「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

あけましておめでとうございます

2024年01月01日 | 日記
 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。去年の夏に長年使用してきたTwitterアカウントを閉鎖して、ほぼブログだけにしましたが、それなりに長い文章を書くモティベーションがないときは、ネットには書き込まないという習慣ができつつあります。Twitterでちょこちょこと書いていた時の良さはあるので、一長一短ですが。

 さて、今日は氏神が祀られている神社に初詣に行き、御神籤を引くと「吉」で幸先がよい。神社の御焚き上げをしている焚火の前で弟と話していたが、弟は地元の「組頭」や「PTA会長」などを務めており、夏のブログでも書いた盆踊り復活の実行委員でもあり、そんな弟は僕に対して「あんたは田舎のええ部分だけ触って帰ろうとするな」と、冗談口調で話してきた。それはその通りで、「帰省」(宮崎湖処子的な意味において)というものはまさしくそういうものだろう、とは思いながら、「ええやないか、表面の上っ面のええとこだけ触らせて帰らせてくれ」というと、「あほか」と笑っていた。「帰省」は常に喪の作業であり、常に失敗するようになっている。その意味で「そういうもの」である。しかしこの感覚は、事後的な記憶ではあるが、地元を離れる前の僕が、物心ついた時から自分の地元に感じていた「距離」だとも思う。僕は子供の時から、自分自身は常に地元との距離感をつかみかねていて、地元にいながら地元に対する何らかの喪の作業をしていたのではないか、と事後的には考えている。それが物理的な距離を伴うようになって現前化したが、地元にいる時から地元への「距離」が常にあった。この「距離」がなければ、誰も「故郷」を認識することなどできないはずである。

 今年も、弟のいうところの地元の「ええ部分」にだけ触れて帰ろうと思う。……とここまで書いたら緊急地震速報がスマホから鳴り響き(16時20分前後)、僕の地元では普段感じることのない揺れで、外に飛び出すと外の電線も激しく今揺れている。船が揺れているような揺れが長く続く。石川県の能登半島が震源のようだ。震源周辺の皆さんはお気をつけてください。


年末に難解な『大岡越前』を見倒す

2023年12月31日 | 日記
 帰省以後、睡眠時間を除く時間の7割以上は、amazonプライムで放送されている、『大岡越前』と『鬼平犯科帳』を見続けて暮らしている。大げさでなくこの二作品しか見おらず、これがまた面白い。特に今回は『大岡越前』を集中して視聴しており、『大岡越前』は1971年からテレビ放送があるようで、今は1974年放送分を見ている。もう50年前のテレビ時代劇になる。放送時期はいわゆる「1968年」に近く、そういう影響があるのかどうかは、あまりストーリーからは感じられない。しかし、やや難解というか、「シュール」とも形容すべきストーリーに出くわすことがあり、こういう表現は近年の時代劇にはないという意味では、何らかの前衛性があるのかもしれないと思う。例えば、話の筋が急に断絶し、飛躍し、よもやつながるはずのない脈絡へと事件が展開していくところなど、脚本に不備があるのではないか、というぎりぎりを攻めているような気がしなくもない。あるいは、場面のカット同士が、これもロシアフォルマリズムを思わせるような、「モンタージュ」や「クレショフ効果」を疑わせる、というかフィルム編集ミスなのではないかというような大胆なカットの差異と反復を見せつけられ、なんという難解な展開なのかと考えさせられること数多であった。

 少しそういう場面を取り出してみる。大岡が部下である同心の母の病のために高麗人参を送り、その人参を見た同心の目がクローズアップされ、同心は何かに気づき、風邪と偽って件の同心(この同心はひそかに犯罪を犯している)を監視していた大岡のもとに赴く。同心が大岡に風邪の具合を尋ねると、大岡はこれは「佐渡の土」(すなわち小判(金))でしか助からない病である、という謎かけのような言葉と大岡の意味ありげな顔のアップ、それを聞いた同心が何かを感受し、同心の目が再びクローズアップされ、同心は、それでは金300両を融通できる人物(同心の共犯者)を紹介できます、と言ってその場を去る、というシーンがあるのだが、高麗人参がなぜ大岡の風邪と連動して同心を大岡のもとに走らせたのかの因果関係が、難解すぎてよく意味が分からなかった。ただ大岡とその同心の間には埋めがたい断絶(カットの断絶)があると同時に、よくわからない精神的連続性(意味不明な感受性)があるということは暗示された。その高麗人参から300両を融通する事態に発展し、後に同心が共犯者として捕らえられる人物に大岡を引き合わせるまでのカットが、不可解で不気味であり、この意味不明なカットの連続のおかげで大岡は犯人までたどり着き、それを捕らえ、同心が共犯者だということまでも明らかにして、大岡の目にクローズアップが入り、それに気づいた同心は隣の部屋で罪の意識から自裁する、という流れで話は進む。とにかく訳が分からないが、しかしそのカットの断絶とそれをつなげる連続性から、その犯罪の過程には、同心の大岡に対するフェティシズムがあり、そのフェティシズムがゆえに人を殺め金を盗むという罪を犯させたのではないかという、大岡自身が同心のフェティッシュであり、最も犯罪そのものの根源ではないか、と思わせる展開がある。同心も切腹し、その家族は郊外へと追放されるのだが、事件解決後の大岡の笑顔がなんとも不気味なのだ。これも時代精神がなせる技なのか、と思ったりして見ている。とにかく、初期『大岡越前』には難解なカットが多いのである。

 また1970年代初頭の経済状況は、ドラマに色濃く反映されているのかもしれない。初期作品には、大岡が徳川吉宗から江戸の物価の安定を命じられ、それに苦心するというモティーフが実は存在する。大岡は現行法の範囲内で商人たちの「自由主義経済」をどうにか統制しようと苦心する。しかし、商いを統制することは商い自体の衰退にもつながるのでそこで懊悩するわけである。その中で象徴的なシーンがあって、大岡が部下や家族との雑談でいかにして商人による恣意的な物価高を抑制し、庶民の生活を守るのか、という話題を出す。大岡自身は法による統制を主張し、部下の同心は、贅沢なものを買わないようにするべきだという倫理的意見を言う。そして、最後に大岡の妻である「雪絵」は「商人が商いで利を求めるのは当然なのだから、健全な競争を促して、良い商いをさせたほうが良い」という意見を提出し、一同がそのご卓見に恐れ入るという構図が出来上がる。なるほど、「雪絵」は将来のサッチャーであったのか、と膝を叩きながら見ていた。

 高校の同窓会報が届いていたので読んだ。1970年代からの文化祭のテーマが並んでいたが、1988年の文化祭では、生徒たちがピカソの「ゲルニカ」を模写して掲げ反戦を主張したというのがあって、僕の時代の高校にはそういう精神はまったくなくなっていたので、少し驚いた。たしか「ゲルニカ」の闘争は、九州の高校でも同じ時期にあったはずである。

皆様よいお年を。

年末の餅つきをする

2023年12月28日 | 日記
 今年は本当に暖かい12月だ。今日は餅つきの日だが、ふつうこの時期実家の村は雪が降っているくらいで、息も白くなって、もち米を外で蒸すのもつらいくらいなのだ。暖かくて寒さを感じない。

 我が家の奥戸さんはずいぶん前に壊してしまい、簡易奥戸さんによってもち米を蒸した。




 臼と杵を用意する。


 今年の搗き手は僕しかおらず、疲れた。餅って単に搗けばいいだけではなく、蒸したおこわを臼に入れて、僕の田舎の方言では「こづき」と言って、飯の状態のもち米をある程度こねてペースト状にしてから、見慣れた餅つきの状態にするわけだけど、その「こづき」が大変なのだ。


 おろし餅とあんこ餅にした。


 これほど寒くない餅つきは初めてかもしれない。雪が積もる中での餅つきも珍しくないのだが。

 それはそうと、帰省して山のほうに行った。その山の集落には去年家が全焼して真っ黒こげの焼け跡になった家があって、どうなったんだろうと思って今年見ると、そこには家が新築されていたのだが、しかしその新築した家の横に大きな穴が掘ってあって、そこから勢いよく炎と煙が上がっていた。最初全貌が見えなかったので、「おい、また火事と違うんか?」と近づいていくと、去年火事になって燃え残った家の一部をそこに放り込んで燃やしているのだ。新築の横で去年の焼けた自分の家の燃え残りを燃やしている風景に、何とも言えない人間の「存在」のどうしようなさと、まあそういうもんだよなという気分に襲われて笑ってしまった。

大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない

2023年12月05日 | 日記
 今日の昼食は職場近くのラーメン屋さんに入って味噌ラーメンを食べていたのであるが、最近そのラーメン屋では90年代の楽曲がよくかかっている。店長・店員の世代的な趣味か好みかはわからないが、My Little LoverやZARDの曲が流れていて、懐かしいなと思って聴いていると、『君に逢いたくなったら・・・』が流れて来て、「大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない」という歌詞が不意に耳に入って印象に残り、本当にその通りだと思い笑ってしまい、ニヤニヤとラーメンをすすっていたので、変な奴だと思われたかもしれない。僕は歌謡曲(「歌謡曲」という言葉を調べたらWikiで「昭和」の歌となっているが本当か?)を評するほど音楽に詳しくないが、歌詞の中にあるこういう部分に「真理」があると思っている。例えば、2000年代初期に宇多田ヒカルが『COLORS』の中でも「いいじゃないか」とアクセントを付けて歌う歌詞があったが、カラオケではその部分をデリダ的な「赦し」の意味に捉えて歌っていた(これは僕だけではなく、周りの友人たちもそう歌っていたと思う。恐らく時代的雰囲気だろう。)。存在してしまったものは、例えそれが不本意なものであったり、敵対的なものであったとしても、最終的には「いいじゃないか」と「赦す」しかないよなという、もちろんこれはギャグの類ではあるのだが、曲と歌詞の本来の文脈を外しながら、しかし曲の時代的ポエジーは維持しつつ、おそらく本歌取り的な「意味」の組み換えがそこに発生しており、その組み換えの亀裂から何らかの「意味」や「力」は発生していたと思う。前にも山本陽子の詩について書いた時にもいったが、やはり歌謡曲や詩というのは人に〈軽率〉な気持ちを起こさせて、「いっちょやってみるか」という気分にするものだと思う。そういう〈軽率〉さを人に起こさせるためには、やはりポエジーと言葉の組み合わせ、それは即ち言葉を曲の本来の文脈から外れさせ、別の「意味」を纏わせる〈組み換え=軽率〉さが必要だ。その〈軽率〉さをカントのいう、そしてハイデガーのいった「構想力」と言い換えてもいいだろう。要は、それは「構想力」としての〈dichten=詩作=捏造=でたらめ〉の次元による「意味」の変容というべきか。

 とにかくラーメンを食べながら、「大丈夫だよという君の言葉が、一番大丈夫じゃない」という言葉を麺と共に噛みしめ、ニヤニヤを噛み殺し、思索していた。まあノスタルジーに浸っていたといえるかもしれない。そして、最後までこの曲を聴き終わった時、この歌謡曲は何か〈枯れた〉というか、あるいはこの歌詞の〈ヘタレ〉たというか、〈ダサさ〉が押し寄せてきた。これは必ずしも否定的な意味ではない。これこそがポエジーであり、文脈の組み換え可能性を担保しているものだ。これがなければ、曲と歌詞を本来の文脈から外すことは難しいし、外したとしても〈軽率〉な感じが出ない。この〈軽率〉さこそがこの時代にポエジーとして「意味」を持つのだ。勿論、この〈軽率〉さは90年代特有のものと言っているのではなく、今の時代でも今の時代の〈軽率〉さがあるだろう。この〈軽率〉さを見出し、「いっちょやってみるか」と思わせるのはなかなか難しい。この組み換えは、理性的なものではなく、啓蒙的なものでもない意味で、〈知的〉な作業だからだ。

【読書メモ】
アンリ・ベルクソン『記憶理論の歴史――コレージュ・ド・フランス講義 1903-1904年度』( 藤田尚志、平井靖史、天野恵美理、岡嶋隆佑、木山裕登訳、書肆心水)
フィリップ・ラクー=ラバルト、ジャン=リュック・ナンシー『文学的絶対: ドイツ・ロマン主義の文学理論』(柿並良佑、大久保歩、加藤健司訳、法政大学出版局)

あと忘れてはいません、読んでいないわけではありません、『失われた時を求めて』は第四巻が読み終わる所です。そして『In Stahlgewittern』も読んでいます。大丈夫です。

『ポケモンGO』で「わからせる」

2023年11月01日 | 日記
 『ポケモンGO』(以下『GO』)をまだやっている。ただ、『GO』 以外のポケモンのゲームはやったことがないし、ポケモンというコンテンツにあまり魅力は感じていない。ただ『GO』は、旅行とか遠出した時に場所の記憶と同期できるし、ゲームの中にもその痕跡が残せるので重宝している。未知の場所に行っても「ジム」のメダルなどを取っておくと、観光的な意味で記念になる。また、遠距離にいる友人との通信手段ともなっており、アイテムのやり取りをすることで、互いの生存確認になる。また、恐らく自分の住居と生活範囲が近いのだろうな、という未知の人ともフレンド登録をしているので、すれ違っているかもとか、家の前のポケストップで取得したアイテムを送られたりすると、少し怖い思いもする。しかし、身元が割れることはほぼないので、それもスリルだといえなくもない。



 また『GO』にはクリアするべきタスクというかクエストがあり、それをクリアするとアイテムをもらえるという仕様がある。一応プレーの目標とできるもので、それをクリアするために様々なミッションをこなす。たいていは歩くことで解決するミッションだ。ただここではポケモンのことが直接書きたかったわけではなく、そのクエストの中でゲーム内のキャラクターが話をするのだが、そのキャラクターが話す台詞で思う所があったので、それについて書いてみたい。『GO』の中で「ロケット団」という敵の組織が登場し、それと戦うというミッションがある。その敵の組織を「懲らしめる」ためのミッションがあり、その時に味方のキャラクターが、「許さないという態度を示してほしい」といういい方で仕事を依頼してくるのである。つまり、敵の組織に対してこちらの「許さない」という態度を示してほしいというものなのだ。

 これを読んだ時、この論法ってここ20年くらいよく聞くようになった論法だよな、と思った。これに似た「スラング」(?)に「わからせる」というのがある。これはゲームなどでよく使う言葉遣いだが、「わからせていけ」などという場合は、こちらの力を示せ、あるいは、こちらの意志を攻撃の苛烈さによって知らしめてやれ、くらいの意味が含まれている。半分冗談で、ゲームなどで「わからせる」というという時は攻撃の意志を見せるという、攻撃そのものよりは意志表示のメッセージ性が強調されることとなる。この「態度を示す」や「わからせる」という時に感じるのは、これらの表現が、ここ20年くらいでより頻繁に表現されるようになった、「テロとの戦い」でのレトリックに似ているということだ。テロリストとは交渉しない、テロリストに間違ったメッセージを伝えてはいけない、テロリストとは取引をしない……などがそれにあたる。要は、テロリストにはこちらの意思表示、即ち妥協しない、許さないというメッセージを「正確」に伝えるべきであって、少しでも相手に妥協するような交渉やメッセージを与えてはいけないというものである。これは特に「911」以降に強くなった気がしているが、僕などはまずは争いがある場合は「交渉」がまずはあるべきなのではないか、と思っていたので、この頑なさは何に由来するのか不思議であった。

 ここで不思議かつ不可解だと思うのは、そのようなこちらの意志が、なぜテロリスト側に「正確」に示せると思い込んでいるのかが、全くわからないということである。そもそもこちらのメッセージは何を根拠に「正しく」伝わるということになっているのだろうか。この正確性は、こちらになにがしか絶対的で正当な立場に立っているという前提がなければ表現できないはずだ。テロリストに対してそのような正当な立場が取れるという確信がなければ、「わからせる」というような「膺懲」の表現というのは出てこないだろう。駅を歩いていても「テロは許さない」というポスターを見ることがある。許さない主体とは一体誰なのか。このポスターのメッセージは「正確」にテロリストに伝わっているのだろうか。そもそもこのメッセージは僕には「正確」に伝わっているのだろうか。テロリストと僕の間にこのメッセージを理解するときの差異はあるのだろうか。あるいは差異などあってはならないのだろうか。僕もまたテロリストと同じように理解しなければならないのか。即ちこのポスターのメッセージを正確に理解するためには、僕自身がテロリストであるかのように、このポスターを読まなければならないのだろうか。間違ったメッセージにならずに「わからせ」られるためには、部外者や傍観者ではなく、僕自身がその言葉を伝えられる目的のように、テロリストとしてやはり読まなければならないように思う。そうしなければ正しく伝わっていることを確認できない。

 駅のポスターの「テロは許さない」というメッセージを読みながら、ああ、僕らは許されないのだと思ってしまった。これを読んでいる人はそれが「正確」にメッセージとして伝わっているならば、自らをテロリストになぞらえて読んでいるはずである。ならば、駅でそのポスターを「正確」に読み取っている人々は、そしてここ20年そういうメッセージは誤解されないように常に「わからせる」ために発せられているわけだから、駅の構内で自分たちを無意識にテロリストになぞらえてポスターを読んでいる人は構多いと思う。そのような理由から、自分たちは許されないんだ、と僕が受け取ったような感慨を抱いた人は結構多いのではないか。無意識だからそれに気づいていないだけだろう。こう考えると、「テロを許さない」「テロリストとは交渉しない」「テロリストに間違ったメッセージを与えない」という言葉は、それ自体はテロリスト(外側)に向けられているというよりは、むしろ内側に対する統治と管理のメッセージとして伝えられているということなのだろう。このメッセージが「正確」に伝わるという根拠は、やはり自分がテロリストの立場になって読まなければ理解できないもののはずだ。駅構内の誰もが潜在的なテロリストと想定されなければ、こういうメッセージは「正確」な根拠で伝わらない、というかそうでないならその「正確」さの根拠をだれも確認できない。

 そういう意味では、このようなメッセージはまさしく「外側」と「内側」がすでに区別不能の地点だからこそ発せられている、ともいえる。つまりはそのような内と外の不分明さのセキュリティのためのメッセージだともいえる。このメッセージはテロリストに伝えられているというよりは、「全員」に伝えられているといえそうである。ならばこの「全員」にメッセージを伝えている、メッセージの主体は何処にいるのだろうか。一体誰が全員に「正確」に「わからせ」ようとしているのであろうか。ここ20年非常に強く押し出されている、メッセージを「正確」に伝える、あるいは「敵」を絶対に「許さない」(というメッセージを伝えなければならない)という、「正確」さや「正当性」をめぐるイデオロギーは、外側にいる「敵」やテロリストへというよりは内側というか、内と外との境界を不安定化させて、その内なる「敵」を含めた「全員」に対してのメッセージをつくりだしてしまっているように思う。つまり「全員」に無差別に「わからせ」ようとしているのである。

 この「正確」で「正当」なメッセージを誤解なく「わからせる」ことができる、ということ自体の問題がここにある。このメッセージの「正確性」への信奉は、無意識に「全員」が管理され、「わからせ」られることを許容してしまう論法を引き寄せる。しかも、そのような「正確」なメッセージは一体誰が発しているのかわからないようになっているのである。むしろそのメッセージを「正確」に理解しようとすると、それを理解する側が自分たち自身を管理される側、即ちテロリストとしなければ、「正確」な理解の位置へと到達しないようになっている。言葉の意味の理解ではなく、「正確」さを求めることで言葉を理解する位置がそのような位置になってしまうのだ。「911」以降、この手のレトリックが非常に多くなり、胡散臭く思っていた。テレビなどを見ていても、偉そうな報道関係者が、訳知り顔で、「間違ったメッセージを送らないように」「テロリストを許さない」などという時、この人は誰の立場で発言していて、このメッセージを聴き、そして理解しているのは一体誰なのかを、考えさせられてきた。その時何か嫌なものを常に感じてきたのだが、それは、無意識の間に「敵」の位置へと置きなおされてテロリストにされ、「わからせ」られていたからではないか。そして、そのメッセージを発するキャスターなどを見ながら、その発言の源泉がどこにあるのか見えないという気味悪さがあったのだと思う。「正確」に意味が伝わるとは、いったいどういう状況なのだろう。

 『GO』のクエストをしながら、そのようなことを考えていた。