高祖は白登山の戦いから五年後の高祖十二年(前一九五年)に世を去り、弱冠十六歳(諸説あり)の皇太子が二代皇帝として即位しました。これが恵帝です。しかし生来柔弱だった恵帝は、実母である呂太后の暴虐や呂一族の専横に気を病んで政務を放棄し、日々酒色に耽って在位八年で崩じました。その後はしばらく呂氏が朝権を握っていましたが、呂后の死と共に呂一族は粛清され、高祖の子で代王に封ぜられていた劉桓が、宗族や重臣の合 . . . 本文を読む
ここでその後に長城の辿った運命について軽く触れておくと、もともと始皇帝が長城の建設に着手したのは紀元前二一六年頃のことで、その十年後に秦は崩壊し、長城はそのまま漢に引き継がれた訳ですが、秦滅亡後の混乱期に一部侵食されていたのに加えて、漢が白登山の戦いで匈奴に敗れたことにより、長城の存在意義が著しく低下したことは既述しました。漢としても長城の維持を放棄してはいなかったのですが、その長大な総延長の中に . . . 本文を読む
周代の頃の支那では、北方の異民族を総じて狄と呼んでいました。方角である北を加えて北狄とも言い、恐らく元来は北方のとある民族の名称だったものと思われますが、やがて多分に通称として遊牧民そのものを指すようになりました。他の三方の異民族はそれぞれ南蛮・東夷・西戎と言い、四方を総称して蛮夷戎狄などと呼ぶこともあります。例えば今でも日常的に使われる「野蛮人」という言葉は、もともと南方の未開人を表したもので、 . . . 本文を読む
秦漢の長城が至って簡易式だったのは、まだこの時代には遊牧民の脅威と言っても突発的な侵入に限られていて、後世のように黄河文明の発祥地である中原が、長期間遊牧民に支配されるような経験もなかったので、基本的には国境を可視化したに過ぎなかったからでしょう。遡れば西周は首都鎬京に犬戎の侵攻を許し、時の幽王が殺されるという事態を招いていますし、諸侯の一人である衛公が狄人に殺戮された例もありますが、所詮それ等は . . . 本文を読む
蝗という虫がいます。但し常日頃から目にすることのできる固体ではなく、蝗単体で固有種という訳でもありません。世界中のどこにでもいるバッタ類が、生活環境や個体群密度の変化によって、孤独相から群生相に相異変を起こしたもので、通常のバッタ(孤独相)の飛翔能力が至って短距離であるのに対して、蝗(群生相)は長距離を飛行するのに適した容姿へと変形しています。この蝗が群を成して飛ぶことを飛蝗、その害を蝗害と言い、 . . . 本文を読む