
第五十番札所繁多寺(はんたじ)は、大きな池の脇道を進み山門へと入っていく。
松山城を中心とした市街地が一望でき、夏の終わりの陽炎が、やけにけだるい。道中、周囲に貯水池を多く見かけた。ここは、水不足に悩むお土地柄でもある。
以前、テレビのニュースで、家庭用食器洗浄機を購入した松山市民には、市から50%程補助がでるとか、放送していたのを思い出す。
お寺は、とても渇水の地とは思えないほど、各種、樹木が緑の鮮やかさを競っていた。
繁多寺から、次の石手寺まで十五分程度、この辺り、札所間の距離がやたら短い。車の乗り降りも、一苦労する。駐車場は満車。裏手の墓地への細道に、くぼみを見つけバタンコ88号をねじ込む。
日本最古といわれる道後温泉が近いせいか、境内には観光客の数も半端ではない。
このお寺は、神亀五年(728)の開山当時から、安養寺称していたのだが、石手寺と称するようになるのは、寛平4年(892)から。この改称にあたっては1つの伝説が残されている。
上浮穴郡荏原の強欲な長者、衛門三郎は、托鉢をしていた弘法大師に対して、心ない無礼なふるまいをしてしまう。
暫くして、どうした事か、この男、8人の男児を次々に失うはめになる。
その後、己の我欲の醜さに気付き、改心した三郎は、大師を求めて霊場巡礼に出発。
だが、大師に会えぬまま、21回目の巡礼で徳島の焼山寺で倒れた。
その枕元に大師が現れ、三郎は大師に、人間への生れ変りを請う。
そこで大師は、彼の手に「衛門三郎」と記した、石を握らせたところ、三郎は安心して息を引き取る。
時は流れ、この地の領主・河野氏に嫡男が誕生したが、赤ん坊はなぜか手を開かない。
一族は安養寺に、願を掛けたところ、男児は手を開き、そこから「衛門三郎」と記された石が出てきた。石はここ寺に納められ、この時より、寺名は石手寺となった。
チベットでは教主のダライラマは、幾度となく生まれ変わり、民衆を導くと言われている。わが国にもこんな例があったのだ。
さしずめ私などは、もう魚屋も飽きてきたので、つぎは肉屋か八百屋で・・・接頭語に、鬼を付けない嫁といっしょになりたいものだが。どこかに「生れ変り相談所」とかないものだろうか。
境内では、白い煙が立ち込めている。線香をお供えしているなどという、かわいいものではない。どう見ても線香でたき火をしているとしか思えない。
聞けば「厄除け線香」とか、せっかくなので私達も、むせかえりながら、線香をお供えし、鼻の奥がツンツンしてくるのをこらえ、涙ながらに煙を浴びた。
さて、きびすを返し本堂へと進む。そこで大変なものを見てしまう。仲が悪いにも拘らず、私と鬼嫁は思わず、眼を見合してしまった。
なんと、本堂への石段の中ほどに、巨大な五鈷杵が黄金に輝いている。
ついに現れたのだ。あの太龍寺で、ベテラン遍路から聞いた、願いが叶う幻の=光明五鈷杵=が・・・
消えてしまわないうちに、早くお願いをしなくてはと焦るのだが、夜空に流れ星を見つけた時のように、あたふたとしてしまう。なにも思いつかないままに、無意識に
「髪の毛が生えますように」
と口走ってしまった。あら、あれ・・・そうか俺には、こんな潜在願望があったのか・・・と恥じ入ってしまう。鬼嫁もなにか呟いたようだが、聞き取れなかった。
それにしても、この=光明五鈷杵=、なかなか消えない。行きかう観光客が、ペチペチと撫でるともなく、叩くともなく、触れていく。
一分経ち、二分経ち、三分経つ。
妙なところで立ち尽くし、眼を見開いている中年夫婦を、参拝客が避けて、行きかいだす。
鬼嫁が先に我に帰り、これは単なるオブジェである事に気付く。なんとも、紛らわしい事をする寺だ。
いまだボーゼンとする私の耳元で、
「いまさら髪の毛はないじゃろぅ」
とささやいて、鬼嫁は、子供らと本堂へと向かった。
とんでもない失態をやらかしてしまった。また一つ鬼嫁に、弱味を握られたではないか。
腹が立って仕方がないので、もう遍路はやめて広島に帰ると宣言したら、
「次は、山頭火さんのお宅に、行くんじゃなかったん」
と、問われる。そうだった。山頭火終焉の「一草庵」はすぐそこだ。私は粋でいなせな魚屋家業である関係上、この件はアッサリと水に流してやる事にした。
その前に、夏目漱石の小説「坊ちゃん」で有名な「道後温泉本館」で、ひとっ風呂と、訪ねてみれば、黒山の人だかりで、入浴待ちしている。行列は大の苦手である。
くやしいので、一草庵までの短い道すがら、赤シャツや、マドンナや、ヤマアラシを見かけては、スペシューム光線をあびせてやった。
そこは愛媛大学に近い御幸寺山麓にあった。山頭火は昭和14年(1939年)57歳の時、四国遍路の旅の果てに、当地を終の住処として庵を結び、「一草庵」と名づけた。
彼は、好きな道後温泉まで20分のここで、酒と句作三昧の日々を過ごし、翌15年10月に生涯を閉じた。
現在松山市が、この一草庵を管理しているとある。この世を去る少し前に作られた句が石碑にある。
濁れる水のなかれつゝ澄む
山頭火は句集「草木塔」の最後にこう書き記してる。
「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」・・・
と、いったところで5時をまわってしまった。飯でも食おうと、市内を走り回れば、いまだ、アメリカの植民地でもあるまいに、マクドナルドだらけ。
風呂でも入ろうと、道後温泉を、チンタラすれば、トルコの属国でもあるまいに「石鹸国」と、和訳をすれば良いのだろうか?家族4人では、追い返されそうな風呂ばかりである。カーナビの分類では「銭湯」と、なっいるのだが・・・
しかたがないので、ビックマックをほお張りながら、その辺の無料の足湯に浸かり、子供らには全身浴をさせる。
後部座席の、さらに後部のナイロン袋のなかで、洗濯物が発酵しかけている。コインランドリーに寄り、松山港まで出て、長距離フェリーの待合駐車場で一夜をあかした。
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