「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

兵庫県知事選をチラ見しつつ

2024年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 普段から選挙に関心を持たず、休日は疲れてほとんど寝てしまっており、「チラ見」程度にも実は経緯を見ていなかったので、看板に偽りありかもしれないが、それも「選挙」にはふさわしいということで書いてみる。斎藤元彦元兵庫県知事が、今回の県知事選(2024年11月17日・投票日)で再当選したようだ。「パワーハラスメント疑惑」をめぐって、議会から不信任案が提出・可決されて失職した斎藤元知事が「出直し」ということになり、「民意」もそれを支持したということになるのだろう。Twitterなどを見ると、やはり「異常事態」として捉えている人も多く、「パワーハラスメント疑惑」とそれに関わった県の職員が「自殺」しているとなると、斎藤元知事の再当選が「異常事態」として見えるのも、当然かもしれない。しかし一方では、「マスゴミ」の世論誘導によって斎藤元知事は陥れられていたのであって、「選挙」で「民意」がそれら「マスゴミ」を破り、斎藤氏は無事知事へと帰還したという、「我らの民主主義」の「勝利」を誇る意見も多数あり、確かに「選挙」に勝利したのだから、「民意」の「勝利」には違いないともいえる。

 「こういう選挙」というのはSNSやネット以前にもおそらくあった(ある)はずである。そして「とんでもない」と思われる候補者が次々と誕生していた(している)ことは、昨今の選挙結果を見ても容易に予想できる。今回の選挙戦はマスメディアやネットで注目されていたので特に目立ったが、選挙の「日常風景」といっていいと思う。いろんな場所に行けば、何故この人が?、と思うようなその地域では疑問符の付く所業の人物が、「長」になっていることはあるわけだから、不思議ではない。

 ただ言えるのは、「民意」に失望している人も、逆にその勝利を喜んでいる人もコインの裏表の関係だということだろう。双方は結局のところ、民主主義における代表制に無自覚に依拠しているからだ。「民意」を代表=代行することへの過剰な期待と依拠が、むしろこの「選挙」という代表制の失調を表しているように見える。これは「ポリコレ」や「コンプラ」に見られるような、「マイノリティ」や「道徳」を代表=代行するという昨今の傾向と、軌を一にしているのである。民主主義(来るべき民主主義?)もマイノリティ運動も、本来は「民主主義」という代表=代行制度によって毀損されてしまうような問題を考えるため思索され、実践されるもののはずだ。だがさしあたり実践的には、マイノリティ運動も民主主義と「選挙」という「最悪の政治形態」という例外の中で活動をせざるを得ないわけで、その本来性と実践のレベルの差異や亀裂をどう埋めるかが、問題化されるべきことだろう。そういう意味では、マイノリティ運動は代表=代行制度としての民主主義や「選挙」には、ある部分で敵対的になるわけであり、実際的にもこれまで敵対してきたわけである。それ故、様々な思想家がいろいろな形で表わしていた、そういう意味での「来るべき民主主義」は本来、民主主義と敵対しているということになる。SNSやネットの民主主義も、ある部分ではこの「来るべき民主主義」の一つに数えられ、まだ可能性が皆無なわけではないが、しかし、イーロン・マスクやサブスクその他の例を見てわかるように、ネットは急速的に封建化し、「サブスク」を「年貢」として人々から搾取して、封建領主として巨大化するインフルエンサーや資本家が支配する世界となっており、その意味での民主主義的敵対は無い。むしろマスクやインフルエンサーは、自らのご都合主義によって作った封建制度を「新しい民主主義」と僭称することで、現行の民主主義を壊そうとしている、ともいえる。「最悪の政治形態」という民主主義の例外性を、彼らに逆手に取られているということだろう。しかも企業的な「ポリコレ」や「コンプラ」は全く代表=代行制に敵対的ではなく、単純に企業活動のノイズを取り払うために使われている。それに依拠しているだけのマイノリティ運動と思われる行動も、実際はトヨタや電通のいうような社会の多様性を称揚するだけになってしまう危険がある。むしろ、「ポリコレ」や「コンプラ」が単に現状の資本主義と民主主義を防衛するためだけに、即ち「民意」を代表=代行するためだけに使用されるとすると、人々に対する管理コントロールの統治の側面だけが強化される結果となるだろう。実際、企業ガバナンスという形で、企業の統治形態は、一般の人々の生活にまで浸透してしまっている。マスクがこんなに人々に関わってくるのもそのためだ。そして、「新しい民主主義」への人々の欲望は、トヨタや電通、マスクへの「年貢」へと交換されて上納される。

 人はそれ故にこの資本主義に基礎づけられた民主主義の潜在的な管理から逃れるように行動はしているのだと思う。それは斎藤元知事を支持している「民意」が「マスゴミ」に勝利した、と喜ぶ姿からもそれがわかる。「民意」が「マスゴミ」に勝利するという、「来るべき民主主義」、「新しい民主主義」の勝利がやってくるという一瞬の昂奮は、嘘のものではない。だがそれは、「民意」や資本主義的な統治を許容する民主主義下では必ず裏切られることになる。その勝利をした「民意」は必ず「年貢」に変換されてその付けを払わされることになるからだ。

 その意味で斎藤元知事を支持した「民意」も、その対抗を支持した「民意」も同じく資本主義的な統治と、それに関わる民主主義的な代表=代行制度を支持している点で同じということになる。なにも壊せてはいないし、何とも敵対していない。「マスゴミ」と罵倒しながらも無意識では手を結んでいる。「マスゴミ」と呼べるのも結局はマスメディアの影響下で可能なことである。それによって「民意」は民主主義と代表=代行制に依拠した企業や資本家の「ポリコレ」や「コンプラ」へとさらに依拠することとなり、人々の「来るべき民主主義」への欲望は、電通やマスクへの「年貢」となり、サブスクとなって吸収されていく。そしてトヨタや電通、そしてマスクは、封建領主として、ますます「彼らだけ」が、反民主主義者として、君主として振る舞い、人々を支配するだろう。恐らく、すぐに「マスゴミ」を破った「民意」も「年貢」に変換される姿を見ることになる。それは、もちろん対抗側の「民意」も同じである。

 代表=代行制への批判こそが「民主主義」になり得るという逆説を考えないといけないのだろう。昨今「選挙」が権威づけられすぎである。これはテレビ番組『笑点』がやたら権威づけられていることと関連して述べたいが、今回はそれは置いておくとしても、皆が「選挙」を称揚しすぎであるし、代表=代行制度を無批判に受け入れすぎである。これは、代表=代行制の失調に対する人々の反動化だと思うが、この反動化自体が、封建領主や「年貢」への無批判の服従に繋がっているのだと思う。資本家やインフルエンサー、マスクらが、「来るべき民主主義」を僭称しながら、「ポリコレ」や「コンプラ」、代表=代行制度(「選挙」)を変換器として、人々のそれへの欲望を「年貢」やサブスクに変換し、それを吸収しながら人々を生政治的に支配している側面こそ、批判するべきだろう。資本家やマスクといった封建領主の反民主主義的振る舞いを、人々は「来るべき民主主義」への欲望として迎えるのだが、それは端的に騙されているのであって、その欲望は「年貢」として吸収されている。この「屈辱」をこそ考えるべきではないだろうか。今回選挙に投票したすべての人が侮辱されているわけである。

 この「屈辱」を意識するためには、昨今の「選挙」の権威化への批判と、多様性を僭称する封建領主的な「ポリコレ」や「コンプラ」の資本主義的で生政治的で、「年貢」への変換器となっている側面を直視し、批判することしかないと思う。この県知事選挙に内在する「屈辱」を否認して一喜一憂するのではなく、資本主義や代表=代行制への無批判的な依拠こそが問題だということを考えるべきだろう。代表=代行制度では考えられない問題を考える方法を発明することが「来るべき民主主義」であるならば、この「屈辱」を直視するためにも、資本主義と現行の民主主義を批判する側に何らかの方法で立つしかない。多くがこの封建領主に支配されるという「屈辱」を否認している。それでは「民意」は結局、「年貢」になるしかないのだ。現状最早グローバル資本主義は、民主主義ではないと考えるべきだと思う。

アメリカ大統領選をチラ見しつつ

2024年11月06日 | 日記
 この頃忙しく、ブログの記事に書けるような読書ができず、また、書く時間はあったのだと思うが、書いている時間を考えると気もそぞろになるほどには他にやることもあり、ブログの更新が一か月以上の空白となった。ただ、今日はアメリカ大統領選挙で、ドナルド・トランプがカマラ・ハリスを破り、「当確」を出したというのもあって、少し書いてみようと思った。

 日本の衆議院選もよくわからない形で終わり、自民党が敗れたのか野党が勝ったのかもさっぱりわからない。ニュースや新聞を見ても、破れたはずの自民党が政権運営を続けており、また、野党までも自民党の補完勢力のように、それは意図せざるものも含めて、なってしまっている。要は「何も変わらない」ということなのだろう。ただこの何も変わらない、というのは、まさしく何も変えたくないという意志の表れとして解釈した方が良いのかもしれない。「トランプかハリスか」という問いも、この衆院選と全く同じで偽物の問として、何も変えたくないという人びとの願望のスクリーンになっている。ツイッターでグレタ・トゥーンベリが、乱暴に要約・解釈すれば、トランプであろうがハリスであろうが、それは相対的な差異に過ぎず、どちらも打ち倒すべき敵(資本主義としての「システム」)である、と文書を提示していたが、それが真実だろう。トランプが大統領になった場合、あるいは日本でも排外主義者や差別主義者が為政者になった場合、喫緊の問題として直接的に「当事者」の命が危険にさらされることとなる。これは批判されるべきであり、これからのトランプにはその問題が大いに存在する。しかしながら、選挙でトランプを選ぶということは、あるいは日本でも選挙では大敗したはずの自民党が政権を担当し続けるということは(しかも野党もこぞって自民党を補完し)、人々が現状を変えたくない、あるいは自らの立場をこれ以上悪くしたくないという、意思の現れなのだろう。そういう意味も含めて、結局ハリスだったとしても、トランプと「変わらない」ともいえる。

 今日、若い人たちとデヴィッド・グレーバーの本を読みながら、グレーバーがいうように、剰余価値を生み出すという意味での「生産性」が乏しいと見做される「ケア労働」がないがしろにされる現実と、マイノリティがないがしろにされる現実を重ねつつ、剰余価値の生産が大きいとされる金融資本主義下でのエリートの労働と「ケア労働」を比較して議論をした。「エッセンシャルワーカー」とも呼ばれ、インフラをメンテナンスし、介護や医療や清掃、農業、畜産、漁業、食料品販売、輸送、教育といった、社会を維持するに欠かせない「ケア労働」が剰余価値を生まないものとして軽視される一方、剰余価値を莫大に生産するとされる金融資本主義で封建的資本主義的なエリートの労働、経営者、サブスクでの地代資本主義、それらに携わる人々が、「ケア労働」の数百倍の収入を得て「尊敬」されている。社会をケアしメンテナンスする、あるいは教育のように再生産を促す労働は、剰余価値を多く生まないと軽視されるのである。だからこそ、人々は早々にインフラや教育を民営化し、大学の学費値上げのように、教育への公的支出を切り詰め、例えば能登半島地震のように、剰余価値を生まないとされる地域は打ち捨てられ、「棄民」されるのだといえるだろう。それに対してグレーバーは、そのような地代資本主義やサブスク的封建資本主義、金融資本主義では不可視になってしまう「ケア労働」に重点を置くだけで、世の中の無駄な労働の多くは削減され、現状での富の不平等も軽減されるはずだという。もっと言えば、「価値」への眼差しが根本から変わるのではないかともグレーバーは予想しているのである。そして、その議論では、そのような「ケア労働」やそこに関わる「当事者」への「配慮」の問題が、「ポリコレ」や「コンプラ」として反動的に反発を買っている問題に繋がっているということにも話が及んだ。よく言われる「ポリコレ」や「コンプラ」のおかげで表現の自由の範囲が窮屈になり、「マイノリティ」への「配慮」が、逆に民主主義に不平等を招き寄せているという主張である。しかし、本当に人々の生活を窮屈にしているのは、そのような「ケア労働」や「マイノリティ」や「当事者」に対する「配慮」によって引き起こされているのだろうか、と。

 おそらくは、「ポリコレ」や「コンプラ」が窮屈さを生んでるのではなく、むしろ「サブスク」が人を封臣としてヴァーチャルなデジタルの「土地」に縛り付け、そこから年貢(会費・使用料)をとり続けているからこそ、その「支配」が人々に窮屈さもたらしているはずなのだ。しかしながら、人はそのような「サブスク」の「支配」に対して、価値を生み剰余価値を生むエリートの労働として賞賛するよう仕向けられている。そのため人はその対極にある「ケア労働」を益々価値のないもの、あるいはそれが世の中の自由主義経済・封建資本主義を阻害するものとして敵視するようになり、マイノリティへの「配慮」を垣間見ると、そこに不自由と窮屈を見てしまうのだ。そういう意味で、ほとんどの人は経営者や資本家という封建領主の領地を防衛するため、体よく使われているともいえるだろう。自分を苦しめて土地に縛り付ける封建領主を、むしろ解放者として賞賛し続けるようなシステムになっているのである。だからこそ人々は何もいわず水やライフラインが民営化されるのを眺め、質を低下させながら料金が上げられても文句を言わないのだろう。何故ならインフラは生産性が低いからである。だが、その結果、自分たちは益々生活基盤を奪われて「窮屈」になっているにもかかわらず。

 こう考えるとハリスのように、マイノリティや性的少数者に対する「配慮」を掲げる候補者が敵視されるのも「当然」となる。しかし問題は、だから「ケア労働」や「配慮」に関する問題を人びとに啓蒙すれば、その封臣たちは本当の敵に気付き、トランプやイーロン・マスクといった封建領主的経営者や資本家という真の敵を倒すのかというと、そうはならない。何故なら、ケアやマイノリティへの「配慮」を説き、啓蒙するハリスもまた、資本主義という搾取構造は変えたいとは思っていないからだ。結局は変えたくないのである。そうなれば、その窮屈さから解放してくれると思っていたハリスのような「善良な」民主主義者たちが、結局は搾取を容認する資本主義を全く変えるつもりがないとわかれば、少数派を気にする候補者よりは、ありもしない嘘の「大衆」という存在に自信を取り戻させると、嘘でも言ってくれる、嘘つきである改革者という名の経営者たちを、人は嘘でも信じたいとなるのは、わからなくはない。要は、「善良な」ハリスもまた嘘つきだからである。

 これはアメリカ大統領選だけではなく、先ほどの日本の衆院選でもいえる。結局自民も野党も同じ嘘つきなのだ。自民党の搾取構造を批判し選挙で政権にダメージを与えても、野党がそれを補完して、選挙などなかったような日常を作り上げようとする。選挙が終わったとたんに、野党は、変えるつもりはなかったんだ、そんな極端なことは言うつもりはなかったんだ、という形で言い訳を始め、何も変えないように動いていく。そして自分たちはより良い資本主義を作っていくんだと、自民党と五十歩百歩のことを言い始めるのだ。だったら選挙など無意味だろう。この嘘つきの慢性化は、本当の意味で「ポストトゥルース」的であるといえる。益々代表制は信頼を失っていき、封建制、絶対君主制に近づくのではないかと思う。そういう意味でトランプだけではなく、ハリスもまた陰謀論的かつ、修正主義者の側にいるといえるだろう。「啓蒙」と「陰謀」は、本質的には区別はできない。これは重要なことだ。

 経営者という君主による「解放」を夢見るという意味では、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』を読んだ方がいいのかもしれないが、やはり思うのは、資本主義自体を批判し、代表制自体の問題化を考える政治的なイデオロギーが必要だということだ。それは相対的にマシなハリスが選ばれればいいということではない。その相対的にマシなものを選ぶという免罪符が、トランプを活気づけ、マイノリティを追い込む資本主義を持続可能にしているからである。