そして武帝の代から約千五百年後、明の太祖(朱元璋)が子孫への遺訓に「不征の国」を示し、遠路の出兵を戒めています。そこで征してはならない国として挙げられているのは、朝鮮、日本、琉球、台湾、東南アジア諸国など十数国で、不征とすべき理由は、兵を派遣したところで補給が続かないことと、平定したところで現地人を使役できないことでした。言わば中国にとっては何の得にもならない国々なので、敢て相手にしなくてもよいと . . . 本文を読む
そして農耕民が遊牧民の土地を占拠しても使い道がないように、遊牧民もまた農耕民の土地に居座ったところで何ができる訳でもないので、古来数え切れないほど干戈を交えてきた両者ですが、あくまでそれは一時的な紛争に過ぎず、お互いの生活圏を奪い合うような戦争ではありませんでした。要するに遊牧民は農耕民の土地を襲っても留まることはなく、勝敗に関らず事が終れば放牧地へ戻るのが常であり、逆に農耕民が遊牧民の土地へ兵を . . . 本文を読む
地上のあらゆる場所へ棲息圏を広げた人類は、その辿り着いた土地が灼熱の砂漠であれ酷寒の氷原であれ、そこで生き抜くために最善の方法を見出すことで、いかなる環境にも適応して来ました。現代に生きる我々は、衣食住を初めとして、(文明国に限れば)世界中のどこに居ても同じ生活を送ることができますが、それはあくまで産業革命以降に実現したものであって、近代以前には有り得ない話でした。そしてこの地上のいかなる場所に於 . . . 本文を読む
衛青と霍去病によって行われた匈奴遠征と、その間の対外関連の出来事を年代順に略記すると、次のようになります。
紀元前一四一年三月 皇太子劉徹(武帝)即位。建元元年(前一四〇年) 武帝元年。後世遡って元号を建元と定める。元号の始め。建元二年(前一三九年) 張騫を西域へ派遣。建元三年(前一三八年) 閩越の侵攻を受けた東甌救援のため南方へ派兵。元光二年(前一三三年) 馬邑の戦い。匈奴に対して三十万の . . . 本文を読む
将軍衛青による第一回目の匈奴遠征が行われたのは、武帝の即位から十二年目の元光六年(紀元前一二九年)のことで、以後衛青は元狩四年(前一一九年)までの約十年の間、甥の霍去病と共に幾度となく匈奴へ出陣し、北狄に対して前例のない戦果を挙げることになります。尤も匈奴征伐そのものは、衛青が遠征を開始する四年前の元光二年(前一三三年)にも一度計画されており、この時は匈奴が信用しそうな者に内応を演じさせ、容易く一 . . . 本文を読む