史書から読み解く日本史

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武帝の功罪(時代の終焉)

2019-03-18 | 漢武帝
武帝からの絶大な信任を得て、一時は並ぶ者のない権勢を誇った江充でしたが、彼自身には巷で誇張されるような職制上の大権はなく、その実態は甚だ脆いものでした。
何故なら彼の置かれた立場というのは、江戸時代の側用人や現代の大統領補佐官のように、あくまで元首個人の私設秘書官のような役職に過ぎず、その権力は偏に武帝の威光を頼りとしていたからです。
従って他の高位高官のように、朝廷内での実績や閨閥を持たない江充は、主君の後楯以外には何ら身の拠り所がなく、仮に武帝が崩御するような事態になれば、その瞬間に今ある全てを失う可能性すら否定できない存在だった訳です。

無論江充が自分を拾ってくれた武帝に義理を通して、初めから今上一代に限って精一杯の奉公をする志だったならばそれでも構わないでしょう。
しかし武帝の死後も廷臣としての地位を保持しようとするならば、権力を揮えるうちに他の有力者と親しく交わるなり、皇太子に取り入るなどして保身を図っておけばよいのですが、江充のしていたことはまさにその逆で、皇族や廷臣の多くは彼を恐れると同時に憎んでおり、ある事件を機に皇太子との間には深い溝ができていました。
要は江充にとって周りは殆どが敵という状況な訳で、武帝が崩御して皇太子が即位すれば、江充が失脚するのは誰の目にも明らかであり、むしろ今や遅しとその時を待っている者が大勢いることも彼は承知していました。
 
武帝の皇太子である劉拠は、その長男として衛皇后との間に生まれおり、後に戾と諡されたため戾太子(日本では戻太子)とも称されます。
太子と江充の関係は決して良好とは言えず、やがてそれが武帝をも巻き込んだ一大事件を引き起こすことになります。
当時の長安には皇帝専用の道路が敷設されており、本来は何人たりとも立ち入ることはできないのですが、年間を通して皇帝が専用道を使うことなど何回もない上に、天子御幸の際には予め告知があるので、皇族の家臣の中には近道として無断で通行している者がいました。
あるとき館陶公主と戻太子の従者が馬車で専用道に乗り入れたところ、江充がこれを見咎めて馬と車を没収してしまうという事件が起きました。
太子が不問にして欲しいと嘆願したにも拘らず、江充はそれを拒んで武帝に報告し、皇族でも特別扱いしない江充の行為を帝が称賛したため、以来戻太子は江充を快く思っていなかったのです。

もともと始皇や武帝のような大国の君主は、大軍を用いて国を偉大にしたと言っても、本人は巡幸以外に殆ど宮廷から外出しないような生活なので、庶民と比べても決して健康とは言えないことが多いものでした。
当時既に齢六十を超えていた武帝は、精神的に不安定な状態が続くようになっており、不老不死願望に代表される数多の記録が示すように、些か常軌を逸した言動も目立ち始めていました。
やがて病床に伏せるようになると、老いて心身共に万全ではなくなったことや、一人の人間として死期が近付いている事実を認めたくないという意識も作用してか、誰かが自分を呪っているのではないかと疑念を抱くようになりました。
要は現実逃避から来る外部への責任転嫁であり、自尊心の強い老人には大なり小なり見られる現象ですが、基本的には武帝の心理に起因している問題ですから、本来はそれを物理的に解決する方法など存在しない筈です。

しかし現実には武帝の精神を正常に戻す以外に、決して解消されることのない帝の日常的な不安に対して、敢てその疑念に同調するような状況を捏造することで、その心身に一時的な平穏を齎すと共に(無論結果としては更に悪化させるだけなのですが)、それによって主君からの絶大な信頼を得ることも不可能ではありません。
そうして引き起こされたのが「巫蠱の獄」と呼ばれる一大誣告事件であり、無論その首謀者は江充でした。
例えば江充が皇帝直属の監察官として、その正当な職務に精励している限りは、たとい彼が天下一の酷吏と呼ばれようと、廷臣の多くを敵に回そうと国家に実害はありません。
しかし彼は武帝亡き後の保身を焦る余り、次第に法治から逸脱した越権行為を繰り返すようになり、遂には禁断の領域へと足を踏み入れてしまったのでした。

巫蠱の獄は武帝の晩年に起きた悲劇の最たるもので、余りに有名な事件なので事の詳細は省きますが、江充が主君の精神的な錯乱を好機として、自分に不都合な者達を冤罪によって陥れようと企てたことに対し、武帝が彼を偏信していたため誰一人それを阻止できなかったというものです。
ただ一般にこの事件の発端については、当時権勢の絶頂にあった江充の私情や保身ばかりに焦点が当てられ、彼一人を悪者にしてしまうことが多いのですが、一方では江充もまた日々の激務の中で精神的に追い詰められていたのではないかと見る向きもあります。
言わば人も羨むような出世街道を歩んでいたエリートが、常に他人より秀でた結果を出さなければならないことに苦しみ、その強迫観念から愚かな不正に手を染めてしまうように、江充もまた武帝から寄せられる過大な期待に応えようとする余り、青史に悪名を留めるような惨劇を演出してしまった可能性はあるでしょう。

しかし江充の暴走を止められなかった代償は余りに大きく、彼の捏造と誣告により皇太子劉拠は反乱を問われて自刎し、それに連座して衛士夫も皇后を廃されて死を賜るなど、武帝の精神状態が尋常ではなかったことも手伝って、漢朝を根底から揺るがしかねない大乱となりました。
その後の再調査によって、一連の騒動が尽く江充の狂言であり、処罰された皇族や廷臣の大半が冤罪だったことを知った武帝は、江充の三族を皆殺しにして被害者の名誉を回復させましたが、全ては後の祭りです。
自身の好悪によって信用できない小者を重用し、一時の喜怒に流されて家庭までも疑った武帝は、有望な後継者であった嫡男と、最愛の伴侶である衛皇后という、まさに帝が半生を掛けて築き上げた掛け替えのない財産を、まるで人生の幕を閉じるかのように一瞬にして破壊してしまったのでした。

江充という稀代の酷吏は誅戮されましたが、酷吏と呼ばれた行政官が重用されるようになってから数十年以上を経てもなお、漢朝の抱えていた諸問題は解消されるどころか、むしろ悪化の一途を辿っていたことを考えれば、所詮酷吏などという人材は何の効果も挙げていなかったことが分かります。
江充にあってもそれは殊更に顕著で、結局彼は国に何の功もないまま、己の自尊心に従って徒に朝廷内を混乱させ、取り返しのつかない事態を招いただけでした。
そして酷吏のように法の適用や罰則を強化する手法が、現実的には何の問題解決にもならないばかりか、却って更に事態を悪化させるだけだということは、既に春秋の昔から指摘されていることなのですが、漢代のみならず以後も似たような状況に置かれる度に時の為政者は、現代に至るまで何度でも同じ轍を踏んでしまうのです。

巫蠱の獄が収束した後も武帝の治世は数年続きました。
しかしそこには建設的な事績など何もなく、ただ社会全体に無気力な時間が流れていただけのことで、もはや武帝の存命中に漢朝が再び正常に機能することもなければ、帝の思考や精神が健全な状態に戻ることもありませんでした。
更に言えば、老いた董太皇太后の後見が終って若い武帝の親政が始まることを、かつて多くの有志が心待ちにしていたように、晩年の武帝が暴君の様相を呈するようになると、やはり誰もが新たな時代の到来を待ち望むようになっていたと言っても過言ではありませんでした。
無論それは決して口外できない類の話題ですし、仮に当の君主がそうした臣下の意を察したところで、自由な意志による退き際など帝王の身に許される筈もなく、結局は自然にその日が訪れるのを待つしかなかった訳です。

武帝の築き上げた空前の大帝国は、帝の死後も八十年ほど続き、その間も一貫して東亜で唯一の超大国であり続けました。
しかし然したる外敵もなかった漢帝国は、外戚王氏の簒奪によって呆気なく滅び、以後も支那大陸では幾度となく大帝国が興ったものの、漢民族の建てた国が全ての他民族に対して、武帝の時代のような圧倒的優位を築くことは二度とありませんでした。
無論それは漢民族が衰えたという話ではなく(むしろ常に進歩しています)、諸民族の方がそれだけの実力を備えるまでに成長したということであり、実のところそれを可能とする文明を彼等へ齎したのも他ならぬ漢でした。
従って外敵を尽く併呑することで恒久の世界平和を追求した漢は、却って無数の外敵を国の内外に作り出してしまった訳ですが、外敵の喪失と同時に内部崩壊が始まった現実に鑑みれば、或いはその方が漢人にとっても健全な未来であったかも知れません。

始皇による七国の統一と、武帝による東亜の統一が、周辺の諸民族に多大な影響を及ぼしたことは言うまでもありません。
但し倭国に関して言えば、少なくとも現存する史料を見る限りでは、その関連性を探ることができないのも事実です。
しかし後年の倭奴国のような国が、未開の地にある日突然誕生するなどということは有り得ず、当然そこへ至るまでには長い年月の蓄積がある筈ですから、倭人が漢籍に登場する遥か以前より、やはり何らかの形で大陸の影響を受けていたであろうことは想像に難くありません。
無論今となってはそれ等を実証する術もない訳ですが、たとい学問としてはそうであっても、理論上その可能性を常に念頭に置いておくことで、見える世界もまた違ってくるでしょう。
そしていつの日か文字に頼ることなく、古の倭人と大陸との交流が解明される日が訪れるならば、それこそはこの国の起源を再構すべき天慶とも言えるでしょうか。

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