「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

アメリカ大統領選をチラ見しつつ

2024年11月06日 | 日記
 この頃忙しく、ブログの記事に書けるような読書ができず、また、書く時間はあったのだと思うが、書いている時間を考えると気もそぞろになるほどには他にやることもあり、ブログの更新が一か月以上の空白となった。ただ、今日はアメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプがカマラ・ハリスを破り、「当確」を出したというのもあって、少し書いてみようと思った。

 日本の衆議院選もよくわからない形で終わり、自民党が敗れたのか野党が勝ったのかもさっぱりわからない。ニュースや新聞を見ても、破れたはずの自民党が政権運営を続けており、また、野党までも自民党の補完勢力のように、それは意図せざるものも含めて、なってしまっている。要は「何も変わらない」ということなのだろう。ただこの何も変わらない、というのは、まさしく何も変えたくないという意志の表れとして解釈した方が良いのかもしれない。「トランプかハリスか」という問いも、この衆院選と全く同じで偽物の問として、何も変えたくないという人びとの願望のスクリーンになっている。ツイッターでグレタ・トゥーンベリが、乱暴に要約・解釈すれば、トランプであろうがハリスであろうが、それは相対的な差異に過ぎず、どちらも打ち倒すべき敵(資本主義としての「システム」)である、と文書を提示していたが、それが真実だろう。トランプが大統領になった場合、あるいは日本でも排外主義者や差別主義者が為政者になった場合、喫緊の問題として直接的に「当事者」の命が危険にさらされることとなる。これは批判されるべきであり、これからのトランプにはその問題が大いに存在する。しかしながら、選挙でトランプを選ぶということは、あるいは日本でも選挙では大敗したはずの自民党が政権を担当し続けるということは(しかも野党もこぞって自民党を補完し)、人々が現状を変えたくない、あるいは自らの立場をこれ以上悪くしたくないという、意思の現れなのだろう。そういう意味も含めて、結局ハリスだったとしても、トランプと「変わらない」ともいえる。

 今日、若い人たちとデヴィッド・グレーバーの本を読みながら、グレーバーがいうように、剰余価値を生み出すという意味での「生産性」が乏しいと見做される「ケア労働」がないがしろにされる現実と、マイノリティがないがしろにされる現実を重ねつつ、剰余価値の生産が大きいとされる金融資本主義下でのエリートの労働と「ケア労働」を比較して議論をした。「エッセンシャルワーカー」とも呼ばれ、インフラをメンテナンスし、介護や医療や清掃、農業、畜産、漁業、食料品販売、輸送、教育といった、社会を維持するに欠かせない「ケア労働」が剰余価値を生まないものとして軽視される一方、剰余価値を莫大に生産するとされる金融資本主義で封建的資本主義的なエリートの労働、経営者、サブスクでの地代資本主義、それらに携わる人々が、「ケア労働」の数百倍の収入を得て「尊敬」されている。社会をケアしメンテナンスする、あるいは教育のように再生産を促す労働は、剰余価値を多く生まないと軽視されるのである。だからこそ、人々は早々にインフラや教育を民営化し、大学の学費値上げのように、教育への公的支出を切り詰め、例えば能登半島地震のように、剰余価値を生まないとされる地域は打ち捨てられ、「棄民」されるのだといえるだろう。それに対してグレーバーは、そのような地代資本主義やサブスク的封建資本主義、金融資本主義では不可視になってしまう「ケア労働」に重点を置くだけで、世の中の無駄な労働の多くは削減され、現状での富の不平等も軽減されるはずだという。もっと言えば、「価値」への眼差しが根本から変わるのではないかともグレーバーは予想しているのである。そして、その議論では、そのような「ケア労働」やそこに関わる「当事者」への「配慮」の問題が、「ポリコレ」や「コンプラ」として反動的に反発を買っている問題に繋がっているということにも話が及んだ。よく言われる「ポリコレ」や「コンプラ」のおかげで表現の自由の範囲が窮屈になり、「マイノリティ」への「配慮」が、逆に民主主義に不平等を招き寄せているという主張である。しかし、本当に人々の生活を窮屈にしているのは、そのような「ケア労働」や「マイノリティ」や「当事者」に対する「配慮」によって引き起こされているのだろうか、と。

 おそらくは、「ポリコレ」や「コンプラ」が窮屈さを生んでるのではなく、むしろ「サブスク」が人を封臣としてヴァーチャルなデジタルの「土地」に縛り付け、そこから年貢(会費・使用料)をとり続けているからこそ、その「支配」が人々に窮屈さもたらしているはずなのだ。しかしながら、人はそのような「サブスク」の「支配」に対して、価値を生み剰余価値を生むエリートの労働として賞賛するよう仕向けられている。そのため人はその対極にある「ケア労働」を益々価値のないもの、あるいはそれが世の中の自由主義経済・封建資本主義を阻害するものとして敵視するようになり、マイノリティへの「配慮」を垣間見ると、そこに不自由と窮屈を見てしまうのだ。そういう意味で、ほとんどの人は経営者や資本家という封建領主の領地を防衛するため、体よく使われているともいえるだろう。自分を苦しめて土地に縛り付ける封建領主を、むしろ解放者として賞賛し続けるようなシステムになっているのである。だからこそ人々は何もいわず水やライフラインが民営化されるのを眺め、質を低下させながら料金が上げられても文句を言わないのだろう。何故ならインフラは生産性が低いからである。だが、その結果、自分たちは益々生活基盤を奪われて「窮屈」になっているにもかかわらず。

 こう考えるとハリスのように、マイノリティや性的少数者に対する「配慮」を掲げる候補者が敵視されるのも「当然」となる。しかし問題は、だから「ケア労働」や「配慮」に関する問題を人びとに啓蒙すれば、その封臣たちは本当の敵に気付き、トランプやイーロン・マスクといった封建領主的経営者や資本家という真の敵を倒すのかというと、そうはならない。何故なら、ケアやマイノリティへの「配慮」を説き、啓蒙するハリスもまた、資本主義という搾取構造は変えたいとは思っていないからだ。結局は変えたくないのである。そうなれば、その窮屈さから解放してくれると思っていたハリスのような「善良な」民主主義者たちが、結局は搾取を容認する資本主義を全く変えるつもりがないとわかれば、少数派を気にする候補者よりは、ありもしない嘘の「大衆」という存在に自信を取り戻させると、嘘でも言ってくれる、嘘つきである改革者という名の経営者たちを、人は嘘でも信じたいとなるのは、わからなくはない。要は、「善良な」ハリスもまた嘘つきだからである。

 これはアメリカ大統領選だけではなく、先ほどの日本の衆院選でもいえる。結局自民も野党も同じ嘘つきなのだ。自民党の搾取構造を批判し選挙で政権にダメージを与えても、野党がそれを補完して、選挙などなかったような日常を作り上げようとする。選挙が終わったとたんに、野党は、変えるつもりはなかったんだ、そんな極端なことは言うつもりはなかったんだ、という形で言い訳を始め、何も変えないように動いていく。そして自分たちはより良い資本主義を作っていくんだと、自民党と五十歩百歩のことを言い始めるのだ。だったら選挙など無意味だろう。この嘘つきの慢性化は、本当の意味で「ポストトゥルース」的であるといえる。益々代表制は信頼を失っていき、封建制、絶対君主制に近づくのではないかと思う。そういう意味でトランプだけではなく、ハリスもまた陰謀論的かつ、修正主義者の側にいるといえるだろう。「啓蒙」と「陰謀」は、本質的には区別はできない。これは重要なことだ。

 経営者という君主による「解放」を夢見るという意味では、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んだ方がいいのかもしれないが、やはり思うのは、資本主義自体を批判し、代表制自体の問題化を考える政治的なイデオロギーが必要だということだ。それは相対的にマシなハリスが選ばれればいいということではない。その相対的にマシなものを選ぶという免罪符が、トランプを活気づけ、マイノリティを追い込む資本主義を持続可能にしているからである。

「御座候」を食べながら

2024年08月14日 | 日記
 お盆休みは「御座候」を食べながら、「大岡越前」と「鬼平犯科帳」、「税務調査官・窓際太郎の事件簿」を一日中見るという、理想的な日々を送りたい、送るべきである、送っているであろう。特に「窓際太郎の事件簿」を見ながら、最近小林稔侍を見かけないがどうしているのだろう、ということを考えながら過ごしていたい、過ごすべきである、過ごしているであろう。とにかく今「御座候」を一個食べたのだから、来るべき理想達成のプロセスに突き進んでいるはずである。


 Twitterを見ると、トランスジェンダーについての雑誌の「特集」をめぐって「論争」が繰り広げられていた。目次が示されているだけで、内容を読んでいないので、何も言うべきことはないが、前回書いたように、「目覚めていながら酔狂であること」はできるはずで、その目覚めてあることと酔狂の次元を清濁併せ呑む形で維持する「強度」が論文の中にあるかどうかが大事なのだろう。そして、勿論そこには矛盾を読み取ることができるかどうかの、読解の「強度」の問題も存在する。ただ、こういう議論の時、僕はジャック・デリダの歴史修正主義(者)への態度を思い出す。いわゆる「ガス室はなかった」、という類の歴史修正主義(者)に対して「歓待」はどうあるべきかを、デリダはインタビューで聞かれていたはずで、要約するとデリダは、そのような歴史修正主義(者)に反対しつつも、議論は開かれたままで、議論自体は継続されるべきであり、廃絶してはいけないという形で、限定的な「歓待」のプロセスを語っていたはずである。

 もちろんこれは、デリダ自らが出演している映画の最後の場面で、害悪を限りなく永続させてしまう「反復」は、「差異と反復」という「エクリチュール」を「祝福」するデリダも、「呪詛はしないが祝福もしない」という言葉によって「否定的」に語っていることと共に考えなければならないと思っている。デリダも「歓待」の「矛盾」をここで抱え込んでいるのだ。しかしここで重要なのは、デリダがそのような害悪を永続化しかねない「反復」さえも、「呪詛はしないが祝福もしない」という表現で、「反復」それ自体を拒絶するのではなく「留保」していることである。この「矛盾」こそが考えられるべき問題といえる。

 こういう「炎上」に類する時は、「加害」や「被害」、「当事者」や「非当事者」の「分断」などが安易に、簡単に語られてしまうことがあり、またそれがもっともらしく見える場合もある。要は差延的に考えなければならないにもかかわらず、急がせ「切迫性」が演出されてしまうのだ。だが、どのような立場であろうが、「実践」は常に、何らかの形で弁証法的に、敵対者のポテンシャルを自らのポテンシャルとして耐え抜く瞬間はあるはずで、それが「実践」の原動力になる場合がある。そしてそれがなるのかならないのかは、読みかつ議論しなければ判断できないはずだろう。そのようなプロセスを捨象して勧善懲悪的にしか物事を判断しない人がいるとしたら、それこそ、民主的なプロセスを破壊することになるのではないか。

ジジェクを読みつつ、再び今年も地元の「盆踊り」を考える

2024年08月11日 | 日記
 スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書 )を読書会で読んだ。ジジェクの「リベラル批判」が「逆張り」」的にとられて批判はされるものの、本書では重要な生政治と「ネオリベラル」への批判がなされている。そういう意味で、「woke」が批判されるのも、それなりの根拠がある。もちろん「目覚め」なければならない目覚めていない人はいて、それは常識の範囲で目覚めるべきであり、その常識とはきちんと基本的人権の尊重を守り抜くという意味で、さしあたりはいうしかないと思う。その人権の尊重を徹底するという意味でのラディカルさによって、目覚めていない人を目覚めさせる必要はある。
 
 しかしながら、最も目覚めている資本という「woke」と重なっていることに無自覚な「リベラル」は「ネオリベラル」になりうるわけであり、このような「リベラル」は以前から言われているが、批判されるべきだろう。「目覚めた」ことにより良心の疚しさを抱き、誰も達成できないような「マイノリティ」の「代表=表象」のルールを敷いて、結局はそのルールについてこられない目覚めていない人々を断罪する。本来、「マイノリティ」は「代表=表象」のルールには包摂できない「矛盾」として存在しているはずなのに、SNSでは多くの人が、生きづらさや、自らの存在の違和感を表明し、それを「代表=表象」しようとして競い合い、それについてこられない人々を、目覚めていない人として断罪していく。しかしそれは、コンプライアンスによる企業統治の厳しさと、何が違うというのだろうか。グローバル企業は、十分すぎるほど「woke」して、その「資本=woke」のルールの中で、公正に消費者を統治し、スポンサーとして人々の倫理的存在様態にまで管理コントロールの生政治的な力を及ぼしているというのに。
 
 このジジェクの「woke」批判は、絓秀実による華青闘告発の議論と通じるものがある。絓もまた、華青闘告発が「マイノリティ」という矛盾そのものが「代表=表象」には包摂できない「享楽」の次元を開くと同時に、それが「マイノリティ」を「代表=表象」しようという欲望にも開かれることとなるといっているからだ。その意味で、華青闘告発は「マイノリティ」の「享楽」を問題化すると同時に、「woke」の源流ともなる。そういう意味で、絓の華青闘告発の議論は、ジジェクの「woke」批判と重なる。ジジェクも絓も「享楽」を捨象して、結局は「マイノリティ」を「代表=表象」の枠組みに閉じ込めようとする、その倫理主義を批判するのである。「代表=表象」批判というのはあれほど、「ポストモダン」で言われたはずなのに、「ポストモダン」批判と共に、素朴な「代表=表象」の欲望がまたぞろぞろと出てきているようだ。しかも、誰かの生きづらさや、存在論的違和感を、何かの「お気持ち」として、掬い取ることのできるものとして、ケアできるものとして、「代表」しようと競い合う。そしてその「代表」を貫徹するには、ものすごく難易度の高い倫理的ハードルを越えなくてはならなくなる。おそらくこの「woke」できる倫理観のモデルというか、貫徹できるのは「皇室」かグローバル企業としての「資本」になるのだろう。
 
 さて、今年も地元の村の盆踊り大会に行ってきた。去年、僕の同級生を中心にした有志達が、盆踊りを30年ぶりに「復活」させ、実はその年限りでやめるはずだったようだが、同級生たちが、今年も骨を折って開催をしたようだ。完全なボランティアで、やはり昨今の事情もあり、地元の地区の協力は得られず、皆仕事で忙しい中、地区の行事をわざわざ「復活」するというのは、反対が多いようである。それでも、かき氷、ポップコーン、金魚すくいや風船釣り、などの露店も用意され、去年よりも規模は大きくなっている。「復活」の立役者である同級生の「会長」と、僕の家族が「副会長」となっており、いろいろ「復活」の事情を聴くと、やはり開催はものすごく物理的な意味でも労力が必要で、またスポンサーを集めるのも一苦労のようである。ここまでやっているのだから、ぜひ地区や地元の行政も有志たちの行動を粋に感じて支援ほしい、と話していた。
 
 30年前に様々な「リスク」と労力の関係で盆踊りが無くなり、子供たちが集まる場所が無くなっていった。さらに、世代の違う大人たちも交流が無くなっていき、そのような共同体としての危機を有志達は感じている。その不安を汲み取る受け皿がない。むしろ行政や人々はそんな「リスク」は増やさないでほしいという。また、この村の共同体は、もちろん家父長制的な側面がある。これは去年も書いたことだが、体育会的、先輩後輩的、権威主義的、地縁・血縁的側面の「酔狂」が発動しなければ、損得勘定抜きで人を集める場を作る人は集まってこない。村の中で「酔狂」だと思われている人が、祭りで人を集め場を作るということは、よくおこることだ。損得や「リスク」ではなく、その「酔狂」の次元で共同体を維持する欲望が発動する。「woke」から見れば目覚めておらず、解体すべき封建制の「酔狂」。「リスク」としてしか現れない存在が、共同体の危機をどうにかしたいと考える。太鼓をたたいていた町議会議員は「保守系」なのではあるまいか。
 
 共同体を解体し、「リスク」の管理をして、封建的力関係を脱構築した後に何が残ったのか。その盆踊りに参加しながら、僕の「地元ナショナリズム」がふつふつと高まってきていた。「リスク」や損得勘定を超えた「酔狂」の次元を捨象して、「リスク」と損得勘定を「代表=表象」している「リベラル」を、この村の人々は信用するはずがないのではないか。その「酔狂」の受け皿に、結局太鼓をたたきながら、なっているかのようにふるまっている「保守」の議員に、それで勝てるのか。最強の「酔狂」である「天皇」と「資本」に対抗できるのか。できるわけがないだろう。それがジジェクの「woke」への批判なのではなかったか。
 
 目覚めながら「酔狂」でいることはできるはずだ。しかしそれは矛盾を抱え込むという困難がある。だが「代表=表象」への批判というのは、その矛盾を生きるという問題であり、実践理性批判の問題であったはずなのである。
 

東京都知事選挙について

2024年07月14日 | 日記
 東京都知事選挙が終わり一週間がたった。前回職場近くの候補者ポスター掲示板の話をして、職場附近の千代田区の掲示板には、「大御心」のおかげか、外山恒一のポスターを見かけなかった、と書いた翌日に外山のポスターが貼られており、勿論偶然だがさすがの組織力だと思った。


 前回も書いた通り、「泡沫候補」というものは存在しない。例えそれが稚拙かつばかばかしいと思われる候補者であったとしても、それ自体は有名な現職の首長や代議士の中にも、もっと愚かで破廉恥なものは存在するわけで、「泡沫候補」だけが特にばかばかしいわけではない。また、民主主義の「底」を試すために、あらゆる手段で名乗りを上げるという意味では、〈代表=代行〉というrepresentationのシステムについて、それが無意識であったとしても「泡沫候補」はまじめに考えている側面は必ずあるものである。その意味において、「残念」なことに、僕は外山のポスターが言うような形では選挙制度というrepresentationの制度は壊れていないと思っている。それ故、外山の行為はむしろラディカルに民主主義の「無-底」を見出す行為という意味で、とてもまっとうな民主主義的な行為といえるだろう。本人はおそらくそのことも含んで行為していると思われる。そして、前にも書いたように、近代民主主義はヘーゲルの論理学がいっているように、「没落」それ自体を「根拠」としているわけで、その語源的な意味で、外山の「立候補〈なき〉立候補」という行為は、ラディカルに〈代表=代行〉のシステムそれ自体に触れている。そして、外山以外の「泡沫」と呼ばれる候補者たちも、その意図はどうあれ、「ラディカル」な側面を持っている。その意味で「泡沫」は肯定されなければならない。勿論その原則を守ることこそが民主主義の鉄則のはずである。多くの得票を得られそうだと予測できるような、有名な立候補者だけが「まとも」だと考えるほうが頽廃だといえよう。それは多数派に安心するという別の意味での「無根拠」に依拠することになってしまうだろう。そしてこれも民主主義の「底」ではあるのだが……

 しかし選挙戦自体には全く興味がわかなかった。選挙には行ったが、投票した候補者は当選せず、結局は現職の強みで三選ということだ。ただ、選挙後はネット上だけ?かもしれないが、支援者たち?の見苦しい応酬があったのを見る羽目になった。特に話題になったのは二位の得票を得た石丸伸二候補で、蓮舫候補に「勝った」ということも話題になっていた。特に石丸候補には「若者」の投票が集中したようで、ネットのある部分では、「若者」に対する批判があったと思う。勿論「若者」も批判されるべきだと思うが、それは「若者」の先行世代(もちろん僕も含む)も批判されるべきで、特に「若者」だけが批判されるべきではない。同じように他の世代も批判されるべきだろう。

 小池百合子東京都知事は、関東大震災当時(1923年)の日本統治下の「朝鮮人」の「虐殺」を否認し、関東大震災で罹災した死者の追悼式典に「虐殺」に対する「追悼文」を知事として送ってこなかった。これは小池都知事だけの責任ではなく、2000年代初頭からの「自虐史観」や「反日」への忌避から、日本の歴史の「負」の側面を否認し、それを修正主義的に改変しようとする力が働いてきたことと、セットで考える必要がある。歴史という「解釈」の問題を逆手にとって、「保守派」(保守ではなく保守が批判すべき単なる資本主義者だと思うが)の議員たちの力を借りながら、10数年かけて関東大震災での「虐殺」をめぐる日本政府の歴史的責任の問題を曖昧にしてしまったのだ。問題なのは、それまで地道な聞き取り調査や実証的検証を積み重ねてきた多くの人々の「記録」と「記憶」によって支えられてきた「虐殺」という言葉を、言いにくくさせる、あるいは「虐殺」と発言することを憚らせるような「圧力」と、それに伴う「空気」を目に見える形で醸成してきたことだろう。このようなここ10数年間で醸成されてきた「圧力」と「空気」の余勢を駆って、小池東京都知事は「虐殺」を否認し、「追悼文」を送らないわけで、そのような「圧力」と「空気」による歴史改変を下支えしてきた世代が、「若者」を批判することはできない。このような10数年間にわたる不誠実な行為が歴史教育にも流れ込んでおり、そんな「歴史」を教わってきた「若者」も、本当はたまったものではないはずだ。一部を除けば、所謂「若者」はある程度教育が進むまでは、自分で歴史観やその学び方を選択できないのだから。そういう意味で、今回の選挙結果で「若者」だけを批判することはできない。批判されるとすれば、「若者」もその先行世代も同じく批判されるべきだろう。このような歴史の改変と、その他これまでの数々の政治家による文書の改竄や不法な破棄の中で、自己責任と競争と、服従という意味での新自由主義的コンプライアンスを刷り込まれれば、「若者」の投票行動も含めて、選挙の結果などこうなるに決まっているのである。そして、蓮舫候補を支持するか支持しないかに拘わらずここに付け加えるならば、小池東京都知事の関東大震災の「朝鮮人」への「虐殺」の否認という「圧力」と「空気」の問題は、主にネット上で目につく、蓮舫候補に対する「国籍」や「女性」としてのジェンダー・セクシュアリティに関わる差別的発言と無関係ではないと思っている。

 今回の選挙で蓮舫候補は、「リベラル」という形で支持されているようだが、それは「ネオリベラル」と区別できない形での「リベラル」と言える。ただ、より「まし」な「リベラル」として蓮舫候補を推すのは理解はできる。だが、それはあくまで資本主義のブルジョワ選挙という制限の内での「まし」である。やはり、資本主義批判と天皇制としての身分制批判、そういった民主主義の原則を明確に表明、明言する候補者や政治家が出なければ、結局はだれに投票しても同じとしかいえなくなる。政治や選挙は、勝負なんだから勝たなくては何も言えないというのは、ある一面の真理ではあるが、それでは結局有力者や多数派の方法を真似るしかないのであり、それだったら選挙など最早なくてもいいだろう。多数派が投票する選挙では多数派が勝つに決まっているからだ。そうなら、外山を含む「泡沫候補」の方が、民主主義の「無-底」、「没落」それ自体をラディカルになぞろうとするだけ「まし」であり、むしろ彼ら彼女らの方が、民主主義の限界を様々に見極めようとしているという意味で、一貫性があり誠実だといえる。ネットで見かけた意見で、選挙で当選するために有権者に好かれる必要があるというのがあったが、それでは民主主義は壊れるだろうし、結局は「圧力」や「空気」に服従するということになるだろう。選挙自体の意味がなくなるのである。だとすれば、むしろ「泡沫候補」こそが、逆説的にそのような多数派の不正に抗して選挙を守っているといえるのではないか。

「歴史修正映画『ゲバルトの杜』を徹底批判する」シンポジウムに行って来た

2024年07月08日 | 日記
 7月6日に「歴史修正映画『ゲバルトの杜』を徹底批判する」のシンポジウムに行って来た。新宿区角筈地域センターレクリエーションホールにおいて、14時半から19時まで、30分の休憩をはさみながら登壇者(絓秀実・菅孝行・大野左紀子・照山もみじ(金子亜由美))の議論と、会場の参加者との意見交換もあった。会場までは新宿駅から徒歩15分ほどの道のりで、茹だるような暑さであったが、シンポジウムが始まって二時間ほどたったところで、今度は会場内のマイクの声が聞こえないほどの雷雨となり、その激しい天候の移り変わりからも記憶に残る一日になったといえる。

 シンポジウムは4時間を超える議論にも拘らず散漫になることがなく、登壇者によって映画『ゲバルトの杜』に内在する基本的かつ根本的問題点があぶり出されたものであった。特に映画が「内ゲバ」という「事実」とはいえない言葉で、川口大三郎へのリンチという暴力を矮小化し、また、大学当局と革マル派による早稲田大学構内の管理コントロール、即ち生権力による統治の問題が映画では全く問われていないことがあらわにされた。川口に対する「鎮魂」や「内ゲバ」というレッテルによって、それらの統治の暴力が批判されないまま温存されてしまったのである。その統治の暴力としての、生権力が問われないこと自体が、「奥島総長」の賛美へと繋がってしまう。シンポジウムがいう映画『ゲバルトの杜』のおこなった「歴史修正」とは、この生権力による暴力それ自体が、川口への「内ゲバ」の暴力に焦点化する虚偽によって隠蔽されることを指す。この隠蔽には、川口への「鎮魂」というロマン主義的美学化の問題があるだろう。

 さて、休憩をはさんだ議論の第二部で質問者として意見を言ったのだが、内容としては、前回書いたブログ記事を主として、「川口への鎮魂をダシにして、映画製作者や演出家が自己正当化をおこない、権力側の生政治的暴力を隠蔽することに加担した、卑怯な内容だ」というようなことを発言した。時間の関係上手短に話さなくてはならなかったので割愛した内容があったので、少し以下に付け加えたい。

 川口へのリンチという暴力を批判し、そして川口の存在自体を〈肯定〉するためには、「追悼」や「鎮魂」ではなく、「革命」としての「暴力」への理論的そして存在論的な「肯定」が必要だと考える。それこそが大学と革マル、延いてはこの暴力を存分に行使している新自由主義的国家権力への批判にもなるだろう。「鎮魂」という制作者と演出家のノスタルジーが「スクリーン」となって、「内ゲバ」という偽の暴力をそこに映し出すことで、本当に露わにされるべき「暴力」は隠されてしまう。川口の存在を「肯定」するためには、そのような偽の暴力を映し出す「スクリーン」を引き裂く、「革命」の「暴力」を「肯定」する必要がある。その「暴力」とは、決してノスタルジーや「鎮魂」では祓うことのできない「暴力」である。それをジャック・ラカンは「享楽」と呼んだのであろうし、文学や芸術はまさしくその周りを廻っているはずなのだ。川口の死をダシにしたり、懐かしがってノスタルジーの対象とするのではなく、川口の事件を「革命」の「暴力」の「肯定」の問題として考えることが必要といえよう。いかにして「暴力」を「肯定」するのか。川口へのリンチとしての暴力を批判し、「革命」の「暴力」を肯定するという二律背反を経ることなしに、川口の事件を考えることはできない。それは不可能な「暴力」の問題として考えられなければならないのだ。登壇者の絓秀実は、川口の事件と共に山村政明(梁政明)の焼身自殺の問題を発言していたが、これも山村をどのように「肯定」するかの問題であるのだろう。生政治という「スクリーン」を引き裂く山村の存在を思考しなければならないと、絓は考えている。それは、このシンポジウムの翌日の日付でもある、〈7・7〉の「華青闘告発」の問題でもある。

 充実したシンポジウムで、映画の出演者であった幾人かの方と意見交換もでき、幾人かの参加者と朝まで議論することもできた。帰る方向が同じだった方と早朝の新宿を歩いて帰り、松屋で朝定食を食べて帰宅した。