魚屋夢遍路

流されているのか、導かれていのか、突き進んでいるのか、当事者には計り知れない。

人も拝めば、仏も拝む

2012-11-18 08:57:07 | 旅行

海抜七百十メートルの三坂峠から松山平野へ、バタンコ88号は、果てしなく長く下るジェットコースターさながらであった。
降りきれば、道端には、色とりどりの看板が出迎えてくている。都会は人口密度が濃い。雑種多用な人々が蠢く。生活の臭いでムンムンしている。
 八十八カ所中、ようやく半分を超えた。距離的には七割方走り終えている。
ここからは、札所のお寺はほぼ数珠繋ぎになり、穏やかな瀬戸内海南岸のドライブとなる。
第四十六番札所は「ご利益の万屋」として有名な浄瑠璃寺。
緑の多い広い境内。少し日差しもでてきて、明るくなり参拝日和になる。蝉が啼き始めた。子供らは、さっそく鐘を突いてはしゃいでいる。
思い起こせば、お遍路初日、切幡寺で訳も分からず鐘を突きまくり、ベテランお遍路さんに、注意されたのが、もう随分と以前の事のように思える。すでに何ヶ月も旅をしている気分になっている。旅行中は時間の経過が異常なのか。
 本堂前では、大きいソテツとイブキビャクシンの老樹が迎えてくれた。家族全員で手を合わせお参り。
「御利益のよろず屋」に相応しく、境内には仏足石・仏手石・仏手指紋もある。
まず本堂の左手前にある仏足石は、仏の足跡で健脚・交通安全を願う人が訪れる。裸足になってこの上に立ち、御利益を祈願した。
また、あらゆる知恵や技能に御利益があると伝わる仏手石。
そして、心身堅固と文筆達成に霊験あらたか。と言われる仏手指紋などがある。
水子地蔵さんの前には、お菓子にジュース、キティちゃんや、ドラえもんの人形などが供えられていた。どこのお寺でも水子地蔵は、際立って手厚く供養されている。
お寺の人に聞いた話では、全国的な現象だという。また、供養もされる事もなく、親の身勝手で散った胎児の数は、さらに、はかり知れないとも・・・こんなに物があふれ豊かな世の中に、如何したことかと嘆いておられた。政府の発表では出生率はドンドン低下していると言うのだが。
 もちろん、人それぞれに事情がある、複雑怪奇な現代社会なのだろうが、比較的前近代的な生活をしている我が家では、宝物といえば、二人の子供しかいない。
 次の八坂寺は目と花の先。浄瑠璃寺からわずか1km、ゆるやかな坂を上り詰めた所にある。
本堂前では年配のご婦人方が、鈴の音に調子を合わせ、御詠歌を吟じていた。ゆったりとした曲調はなんとも風情があり、お遍路さんを代表する光景は、これに勝るものはあるまいと思う。
早口に般若心経を唱えているわが身の、なんとせっかちな事よ。しばし反省をして山門を出た。
 近いはずの四十八番札所西林寺なのだが、カーナビのミスで、愛媛県総合運動公園に迷い込んでしまう。
とても広い公園で、何とか、迷い出たところに、料金所が待ち構えていた。駐車した訳ではないのだが、料金三百円とある。一回分の納経料と同額だ。見苦しい交渉を試みる。
「すいません、お遍路の途中で迷い込んでしまいました。なんとか免除してくれませんか」
「ええぇぇ、私に言われても・・・・」
 と係りの人が判断しかねているところに、後ろで順番待ちをしていた、なんとベンツから、私よりもはるかにその筋と見える、愛川欣也に似たご年配の方が降りてきて、事情徴収されてしまった。そして甘えた心に五寸釘を打ち込まれた。
「なんぼ、お遍路さんゆうたかて、それは筋がとうらんぞなもし。お接待を、勘違いしたらいかんぞなもし。もし、あんたが商売しとって、ただでくれゆわれたら、どうするぞなもし」
 ぐうの音も出ないとはこのことだ。私は何とゆう、「いなかっぺ大将」であつたことか!いくら四国とは言え、地元の人にとっては、日々の暮らしの場である。ディズニーランドに遊びに来てるのとは訳が違う。
さらに昼飯前で不機嫌な鬼嫁にも、ケチ臭い心根をなじられる。
両目から大粒の涙が二筋、柱時計の振り子のように、揺れて、鼻先で何回となく往復してはぶつかる。にゃんこ先生ごめんなさい。
 付近にあった、リバーサイドショッピングセンターで昼飯を食い、落ち着いたとこで、西林寺にお参りし、今までの遍路道中に犯した、数々の無礼を詫びた。
 だんだんと、松山市中心部へと近づいてきているのか、第四十九番札所浄土寺へは、道も細く渋滞している。お寺からは少し離れた駐車場から歩く。
鬼嫁がパーキングはお寺の前に、あれば良いのにとこぼす。やはりこいつはパーのキング(クイーン?)だ。このお寺の開基は天平の頃である。自動車で参拝する人などいない。
石段を上がり仁王門で合掌。ここでびっくり、口を開いた方の金剛力士像の目が、空洞になっている。
実に不気味な様相である。誰かが盗んだという事だが、世の中には肝の太い悪人も、いるものではある。
 毎度の事だが、私がお経を上げている間は、鬼嫁と子らは、小さな石仏や祠に一円玉を供えて廻っている。納経所で落ち合い、帰ろうとしたところで、遍路姿のご婦人に声をかけられた。
「小さなお子さんとお遍路、大変でしょう。私も昔、子連れでお参りして、おおじょしました」
 七十歳手前位であろうか、痩せていて、あまり顔色も良くない。子供らに、缶ジュースをお接待してくださった。
少し話をしたいような素振りだったが、先を急ぐので、お礼を言って去ろうとしたら、鬼嫁のお節介がでた。
「お疲れのご様子ですが、大丈夫ですか」
「はい、今回はゆっくりと、休みながらお参りしています。もう年ですし」
「顔色もすぐれませんが、お一人でお廻りですか」
「主人には、ガンで先立たれまして・・・ 似たもの夫婦などと、言われていました・・・ おかしなもので私もいま、胃がんを患っております・・少しでも体力のある内にと・・ 最後のお参りをしております・・・」
 なぜか、近くのベンチに座っていた。話が長くなりそうだ。
「なんでまた、そんな大変なお体で、お遍路なさるのですか」
「最初は、やはり、病気から逃れたい一心でした。私と主人は、お遍路の旅が趣味でしたから、奇跡的なご利益のお話も、多く存じておりました。
だから、治りたい想いだけで仏様を拝んでおりました。そんな折、高知の宿坊で旅のお坊さんに、良寛さんの詩を教えていただきました。私はこの良寛さんの言葉に救われました。」
「よろしければ、私にも教えて下さいませんか」
「ええ、先日、良寛さんの本を買いましたので・・・」
 と、あるページを開いて見せてくれた。

丁度よい

お前はお前で丁度よい
顔も体も名前も姓も
お前はそれは丁度よい
貧も食も親も子も息子の嫁もその孫も
それはお前に丁度よい
幸も不幸も喜びも悲しみさえも丁度よい
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとって丁度良い
地獄へいこうと極楽へいこうと
行ったところが丁度よい
うぬぼれる要もなく 卑下する要もなく
上もなければ下もない
死ぬ日月さえも丁度よい
お前はそれは丁度よい

 私も鬼嫁も何が丁度よいのか解らない。鬼嫁がたずねる
「これだと、病気にかることも丁度いいと言うことで、なんだかとっても無責任な感じがしますが」
「そうなんです、私もはじめは悪い冗談を言われているようで、不愉快になりましたが、どうみてもこのお坊さんは、そうゆう人には見えないんです。
だから、私が病気になった事は、これが丁度いいとゆうことですかと聞きました」
すると、
「はい、そうゆうことなんです。と私は言いました。またおあいしましたねぇ、轟さん」
 背後から太い声が割り込んできた。何と、真魚だ。あのヒッチハイク坊主ではないか!鬼嫁の眼がきらめいてきた。すかさず問いかける。
「なんで不幸な目に遭うことが、丁度いいのですか?」
「あなたは、仏様に手を合わせお願いすれば、病気が治ると、本気で信じていますか? どんなにお祈りしても、治らない人も多くいます」
「お坊さんが、そんな事言ってもいいんですか、私は半信半疑ですけど」
「ほとんどの人がそうではないでしょか。あなたが仏様に手を合わせる時、多くの仏様も合掌しておられます。なぜでしょうか」
「私は幸せに成りたいとか、お金が欲しいとか、健康でいたいとかお祈りしますが、仏様がなぜ合掌しているのか、私なんかに、わかるはずないじゃないですか」
「実はあなたと同じで、仏様もあなたに手を合わせて、お願いしているのです」
「また訳のわからない事を、仏様が人間にお願いするなどと、聞いた事もないんですけど」
「なぜ幸せに成りたいのか、どうしてお金が欲しいのか、病気にかかりたくないのですか」
「それはこの世の中、自分の思うようにならないからでしょう!」
「良く判っているじゃないですか、その通りです。仏様は、世の中は、あなたの都合の良いように変わりませんよ。その事に早くお気づきなさいと、手を合わせ、あなたに、敬意を表して、お願いしているのです」
「そんな、当たり前じゃないですか。思うように変わらないから、人間の方が、お祈りするんじゃないんですか」
「だから、変えられないものは、変えられない。変えられるものを、変えて下さいと、あなたを見つめて、お願いしているのです」
「私のどこが、そんなにすぐ変えられるんですか、体つきも顔も過去も変えられませんよ」
「一つだけあるんですけど・・・実は、仏様の力を持ってすれば、あなたを美人にする事も、大金持ちにする事も、死なないようにする事も、実に簡単な事なのです」
「ならば,もったいぶらずに、そうしてくれりゃあ良いじゃないですか」
「いいですか、あなたは日本一お金持ちになりました。美人なりました。そしたら、大きな家に住みたい、高価な宝石を、我が物にしたい、世界中の人から羨望の眼差しでみられたい。そして、さらには、さらにはと・・・
欲望には限がありません。人がこの世に生まれ出てきたのは、果てしない欲望の堂々巡りをするためではありません」
「じゃぁ、何のために生まれてきたのですか?」
「あなたの中で、すぐに変える事が出来て、永遠なる存在。それを磨き成長させるためなのです」


「それって、もしかして、心とか魂とかのことですか?」

「おわかりになったようですね。仏様はどうか、あなたの真心が、成長しますようにと願っておられます」
「そんなに簡単に心って変わるんですか?」
「はい、心の向きを内側に変えましょう。そうすれば、あなたの中にいる仏に、向き合う事ができます。
もう一人の自分が、自分を客観視するのです。病魔に体は蝕まれても、心まで病んでは何の意味もありません。体とゆう乗り物を、運転しているのは心です」
「幸福な事も、不幸な事も、すべて心を成長させるためにあるんですか?」
「幸せな時にお祈りが出来るのは、感謝のまことを知る人だけです。殆どの人間は、不幸な時しか祈りません。
だから、仏様は、不幸な出来事に遭った時には、この事を通して、どうかあなたの心が、成長しますようにと願っておられるのです」
「肉体は単なる乗り物だから、必要以上に拘るなという事ですか?」
「乗り物が壊れたら、修理をしながら、動かなくなるまで乗ればいいのです。この乗り物が動かなくなっても、乗り物は何回でも新たに、色々なタイプが用意されています。
どの様なタイプの乗り物に、乗っても真の幸せを求め、旅する事が大切です。
やかて、乗り物は不要になる時が来ます。そこからは思ってもみなかった世界が展開しています。
本当の幸せ以外のものを求めたり、自ら旅を途中で、止めたりする事をしてはいけません。双六でいえば、振り出しに戻ってしますからです。
どうか、いい旅をして下ださい。そして、病気が治りたい、宝くじに当たりたいという願いは、いったん仏様にお預けなさい。
これは、仏様が良い様に、裁量してくださることでしょう」
「乗り物は何でも、変えられるって、どういうことですか?」
「少しはご自分で勉強なさい、何ものにも拘らずに、視野を広く持って、想像力を鍛える事、まずはそこからでしょう、では、さようなら」
 と、すたこらさっさと、歩き去ろうとする旅の坊さんに、小春が軽くウインクをする。
「どうしたの、目にゴミでも入ったかね、おじょうちゃん」
「ううん、ありがとう、バイバイの、ウインクだよ」
 鬼嫁が、説明にはいった。
「この子は、キリスト教系の保育園におせわになっていて、外国の神父さんの真似をするんですよ」
「これは、また、ゆかいな仕草ですな、ハハハ・・・」
 顔をゆがめながら、小春に向かい、不器用なウインクを残し、背を向けた。
釈然としない、鬼嫁は何やら不満げな表情だが、遍路のご婦人は、和やかに微笑んでいた。



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