航思社の編集者の方より、絓秀実・花咲政之輔編『全共闘晩期:川口大三郎事件からSEALDs以後』をご恵投頂いた。以前、このブログでも代島治彦監督映画『ゲバルトの杜』を「徹底批判」したシンポジウムに行ったことは書いたが、そのシンポジウムの登壇者の議論とそれに関わる論考が、シンポジウムの登壇者以外の執筆者の論考も加えた形で収録されている。シンポジウムの内容や映画への批判の要点は既にブログ記事で書いているので省略するとして、「川口大三郎事件」が問題化した、「早稲田大学」と「革マル派」による主に学生への生政治的支配の問題を、大学の自治だけではなく、世界の支配構造の問題として論じたもので、新型コロナウィルス感染症以来、ますます生政治的な支配が強まっている中で、読まれるべき書物である。そして、シンポジウムでは僕にも発言の機会があったので、これもかつてブログに書いた一緒にビラまきをしていた友人との早稲田祭をめぐるエピソードを話し、その部分が掲載されたのは大変ありがたかった。かつての出来事を、このような大きな問題を扱った書物の中に記憶として納められたことは、大変感謝する。
論考の中で気になったものがあったので、それについて書こうと思ったが、ちょうど早稲田祭の問題に花咲政之輔氏の論考「昂揚会・原理・早稲田リンクス——奥島「改革」後の早大管理監視体制」が触れているので取り挙げてみる。この論考は、僕の在学当時の認識を補完するもので、興味深く読んだ。花咲氏によると「早稲田祭準備委員会」には「学内有力芸術系サークル」が参加していたとされ、友人はその中の一つのサークルの幹事長だったはずだ。当時、準備委員会の議論に参加するようにその友人から誘われたことがあるが、サークルをやめどこにも所属していないということもあり、僕は参加しなかったのを記憶している(問題の本質を正確に把握していなかったともいえる)。友人には僕のような学生への残念さと、呆れや諦めの気持ちがあったかもしれない。それでも友人は、定期的に、そこではどういう話し合いがおこなわれていて、どういう議論になっているかを、教えてくれ、二人で議論をしたのであるが。
また、サークルの「早稲田リンクス」と早稲田祭の関係についても花咲氏は書いている。96年に設立というので、「早稲田リンクス」は確か僕の入学と時を同じくして出来上がったサークルだと思う。僕のゼミの先輩が「早稲田リンクス」の初期メンバーでもあった。その「早稲田リンクス」が大学の権力を代行=代表し、「革マル」の生政治的権力と、意識的にも無意識的にも融合して、民主的な早稲田祭復活のプロセスが失われていったという花咲氏の見立ては、今の「早稲田リンクス」の大学での地位を考えても納得できるものである。確か早稲田祭が中止になってからだと記憶するが、「早稲田リンクス」の最初期のホームページには、今は懐かしき「BBS」が設置され、誰でも書き込みができ、意見交換が可能だったのだが、ある時、「BBS」での議論が不可能になるような、ページの構造を破壊するようなハッキング事象が増え始めたことがあった。最後の方は、恫喝するような書き込みもあり、あの一連の混乱は、もしかすると早稲田祭の問題とかかわりがあったのかもしれない、と花咲氏の論考を読んでから思った。その後、その「BBS」は閉鎖されている。
それと花咲氏はシンポジウムや論考の中で、映画出演者の取材拒否による映画製作の不成立や映画の上映中止をラディカルに主張している。現在の非政治的でノイズのない社会から見れば、この花咲氏の主張は乱暴に聞こえるのかもしれないが、新自由主義や生政治的な支配、そして社会の非政治化を推し進めてしまうような映画を殲滅することこそ、むしろ民主主義を守る数少ない方法だということだろう。資本主義における治安維持と監視コントロールによって、見かけ上は非暴力的平静と民主的非暴力の状況が保たれているかのように見えるが、実際はそれ自体が支配の完成形であり最大の暴力でもある。そのような見かけ上の民主主義的冷静さこそが、最大の構造的な暴力的秩序であり、そこには「一撃」を入れるしかないということである。この「一撃」は、恐らく「生政治」の「生」の部分に打撃を与える方法といえる。そして、資本主義的生政治の秩序は、その「一撃」を暴力という概念でひとくくりにして排除しようとするのである。これは「内ゲバ」という形で、「川口大三郎事件」を、新左翼内の抗争という形で治安維持する方法と同じではないだろうか。
もう一つは長濱一眞氏の論考「なんとなくカクマル――「暴力批判論」のために」が興味を引いた。特に漱石の『こころ』の読解と重ねながら、内田樹の革マル派への欲望を読解するその過程が面白かった。これは絓秀実の『「帝国」の文学』でも分析される、「大逆」をめぐる漱石のそれへの応接の問題とも重なり合うものとして読んだ。絓は「なんとなく反天皇」的に読まれてしまう漱石の問題を、小森陽一や高橋源一郎などを批判しながら、実は漱石自体が「大逆」を回避していた問題(ようは天皇制を漱石は批判していない)を論じたわけだが、「なんとなくカクマル」で、「なんとなくリベラル」な内田は、まさにこの国民作家としての漱石的立場に君臨して、天皇的に振る舞い、生政治的な管理側の言説を振りまいているということなのだろう。内田はそのような革マル的暴力言説に依拠しながら、しかしだからこそ「なんとなくリベラル」として一般には受け取られてしまっているということなのだ。内田の言説自体が、管理コントロールの意思というか暴力によって維持されているのである。その意味で内田は未だに革マルであり、生政治的大学支配の言説を捨ててはいないということになる。今のなんとなくリベラルな資本主義の秩序が、結局は内田的な「なんとなくカクマル」の構造的支配によって維持されているというのがよくわかった。長濱氏の論を読んで、やはり「川口大三郎事件」については、それは革マルの生政治的支配の問題も含め、「文学」の問題として分析する必要性を感じることとなった。これは、照山もみじ氏の「中島梓」の問題も同じだと思う。
映画『ゲバルトの杜』を理論的に批判できる書籍が出たことは良かったと思う。
論考の中で気になったものがあったので、それについて書こうと思ったが、ちょうど早稲田祭の問題に花咲政之輔氏の論考「昂揚会・原理・早稲田リンクス——奥島「改革」後の早大管理監視体制」が触れているので取り挙げてみる。この論考は、僕の在学当時の認識を補完するもので、興味深く読んだ。花咲氏によると「早稲田祭準備委員会」には「学内有力芸術系サークル」が参加していたとされ、友人はその中の一つのサークルの幹事長だったはずだ。当時、準備委員会の議論に参加するようにその友人から誘われたことがあるが、サークルをやめどこにも所属していないということもあり、僕は参加しなかったのを記憶している(問題の本質を正確に把握していなかったともいえる)。友人には僕のような学生への残念さと、呆れや諦めの気持ちがあったかもしれない。それでも友人は、定期的に、そこではどういう話し合いがおこなわれていて、どういう議論になっているかを、教えてくれ、二人で議論をしたのであるが。
また、サークルの「早稲田リンクス」と早稲田祭の関係についても花咲氏は書いている。96年に設立というので、「早稲田リンクス」は確か僕の入学と時を同じくして出来上がったサークルだと思う。僕のゼミの先輩が「早稲田リンクス」の初期メンバーでもあった。その「早稲田リンクス」が大学の権力を代行=代表し、「革マル」の生政治的権力と、意識的にも無意識的にも融合して、民主的な早稲田祭復活のプロセスが失われていったという花咲氏の見立ては、今の「早稲田リンクス」の大学での地位を考えても納得できるものである。確か早稲田祭が中止になってからだと記憶するが、「早稲田リンクス」の最初期のホームページには、今は懐かしき「BBS」が設置され、誰でも書き込みができ、意見交換が可能だったのだが、ある時、「BBS」での議論が不可能になるような、ページの構造を破壊するようなハッキング事象が増え始めたことがあった。最後の方は、恫喝するような書き込みもあり、あの一連の混乱は、もしかすると早稲田祭の問題とかかわりがあったのかもしれない、と花咲氏の論考を読んでから思った。その後、その「BBS」は閉鎖されている。
それと花咲氏はシンポジウムや論考の中で、映画出演者の取材拒否による映画製作の不成立や映画の上映中止をラディカルに主張している。現在の非政治的でノイズのない社会から見れば、この花咲氏の主張は乱暴に聞こえるのかもしれないが、新自由主義や生政治的な支配、そして社会の非政治化を推し進めてしまうような映画を殲滅することこそ、むしろ民主主義を守る数少ない方法だということだろう。資本主義における治安維持と監視コントロールによって、見かけ上は非暴力的平静と民主的非暴力の状況が保たれているかのように見えるが、実際はそれ自体が支配の完成形であり最大の暴力でもある。そのような見かけ上の民主主義的冷静さこそが、最大の構造的な暴力的秩序であり、そこには「一撃」を入れるしかないということである。この「一撃」は、恐らく「生政治」の「生」の部分に打撃を与える方法といえる。そして、資本主義的生政治の秩序は、その「一撃」を暴力という概念でひとくくりにして排除しようとするのである。これは「内ゲバ」という形で、「川口大三郎事件」を、新左翼内の抗争という形で治安維持する方法と同じではないだろうか。
もう一つは長濱一眞氏の論考「なんとなくカクマル――「暴力批判論」のために」が興味を引いた。特に漱石の『こころ』の読解と重ねながら、内田樹の革マル派への欲望を読解するその過程が面白かった。これは絓秀実の『「帝国」の文学』でも分析される、「大逆」をめぐる漱石のそれへの応接の問題とも重なり合うものとして読んだ。絓は「なんとなく反天皇」的に読まれてしまう漱石の問題を、小森陽一や高橋源一郎などを批判しながら、実は漱石自体が「大逆」を回避していた問題(ようは天皇制を漱石は批判していない)を論じたわけだが、「なんとなくカクマル」で、「なんとなくリベラル」な内田は、まさにこの国民作家としての漱石的立場に君臨して、天皇的に振る舞い、生政治的な管理側の言説を振りまいているということなのだろう。内田はそのような革マル的暴力言説に依拠しながら、しかしだからこそ「なんとなくリベラル」として一般には受け取られてしまっているということなのだ。内田の言説自体が、管理コントロールの意思というか暴力によって維持されているのである。その意味で内田は未だに革マルであり、生政治的大学支配の言説を捨ててはいないということになる。今のなんとなくリベラルな資本主義の秩序が、結局は内田的な「なんとなくカクマル」の構造的支配によって維持されているというのがよくわかった。長濱氏の論を読んで、やはり「川口大三郎事件」については、それは革マルの生政治的支配の問題も含め、「文学」の問題として分析する必要性を感じることとなった。これは、照山もみじ氏の「中島梓」の問題も同じだと思う。
映画『ゲバルトの杜』を理論的に批判できる書籍が出たことは良かったと思う。
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