正させろと日本政府に要求することは、内政干渉であり、かつ言論の自由を侵すものとして拒否したのは正しい態度であるが、韓国側の要求内容が妥当なものかどうかを批判するのは、わが国の民間の役割だろう。

 日韓の民間同志で、相互の歴史観をぶつけあうことは、許されることでもあるし、また意味があると考える。これは一種の国際ディベートとして、相互の歴史観を鍛える機会ともなろう。


■3.朝鮮は服属国であったか?■

 本号では、その練習として、「韓国は中国の服属国であったか」という点に絞って、韓国側の修正要求と歴史教科書記述に対して、本講座なりの考察を加えてみたい。


この点をどう見るかで、明治期の日韓関係の見方が大きく変わってしまうからである。

 韓国の修正要求は、東京書籍、教育出版、帝国書院、日本文教出版の「征韓論」の部分で、

__________
 中国の属国として位置づけられていた朝鮮は、・・・日本との国交を断った。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

とある表現に対して、「当時の朝貢関係につき説明せずに、朝鮮を中国の属国として表現している」という検討意見をつけている。

 扶桑社版にも同様に、「中国の服属国であった朝鮮も」という表現に対して、「朝鮮を中国の『服属国』として表現したものは削除必要」とクレームをつけた。扶桑社側は、これを「強い影響下にあった」と自主修正した。


■4.国号を決めてもらうのが「親善関係」?■

 韓国側は教科書でも朝鮮が中国に対して服属国であったことを絶対に認めない。まず李氏朝鮮の成立にあたって、

__________
 新王朝は、国号を朝鮮と定めた。「朝鮮」は、すなわち古朝鮮の伝統を受け継ぐという意味で、壇君(JOG注:朝鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖)に民族の独自性を求めるという意味が含まれている。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と述べるが、国号を朝鮮自身で定めたというのは、歴史事実ではない。「朝鮮王朝実録」によれば、太祖・李成桂は使いを明に送って、国号として「朝鮮」と「和寧」という二つのうちのどちらかを採択することを請い、「朝鮮」を選んでもらった。

 中国皇帝が地方の諸侯に封禄・爵位を授ける事を「册封」と言うが、転じて、周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて、擬似的な君臣関係を結ぶシステムを「册封体制」(または華夷秩序、中華秩序)と呼ぶ。


朝鮮王も、中国皇帝の柵封を受けて、初めて朝鮮の国王として認められた。だから、国号でさえ自分では決められないのである。

__________
 朝鮮王朝は、外は明と親善関係を維持して国家の安定をはかり、女真や日本に対しては交隣政策をとって国際的な平和を維持した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国号まで決めて貰う宗主国との関係を対等であるかのような「親善関係」と記述するのは、相当に無理がある。

__________
 明との外交は朝鮮側がより積極的であった。朝鮮は朝貢を通じて明の名分を立ててやり、使臣の往来を通して経済的・文化的実利を得た。しかし後にはいきすぎた親明政策に流れる傾向があらわれた。 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 宗主国に対して定期的に貢ぎ物を送る「朝貢」も、柵封体制の特徴の一つである。これを「明の名分を立ててやり」とは、中国が読んだら、怒って修正要求を出すのではないか?


■5.清国への「君臣の礼」■

 明との主従関係は、女真族から起こった清朝にも引き継がれた。

__________
 後金は勢力を強め、国の名称を清とかえ、朝鮮王朝に対しては君臣の礼を要求して再び侵入し、漢陽を占領した。

 そのため仁祖は臣下とともに南漢山城に移り、45日間抗戦したが、ついに清の要求を受け入れて講和を結んだ。この戦争を丙子胡乱という(1636)。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 「講和」の結果、清は王子一族をはじめ、3公6卿とその家族数百人を人質にし、民衆50万人を北方に連行した。


その後1636年から1881年までの244年間に、朝鮮から清への朝貢使は500回以上に及んだ。


また清の勅使を迎えるたびに、朝鮮国王は漢城郊外の迎恩門に至り、土下座して恭しく勅使を迎えた後、慕華館で勅使の接待をすることを余儀なくされていた。「君臣の礼」とは、このように過酷なものであった。


■6.日本からの無礼・傲慢な国書■

 1868(明治元)年、12月19日、日本の新政府の樹立を通告する国書を携えた使節が釜山浦にやってきた。しかし国王高宗の父・大院君が実権を握る李朝政府は国書の受取りを拒否した。

 その第一の理由として挙げられていたのが、日本からの国書に「皇上」「奉勅」の文字が使われていたことであった。


朝鮮から見れば、「皇」は中国皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下であり、このような傲慢かつ無礼な国書を受け取ることはできない、というのが、朝鮮の考えであった。

 そのような国書を勝手に受け取ったら、宗主国・清国からどのような懲罰が下るかもしれぬ、という恐怖感もあったであろう。


日本の新政府は、その後もたびたび使節を送って交渉を続けたが、朝鮮側の受け取り拒否は変わらなかった。この時の事情を、韓国教科書は次のように記述する。

__________
 日本は明治維新以降、新しい国家体制を築き、勢力を広げようと交渉を要請してきたが、朝鮮政府はこれを拒否した。これは、日本と修交すれば、西洋の侵略が後に続くと見なしたためであった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 国書を拒否した第一の理由は伏せられたままである。


■7.「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」■

 ひたひたとアジアに押し寄せてくる欧米勢力から、国家の独立を守るには、内に近代的な国民国家を作り上げ、外に開国して早急に近代的経済力・軍事力を身につける必要がある。

 そうした危機感をもとに維新を敢行した明治日本の指導者から見れば、古代からの柵封体制から一歩も出ない李朝朝鮮の姿勢は、火事が迫っているのにも気がつかずに惰眠を貪る老人のように見えたであろう。

 業を煮やした明治政府は、軍艦を派遣して、李朝政府を威圧し、日朝修好条約(江華島条約)を結ばせた。


条文の第一条は「朝鮮国は自主の邦にして日本と平等の権を保有せり」と始まり、朝鮮を清国の柵封体制から独立させようという意図は明白であった。このあたりを韓国の歴史教科書はこう記述する。

__________
 江華島条約は、わが国最初の近代的条約であったが、治外法権の認定など朝鮮に不利な条約であった。これをきっかけにして釜山、元山、仁川の3港を開港し、日本はソウルに公使館を設置し、朝鮮に大きく勢力を浸透させはじめた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 たしかに日本の手口はペリーと同じ砲艦外交であり、西郷隆盛が「天理に於いて恥ずべき所為」と憤ったほどであるが、朝鮮を冒頭で「自主の邦」と宣言した事については、韓国教科書では何も触れられていない。


■8.清国軍のソウル制圧と朝鮮属国化■

 この条約によって朝鮮は開国し、留学生や使節団をさかんに日本に送って、近代化への努力を始める。しかしその後、近代化政策に不満を持つ勢力や、役人の腐敗に不満を抱く民衆による暴動が発生する。


日本人軍事教官など数名が暴徒に殺害され、日本公使館も襲われて、公使らは命からがら脱出した。

 高宗の皇后閔妃(びんひ)はこれを失脚していた大院君の策謀として、清国に暴動平定のための派兵を要請した。


清国軍は3千の兵力と、3隻の軍艦で反乱を制圧し、大院君を清国軍艦で天津に強制連行してしまう。日本側も居留民保護にために、1500人規模の出兵を行った。

 この壬午(じんご)軍乱(1882)の後、清国は対朝鮮干渉を強化し、ソウルを軍事制圧下に置き、清国朝鮮商民水陸貿易章程を結んだ。これは朝鮮を清国の属国であると明記し、宗主国として貿易上の特権を独占することを規定していた。


これにより、朝鮮を「自主独立の邦」とした日朝修好条約は名ばかりのものになってしまった。

__________
 わが国の農民たちは、日本の経済的侵略に強い反感をもつようになり、しだいに日本を排斥する機運が広がっていった。・・・

 壬午軍乱後、朝鮮は清の内政干渉を受けるようになり、政権についた閔氏勢力は開化政策に消極的になり、近代的改革をきちんと進められなくなった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 治外法権はあったにせよ、朝鮮を「自主独立の邦」として交易を求めた日本を「経済的侵略」とし、清国の軍事制圧や貿易特権の独占を「内政干渉」と言うのは、あまりにバランスを欠いた記述ではないか。


■9.日清・日露への道■

 この後も、日本の支援を受けて近代化と独立を押し進めようとする若手官僚を中心とする「開化党」と、清国の軍事力で国内を抑えようとする閔氏勢力の争いが続く。


それが日清戦争にまで発展するのだが、日本の勝利後、清国と結ばれた下関条約の第一条で、朝鮮を「自主独立の国」と規定した。朝鮮はようやく清国の柵封体制から独立しえたのである。

__________
 清日戦争の結果、下関条約が結ばれた。この条約で日本は遼東半島と台湾を手に入れた。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 と、韓国の歴史教科書は、ここでもこの第一条の意義を伏せている。日本がロシア、フランス、ドイツによる三国干渉で、遼東半島を放棄すると、閔氏勢力は今度はロシアに接近していく。これがさらに日露戦争の原因となっていくのである。

 三国干渉に屈した事実を見れば、日本の当時の国力では、欧米勢力を向こうに回して、朝鮮の侵略と植民地化などという大それた野望は持つべくもなかった事は明白である。


日清、日露と日本が自国の存亡を賭けて中露二大国と戦ってきた目的は、ひとえに自存自衛の為に、隣国朝鮮を「自主独立の国」として、清国やロシアの属国化を防ぐことにあった。

 もし、本当に朝鮮が自主独立の国であったとすれば、わが国は日清戦争も日露戦争も戦う事なく、もっと安全で幸福な道を歩めたであろう。

 韓国が、清国との貿易章程で「属国」と規定した事実までも隠蔽して「朝鮮を中国の『服属国』として表現したものは削除必要」と要求するのは勝手である。



しかし、それは我らが父祖が、朝鮮の独立保全のために必死に戦った意義を無視し、逆に、その努力を朝鮮侵略と曲解することにつながる。日本人の歴史観としては到底、受け入れられない要求である。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(190) 「お家の事情」の歴史観
「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない韓国の「お家の事情」。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h13/jog190.html

b. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 勝岡寛次、「韓国・中国歴史教科書を徹底批判する」★★★、小学館文庫、H13

2. 呉善花、「韓国併合への道」★★、文春新書、H12

3. 名越二荒之助、「日韓2000年の真実」★★★★、国際企画、H9


韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観 : 3-6「お家の事情」の歴史観

2014-06-01 20:35:52 | 韓国問題

■■■ Japan On the Globe ■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

韓国問題-歴史編 第3部 「お家の事情」の歴史観
3-6「お家の事情」の歴史観

「抗日史観」を国家の「背骨」にせざるをえない韓国の「お家の事情」。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 転送歓迎 ■■■■■


  ■1.中国への謝罪要求は?■
 
1992年の中韓国交樹立時、朝鮮戦争で中国人民解放軍が朝鮮半島を蹂躙したことに対して、中国政府が謝罪をするという情報が韓国外務省筋から流され、韓国マスコミが大騒ぎをした。しかし駐韓中国大使・張庭延はテレビで「そんなことはあるはずがないし、これからも絶対に遺憾の意を表明する必要はない」と一喝し、それ以来、韓国マスコミは、謝罪に関して一切報道しなくなった。

 朝鮮戦争は韓国軍約42万人、民間人106万余人が命を失い、1千万人の離散家族が生じたという韓国近代の最大の悲劇である。

 日本政府に対しては、韓国の政権が変わるたびに居丈高に朝鮮統治に対して謝罪要求をする一方、中国に対してのこの及び腰は一体なんなのだろう。

 この明白な二重基準の根底に潜むのが韓国の特異な歴史観である。この点を知らずに「日本が心から謝らないから、いつまでも許してくれないのだ」などと考えているようでは、日韓のすれ違いがこれから先も続くだけである。


■2.日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった■


 韓国の特異な歴史観というのは、その建国の事情にからんでいる。韓国の国定教科書「中学国史・下」では次のように書く。

__________
 われわれが光復(JOG注:独立)を迎えることができたのは、連合軍の勝利がもたらしてくれた結果でもあるが、この間、わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実でもあるということができる。[1]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 確かに大東亜戦争勃発当時に上海にあった「大韓臨時政府」は、日本に対して宣戦布告をしたがそれきりで、内部抗争を続けるのみであった。

 そのために「大韓臨時政府」はアメリカにも中国にも承認されていなかった。せめてドイツ占領下のフランスでのレジスタンスのようにゲリラ戦でも行っていれば、連合国の一員と認められる可能性はあったろうが、それすらもなかった。

 終戦時、朝鮮独立派のリーダーの一人・金九は重慶で祖国上陸を夢見て韓国光復軍を編成し、訓練を積んでいたが、日本降伏の報に接して、天を仰いで長嘆息し、次のように言ったと伝えられている。[2,p28]

__________
 韓国軍は日本軍を打ち破ることは一度もなかった。わたしは、日本軍を撃滅してわが同胞を解放したかった。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ■3.2日間で下ろされた太極旗■
 

  それでは韓国の「光復」はいかにもたらされたのか? 昭和20年8月15日に終戦を迎えると、朝鮮総督府の遠藤柳作・政務総監は朝鮮語新聞「中央日報」社長・呂運享と会い、一切の統治機構を韓国人の自治組織に引き渡すことを申し出た。

 呂運享は、その日の夕方、自らを委員長とする「朝鮮建国準備委員会」を組織して、総督府から治安維持の権限を引き取り、放送局や新聞社などの言論機関を引き継いだ。建物という建物には、民族の旗「太極旗」が翻った。

 しかし連合軍は8月16日に総督府に機密命令を発し、しばらく朝鮮統治を続け、統治機構を保全したまま連合軍に引き渡すように命令した。18日、総督府はやむなく行政権を取り戻した。太極旗が下ろされ、ふたたび日章旗が掲げられた。


■4.蚊帳の外の「朝鮮人民共和国」■

 朝鮮側は激怒したが、なすすべはなかった。呂運享は半島全土に「朝鮮建国準備委員会」の支部を作らせ、ソウルに1千名余りの代議員を集めて、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言したが、米ソ両国はこれを無視した。

 9月8日、米軍が仁川に上陸すると、「朝鮮人民共和国」の代表が迎えたが、まったく相手にされず、逆に500人ほどの朝鮮人が太極旗を掲げ、花束をもって米軍に近寄ろうとしたら、米軍が勘違いして発砲し、多数の重軽傷者が出る有様だった。

 9月9日、アメリカ側は沖縄第24軍団ホッジ中将、第57機動部隊司令長官キンケード大将、日本側は朝鮮総督・阿部信行大将、朝鮮軍管区司令官・上月良夫中将との間で、休戦協定が結ばれたが、朝鮮側はまったく蚊帳の外に置かれていた。

 ルーズベルト大統領はヤルタ会談で、朝鮮半島は独立させず、連合国による信託統治とし、その期間は20年から30年くらい必要だと述べていた。


■5.日本と一緒に大東亜戦争を戦った朝鮮■

 なぜ米国はこれほど徹底して朝鮮独立勢力を無視したのか?一つは韓民族としてまとまって国家を運営していく準備があるのか、という疑問があった。現実に「光復」後も朝鮮独立のリーダー達は内部抗争に明け暮れ、呂運享も、その政敵だった宋鎮禹も、そして「暗殺の神様」と言われた金九自身も、政争の中で暗殺されている。

 もう一つは、韓民族が戦争中に見せた、日本と一体となって戦い抜く姿勢である。その筆頭は日本の陸軍士官学校を出て、めざましい働きをした軍人たちである。

 まず陸軍中将まで栄進した洪思翊。日本人部隊を率いて抜群の勲功を立て、軍人として最高の名誉の金鵄勲章を授与された金錫源・陸軍大佐。戦後、大統領となった朴正熙は、陸軍士官学校を出て、終戦時は満洲国軍中尉だった。

 こうした人々の活躍に刺激されて、昭和18年には6千3百人の志願兵募集に対して、実に30万人以上の青年が応募し、倍率は48倍にも達した。血書による嘆願も数百人にのぼり、希望が入れられずに自殺までした青年も現れて、総督府を困惑させた。大東亜戦争に軍人・軍属として出征した朝鮮青年は合計24万人にのぼり、そのうち2万1千余人が戦死して靖国神社に祀られている。

 一命を捧げた人々の中には朝鮮出身者でありながら特攻戦死した金尚弼ら14人、戦後に日本軍人らと共にインドネシア独立軍に身を投じた梁七星、報復裁判で戦争犯罪人として処刑された軍人、軍属147名などがいる。これらの人々はまさに日本の軍人と同じ悲劇を共に歩んだのである。[3]

「(日帝は)戦争協力のため韓国の人的・物的資源の収奪に狂奔した」と韓国の高校国史は書くが、目立った反乱もテロもゲリラ活動もストライキもなく、これだけの戦意の高揚を見せつけられれば、それをすべて日本軍国主義の強制によるものと見なすのは事実として難しい。

 アメリカから見ても、韓民族は日本と一体となって、戦争に邁進していると見えたはずである。そういう民族を分離独立させたからと言って、すぐに連合国の都合の良いように振る舞うはずがない、と考えるのは、ごく自然だろう。ルーズベルトが2,30年の信託統治を考えたのも、十分理解できる。

 逆に、朝鮮総督府がアメリカの占領前に慌てて朝鮮を独立させようとしたのも、共に戦ってきた同胞としての信頼感があったからであろう。


■6.アメリカから与えられた独立■
 
  1945年12月、米英ソ3国はモスクワで外相会議を開き、朝鮮の独立は当面認めず、5年間の信託統治を行うことに決めた。当然、人民の多くはこれに反撥したが、北ではソ連がかつぎだした金日成ら共産主義者がソ連の思惑に従って信託統治案に賛成した。

 米ソは独立政府樹立を担うべき団体の選定で対立し、米国は1947年にこの問題を国連に持ち込んで、国連監視下で南北同時選挙を行い、独立政府を樹立することとした。しかし、ソ連は国連監視団の北朝鮮入りを認めず、南朝鮮だけの選挙となって、1948年8月15日に大韓民国が設立された。これに対抗して、北では9月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」が樹立された。

 結局、韓国が独立できたのは、アメリカが戦争に勝って日本の統治を覆し、3年間の軍政のあとで、ソ連に対抗して国連監視下で選挙を行わせたという経緯による。「光復」はアメリカから与えられたものであって「わが民族が日帝に抵抗してねばり強く展開してきた独立運動の結実」と言うにたる歴史事実は見あたらない。


■7.反抗期を持てなかった韓国■


 韓国独立の経緯はインドやインドネシアとはいかにも対照的である。インドのチャンドラ・ボースは、日本軍の協力のもと、イギリス軍から投降してきたインド兵を集めて、数万人規模の自由インド軍を創設し、日本軍とともにインド解放をめざすインパール作戦を敢行した。

 日本敗戦後、イギリスが自由インド軍に参加した約2万名の将兵を反逆罪で裁判にかけようとすると、インド全土で反英活動が展開され、数千人の死傷者を出したが、2年間の戦いの末、独立を勝ち得た。[a]

 インドネシアも、独立派指導者スカルノ、ハッタを中心に、日本軍の指導のもと、3万5千の将兵からなるインドネシア義勇軍を創設し、日本敗戦後はこれを中核として、再侵略しようとするオランダ軍と4年5ヶ月も戦い、80万人もの死者を出しながら、独立を勝ち取った。[b]

 インドも、インドネシアも、自ら独立を勝ち取ったという厳然たる歴史事実があり、それをそのまま歴史教育で教えれば、子供たちは祖国に誇りと愛着を抱ける。ことさらにかつての宗主国の悪行を針小棒大に教えたり、繰り返し謝罪を求める必要はない。

 独立国としての自覚を持つには、一種の「反抗期」が必要であり、インドもインドネシアも十分な反攻期をもったからこそ、現在はイギリス、オランダと大人のつきあいができる。

 それに対して韓国の場合には「独立はアメリカから一旦は取り上げられ、数年後に与えられた」では国家の体面として身も蓋もない。だからこそ日帝時代がどれほどひどかったか、それに対して韓民族がいかに英雄的に戦ったかを強調し、そしてそれを裏付けるために事ある毎に日本政府からの謝罪を引き出して、国民に示す必要があるのである。いわば「抗日」を国家の「背骨」にしているのである。

 中国が朝鮮戦争に関して謝罪しなくとも、韓国マスコミが激高しないのは、国家の「背骨」に関係ないからである。また再び謝罪要求をしても、冒頭に紹介したように、にべもなく拒否されたら、かえって韓国政府のメンツを潰すことになる、という事情もある。


■8.敬意と慰霊と感謝と■


 韓国の対日謝罪要求と反日歴史教育は、このような「お家の事情」によるものであり、歴史事実とは相当に距離のある政治的虚構が多分に含まれている。

 韓国がどのような「国定史観」を持とうと勝手だが、歴史事実に基づかない独断的な史観をわが国が受け入れなければならない理由はない。そのような事をしたら、かえって学問の自由を否定し、正確な歴史事実に基づくべき歴史学の健全な発展を阻害することになる。

 わが国としては、あくまでも歴史事実に基づいた客観性のある史観を持たなければならない。そのためには次の3点がポイントとなる。

 第一に日本による朝鮮統治をどう評価するか。韓国でも日本統治時代の歴史事実に基づく研究が進んでおり、経済史分野では再評価派が研究者の3分の1を占め、国史分野でも動揺が起きつつある。[1,p73]

 現実に日本統治時代のGDP成長率は4.15%と当時の先進国を上回り、人口も2.4倍となるほどの高度成長をしていたという事実があるのだから、客観的な研究をすれば、再評価派が増えるのは当然なのである。この高度成長に関しては日本側の貢献もさることながら、韓民族の努力と能力への敬意が払われてもしかるべきだろう。[c]

 第二に大東亜戦争で日韓が一体となって戦った事実をどう受け止めるか。日本人が靖国神社を参拝する際には、そこに一緒に祀られている朝鮮人2万1千余柱、台湾人2万8千余柱への慰霊も忘れてはならない。

 第三に朝鮮戦争を日本としてどう評価するか。この戦争で韓国側が負けて、北朝鮮のようなテロ国家が今の何倍もの国家規模で玄界灘のすぐ対岸に存在していたら、わが国の平和と繁栄は重大な脅威を受けていただろう。韓国軍が42万人もの尊い犠牲を出しながらも、果敢に戦ってくれた事に対する感謝を日本側は持つべきではないか。[d]

 このような歴史事実を直視すれば、我々日本人が抱くべきは、韓民族に対する敬意と慰霊と感謝の情である。韓国側の「抗日史観」に対し、日本側が表では謝罪しつつ、裏では反撥するというのは、歴史事実に基づかない虚構の関係であり、そこからは真の相互理解も友好も育ち得ない。

 日本側は「敬意と慰霊と感謝」を表明し、韓国側も歴史事実に基づいた自信と誇りを確立する、というのが真の和解への道であろう。
 (文責:伊勢雅臣)

■リンク■


a. JOG(002) 国際社会で真の友人を得るには
 インド独立のために日本人が血を流した
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog002.htm

b. JOG(036) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たち
 多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog036.html

c. JOG(056) 忘れられた国土開発
 日本統治下の朝鮮では30年で内地(日本)の生活水準に追いつく事を目標に、農村植林、水田開拓などの積極的な国土開発が図られた。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html

d. JOG(037) 恩讐の彼方に
 日本での強制労働中に無念の死を遂げた戦友の名を刻んだ立派な御影石の墓碑に驚き、感動したイギリス人元捕虜の一人は涙ぐみながらつぶやいた。「ようやく私の戦後が終わった」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_1/jog037.html>


韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観 : 3-4 日出づる国の防衛戦略

2014-05-18 10:22:29 | 韓国問題



■■■ Japan On the Globe ■■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

韓国問題-歴史編 第3部「お家の事情」の歴史観
3-4 日出づる国の防衛戦略

 平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 転送歓迎 ■■■■■


■1.超大国の侵略の跡■

「このあたりだ。見ろ、あの白骨を」と、高句麗の将官は馬上から叫ぶように言い、通事が訳した。白骨化した死体が、点々と地平線までつらなっていた。推古9(西暦601)年、所は高句麗と隋の国境近くを流れる遼河のほとり、ちょうど朝鮮半島が大陸から突き出す付け根のあたりである。大和朝廷からの使者・大伴咋(くい)は侵略をこととする超大国と国境を接する事が、いかに恐ろしいことか、思い知った。

 中国大陸を370年ぶりに統一した隋が、水陸30万の大軍で高句麗に攻め込んだのは3年前、西暦598年のことであった。高句麗は今の北朝鮮から、満洲、遼東半島にかけて広大な版図を持つツングース系騎馬民族国家で、約800年の歴史を持つ東北アジアの強国であった。

 この時は高句麗が隋の大軍をよく防いでいる間に、6月の長雨で遼河が氾濫し、中国本土からの補給線が切れるとともに、隋軍の中で疫病が流行した。隋軍は20数万人の死体を原野に晒して引き揚げていった。

「しかし、隋はまたかならず来襲する」 高官は馬首を返して言った。「30万で負けたとなると、次は100万だ。そのとき野を埋めるのは、わが軍兵士の骸(むくろ)であるかもしれないのだ」

 高句麗を破ったら、隋の大軍は新羅と連合して、百済を蹴散らし、やがては海を越えて、わが大和の国を襲うだろう。大伴咋の身体は身震いがとまらなかった。


■2.厩戸太子(聖徳太子)の大戦略■

 朝鮮半島の南東部を治める新羅が、半島南端の日本の属領・任那を攻撃したのは、前年の推古8(600)年のことだった。大伴咋が大将軍として4年も九州に出陣して牽制していた間は、まがいなりにも平和が保たれていたが、その軍勢がひきあげて数年も経たぬうちに、新羅は軍事行動を起こしたのである。

 新羅の狙いは、任那だけではなかった。隋と組んで、北の高句麗、西の百済に侵攻し、朝鮮半島を統一しようという野望を抱いていた。

 大和朝廷では、ただちに新羅征討軍を送り込むことが決定され、四国、中国、北九州の豪族の兵士約一万が続々と朝鮮海峡を押し渡った。新羅、百済、高句麗とも陸戦には慣れているが、水軍を建設するほどの国力はなく、日本水軍は独り圧倒的な力で、朝鮮海峡の制海権を握っていたのである。

 征討軍は朝鮮半島南端の新羅が支配する旧任那の地に直接上陸して、無人の野を行くが如く、たちまち5つの城を攻め抜いた。すると、新羅はすぐに降伏して、旧任那のうち6地方を返還すると申し入れて、和睦を求めてきた。しかし、朝廷がこれを聞き入れ、朝廷軍を召還すると、新羅は再び任那を制圧してしまった。

 大伴咋が摂政の厩戸太子(聖徳太子)から「高麗(こま)に赴(ゆ)きて任那を救え」との特命を与えられたのはこの時だった。太子の戦略は、高麗(高句麗)、百済、日本が同盟を結び、北・西・南から新羅を攻める。朝鮮半島統一の野望を持つ新羅を孤立させ、任那を守りつつ、新興の超大国・隋に対する防壁を朝鮮半島を南北に貫いて築く、という戦略であった。


■3.「このうらみ、末代まで忘れまい」■

 大伴咋が高句麗の嬰陽王(えいようおう)に謁見して、日本-高句麗-百済の同盟を築きたいと提案すると、嬰陽王の顔に抑えようもない怒りの色が浮かんだ。「われらは貴国を信ずる。しかし、百済は信用ならん」という王の声は震えていた。

「理由をお聞かせ願いたい」と咋が聞くと、王は答えた。隋の大軍が高句麗の国土をまさに蹂躙しようとしている時、百済の威徳王は隋に対して「皇帝の臣たるわたしどもが、先導をつかまつりましょう」と、阿諛迎合の書状を献上品とともに隋に差し出したというのである。

「卑劣である。絶対に許し得ぬ行為である。このうらみ、末代まで忘れまい」と、王は恨みをむきだしにして百済を罵った。咋は半島情勢の複雑さを、今更ながらに味わった。

「なにゆえに、奸物の百済を貴国は身内のようにつねに慈しみ、救(たす)けてきたのであるのか」と聞く王に、咋はこう答えた。

__________
 されば、百済はいにしえより、わが国の官家(みやけ)であります。官家であれば慈しみ、救(たす)けなければならぬのは、当然のことわりでありましょう
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄。

「官家」とは、天皇に直属する領地というほどの意味である。第15代応神天皇の時代から、我が国は百済、新羅、任那の三韓を「官家」と見なしてきた。隋書倭国伝にも「新羅、百済、みな倭をもって大国となし、これを敬い仰ぐ」とある。

 咋は、百済が常に日本に王族を人質に差し出していることを明らかにし、「百済がわが国に謀反いたすことは万が一にもない」と断言した。

 それに安心したのか、最高位の重臣が代表して、「われら一同、貴殿を信頼し、その信頼をもって新羅征討の軍を起こすこととする」と約束した。ただし、唯一の条件として、咋が自ら百済に赴き、かの国が裏切ることのないよう、国王以下にこの盟約を徹底させることを要求した。咋は、翌日、従者とともに馬を駆って、百済に向けて半島を南下していった。

 咋を迎えた百済も当初、三国の同盟案に強硬に反対した。盟主・日本の要請とあらば、いつでも新羅討伐に立ち上がるが、仇敵である高句麗と手を結ぶことはできない、というのである。漢城(ソウル)はもともと百済の都であった。それを約130年前に高句麗に奪われ、時の百済王は殺され、半島西南部に押し込められたのであった。


■4.国民軍■

 互いに仇敵であった高句麗と百済になんとか同盟を約束させ、大伴咋が帰朝したのは、推古10(602)年6月、1年3ヶ月におよぶ長旅であった。

 帰路、立ち寄った筑紫(北九州)から長門(山口県)、安芸(広島県)の各港は沸き立つような活況を見せていた。巨木による軍船が建造され、食料、武器、燃料などを満載した帆船が港を埋めていた。新羅討伐のための出兵準備である。約2万5千の兵力を動員するという。

 さらに咋を驚かせたのは、朝廷軍の編成が一新されていた事である。従来は朝廷軍とは名ばかりで、大伴氏や紀氏、葛城氏などの大豪族が私兵を引き連れて、連合軍を形成していた。

 しかし、今回は地方毎に集められた兵士が中心となっている。しかも将軍は、摂政・厩戸太子(聖徳太子)の同母弟・来目皇子(くめのみこ)である。朝廷軍とは大君が統率する国民軍であるべきだ、という太子の理想が具現されていた。

 しかし、筑紫の駐屯所で出兵準備の陣頭指揮をとっていた久目皇子が倒れた、との早馬が都に駆け上ってきた。久目皇子は兄の太子に似て、すぐれた資質を持つ青年だったが、まだ20代と若く、軍を率いた経験もなかった。2万5千の兵を率いるという過労と精神的重圧のためであろう。


■5.三国同盟、失敗す■

 来目皇子が重病の床にあって、朝廷軍の出発が遅れている間に、推古10(602)年8月、百済軍が新羅を攻めた。対する新羅は大部隊を繰り出して、立ち向かった。この時点で、日本の大船団が新羅沖に達していたら、挟み撃ちの形ができて、新羅はこれほどの大兵力を対百済戦に集中投入できなかったはずである。百済軍は全滅に近い敗北を喫した。

 来目皇子が推古11年2月に亡くなり、あらたに太子の異母弟・当摩皇子(たぎまのみこ)が将軍に任ぜられた。しかし、筑紫へ向かう途中、身体の弱かった妃を亡くし、悲しみにくれた皇子は飛鳥の都に引き返してしまった。

 この頃、こんどは高句麗が千人ほどの精鋭部隊を南下させたが、新羅は国王が陣頭指揮をとって、主力軍で迎えた。日本軍が海上から攻めていればこそ勝ち目もあったが、単独では敵うはずもない。高句麗軍は戦わずして引き揚げた。

 咋は愕然とした思いで、自らのまとめた三国同盟の失敗を見つめていなければならなかった。それもこれも盟主・日本の責任である。

 咋は、太子に高句麗と百済の情勢を報告した。太子は「新羅を討つに兵を用いず」と一言、言われた。それが何を意味するのか、咋が理解するにはまだ何年もの歳月が必要だった。


■6.「日出づる処の天子」からの国書■

 太子の命によって、小野妹子(おののいもこ)が遣隋使として飛鳥の都を出発したのは、推古15(607)年7月だった。筑紫から百済を渡り、陸路、高句麗を経て、隋に入った。百済も高句麗も同盟国であり、何の危険もなかった。

 小野妹子は隋帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」という一文で始まる国書を差し出した。[a]

 超大国、隋に対して対等な外交を申し入れたこの国書が、どれほど革命的なものであったかは、高句麗の嬰陽王が隋の大軍を撃退した後に、差し出した国書と比べてみるとよく分かる。王は勝ち誇るどころか、自らを「遼東糞土の臣(糞尿にまみれた遼東の地を治めさせていただいている臣下)」と蔑んだのである。

 九州ほどの大きさでしかない百済や新羅に比べれば、日本は大国であり、世界最大級の仁徳天皇陵を初めとする多くの前方後円墳を作るなど、半島の三国とは桁違いの国力を持っていた。軍事的にも隋を上回る水軍を保有していた。その強国を、高句麗討伐に手こずっている隋が、粗略に扱える余裕はなかった。

 翌推古16(608)年8月、小野妹子は特使・裴世清以下12名の使節団とともに帰国した。隋帝からの国書は「皇帝から倭皇に挨拶を送る」と始まる丁重な文面で、「皇(天皇)は海の彼方により居(まし)まして、民衆を慈しみ、国は安楽で生活は融和し、深い至誠の心あり」と、日本の平和な国のありようを讃えている。


■7.新羅の焦り■

 この動きに焦ったのが新羅である。隋の力を借りて朝鮮半島を統一しようという野望が一挙に覆された。その隋が新羅にとっては夢のような大使節団を日本に送り、あっという間に対等な友好関係を結んでしまったのである。隋と日本、そして百済、高句麗が結んだら、新羅は完全に孤立する。

 新羅の真平(しんぺい)王は、隋帝に高句麗討伐の出兵を乞う書簡を送ったが、隋からはなんの返答もなかった。逆に高句麗は、当分隋からの侵攻はない、と読んで、新羅を攻撃し、国境近くの山城を落として8千人を捕虜とした。

 窮地に陥った新羅が調(みつぎ)をたてまつる使者を日本に送ってきた、と聞いたとき、大伴咋は自分の耳を疑った。しかも任那からの使者を伴っている、という。新羅が任那を実効支配したのが、48年も前のことだった。以来、朝廷は任那を奪回すべく、何度も遠征軍を派遣し、あるいは百済を軍事支援して新羅を攻めてきた。

 新羅が支配する任那の使者などは、手の込んだ演出に過ぎないが、日本の要求通り任那を復興させ、その使者を伴ってきた、という形式をとって見せたのだった。隋と対等に渡り合う日本の機嫌をとっておこう、という見え透いた戦術だった。

 推古18(610)年10月、朝廷は数十年ぶりに新羅の使者を盛大に迎えた。7年前に太子が言われた「新羅を討つに兵を用いず」との言葉がここに現実のものとなったのである。

 しかし、咋はこれで安心とはとても思えなかった。隋は高句麗への侵略をあきらめたわけではない。他国を属国としなければいられぬ侵略国家である。わが国との友好を固めたのを機に、ふたたび高句麗侵略に出るに違いない。


■8.随の高句麗侵略と滅亡■

 咋の心配通り、611(推古19)年に入ると、隋は113万の大軍を持って高句麗に襲いかかった。少し前の「ゲルマン民族の大移動」が、総計50万人程度と言われているので、それに倍する軍勢である。しかし、あまりの大軍の長距離遠征に糧食が続かず、わずか数万の高句麗軍が果敢な抵抗をしている間に、随軍は飢餓に襲われ、敗退した。

 この後も、隋は二度に渡って高句麗を攻めたが、疲弊した国内で反乱や暴動が起こり、ついに618(推古26)年に滅亡してしまう。

 その直後、隋の侵略からついに国を守りきった高句麗の嬰陽王は、戦勝の喜びの品々を日本の朝廷に送ってきた。その中には隋軍が運搬に使ったラクダもあった。高句麗の嬰陽王がこれらの品々をすぐに送ってきたのは、当然、日本への感謝があったのだろう。日本の圧力がなければ、新羅が背後で蠢き、高句麗は随との戦いに集中できなかったはずである。


■9.わが国の防衛戦略の根本■

 大和朝廷の朝鮮半島政策の根本は、推古天皇の父で、任那滅亡時の欽明天皇の遺言にあった。欽明天皇は、死の病床で皇太子(第30代敏達天皇)の手をとり、「汝(いまし)、新羅を打ち、任那を封建すべし。また夫婦のように相和して、もとの日のごとくならば、死すとも恨むことなし」と語ったのである。

 新羅を攻め、領土を奪えと言うのではない。任那を再興し、新羅、任那、百済の三韓が平和的に鼎立してくれればそれで良い。平和で安定した半島情勢こそが大陸からの脅威を防ぐ防壁となるというのが、わが国の防衛戦略の根本であった。

「新羅を討つに兵を用いず」という太子の戦略もこの一環で、隋の勢力を引き入れて半島統一を目指した新羅の野望を打ち砕こうというもので、新羅そのものの打倒を目指したものではない。

 近代においても、朝鮮半島に高句麗のように独立心旺盛で、安定的な国家が存在して、ソ連や共産中国の防壁となってくれていたら、日清・日露戦争、満洲事変という歴史の流れも大きく変わっていただろう。そして中国と北朝鮮が、わが国の安全保障上、最大の脅威となっている現代においても、この根本は変わらない。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(311)  聖徳太子の大戦略
 聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取ったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h15/jog311.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 八木荘司『古代からの伝言 日出づる国篇』★★★、角川書店、H12
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4048732528/japanontheg01-22%22