熊野への道
日向から遠路関西まで遠征して、敵陣まであと一歩と迫りながら、全軍を紀伊半島南部に移動させた神武帝は、熊野から吉野を越えて内州(大和)へ攻め入る作戦を敢行しました。
この熊野越えは東征の集大成とも言うべきものなので、当然ながら熊野出立から大和討入りまでの行軍については、記紀共にかなりの文字数を割いて事細かに記述しています。
ただ実のところ(正史の書紀でさえ)そこに語られている内容は、史実と言うよりむしろ後の軍記物語に近く、必ずしも無条件に史料として受け入れられるものではありません。
また前記の如く神武帝の東征に関しては、両書の内容がほぼ同じなのに加えて、『日本書紀』にも異伝が併載されていません。
これは東征記そのものが自然な伝承ではなく、後世のどこかの時点で、唯一無二の国史として完成させられた戦記であることを物語っています。
河内から熊野までの道中で二人の兄を失った神武帝は、皇子の手研耳命と共に軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着きました。
『日本書紀』によると、荒坂津(またの名を丹敷浦)で丹敷戸畔という賊を誅しましたが、その時に神(ただ神とある。何の神かは不明)が毒気を吐いて皇軍を萎えさせました。
兵士達は尽く病み疲れて、気力を失い眠ってしまったといいます。
『古事記』では、皇軍が熊野村に至った時、神の化身である大熊が見え隠れして、やがて姿を消しました。
すると神武帝は俄に病み疲れて気を失い、兵士達も皆同じように倒れてしまったとします。
この神の毒気というのが何を意味しているのかは分からりませんが、舟が前に進まぬほどの時化の中を漂流して来たので、全軍疲労困憊していたのでしょう。
実のところ神武帝にとって熊野という土地は、決して当初から予定されていた上陸地ではなく、紀州沖を航行中に兄の稲飯命を亡くすほどの暴風に遭い、残された手勢で覚えず漂着したのが同地だったとする見方もあります。
確かに日神の子孫が日に向かって敵を討つのは天道に逆らうものだから、日を背に受けて攻めるべきだと言って河内を後にしながら、わざわざ熊野へ渡って奥深い山々を徒歩で北上するというのも珍妙な話ですし、水軍主体の軍勢が山間の道なき道を延々と進軍するくらいなら、生駒山地を強行突破した方が遥かに被害も少なかったでしょう。
従って本来の神武帝の建てた計画は、紀伊半島を迂回して伊勢湾に入り、伊勢で再び軍備を整えた後、伊賀から大和へ攻め入るというものだったのですが、暴風によって水軍が大打撃を受けてしまったため、急遽熊野から徒歩で進まざるを得なくなったという訳です。
熊野越えと八咫烏
やがて神武帝と兵士達が長い眠りから目を覚ますと、現地人の高倉下という者が来て、かつて武甕雷神が国を平らげたという剣を奉りました。
ただ高倉某が剣を献上したのは事実にしても、それをタケミカヅチの剣云々と称するのは、兵士の士気を鼓舞するための方便でしょう。
むしろ全軍が眠っている間に饒速日側の部隊や山賊に襲われなかったのは幸運だったと言えます。
続いて『日本書紀』によると、皇軍は内州へ赴こうとしましたが、山中は絶険にして行くべき道もなく、進みも退きも儘ならず迷っていると、天空から八咫烏が飛び降ってきたので、これを瑞兆として烏の導きに従うことにしました。
そこで大伴連の祖に当たる日臣命が大来目を率いて先鋒となり、烏を仰ぎ見ながら草木を踏み分けて後を追っていくと、遂に宇陀の下県に達しました。
帝は日臣命の功を誉めて、道臣命の名を賜ったといいます。
日向から遠路関西まで遠征して、敵陣まであと一歩と迫りながら、全軍を紀伊半島南部に移動させた神武帝は、熊野から吉野を越えて内州(大和)へ攻め入る作戦を敢行しました。
この熊野越えは東征の集大成とも言うべきものなので、当然ながら熊野出立から大和討入りまでの行軍については、記紀共にかなりの文字数を割いて事細かに記述しています。
ただ実のところ(正史の書紀でさえ)そこに語られている内容は、史実と言うよりむしろ後の軍記物語に近く、必ずしも無条件に史料として受け入れられるものではありません。
また前記の如く神武帝の東征に関しては、両書の内容がほぼ同じなのに加えて、『日本書紀』にも異伝が併載されていません。
これは東征記そのものが自然な伝承ではなく、後世のどこかの時点で、唯一無二の国史として完成させられた戦記であることを物語っています。
河内から熊野までの道中で二人の兄を失った神武帝は、皇子の手研耳命と共に軍を率いて進み、熊野の荒坂の津に着きました。
『日本書紀』によると、荒坂津(またの名を丹敷浦)で丹敷戸畔という賊を誅しましたが、その時に神(ただ神とある。何の神かは不明)が毒気を吐いて皇軍を萎えさせました。
兵士達は尽く病み疲れて、気力を失い眠ってしまったといいます。
『古事記』では、皇軍が熊野村に至った時、神の化身である大熊が見え隠れして、やがて姿を消しました。
すると神武帝は俄に病み疲れて気を失い、兵士達も皆同じように倒れてしまったとします。
この神の毒気というのが何を意味しているのかは分からりませんが、舟が前に進まぬほどの時化の中を漂流して来たので、全軍疲労困憊していたのでしょう。
実のところ神武帝にとって熊野という土地は、決して当初から予定されていた上陸地ではなく、紀州沖を航行中に兄の稲飯命を亡くすほどの暴風に遭い、残された手勢で覚えず漂着したのが同地だったとする見方もあります。
確かに日神の子孫が日に向かって敵を討つのは天道に逆らうものだから、日を背に受けて攻めるべきだと言って河内を後にしながら、わざわざ熊野へ渡って奥深い山々を徒歩で北上するというのも珍妙な話ですし、水軍主体の軍勢が山間の道なき道を延々と進軍するくらいなら、生駒山地を強行突破した方が遥かに被害も少なかったでしょう。
従って本来の神武帝の建てた計画は、紀伊半島を迂回して伊勢湾に入り、伊勢で再び軍備を整えた後、伊賀から大和へ攻め入るというものだったのですが、暴風によって水軍が大打撃を受けてしまったため、急遽熊野から徒歩で進まざるを得なくなったという訳です。
熊野越えと八咫烏
やがて神武帝と兵士達が長い眠りから目を覚ますと、現地人の高倉下という者が来て、かつて武甕雷神が国を平らげたという剣を奉りました。
ただ高倉某が剣を献上したのは事実にしても、それをタケミカヅチの剣云々と称するのは、兵士の士気を鼓舞するための方便でしょう。
むしろ全軍が眠っている間に饒速日側の部隊や山賊に襲われなかったのは幸運だったと言えます。
続いて『日本書紀』によると、皇軍は内州へ赴こうとしましたが、山中は絶険にして行くべき道もなく、進みも退きも儘ならず迷っていると、天空から八咫烏が飛び降ってきたので、これを瑞兆として烏の導きに従うことにしました。
そこで大伴連の祖に当たる日臣命が大来目を率いて先鋒となり、烏を仰ぎ見ながら草木を踏み分けて後を追っていくと、遂に宇陀の下県に達しました。
帝は日臣命の功を誉めて、道臣命の名を賜ったといいます。
熊野越え主要地
一方『古事記』では、皇軍が八咫烏の後について行くと、吉野川の河尻(本来川尻は河川の下流を指しますが、ここでは川辺の開けた場所の意)に至りました。
すると筌(竹を筒型に編んだ漁具。書紀には簗とある)を仕掛けて魚を取る人がいます。
神武帝が誰かと問うと、国つ神の贄持(にえもつ:書紀では笣苴担に作る)の子だと答えました。これは阿田の鵜飼の祖です。
そこからまた行くと、尾のある人が井戸の中から出て来て、その井戸には光がありました。
汝は誰かと問えば、国つ神で名は井氷鹿(いひか:同井光)だと答えました。これは吉野の首の祖です。
山に入るとまた尾のある人に遇い、この人は岩を押し分けて出て来ました。
汝は誰かと問えば、国つ神の石押分の子だと答えました。これは吉野の国栖の祖です。
更にそこから道なき道を踏み越えて行くと宇陀に出たといいます。
ここで記紀にあるように、山中で道に迷った時にカラスの後を追うことで難を逃れたという話は、世界各地で類似の民間信仰が数多く報告されており、日本国内でも複数の伝承が残っています。
八咫烏の「八咫」については、『古事記』の序に「化熊川に出でて、天剣を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき」とあるように、単に「大きい」という意味に捉えても問題ありません。
因みに八咫烏が三本足となったのは平安時代で、大陸の神話で太陽の化身とされる三足烏と混同したようです。
また八咫烏は自然に現れた鳥ではなく、『日本書紀』では天照大神、『古事記』では高木大神が、それぞれ天孫を助けるために高天原から遣わした霊鳥であり、同じく高倉下がタケミカヅチの剣を得て、これを神武帝に献上したのも、あくまで夢見による天神からの啓示ということになっています。
宇陀進攻
宇陀には兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)(『古事記』の表記は兄宇迦斯と弟宇迦斯)という頭がいました。
神武帝が二人を呼び寄せると、兄猾は応じませんでしたが、弟猾の方は御門に参り来ました。
その弟猾が言上するには、兄猾は天孫が来ると聞き、兵を集めて襲うつもりだが、皇軍を望むと敵し難いことを畏れて、兵を伏せて潜ませておき、仮に新宮を建てて殿中に仕掛けを施し、饗すると偽って事を起こそうとしているといいます。
神武帝が道臣命を遣わして調べさせると、果して弟猾の言う通りだったので、道臣命は兄猾を責めてこれを誅し、まずは内州攻略の足掛りとして宇陀を平定しました。
弟猾は肉と酒を用意して皇軍を労いもてなしたといいます。
そして『日本書紀』では、この後に神武帝は吉野の地を見たいと思い、軽兵ばかりを連れて巡行したところ、そこで尾のある人や竹製の漁具で魚を取る人に遭遇したとしており、『古事記』とは順序が逆になっています。
一方『古事記』では、道臣命が大来目を率いて山越えに功を挙げたという大伴氏の家祖伝説には触れておらず、道臣命と大来目命(来目直等の祖)が共同で兄宇迦斯を討ったとだけ伝えます。
この辺りの相違については、諸家の伝書も参照して編纂された『日本書紀』と、皇室の正統性を証明するためだけに作成された『古事記』という、両書の性格が如実に表れているとも言えるでしょう。
すると筌(竹を筒型に編んだ漁具。書紀には簗とある)を仕掛けて魚を取る人がいます。
神武帝が誰かと問うと、国つ神の贄持(にえもつ:書紀では笣苴担に作る)の子だと答えました。これは阿田の鵜飼の祖です。
そこからまた行くと、尾のある人が井戸の中から出て来て、その井戸には光がありました。
汝は誰かと問えば、国つ神で名は井氷鹿(いひか:同井光)だと答えました。これは吉野の首の祖です。
山に入るとまた尾のある人に遇い、この人は岩を押し分けて出て来ました。
汝は誰かと問えば、国つ神の石押分の子だと答えました。これは吉野の国栖の祖です。
更にそこから道なき道を踏み越えて行くと宇陀に出たといいます。
ここで記紀にあるように、山中で道に迷った時にカラスの後を追うことで難を逃れたという話は、世界各地で類似の民間信仰が数多く報告されており、日本国内でも複数の伝承が残っています。
八咫烏の「八咫」については、『古事記』の序に「化熊川に出でて、天剣を高倉に獲、生尾徑を遮りて、大烏吉野に導きき」とあるように、単に「大きい」という意味に捉えても問題ありません。
因みに八咫烏が三本足となったのは平安時代で、大陸の神話で太陽の化身とされる三足烏と混同したようです。
また八咫烏は自然に現れた鳥ではなく、『日本書紀』では天照大神、『古事記』では高木大神が、それぞれ天孫を助けるために高天原から遣わした霊鳥であり、同じく高倉下がタケミカヅチの剣を得て、これを神武帝に献上したのも、あくまで夢見による天神からの啓示ということになっています。
宇陀進攻
宇陀には兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)(『古事記』の表記は兄宇迦斯と弟宇迦斯)という頭がいました。
神武帝が二人を呼び寄せると、兄猾は応じませんでしたが、弟猾の方は御門に参り来ました。
その弟猾が言上するには、兄猾は天孫が来ると聞き、兵を集めて襲うつもりだが、皇軍を望むと敵し難いことを畏れて、兵を伏せて潜ませておき、仮に新宮を建てて殿中に仕掛けを施し、饗すると偽って事を起こそうとしているといいます。
神武帝が道臣命を遣わして調べさせると、果して弟猾の言う通りだったので、道臣命は兄猾を責めてこれを誅し、まずは内州攻略の足掛りとして宇陀を平定しました。
弟猾は肉と酒を用意して皇軍を労いもてなしたといいます。
そして『日本書紀』では、この後に神武帝は吉野の地を見たいと思い、軽兵ばかりを連れて巡行したところ、そこで尾のある人や竹製の漁具で魚を取る人に遭遇したとしており、『古事記』とは順序が逆になっています。
一方『古事記』では、道臣命が大来目を率いて山越えに功を挙げたという大伴氏の家祖伝説には触れておらず、道臣命と大来目命(来目直等の祖)が共同で兄宇迦斯を討ったとだけ伝えます。
この辺りの相違については、諸家の伝書も参照して編纂された『日本書紀』と、皇室の正統性を証明するためだけに作成された『古事記』という、両書の性格が如実に表れているとも言えるでしょう。
こちらこそいつも楽しく読ませていただいています(^^)
歴史に対する考え方や取り組み方は人それぞれですけれど、
皆が知恵を出し合って、少しでも不明な点が解明されたらいいですね!
諸般の事情で更新が滞りがちですが、ゼヒまた遊びにいらしてください。