諸豪族に見る欠史
以上ここまで初期天皇の欠史について見てきた訳ですが、実のところ欠史は何も天皇に限ったことではなく、臣下にしても同様です。
例えば記紀の東征記では、後の大和朝廷を構成することになる氏族の起源についても触れてられていて、特に主要な家系としては中臣氏・大伴氏・物部氏の三氏が挙げられます。
その三氏の祖先を東征の順に従って見てみると、神武帝は宇佐津姫を侍臣の天種子命に娶わせましたが、この天種子命は中臣氏の祖であり、熊野越えで先導の大役を全うした道臣命は大伴氏の祖であり、神武帝以前に畿内を統治していた饒速日命の子の可美真手命は物部氏の祖であるとします。
従ってこれら三氏の祖先が、東征記の通りに神武帝と同じ時代を生きていたとするならば、その子孫もまた常に皇家の歴史と共存していなければならない筈です。
しかし現実には両者が併存していたことを証明するのはほぼ不可能というのが実状なのでした。
大伴氏と物部氏の系譜
まず最も分かりやすい大伴氏から見てみると、初代道臣命以降の大伴氏の祖先の中で、その名が史書に記された最初の人物は、道臣命の六代の孫に当たる武日です。
逆に言えば、その間の五代については省略されることも多く、実在性を確保するだけの史料はありません。
またこれは大伴氏に限ったことではありませんが、始祖とされる人物から実在が確認できる子孫までの系図については、書物によって多少の誤差があるのに加えて、後世の創作も多分に含まれているので、あくまで参考程度に捉えておいても問題ないでしょう。
『日本書紀』によると武日は、垂仁朝で阿部臣の祖の武淳川別、和珥臣の祖の彦国葺、中臣連の祖の大鹿島、物部連の祖の十千根等と共に五大夫の地位にあり、続く景行朝では吉備武彦と共に日本武尊の熊襲征伐の従者を務めたとあります。
以上ここまで初期天皇の欠史について見てきた訳ですが、実のところ欠史は何も天皇に限ったことではなく、臣下にしても同様です。
例えば記紀の東征記では、後の大和朝廷を構成することになる氏族の起源についても触れてられていて、特に主要な家系としては中臣氏・大伴氏・物部氏の三氏が挙げられます。
その三氏の祖先を東征の順に従って見てみると、神武帝は宇佐津姫を侍臣の天種子命に娶わせましたが、この天種子命は中臣氏の祖であり、熊野越えで先導の大役を全うした道臣命は大伴氏の祖であり、神武帝以前に畿内を統治していた饒速日命の子の可美真手命は物部氏の祖であるとします。
従ってこれら三氏の祖先が、東征記の通りに神武帝と同じ時代を生きていたとするならば、その子孫もまた常に皇家の歴史と共存していなければならない筈です。
しかし現実には両者が併存していたことを証明するのはほぼ不可能というのが実状なのでした。
大伴氏と物部氏の系譜
まず最も分かりやすい大伴氏から見てみると、初代道臣命以降の大伴氏の祖先の中で、その名が史書に記された最初の人物は、道臣命の六代の孫に当たる武日です。
逆に言えば、その間の五代については省略されることも多く、実在性を確保するだけの史料はありません。
またこれは大伴氏に限ったことではありませんが、始祖とされる人物から実在が確認できる子孫までの系図については、書物によって多少の誤差があるのに加えて、後世の創作も多分に含まれているので、あくまで参考程度に捉えておいても問題ないでしょう。
『日本書紀』によると武日は、垂仁朝で阿部臣の祖の武淳川別、和珥臣の祖の彦国葺、中臣連の祖の大鹿島、物部連の祖の十千根等と共に五大夫の地位にあり、続く景行朝では吉備武彦と共に日本武尊の熊襲征伐の従者を務めたとあります。
[大伴氏] 道臣命…(五代略)…武日-武以―武持―室屋―談―金村
しかし誰しも気付く通り、既にこの時点で時系列には狂いが生じていて、垂仁帝は(もし公称系図に従ってその間に兄弟相続がなかったとすれば)神武帝の十代の孫であり、その垂仁期に道臣命の六代の孫が仕えたというのは明らかに時事の設定がおかしいと言えます。
また日本武尊は垂仁帝の孫であり、垂仁朝で既に五大夫の地位にあった武日が、日本武尊の従者を命ぜられる筈もありません。
因みに武日の子の武以は、仲哀帝(日本武尊の子)に大連として仕えており、その後の大伴氏の系図はほぼ史実と並立しているので、武日の一件は明らかに垂仁帝と成務帝の治績が混同された好例でしょう。
共にハツクニシラススメラミコトと称される初代神武帝と十代崇神帝、続く二代綏靖帝と十一代垂仁帝の記録が混同されているであろうことは誰もが知っています。
同じく『風土記』その他の史料にも見える通り、実質的な大和朝廷の創始者である崇神帝と、史上初の日本統一を成し遂げた十二代景行帝の業績もまた混同されることが多く、それは次代の垂仁帝と成務帝についても同様でした。
実際に『日本書紀』の垂仁紀を読むと、その内容からして成務紀が混入されたと思われる箇所がいくつか見受けられます。
そしてこれは後世でも同じであって、有名なところでは信長と秀吉、家康と家光の実績が混同して伝えられた事例などは多々あります。
次いで物部氏を見てみると、可美真手命以降の物部氏の祖先の中で、その名が史書に記された最初の例は、大伴武日等と共に垂仁朝で大夫を務めたという十千根で、この十千根は可美真手命の六代(『新撰姓氏禄』では七代)の孫に当たります。
ただ十千根の子の胆咋は、仲哀帝が陣中に崩じた際、中臣烏賊津連、大三輪大友主君、大伴武以等と共に、皇后の気長足姫(神功皇后)と大臣の武内宿禰から天皇の喪を秘匿するよう告げられた四大夫の一人であり、その子の五十琴は神功皇后の摂政下で大連を務めたとあります。
従って時事の整合性からしても、やはり大伴武日と物部十千根が大夫として仕えたのは、崇神帝の子の垂仁帝ではなく、景行帝の子の成務帝の代でしょう。
その成務帝の治世下では、若年の頃から帝の侍臣だった武内宿禰が大臣として盤石の地位を得ていたので、五大夫の制というのは他の有力豪族を協調させるための制度だったのかも知れません。
[物部氏] 饒速日命-可美真手命…(五代略)…十千根-胆咋-五十琴
欠史八代と諸豪族の関係
さて大伴武日と物部十千根が共に仕えた主君が、十一代垂仁帝ではなく十三代成務帝だったとすると、彼等の祖先である道臣命と可美真手命が仕えた相手は、果して誰だったのかという問題が生じます。
武日と十千根は共に道臣命と可美真手命の六代の孫とされているので、代数から計算して初代神武帝でないのは当然ですが、かと言って十代崇神帝でも世代が合いません。
無論始祖以降の五代が初めから当てにならないと言ってしまえばそれまでなのですが、ここは公称系図を信用して世代を合わせてみると、恐らく道臣命と可美真手命が生きた時代というのは、七代孝霊帝(崇神帝の曾祖父)か八代孝元帝の頃というのが妥当な線になります。
ではまさに欠史の真最中に当たる天皇の時代に、大伴氏や物部氏の始祖が誕生したという仮説は、歴史の可能性としてどうなのかと言えば、他の事例から見ても全く有り得ない話ではないと言えます。
例えば実在が確実視できる崇神帝以降の皇族や諸豪族の中にも、孝霊帝から九代開化帝までの三代間を起源とする氏族は少なくなく、現にそれは六代孝安帝以前と比べても顕著だからです。
また大和朝廷の礎を築いた崇神帝の勢力基盤は、やはり少なくとも三代以上の労力を費やして受け継がれたと考えるのが自然で、そうした人の世の現実的な思考を停止して、机上の空論に縋って無理矢理歴史の解読を試みようとするから、征服王朝説のような突拍子もない珍論が吐き出される訳です。
松平氏については前述しましたが、清康と広忠が相次いで早逝し、幼主の竹千代が駿府に囚われの身となりながら、やがて今川を離れた家康が瞬く間に三河を奪回できたのは、(今川の苛政に対する反撥があったのも事実ですが)やはり祖父の清康がかつて三河を統一し、松平氏を国持大名の地位にまで押し上げていたのが大きく、決して家康一人の実力ではありません。
同じことは織田家についても言えて、信長の父祖と言えば父の信秀が余りにも有名ですが、実は祖父の信定がかなりの傑物で、もともと尾張下四郡守護代織田氏の家中にあって、三奉行の一家に過ぎなかった信長の家系を、尾張有数の裕福な豪族にまで成長させたのは信定です。
そして子の信秀がその財政基盤を受け継ぎ、父譲りの経済感覚や武勇と知略によって、陪臣の織田家を尾張随一の勢力にまで発展させたのでした。
その遺産こそが信長の原資であって、天下は一代で成るものではありませんし、それは魏の武帝にしても同じことです。
確かに漢の高祖劉邦や明の太祖朱元璋のように、布衣から身を興して一代で天子となった例もあるにはありますが、それ等はいずれも救いようのない乱世を受けての出現であり、その大乱の余波は即位後も長く続きました。
しかも得てして建国後の混乱を招いていたのは天子もしくはその子孫でした。
要は同じ事業を起こすにしても、家業を継いで発展させるか、裸一貫から身を興すかの違いですが、少なくとも崇神帝は庶民出身ではないでしょう。
従って崇神帝が天下に覇を唱えた背景には、祖先が幾代も掛けて積み重ねた遺徳の恩恵があった筈です。
従って日臣命を先導に熊野から畿内へ討ち入ったり、饒速日命の降伏を受け入れたりした人物が、神武帝でも崇神帝でもなく、一般に欠史と呼ばれる時代の天皇であったとしても何ら不思議ではない訳で、神武帝の東征記とは、王臣家に伝えられていたその時の逸話が、初代の項に振り分けられたと見ることもできるでしょう。
中臣氏の系譜
次いで中臣氏ですが、実のところ初期中臣氏の系図というのは、地方の卜部氏の伝承等を含めて、明らかに他流の系統を取り込みながら創作されたもので、とてもそのまま整合性を求められるような系図ではありません。
それを踏まえた上で中臣氏を見てみると、天種子命以降の中臣氏の祖先の中で、最初にその名が史書に記されたのは、武日や十千根等と共に垂仁朝で五大夫に列した大鹿島という人物であり、次に仲哀朝の四大夫の一人として烏賊津(いかつ)という人物が登場します。
因みに姓はどちらも連です。
系図に従って続柄を見ておくと、天種子命の曾孫に伊香津(いかつ)臣という者があり、その四代の孫に国摩大鹿島という者があり、その孫にやはり雷(いかつ)大臣という者があり、通常はこの雷大臣が烏賊津連に比せられます。
順を追って簡単に考察してみると、まず天種子命は高天原で天照大神に仕えた天児屋根命の孫に当たり、天種子命が宇佐津姫を娶って生まれた子が宇佐津臣、その子が大御気津臣、更にその子が伊香津臣となります。
ただ天種子命が神武帝の東征に従ったという話(つまり神武帝の東征そのもの)は、今のところそれを史実と認められるだけの確証がないので、もし天種子命が九州での親征に従軍し、道中に主君の仲介で宇佐氏の娘を娶ったこと自体が事実ならば、恐らくそれは景行帝の熊襲征伐でしょう。
そして天種子命が景行朝期の人物ならば、恐らく祖父の天児屋根命が仕えたのは天照大神ではなく崇神帝、成務朝(史書では垂仁朝)五大夫の大鹿島は宇佐津臣か大御気津臣の誤り、仲哀朝四大夫の烏賊津連は伊香津臣ということになります。
伊香津臣から同名の雷大臣までの面々については、系図上は一本化されているものの、いずれも近江や常陸に所縁のある系統ばかりで、その出典にしても史書ではなく『近江風土記』や『常陸風土記』等です。
例えば実在が確実視できる崇神帝以降の皇族や諸豪族の中にも、孝霊帝から九代開化帝までの三代間を起源とする氏族は少なくなく、現にそれは六代孝安帝以前と比べても顕著だからです。
また大和朝廷の礎を築いた崇神帝の勢力基盤は、やはり少なくとも三代以上の労力を費やして受け継がれたと考えるのが自然で、そうした人の世の現実的な思考を停止して、机上の空論に縋って無理矢理歴史の解読を試みようとするから、征服王朝説のような突拍子もない珍論が吐き出される訳です。
松平氏については前述しましたが、清康と広忠が相次いで早逝し、幼主の竹千代が駿府に囚われの身となりながら、やがて今川を離れた家康が瞬く間に三河を奪回できたのは、(今川の苛政に対する反撥があったのも事実ですが)やはり祖父の清康がかつて三河を統一し、松平氏を国持大名の地位にまで押し上げていたのが大きく、決して家康一人の実力ではありません。
同じことは織田家についても言えて、信長の父祖と言えば父の信秀が余りにも有名ですが、実は祖父の信定がかなりの傑物で、もともと尾張下四郡守護代織田氏の家中にあって、三奉行の一家に過ぎなかった信長の家系を、尾張有数の裕福な豪族にまで成長させたのは信定です。
そして子の信秀がその財政基盤を受け継ぎ、父譲りの経済感覚や武勇と知略によって、陪臣の織田家を尾張随一の勢力にまで発展させたのでした。
その遺産こそが信長の原資であって、天下は一代で成るものではありませんし、それは魏の武帝にしても同じことです。
確かに漢の高祖劉邦や明の太祖朱元璋のように、布衣から身を興して一代で天子となった例もあるにはありますが、それ等はいずれも救いようのない乱世を受けての出現であり、その大乱の余波は即位後も長く続きました。
しかも得てして建国後の混乱を招いていたのは天子もしくはその子孫でした。
要は同じ事業を起こすにしても、家業を継いで発展させるか、裸一貫から身を興すかの違いですが、少なくとも崇神帝は庶民出身ではないでしょう。
従って崇神帝が天下に覇を唱えた背景には、祖先が幾代も掛けて積み重ねた遺徳の恩恵があった筈です。
従って日臣命を先導に熊野から畿内へ討ち入ったり、饒速日命の降伏を受け入れたりした人物が、神武帝でも崇神帝でもなく、一般に欠史と呼ばれる時代の天皇であったとしても何ら不思議ではない訳で、神武帝の東征記とは、王臣家に伝えられていたその時の逸話が、初代の項に振り分けられたと見ることもできるでしょう。
中臣氏の系譜
次いで中臣氏ですが、実のところ初期中臣氏の系図というのは、地方の卜部氏の伝承等を含めて、明らかに他流の系統を取り込みながら創作されたもので、とてもそのまま整合性を求められるような系図ではありません。
それを踏まえた上で中臣氏を見てみると、天種子命以降の中臣氏の祖先の中で、最初にその名が史書に記されたのは、武日や十千根等と共に垂仁朝で五大夫に列した大鹿島という人物であり、次に仲哀朝の四大夫の一人として烏賊津(いかつ)という人物が登場します。
因みに姓はどちらも連です。
系図に従って続柄を見ておくと、天種子命の曾孫に伊香津(いかつ)臣という者があり、その四代の孫に国摩大鹿島という者があり、その孫にやはり雷(いかつ)大臣という者があり、通常はこの雷大臣が烏賊津連に比せられます。
順を追って簡単に考察してみると、まず天種子命は高天原で天照大神に仕えた天児屋根命の孫に当たり、天種子命が宇佐津姫を娶って生まれた子が宇佐津臣、その子が大御気津臣、更にその子が伊香津臣となります。
ただ天種子命が神武帝の東征に従ったという話(つまり神武帝の東征そのもの)は、今のところそれを史実と認められるだけの確証がないので、もし天種子命が九州での親征に従軍し、道中に主君の仲介で宇佐氏の娘を娶ったこと自体が事実ならば、恐らくそれは景行帝の熊襲征伐でしょう。
そして天種子命が景行朝期の人物ならば、恐らく祖父の天児屋根命が仕えたのは天照大神ではなく崇神帝、成務朝(史書では垂仁朝)五大夫の大鹿島は宇佐津臣か大御気津臣の誤り、仲哀朝四大夫の烏賊津連は伊香津臣ということになります。
伊香津臣から同名の雷大臣までの面々については、系図上は一本化されているものの、いずれも近江や常陸に所縁のある系統ばかりで、その出典にしても史書ではなく『近江風土記』や『常陸風土記』等です。
また『常陸風土記』では、伊香津臣の孫で鹿島の中臣氏の祖とされる神聞勝が、崇神帝の時に鹿島に留まって祭祀に奉仕云々とありますが、改めて言うまでもなく崇神帝や垂仁帝の代には未だ東国は大和朝廷の領土になっていません。
関東が大和の支配下に入るのは、日本武尊の蝦夷征伐と、景行帝の東国巡幸以後のことで、国郡や県邑が整備されたのは成務帝以後のことです。
従ってもし神聞勝が鹿島中臣氏の祖であるならば、彼が生きた時代というのはどれほど早くても景行帝以降ということになり、当然ながら伊香津臣から雷大臣までの系図は再考が必要となるでしょう。
関東が大和の支配下に入るのは、日本武尊の蝦夷征伐と、景行帝の東国巡幸以後のことで、国郡や県邑が整備されたのは成務帝以後のことです。
従ってもし神聞勝が鹿島中臣氏の祖であるならば、彼が生きた時代というのはどれほど早くても景行帝以降ということになり、当然ながら伊香津臣から雷大臣までの系図は再考が必要となるでしょう。
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