「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「「『情況』に関する声明」についての討議」の名古屋会場に行って来た

2024年12月27日 | 本と雑誌
 名古屋弁証法研究会の主催した「「『情況』に関する声明」についての討議」——トランスジェンダー・言論の自由・差別」が名古屋国際センターで開催されたので、先週末の土曜日12月21日に名古屋の会場まで行って聞いてきた。登壇者として、「討論者」である「「声明」支持派」(以下「支持派」)は、市田良彦、絓秀実、自称・室伏良平であり、「「声明」非支持派」(以下「非支持派」)には海上宏美、大野左紀子、塩野谷恭輔であった。「当事者枠」として阿部智恵、司会には栗田英彦がついていた。『情況』は2024年夏号において、「特集 トランスジェンダー」を企画し、そのような誌面が編集されたのだが、そこに掲載された各論文の掲載方針(編集方針)が、トランスジェンダーに対する偏見と差別を助長する可能性があり(もちろん編集方針の問題であり、各論が単純な意味での差別を助長しているわけではない)、それに対する抗議声明がネット上で発せられたのだ。「声明」は勿論、9月末現在で38名でなされており、個人的なものに帰せられるわけではないが、市田が発起したという事情から、「非支持派」からは中心的人物と目されて、討議の対象の人物となっている。そして、同誌の「キャンセルカルチャー」の特集で論文を発表していた絓も、「声明」に署名しており、「支持派」として登壇したことになる。僕自身は「キャンセルカルチャー」も「トランスジェンダー」の両特集を読んでおり、どう考えるべきか思案している所でもあったので、直接討議をする場に行って聞いてみたい(考えてみたい)という気持ちになって、名古屋に行った。

 さて、討議の内容だが、長時間なされ、しかも「トランスジェンダー」のジェンダー・セクシュアリティの問題を中心に論じるというよりは、「声明」の是非で対立し、また表現の自由やキャンセルカルチャーをめぐって対立した場面が多かったので、僕自身の印象を中心に、意見を書いてみたいと思う。このブログでは討議としてほとんどなされなかった、ジェンダー・セクシュアリティの問題について触れたいので、まずは「声明」の議論を最初に記しておきたい。「声明」に関しては、昨今のネットでの「署名」の問題も含め、もう少し議論を詰めてから、「声明」を出した方がよいと思った。恐らく、市田、絓の両氏が、戦後民主主義批判や資本主義批判から、即自的な差別糾弾を批判し、ラディカルな差別問題、差別批判に関わってきたのは、二人のテクストを読めばわかる。その意味で出された「声明」であると思うが、しかし、様々な立場の人が「声明」では署名しており、「声明」の趣旨に一貫性があるのかどうかが判断できないところがある。この点を「非支持派」からも批判されており、会場の討論を聞いても、「声明」はその点は批判されてしまうだろう、と思った。昨今のネットでの署名を見ても思う所であり、ネットでの難しさである。「声明」におけるそのような〈不備〉を僕も感じながらも、ただ、司会と会場からの声も含め、どちらかというと「非支持派」側に雰囲気が傾いており、「支持派」が〈糾弾〉されている印象を受けた。この〈糾弾〉に対して、会場からは「第二の華青闘告発」という言葉も聞かれたが、果たしてそうだろうかと疑問が沸く。というのも、そういうためには、この討議でトランスジェンダーについてきちんと議論すべきで、それがなされていない以上、勿論「声明」の〈不備〉はあるにしても、フェアな議論になりにくかったのではないだろうか。〈マイノリティ〉の問題はほとんど議論されていないといってよい。

 実際の「論文」の話に移り、2024年の「夏」と「秋」の各特集をすべて読んだ感想でいうと、登壇者の中の論文としては、「夏号」の阿部智恵の論文「身体改変的性別越境主義について——「性別」破壊論・序章」が〈議論〉をしていて良いと思った。この「討議」では終わる前に、配布された資料にもある「「(新)左翼」とは何か」という問いがなされたのだが、僕自身は「左翼」とは「(マルクスの)唯物論」を基礎に置いて理論的・実践的な課題に取り組む者だと思っている。恐らく会場ももはやそのようなことを論じる雰囲気でもなかったのか、会場では「マルクス」も「唯物論」という言葉も出ず、『情況』の編集長も既存の左翼との決別を意味するような言葉を発しており、「左翼」が不可能な時代なのか、と思わされたが、しかし何はともあれ、「左翼」は「(マルクスの)唯物論」に基づいた理論的・実践的な行動をとる者だというのは、僕の中では譲れない。この「唯物論」を基礎に置くならば、阿部論文がもっとも唯物論的な論文である。阿部論文は、トランスジェンダーの身体的物質的側面とそれに関わる経済的な条件の諸問題を論じており、「「性別」破壊」とはカオスやアナーキーというよりは、物質的条件の暴力性と向き合い、その暴力性とどう付き合っていくかの問題であると読めた。勿論その暴力をポジティヴな「破壊」の動力としたいというのもわかった。その意味で、阿部論文は僕にとって「唯物論的」に読める論文、即ち「左翼」に通じる論文であったのだ。この「討議」はネット配信で購入できるようなので、そこに入っているかどうかわからないが、討議と討議の合間の休み時間の雑談の中で、絓が隣に座っていた阿部に「サイボーグフェミニズム」を知っているかどうかを聞いていた。その時の反応では、阿部はハラウェイを知らないようにも見えたし、また絓がその時どういう意図で聞いたかは僕には判断できないが、僕自身も阿部の論文はハラウェイと比較して読むとどうなるのか、聞いてみたかったのだ。これがネットではなく会場で聞く意味だろうか。

 このブログで以前書いたし、他の場所でも別に書いているので繰り返さないが、僕は「トランス」という様態こそが、性的差異の物質的条件だと考えているし、性差の二元論的体制を可能にする物質的条件も、本来「トランス」という様態それ自体の事だと思っている。これはデリダのエクリチュールや差延の応用で、デリダ自身もそう考えていたはずだが、性差自体は「トランス」という様態(阿部のいう「越境」)がない限りそれは到来しない。そういう意味で、トランスジェンダーの物質的条件を論じ、その物質的条件の問題化は、「女性」という〈性的マイノリティ〉の権利を唯物論的に考える上でも必須のはずである。同誌の「キャンセルカルチャー」の特集で、絓が「ラディカルフェミニズム」を唯物論という一点でなら支持できる部分もあると書いていたはずだ。それは「女性」の物質的条件をラディカルに〈男性中心主義〉から「分離」する唯物論があるからであるが、僕はその「分離」は、「トランス」と相同的な理論的、実践的意味を生むものだと思っている。それは現象学的還元にも似たラディカルさだろう。僕もその意味では「ラディカルフェミニズム」の物質性はマルクスや「唯物論」に関わるという意味で支持できる。そして「ラディカルファミニズム」はその意味で、トランスジェンダーの排斥や否定、差別にはならないはずだとも思っている。それは理論的必然である。そこはトランスジェンダーと「ラディカルフェミニズム」は、「トランス」や「分離」をめぐる、性的差異の物質的条件を問い直すという立場では共通しているからだ。僕はその意味で、「ラディカルフェミニズム」のある部分の立場の人が、トランス差別に加担することがまったく理解できないのである。

 そして僕は、「支持派」が批判しておきながら、その論文を明確に明示しなかったと会場でも批判されていた、佐藤悟志の論文「トランスヘイトの自由こそ基本的人権」と阿部論文を比較したい。何故かというと佐藤論文は阿部論文同様に「唯物論的」なのかという問題があるからだ。会場でも議論になったが、佐藤論文がそのタイトルに反して?、内容は既成の民主主義やリベラルが思考停止の内に放棄している、「人権」の基底を露わにさせている論文だという意見がある。会場に来ていた外山恒一も、佐藤論文をよく読めばそのような〈基底〉を明らかにする論文であることがわかる、という趣旨の発言をしていた。『情況』を読むような人はそのような「リテラシー」を「左翼」として持っているはずではないのか、というのが外山の主張だったと理解した。僕自身も例えば、外山の〈選挙活動〉は、民主主義の〈基底〉それは文字通り、没落したクズのような〈基底〉を露わにする行為であり、民主主義の物質的条件を問いに付すものであると理解する。そういう意味では「ファシスト」になった外山にも「唯物論」と「左翼」に通じるものがあるということになる。外山は佐藤論文の中にもこの〈基底〉を見出すイロニーをなぜ読まないのか、といっていると思うのだが、絓もイロニーであることはわかるが、あれを『情況』に乗せることの問題は何か、ということを疑問にしていたのだ。

 佐藤論文には「人間性そのもの」や「原初的な人間感情」、あるいは「生得女性」という言葉が現れる。前者二つは「ヘイト」という「感情」の起源と関連付けられており、後者は「生物学的女性」に結び付けられ、「女性」に支配と被害を与えているのは「生物学的男性」ということになっている。佐藤の立場では、「変態女装男」(佐藤論文は「トランス女性」をこう呼ぶ)は「生物学的男性」(原初的)なのだから、その「女性」への侵入を阻止したいというわけである。「ヘイト」は「ラブ」や「ライク」と同じ、「原初的な人間感情」と佐藤論文はいうのだが、それは「生物学的」なものと同じ意味で「原初的」なのだろうか。「生物学的女性」が「女湯」に必ず入ることは、どのような意味において「原初的」なのだろうか。「生物学的男性」が「男湯」に入ることで、「生物学的女性」を「女湯」において守ることは、どのような意味で「原初的」な行動なのだろうか。それは「ヘイト」や「ラブ」、「ライク」と同じ意味で「原初的」なのだろうか。佐藤論文では佐藤自身はかつて「性的リベラリスト」であったと書いているのだが、これは歴史的な意味において、佐藤が「ラディカルフェミニズム」であった、ということとして僕は理解した。だが今回の「夏号」の佐藤論文は「ラディカルフェミニスト」から後退した形で「原初的」なものを擁護しているように見える。恐らく「ラディカルフェミニズム」は女性という性的差異の物質的条件を、男性支配という資本主義的搾取から防衛するというものであるはずで、それは「生得女性」を「原初的」な存在として擁護する戦いではなかったはずだからだ。例えば、〈男性中心主義〉は「原初的」なのだから、「女性」が様々な意味で搾取されるのは当然で、「女湯」に「生物学的男性」が性的搾取目的で入ってもそういう〈男の性欲〉は「原初的」だから擁護されるべきだ、というのも理屈は通ってしまう。しかしそれでは搾取の関係は変わらないし、佐藤論文の趣旨からも逸脱する。それは「ラディカルフェミニズム」のいう〈男性中心主義〉自体が「原初的」でなく、経済的下部構造の重層的決定によって作られたものだからだろう。佐藤論文のいう「原初的」なものの防衛は、〈原初的ではない〉物質的条件によって構築されたものなのだから、このような循環した問題になってしまう。現在の社会で成立している「男湯」と「女湯」の区別が「原初的」というのは奇妙だし、例外など他の時代にいくらでも見つかってしまう。

 何もこれは社会構築主義によって佐藤論文が批判できる、ということを即自的な意味で主張したいわけではない。そうではなく、佐藤論文は阿部論文より「唯物論的」なのかという問題をここでは見たいのだ。僕は、やはり阿部論文の「越境」の方が、物質的条件の搾取の問題に迫っており、「原初的」なものの防衛は、むしろ〈観念論〉に後退しているのではないか、と思っている。イロニーという〈観念論〉ともいえる。イロニーはマルクス主義の理論の内で「転倒」や「切断」を生み出す。それは例えマルクス主義に対立的で批判的な立場としてのイロニーだったとしても、「唯物論」とのかかわりのないイロニーは、「原初的」という観念論の中に溶解してしまうのではないか、ということである。その点、「トランス」という様態は、性的差異の物質的条件、加えて性の移行の問題として、そして性差の性起の問題として問題化が可能な核だと思う。もし「原初的」というならば、〈最初に差延(トランス)があった〉という意味で、「トランス」こそが、物質的には「ヘイト」や「ラブ」や「ライク」にも先立つ様態なのではないか。もし「原初的」なものを防衛するならば、「トランス」という唯物論的様態を真っ先に擁護すべきである。

 会場では、阿部論文と佐藤論文の、それこそ議論、討論、論争があるべきだと思ったのだが、それはほとんどなかった。中途で、二人の間に応酬があったが、それは、〈論文掲載問題〉にすり替わってしまい、唯物論的対立というよりは、論文を掲載するのは賛成、内容もイロニーとして「9割」は受け入れられるという阿部の発言があったと思うが、僕はこの唯物論的な問題をめぐって、そこで手を打っていいのだろうか、と疑問が沸いた。むしろ、阿部論文の方が〈基底〉を露わにしていると、その「1割」の物質的対立を〈全〉として維持しなければならないと思う。そうじゃないと「越境」を「破壊」という物質的爆発にまで持っていくという趣旨が、「原初的」という〈観念論〉に溶解されてしまう。会場で阿部は「妊娠する」ことを目標と話していたが、その物質的矛盾の表明の方が、佐藤が阿部に向かって会場で発言した「原初的な人間感情」による「変態女装男」という言葉より、よほど唯物論的な厳しさがあった。

 また、印象的だったのは、佐藤論文を〈イロニー〉や〈好意的〉に読み取ろうとする、例えば会場での外山の試みに、佐藤自身は不満を表しており、そのような〈好意的〉な解釈自体に不満と拒否を持っているようだった。つまり、〈リベラル〉に読まれてしまう拒否であり、それは佐藤論文の一貫性なんだろうと思った。勿論、これは〈イロニー〉です、と執筆者本人は言えないわけだが、この拒否は「ヘイト」は、「ラブ」や「ライク」と同じように「原初的な人間感情」としておきたかったからだと思う。そういう意味では、佐藤論文は「トランスジェンダー」に対する「ヘイト」(原初的な人間感情)の擁護それ自体の論文であり、執筆者的には〈イロニー〉的な解釈など邪魔なのかもしれない。

 だとするならば、「原初的な人間感情」の純粋な擁護を『情況』はなぜ載せたのか、ということは編集方針において問われることとなる。会場でも発言があったように、「非支持派」が既成の〈左翼性〉を放棄したとしても、僕は「唯物論性」や物質的条件としての弁証法的唯物論、それに対立して反対する論文であったとしても、「唯物論性」を貫いている必要性が、『情況』という雑誌の歴史性を考えれば、なくてはならないのではないか、と思った。これは会場で絓も「キャンセルカルチャー」や「ノーディベート」という思考停止には批判的だと言っていたが、僕も絓同様に、それらには批判的である。言論の自由の物質性とは、あらかじめ許されたり許されなかったりする表現が存在しているわけではない、というのが出発地点であろう。しかし左翼雑誌として、そのような「原初的な人間感情」の擁護は、「唯物論的」なのだろうか、という批判的視点はいる。それは編集側が、「原初的な人間感情」などというものは「唯物論」ではない、と厳しく執筆者と批判的議論を喚起する意味において、である。これは「ノーディベート」ではない。この僕の考え方は、別に会場で批判されていた左翼的で硬直した思考ではないはずだ、と思う。やはり「左翼」及び左翼雑誌は「唯物論的」であるべきだと思うからである。そして左翼的には「トランス」という下部構造は擁護すべきだろう。それこそ搾取を打ち破る物質的構造としての様態だからだ。そういう批判的な編集の姿勢が必要だったのではないか。その点において、市田と絓の『情況』の編集方針への違和感は、十二分に理解できる。せっかく「当事者枠」に阿部がいたわけで、そこできちんと議論ができればよかったのだが、表現の自由という〈観念論〉に流される傾向があり、阿部に発言の機会があまりなかった。表現の自由を考える場合も、「トランス」の物質的条件から議論をした方が良かったのではないか。そもそも佐藤論文を載せる載せないは、編集権がある編集部が決めることで、それは口を封じたり封じなかったりすることではない、という会場での絓の主張で、その議論は終わるはずである。ただ、会場では「声明」こそが編集に介入し得るような「キャンセルカルチャー」を惹起するような署名をしたのではないか、という批判がなされていたが、この反論に応えうる準備は「支持派」に明確にあるべきだろう、とは思った。

 「討議」の最後に、「左翼とは何か」というのは考えさせられた。僕自身は左翼とは言えないし、物質的対立の中で実践しているかといわれると、自信がないわけで、それ故に考えさせられた。そこで唯一いえることは「左翼」とは、「マルクス」と「唯物論」に少なくとも依拠すること、ということだった。デリダの「差延」も、唯物弁証法の向こうを張って出てきたものだろう。デリダの「歓待」も交換様式に対抗したもので、柄谷行人の「交換様式D」もそれにあたる。この対立があればこそ、「差延」に「唯物論性」が宿るはずである。しかし、マルクスなしのアナキズムや、マラブー的アナキズムは、「トランス」という物質性とは違った、安易なカオスや無秩序、両論併記、なんでもありを引き寄せて頽落させているのではないか。僕が読む、あるいはネットで観る尊敬すべきアナキストは、マルクスを常に意識している。それは否定的媒介としてでも、である。マラブーも著書『泥棒』の中で、「アナルコキャピタリズム」のアナキズムは避けるべきだと言っているが、マルクス主義を念頭に置かないアナキズムは、すぐにこの何でもありアナキズム、なんでも相互扶助、なんでも併載し、なんでも壊せるということになってしまうのではないか。マラブーはデリダ的「歓待」のアナキズムより明らかに理論的に弛緩し物質性を失っているように見える。これは僕の理解だが、例えば千坂恭二などはきちんと、常にマルクスからの距離を見定めながら、アナキズムの組織性、物質性、破壊的力(物質性)を論じていると思うが、それをマルクス抜きで受け止めている今の人はどうなのか、ということである。マルクスとアナキズムとの分かちがたい「境界」とその二つを「トランス」(差延・越境・滞留)することなしに、「左翼」であることはできるのか、が「討議」後に僕の考えたことである。



 蛇足ながら、名古屋は宿泊費が週末は上がっており、そもそも宿が取りづらい。「観光」による影響だろうが、会場に来ていた知人も、宿の宿泊料の高さを嘆いていた。一日2万以上の宿泊費はさすがに払えず、僕は三重県が実家なので、実家に宿泊して東京に帰ることにした。東京よりも寒く、夜は雪が降っていた。ほぼ『鬼平犯科帳』を見て過ごしていた。

『全共闘晩期』を読んだ

2024年12月14日 | 本と雑誌
 航思社の編集者の方より、絓秀実・花咲政之輔編『全共闘晩期:川口大三郎事件からSEALDs以後』をご恵投頂いた。以前、このブログでも代島治彦監督映画『ゲバルトの杜』を「徹底批判」したシンポジウムに行ったことは書いたが、そのシンポジウムの登壇者の議論とそれに関わる論考が、シンポジウムの登壇者以外の執筆者の論考も加えた形で収録されている。シンポジウムの内容や映画への批判の要点は既にブログ記事で書いているので省略するとして、「川口大三郎事件」が問題化した、「早稲田大学」と「革マル派」による主に学生への生政治的支配の問題を、大学の自治だけではなく、世界の支配構造の問題として論じたもので、新型コロナウィルス感染症以来、ますます生政治的な支配が強まっている中で、読まれるべき書物である。そして、シンポジウムでは僕にも発言の機会があったので、これもかつてブログに書いた一緒にビラまきをしていた友人との早稲田祭をめぐるエピソードを話し、その部分が掲載されたのは大変ありがたかった。かつての出来事を、このような大きな問題を扱った書物の中に記憶として納められたことは、大変感謝する。

 論考の中で気になったものがあったので、それについて書こうと思ったが、ちょうど早稲田祭の問題に花咲政之輔氏の論考「昂揚会・原理・早稲田リンクス——奥島「改革」後の早大管理監視体制」が触れているので取り挙げてみる。この論考は、僕の在学当時の認識を補完するもので、興味深く読んだ。花咲氏によると「早稲田祭準備委員会」には「学内有力芸術系サークル」が参加していたとされ、友人はその中の一つのサークルの幹事長だったはずだ。当時、準備委員会の議論に参加するようにその友人から誘われたことがあるが、サークルをやめどこにも所属していないということもあり、僕は参加しなかったのを記憶している(問題の本質を正確に把握していなかったともいえる)。友人には僕のような学生への残念さと、呆れや諦めの気持ちがあったかもしれない。それでも友人は、定期的に、そこではどういう話し合いがおこなわれていて、どういう議論になっているかを、教えてくれ、二人で議論をしたのであるが。
 また、サークルの「早稲田リンクス」と早稲田祭の関係についても花咲氏は書いている。96年に設立というので、「早稲田リンクス」は確か僕の入学と時を同じくして出来上がったサークルだと思う。僕のゼミの先輩が「早稲田リンクス」の初期メンバーでもあった。その「早稲田リンクス」が大学の権力を代行=代表し、「革マル」の生政治的権力と、意識的にも無意識的にも融合して、民主的な早稲田祭復活のプロセスが失われていったという花咲氏の見立ては、今の「早稲田リンクス」の大学での地位を考えても納得できるものである。確か早稲田祭が中止になってからだと記憶するが、「早稲田リンクス」の最初期のホームページには、今は懐かしき「BBS」が設置され、誰でも書き込みができ、意見交換が可能だったのだが、ある時、「BBS」での議論が不可能になるような、ページの構造を破壊するようなハッキング事象が増え始めたことがあった。最後の方は、恫喝するような書き込みもあり、あの一連の混乱は、もしかすると早稲田祭の問題とかかわりがあったのかもしれない、と花咲氏の論考を読んでから思った。その後、その「BBS」は閉鎖されている。
 それと花咲氏はシンポジウムや論考の中で、映画出演者の取材拒否による映画製作の不成立や映画の上映中止をラディカルに主張している。現在の非政治的でノイズのない社会から見れば、この花咲氏の主張は乱暴に聞こえるのかもしれないが、新自由主義や生政治的な支配、そして社会の非政治化を推し進めてしまうような映画を殲滅することこそ、むしろ民主主義を守る数少ない方法だということだろう。資本主義における治安維持と監視コントロールによって、見かけ上は非暴力的平静と民主的非暴力の状況が保たれているかのように見えるが、実際はそれ自体が支配の完成形であり最大の暴力でもある。そのような見かけ上の民主主義的冷静さこそが、最大の構造的な暴力的秩序であり、そこには「一撃」を入れるしかないということである。この「一撃」は、恐らく「生政治」の「生」の部分に打撃を与える方法といえる。そして、資本主義的生政治の秩序は、その「一撃」を暴力という概念でひとくくりにして排除しようとするのである。これは「内ゲバ」という形で、「川口大三郎事件」を、新左翼内の抗争という形で治安維持する方法と同じではないだろうか。

 もう一つは長濱一眞氏の論考「なんとなくカクマル――「暴力批判論」のために」が興味を引いた。特に漱石の『こころ』の読解と重ねながら、内田樹の革マル派への欲望を読解するその過程が面白かった。これは絓秀実の『「帝国」の文学』でも分析される、「大逆」をめぐる漱石のそれへの応接の問題とも重なり合うものとして読んだ。絓は「なんとなく反天皇」的に読まれてしまう漱石の問題を、小森陽一や高橋源一郎などを批判しながら、実は漱石自体が「大逆」を回避していた問題(ようは天皇制を漱石は批判していない)を論じたわけだが、「なんとなくカクマル」で、「なんとなくリベラル」な内田は、まさにこの国民作家としての漱石的立場に君臨して、天皇的に振る舞い、生政治的な管理側の言説を振りまいているということなのだろう。内田はそのような革マル的暴力言説に依拠しながら、しかしだからこそ「なんとなくリベラル」として一般には受け取られてしまっているということなのだ。内田の言説自体が、管理コントロールの意思というか暴力によって維持されているのである。その意味で内田は未だに革マルであり、生政治的大学支配の言説を捨ててはいないということになる。今のなんとなくリベラルな資本主義の秩序が、結局は内田的な「なんとなくカクマル」の構造的支配によって維持されているというのがよくわかった。長濱氏の論を読んで、やはり「川口大三郎事件」については、それは革マルの生政治的支配の問題も含め、「文学」の問題として分析する必要性を感じることとなった。これは、照山もみじ氏の「中島梓」の問題も同じだと思う。

 映画『ゲバルトの杜』を理論的に批判できる書籍が出たことは良かったと思う。

マラブーの『泥棒』を読んで「アナキズム」について考える

2024年09月17日 | 本と雑誌
 カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(伊藤潤一郎、吉松覚、横田裕美子訳、青土社)を読書会で読んだ。マラブーは哲学における「支配されざるもの」にアナキズムの原理を見ようとしている。西洋哲学には、特にギリシャ哲学以降、アルケーという支配の原理でありながら、同時に支配されざるものでもある、何ものかが存在する。このアルケーをめぐる「ダブルバインド」の中にアナキズムの原理を見ようとする。だが、西洋形而上学はこのアルケーを結局は、支配と被支配という非対称のエコノミーの中に回収してしまい、支配者のエコノミーにアナキズムを服従させることで台無しにしてしまう。アナキズムというのは、非-アルケー的なものであるのだが、この支配と被支配という非対称のエコノミーによって、支配と被支配の位階ができてしまい、形而上学というアーキテクトとして固定されてしまうのである。形而上学的位階制ではなく、アルケーの支配の原理でありながら同時に支配されざるものでもあるというアナキズムの原理であるダブルバインドをどのようにして維持するのか。この問題を哲学史としてマラブーは分析していく。

 マラブーはアリストテレスに始まり、デリダやレヴィナス、フーコー、ハイデガー、バタイユ、フロイト、ランシエール、アガンベン……などを取り挙げて、おおざっぱに言えばこれらの哲学者も、アナキズムの原理でもあるような非-アルケーの「ダブルバインド」を考察し、形而上学的支配と被支配の非対称的エコノミーを脱構築しようとしたわけだが、しかしながらやはり彼ら哲学者もまたアナキズム的な〈アルケーなきアルケー〉を隠蔽した、ということを証明しようとする。この手つきはものすごくデリダの脱構築的な読解に似ていて、要はこのアナキズムの原理になりうる、西洋形而上学が隠蔽する〈アルケーなきアルケー〉とは、デリダがいうところの「エクリチュール」の位相ということになるのだろう。形而上学という「声」の位階を現前の基底に置く西洋の体制は、「エクリチュール」としての「死」を抑圧することで成立したのだと。西洋形而上学はこの「エクリチュール」を〈泥棒〉し、そしてその盗み自体を抑圧して隠すことでその正当性を主張するのだ(あるいは《エクリチュール=盗み》を隠蔽するともいえる)。マラブーはデリダのように〈エクリチュール=アナキズム〉を抑圧してきた哲学の問題を考えているといえるだろう。

 ただ、これは読書会でも話題になったのだが、マラブーのアナキズムの擁護と、その擁護の方法には、〈現代的〉というべきか、ある種のポリティカルコレクトネスが宿っているように見える。例えばレヴィナスは哲学の中にある「支配されざるもの」を「奴隷」の形象で語ろうとする。それは「ユダヤ人」でもあるのだが、西洋形而上学やキリスト教的体制の中では異物となってしまう「奴隷」や「ユダヤ人」という形象というか存在というか痕跡というか、は「支配されざるもの」としての特異点になる。レヴィナスはここにアナキズム性を見るわけだが、マラブーはこれを批判する。レヴィナスの「奴隷」が、レヴィナスにとって「奴隷」は比喩ではないのだが、マラブーによればレヴィナスの「奴隷」は、黒人の奴隷などの、ポストコロニアリズムにおける「奴隷」の問題を全く考慮に入れていない、というのだ。それは確かにそうだし、それは批判されてしかるべきだと思うが、しかし、ポストコロニアリズム的な「奴隷」を仮にレヴィナスが語っていたとして、それでアナキズム的なものを、レヴィナスがより正確に把握することができたのかは、確かではないと思う。むしろこの批判によって、「奴隷」のモチーフは死んでしまい、レヴィナスがアルケーの支配体制に亀裂を入れようとした問題が、文化主義的にうやむやになるのではないのだろうか。

 僕はこれを読んだ時に、例えばデリダには『歓待』という本があるが、このデリダのいう「歓待」が示すアナキズム性の方が、マラブーのPC的アナキズムより、よほどラディカルではないかと思った。確かデリダの『歓待』の中には、砂漠でキャンプを張っているある家族が、偶然に出会った客を「歓待」したとき、「庇貸して母屋とられる」的な歓待をし、さらに自分の「娘」を客に差し出して、それは性的暴力や性的収奪を含む「歓待」がなされたことが、書いてあったと思う。これが「歓待」の不可能性の問題になるのだが、「歓待」とはこのような破滅と隣り合わせであり、人はこのような「歓待」は事実上不可能でありながらも、しかしだからこそ「歓待」が問題になる地点に留まらざるを得ないという、それこそダブルバインドの問題が「歓待」として描かれていた。よく日本国憲法の「戦争放棄」の問題の時、敵国が攻めてきても戦わないのか、という話になるが、ここでも本当は「歓待」の問題が存在するはずである。「歓待」をすれば身を滅ぼし、「歓待」自体がなくなる。しかし身を滅ぼさない接待は「歓待」ではないのだから、それでも「歓待」は消滅する。このダブルバインドの中で、〈歓待=破滅〉を考察するデリダの方が、PC的なアナキズムに留まるマラブーよりも、よほど暴力的でラディカルといえるのではないだろうか。デリダの「歓待」のほうが、よほどアナキズム的だといえる。これはやはり68年的「享楽」(ラカン)がマラブーには欠けているからではないか、などと考えてしまった。マラブーは〈アルケーなきアルケー〉的な真のアナキズムと、アナルコキャピタリズムとしての、経営者的アナキズムを分けていたが、PC的アナキズムはむしろ、アナルコキャピタリズムに近づきはしないか?

 また、このアルケーをめぐるダブルバインドは、日本の場合だと「天皇」に収斂されてしまう。日本の中で「支配されざるもの」とは支配者としての「天皇」以外の何物でもないだろう。「天皇」とは支配者でありながら、西洋形而上学的位階で表わされるような支配者ではなく、臣民と非対称ではない関係を結ぶ、とされている(もちろん実際そんなことはあり得ないが)。支配者でありながら同時に支配されざるものでもあるという、この「天皇」のダブルバインド的性質を一番よく表現したのは、三島由紀夫の『文化防衛論』である。三島のいう「文化概念としての天皇」は「秩序」と「無秩序」の両方を司るダブルバインドの存在として示されており、マラブーのいうアナキズムの原理とそっくりだといえる。そういう意味では、日本でアナキズムを考える場合は常に「天皇」の問題になってしまう、ということを読書会では確認した。西洋哲学は確かにアナキズムの原理を抑圧し続けているといえるのだろうが、日本の場合もアナキズムの問題は「天皇」に収斂しているといえよう。そういう意味で「大逆事件」や大杉栄や北一輝などの問題は、複雑に「天皇」と絡み合っていく。

 マラブーにはラディカルさが足りない。それは今のいう意味でアナキズム的なものの「享楽」が、ラカン的な意味で考察されていないのではないかと思う。ソレルの『暴力論』でいうところの「神話的暴力」としてのアナキズム性のようなものが捨象されているのではないかと思う。いうなれば本書はPC的アナキズム論になってはいないのだろうか。その意味では「おもしろくない」わけである。ただ、勉強にはなった。哲学史の中で、デリダ的脱構築の手つきで、西洋形而上学が抑圧してきた〈アルケーなきアルケー=アナキズム〉を追っていくという整理の仕方はわかりやすかったし、他の分野や事情にも適用できそうだ、というヒントになるものはあった。また「解説」によれば、この本はまだ導入であって、マラブーのアナキズム論の本体は、次の書物で既に出ているということで、それは翻訳されるのが楽しみである。

引き続き『文学的絶対』を読み進める

2024年04月14日 | 本と雑誌
 さて、引き続き『文学的絶対』を読み進めている。シュレーゲルの『着想集(イデーン)』まで読んだので、ようやく半分を超えた所だろうか。「芸術の限界内における宗教」の所を読んでみて、やはりベンヤミンの『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』の議論と重なるところが多いと思う。ロマン主義には、先日書いたように「断片性」があるわけだが、この断片は「一即多」的な意味において、「制作的」に取り集められる。その取り集められ方が、カントにおける「構想力」と関わるのか、それともヘーゲル的な aufhebung(揚棄)と関係あるのか、という問題がある。シュレーゲルにはそれが、「道徳」と「宗教」の問題として現れる。「一」が「無限」の「断片」と関わる場合、そこには何らかの「制作」としての Darstellen が働いている。これを「構想力」としての生産的「発明」(デリダ)の作用として見るのか、 ヘーゲル的な「揚棄」と見るのか。かつてはヘーゲル的「揚棄」は統一や統合に向かい、「断片」の差異を無化してしまう危険があるので、「揚棄」なき「揚棄」としての「エクリチュールと差異」の問題があったわけだが、ヘーゲルも必ずしも差異を無化するようなことはいっていないはずである。ヘーゲルのいう「絶対精神」は『論理学』によれば「無限に差異化された統一体」という絶対的矛盾の統一であり、これはロマン主義的イロニーとすごく似ている。京都学派とか西田幾多郎的なものともつながるだろう。

 そういう意味で、「一即多」を繋ぐのは、「構想力」なのか「揚棄」なのか、それとも「道徳」と「宗教」という形式での、「無限」と「一」との接触を考えるのか、という問題がある。シュレーゲルはこの「一」と「無限」の接触と、それを一つのシステムとして bilden する作用は「(自己)犠牲」というある種の「神秘」的な用語で説明しようとする。僕なりに解釈すればこの「犠牲」とは、「無限」を前にした「無為」(無為の共同体!)ともいえるし、Ab-grund としての「無-底」への投機ということになろう。そのような「無」への献身、あるいは「無限」へと投機することで成立する「一」と「多」との関わり合いこそが、ロマン主義的イロニーということになる。シェリングの「無底」がロマン主義のイロニーに影響を与えるのは、この「真理」が「無限」という「断片性」であるということと関わっているからだ。

 このような「断片性」は、これも先のブログには書いたが、アジアという「断片性」がヨーロッパ的「真理」としての「無限」や「神」と触れ合う問題として「大東亜」の問題に繋がっている。その「一即多」を可能にしているのが、Ab-grund としての「天皇」と接続されるのだと思う。つまり、「断片」としてのアジアを「天皇」は「大東亜」として darstellen するのだ。それは日本の浪漫主義から、イロニーとしての天皇(制)を模索していたわけで、確か保田與重郎には「文化対策ないし文化建設」という評論があって、そこでは「文化」を守る「天皇」という問題があったはずである(このような論文だったかうる覚えで申し訳ない)。これはのちの三島の「文化概念としての天皇」の〈原型〉のような話であったと思う。このロマン的イロニーは、「天皇」という「Ab-grund」をどうやって、「大東亜」の存在の根拠とするかという問題であった。「大東亜」という言葉を仮に肯定する場合、この「天皇」というイロニーの問題は避けられないわけであり、話をぶり返すと、このイロニー抜きで民主主義下の軍隊が、「大東亜戦争」という言葉を安易に肯定してはいけないわけだ。「大東亜」というのはイロニーにおける「断片性」と「無限」を繋げる「天皇」という問題であり、天皇制的身分制度を民主主義的に排除している国が、今更何を言っているのか、ということだろう。「天皇」をイロニーとして護持したいという右派も、この自衛隊のなし崩しの〈愛国心〉は厳しく批判すべきだと思う。こんないい加減な俗情の愛国心は、「文化」のために百害あって一利なしだと。これは「天皇」というイロニーなしに京都学派のある西洋哲学的部分を愛でて、日本の哲学の国際性を強調するような〈愛国心〉にも批判的に言えることであると思う。京都学派を批判的にロマン主義の文脈で解釈するならば、やはり日本浪曼派とマルクス主義との競合の中で見定めないとだめだろう。文化主義的な京都学派観というのは、以上の意味で、「天皇」という政治的問題を否認してしか成立しないのではないだろうか。これは1980年代の文芸批評家たちがおこなった、京都学派への批判だと思う。これがなかったかのようになるのは、非常にまずい。

引き続き読んでいこう。

初めて『構造と力』を読み始める

2023年12月25日 | 本と雑誌
 浅田彰の『構造と力 記号論を越えて』(中公文庫)を買った。これはネットで話題になっており、しかも従来文庫化されることはないのではないか、と考えられていたようで、せっかく文庫化したのだから買ってみようということになった。恥ずかしながら浅田の著書を買ったのは初めてである。勿論雑誌掲載の論文やエッセイなどにはいくつか目を通したこともあるし、座談会なども読んだことはあった。しかしながら、浅田の「著書」という意味では全く読んだこともなかったし、ほとんど書店の立ち読みでも開いた記憶もない。かなり昔、Twitterで「浅田彰を全く読んだことがない」とつぶやいたところ、複数の既知のアカウントから、意外だといわれ、恐らくそれくらいは読んでおけよという意味も含まれていただろうが、そして、今(その当時)読んでみての感想を教えてほしいというコメントを頂いたのであるが、結局その時も読まず、今日に至るまで十年以上の時間を経てしまっている。

 別に何か意地になって読まなかったわけではなく、たまたま読まないままであったのだ。だが「ポストモダン」という言葉には多少の反発はあったように思う。僕の学生の時は自分の学部ではほとんど哲学や文学に関わる講義がなく、一般教養でも、中世の哲学しかなかった。そのため、他学部にモグリで聴きに行ったのだが、その頃は「ポストモダン」を哲学とか「(フランス)現代思想」という形ではなく、記号論とかテクスト論とか、文学研究に近い形で話されているのを聞くこととなった。これは僕の主観的な判断であるが、それらのモグリに行った講義において記号論などを聴く中で、その教師たちの「語り口」に反発を感じていたのは事実かもしれない。教師が、今でも覚えているのだが、「アンパンのように、言葉の中心部に意味があるわけではない。言葉には表面や内部というものはない」という、今思えば苦労して教師は例えてくれていたのだろうが、その頃プラトンの著作にはまって、イデアを信奉していた僕は、「真の意味」がないとはなんと軽薄な教えだ、と講義を聴きながら憤慨していた。しかも何を偉そうに「真の意味」などないといっているのだ。あるいは、「作家」と「作品」には必然的な繋がりはなく、「作品」とは〈テクスト=意味を生み出すコードの織物〉だと聞いて、その頃夏目漱石と、江藤淳の『漱石とその時代』を生半可に齧って、しかも漱石と江藤の批評(あくまで『漱石とその時代』のみ)を信奉していた僕は、作家と作品に関連がないとはなんという不遜極まりない態度だろう。お前に漱石の苦しみがわかるはずがない、という反発心を持っていたことも、事実である。

 ただ、幸運?というべきかどういうべきかはわからないが、僕は学生時代に一般化され始めていたインターネットで、「ポストモダン」を含め哲学書(特にフランス現代思想)を読む集まりに参加しており、そこでデリダや、ドゥルーズ=ガタリ、クリステヴァ、ラカンの著作に触れる機会があった。そのサイトにはおそらく、確認したことはないが、今では専門家になって教鞭をとっている人もいるのではないか、と思うくらいレベルが高かったように思う。そこに参加して、僕は管を巻いていたという方がいいかもしれないが、理屈だけは話していた。そのサイトでよく出会う人から著作を勧められて、『グラマトロジーについて』とロラン・バルトの一連の著作を読むようになった。そこにはバルトとデリダの研究者の卵が来ており、僕らに「指導」してくれていたのだ。その方々の名前も、今何をしているかもわからないが、「恩師」ということになろう。その影響もあって、『グラマトロジーについて』やバルトの一連の著作を読む中で、どうもモグリで聴いた、あの主観的には高圧的でエリート主義的に聞こえた教員の語る「ポストモダン」の内容に対して、デリダやバルトの著作をそのまま読むと、「話が違う」という印象が拭い去れなくなってきたのである。そこで、モグリで聴いた「ポストモダン」的な、「原因は結果から遡行されて構築される」(錯時性)などの高圧的、エリート主義的啓蒙に対する反発心がメラメラと燃え上がり始め、デリダやバルトの方が明らかにそのような啓蒙よりも「複雑」でアイロニカルな内容を含んでいるし、面白い。そこで昨今(当時)言われている「ポストモダン」なる軽薄極まりない高圧的な啓蒙は嘘であろうという信念のもと、漱石と江藤の批評に心酔し、プラトンのイデア主義者として、「真のポストモダン」のイデアを考えるべきだという、倒錯かつ不合理(見当違いともいう)な方向に進み始めた。


 おそらくそのような学生時代の「見当違い」の中で『構造と力』を忌避したのではないかと思う。確かに『構造と力』を読んだかという偉そうな先輩たちに反発したのも、そういう啓蒙の欺瞞をそこに嗅ぎ取っていたのかもしれない。とりあえず、「序に代えて」と「Ⅰ」章を読んだだけなので、まだ何かを言える段階ではないが、浅田は僕が嫌悪していた「啓蒙」に対する批判をしているのはわかった。そういう意味では「ポストモダン」批判だったのだな、と今は思う。僕の学生当時周りの人が〈浅田=ポストモダン〉であり、偉そうに講釈を垂れてきたのに反発する前に、読んでおいた方がよかったのかもしれない。ただ、確かに僕のいう意味での単純な啓蒙性はないが、2020年代に読んでしまうと、啓蒙批判という啓蒙性は脱していないのではないか、などとは考えてしまう。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という全く読んだことのない僕でも知っている、人口に膾炙した「セリフ」も、〈何か〉を回避して忌避している「賢さ」を感じてしまう。例えそれがアイロニカルな形で、そのような「賢さ」を馬鹿にしている書物だとしても、である。外山恒一が、浅田や東浩紀や宮台真司のいう「全共闘以後」の認識がおかしい、と批判することとも少し関係している気がする。

 さて、とはいうものの、わずかこれだけ読んだだけでも、昨今Twitterで語られている啓蒙主義的批評論や、批評を2020年代において「整理」しようというツイート、確かにTwitterで判断しては駄目だといわれそうだが、それでもそこで書かれている批評に対する呟きは、既に浅田がスマートにやってしまっているのだから、もうやらなくていいのではないか、という気持ちにさせられた。「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」という言葉の変奏だけが、ずっと批評では語り続けられているように思う。まあそれも時代の文脈の変化によって変奏させる意味はあるのかもしれないが、結局浅田の二番煎じであり、もっと言うとそれを悪くした害悪になりかねない。単純に批評的な講釈を高圧的に語り、エリート的な居直りを再生産することになりかねないからだ。何でも知っている浅田なら許されるだろうし、『構造と力』くらい啓蒙を商品として、そして商品を笑った本ならば、そのアイロニーはわかるが、このアイロニーなき時代の批評への俯瞰的位置取りというのは、単純に「知っている」というそれ自体が無知な居直りだけだろう。そういうことを気づかせてくれたという意味では、『構造と力』を文庫化して読んだのは良かったのかもしれない。読み終わったら『逃走論』も読んでみたいと思う。ともかく「なーんだ」と思わされた次第だが、僕がこれまで面白いなと思った批評家は、この浅田的啓蒙を不可避なものと見つつも、きちんとここから距離をとった人なんだろうなと思う。その距離の取り方は、たぶん、無様でも仕方ないので、ちゃんと小説やテクストを読もう、とした人なんだと思う。

 読書記録もつけておこう。『ディルタイ全集2』が読み終わった。「草稿」であるので完結はしていないが、ディルタイの思考の痕跡は辿れた。やはり、「心理」(=意識)の「論理学」の追及で、自然科学と精神科学の差異をそこから考えていくのが面白い。そして注目すべきは、この「心理」の「論理学」は「歴史」の「論理学」でもあるという点だ。「心理」に歴史性を、そして解釈学的「論理性」を付与したものとして、後にハイデガーの〈存在=歴史〉の「論理学」に繋がっていくであろう一端を垣間見ることができる。そして興味深いのは、ディルタイは「心理」に注目するので、この「心理」は超越論的地平や存在におけるフッサールやハイデガーと違って、自然科学との結びつきが表面に現れて来るのである。今で言うなら「脳科学」的なものとの接合になるのだろうが、このせいで今の視点で見てしまうと、疑似科学的というか胡散臭いなという所が感じられなくもない。勿論、「心理」と「歴史」の「論理学」は、カントのいう主観性(=心理)の構造でもあるので、この主観性と自然科学との関係を考えれば、繋がらないわけではないので、ディルタイは慎重かつ大胆に考えてはいると思う。

 『失われた時を求めて』は第五巻を進行中。外山の本も『最低ですか!』を読み終わり、『さよなら、ブルーハーツ』を読み進めている。「涼宮ハルヒシリーズ」も読んでいる。