普段から選挙に関心を持たず、休日は疲れてほとんど寝てしまっており、「チラ見」程度にも実は経緯を見ていなかったので、看板に偽りありかもしれないが、それも「選挙」にはふさわしいということで書いてみる。斎藤元彦元兵庫県知事が、今回の県知事選(2024年11月17日・投票日)で再当選したようだ。「パワーハラスメント疑惑」をめぐって、議会から不信任案が提出・可決されて失職した斎藤元知事が「出直し」ということになり、「民意」もそれを支持したということになるのだろう。Twitterなどを見ると、やはり「異常事態」として捉えている人も多く、「パワーハラスメント疑惑」とそれに関わった県の職員が「自殺」しているとなると、斎藤元知事の再当選が「異常事態」として見えるのも、当然かもしれない。しかし一方では、「マスゴミ」の世論誘導によって斎藤元知事は陥れられていたのであって、「選挙」で「民意」がそれら「マスゴミ」を破り、斎藤氏は無事知事へと帰還したという、「我らの民主主義」の「勝利」を誇る意見も多数あり、確かに「選挙」に勝利したのだから、「民意」の「勝利」には違いないともいえる。
「こういう選挙」というのはSNSやネット以前にもおそらくあった(ある)はずである。そして「とんでもない」と思われる候補者が次々と誕生していた(している)ことは、昨今の選挙結果を見ても容易に予想できる。今回の選挙戦はマスメディアやネットで注目されていたので特に目立ったが、選挙の「日常風景」といっていいと思う。いろんな場所に行けば、何故この人が?、と思うようなその地域では疑問符の付く所業の人物が、「長」になっていることはあるわけだから、不思議ではない。
ただ言えるのは、「民意」に失望している人も、逆にその勝利を喜んでいる人もコインの裏表の関係だということだろう。双方は結局のところ、民主主義における代表制に無自覚に依拠しているからだ。「民意」を代表=代行することへの過剰な期待と依拠が、むしろこの「選挙」という代表制の失調を表しているように見える。これは「ポリコレ」や「コンプラ」に見られるような、「マイノリティ」や「道徳」を代表=代行するという昨今の傾向と、軌を一にしているのである。民主主義(来るべき民主主義?)もマイノリティ運動も、本来は「民主主義」という代表=代行制度によって毀損されてしまうような問題を考えるため思索され、実践されるもののはずだ。だがさしあたり実践的には、マイノリティ運動も民主主義と「選挙」という「最悪の政治形態」という例外の中で活動をせざるを得ないわけで、その本来性と実践のレベルの差異や亀裂をどう埋めるかが、問題化されるべきことだろう。そういう意味では、マイノリティ運動は代表=代行制度としての民主主義や「選挙」には、ある部分で敵対的になるわけであり、実際的にもこれまで敵対してきたわけである。それ故、様々な思想家がいろいろな形で表わしていた、そういう意味での「来るべき民主主義」は本来、民主主義と敵対しているということになる。SNSやネットの民主主義も、ある部分ではこの「来るべき民主主義」の一つに数えられ、まだ可能性が皆無なわけではないが、しかし、イーロン・マスクやサブスクその他の例を見てわかるように、ネットは急速的に封建化し、「サブスク」を「年貢」として人々から搾取して、封建領主として巨大化するインフルエンサーや資本家が支配する世界となっており、その意味での民主主義的敵対は無い。むしろマスクやインフルエンサーは、自らのご都合主義によって作った封建制度を「新しい民主主義」と僭称することで、現行の民主主義を壊そうとしている、ともいえる。「最悪の政治形態」という民主主義の例外性を、彼らに逆手に取られているということだろう。しかも企業的な「ポリコレ」や「コンプラ」は全く代表=代行制に敵対的ではなく、単純に企業活動のノイズを取り払うために使われている。それに依拠しているだけのマイノリティ運動と思われる行動も、実際はトヨタや電通のいうような社会の多様性を称揚するだけになってしまう危険がある。むしろ、「ポリコレ」や「コンプラ」が単に現状の資本主義と民主主義を防衛するためだけに、即ち「民意」を代表=代行するためだけに使用されるとすると、人々に対する管理コントロールの統治の側面だけが強化される結果となるだろう。実際、企業ガバナンスという形で、企業の統治形態は、一般の人々の生活にまで浸透してしまっている。マスクがこんなに人々に関わってくるのもそのためだ。そして、「新しい民主主義」への人々の欲望は、トヨタや電通、マスクへの「年貢」へと交換されて上納される。
人はそれ故にこの資本主義に基礎づけられた民主主義の潜在的な管理から逃れるように行動はしているのだと思う。それは斎藤元知事を支持している「民意」が「マスゴミ」に勝利した、と喜ぶ姿からもそれがわかる。「民意」が「マスゴミ」に勝利するという、「来るべき民主主義」、「新しい民主主義」の勝利がやってくるという一瞬の昂奮は、嘘のものではない。だがそれは、「民意」や資本主義的な統治を許容する民主主義下では必ず裏切られることになる。その勝利をした「民意」は必ず「年貢」に変換されてその付けを払わされることになるからだ。
その意味で斎藤元知事を支持した「民意」も、その対抗を支持した「民意」も同じく資本主義的な統治と、それに関わる民主主義的な代表=代行制度を支持している点で同じということになる。なにも壊せてはいないし、何とも敵対していない。「マスゴミ」と罵倒しながらも無意識では手を結んでいる。「マスゴミ」と呼べるのも結局はマスメディアの影響下で可能なことである。それによって「民意」は民主主義と代表=代行制に依拠した企業や資本家の「ポリコレ」や「コンプラ」へとさらに依拠することとなり、人々の「来るべき民主主義」への欲望は、電通やマスクへの「年貢」となり、サブスクとなって吸収されていく。そしてトヨタや電通、そしてマスクは、封建領主として、ますます「彼らだけ」が、反民主主義者として、君主として振る舞い、人々を支配するだろう。恐らく、すぐに「マスゴミ」を破った「民意」も「年貢」に変換される姿を見ることになる。それは、もちろん対抗側の「民意」も同じである。
代表=代行制への批判こそが「民主主義」になり得るという逆説を考えないといけないのだろう。昨今「選挙」が権威づけられすぎである。これはテレビ番組『笑点』がやたら権威づけられていることと関連して述べたいが、今回はそれは置いておくとしても、皆が「選挙」を称揚しすぎであるし、代表=代行制度を無批判に受け入れすぎである。これは、代表=代行制の失調に対する人々の反動化だと思うが、この反動化自体が、封建領主や「年貢」への無批判の服従に繋がっているのだと思う。資本家やインフルエンサー、マスクらが、「来るべき民主主義」を僭称しながら、「ポリコレ」や「コンプラ」、代表=代行制度(「選挙」)を変換器として、人々のそれへの欲望を「年貢」やサブスクに変換し、それを吸収しながら人々を生政治的に支配している側面こそ、批判するべきだろう。資本家やマスクといった封建領主の反民主主義的振る舞いを、人々は「来るべき民主主義」への欲望として迎えるのだが、それは端的に騙されているのであって、その欲望は「年貢」として吸収されている。この「屈辱」をこそ考えるべきではないだろうか。今回選挙に投票したすべての人が侮辱されているわけである。
この「屈辱」を意識するためには、昨今の「選挙」の権威化への批判と、多様性を僭称する封建領主的な「ポリコレ」や「コンプラ」の資本主義的で生政治的で、「年貢」への変換器となっている側面を直視し、批判することしかないと思う。この県知事選挙に内在する「屈辱」を否認して一喜一憂するのではなく、資本主義や代表=代行制への無批判的な依拠こそが問題だということを考えるべきだろう。代表=代行制度では考えられない問題を考える方法を発明することが「来るべき民主主義」であるならば、この「屈辱」を直視するためにも、資本主義と現行の民主主義を批判する側に何らかの方法で立つしかない。多くがこの封建領主に支配されるという「屈辱」を否認している。それでは「民意」は結局、「年貢」になるしかないのだ。現状最早グローバル資本主義は、民主主義ではないと考えるべきだと思う。
「こういう選挙」というのはSNSやネット以前にもおそらくあった(ある)はずである。そして「とんでもない」と思われる候補者が次々と誕生していた(している)ことは、昨今の選挙結果を見ても容易に予想できる。今回の選挙戦はマスメディアやネットで注目されていたので特に目立ったが、選挙の「日常風景」といっていいと思う。いろんな場所に行けば、何故この人が?、と思うようなその地域では疑問符の付く所業の人物が、「長」になっていることはあるわけだから、不思議ではない。
ただ言えるのは、「民意」に失望している人も、逆にその勝利を喜んでいる人もコインの裏表の関係だということだろう。双方は結局のところ、民主主義における代表制に無自覚に依拠しているからだ。「民意」を代表=代行することへの過剰な期待と依拠が、むしろこの「選挙」という代表制の失調を表しているように見える。これは「ポリコレ」や「コンプラ」に見られるような、「マイノリティ」や「道徳」を代表=代行するという昨今の傾向と、軌を一にしているのである。民主主義(来るべき民主主義?)もマイノリティ運動も、本来は「民主主義」という代表=代行制度によって毀損されてしまうような問題を考えるため思索され、実践されるもののはずだ。だがさしあたり実践的には、マイノリティ運動も民主主義と「選挙」という「最悪の政治形態」という例外の中で活動をせざるを得ないわけで、その本来性と実践のレベルの差異や亀裂をどう埋めるかが、問題化されるべきことだろう。そういう意味では、マイノリティ運動は代表=代行制度としての民主主義や「選挙」には、ある部分で敵対的になるわけであり、実際的にもこれまで敵対してきたわけである。それ故、様々な思想家がいろいろな形で表わしていた、そういう意味での「来るべき民主主義」は本来、民主主義と敵対しているということになる。SNSやネットの民主主義も、ある部分ではこの「来るべき民主主義」の一つに数えられ、まだ可能性が皆無なわけではないが、しかし、イーロン・マスクやサブスクその他の例を見てわかるように、ネットは急速的に封建化し、「サブスク」を「年貢」として人々から搾取して、封建領主として巨大化するインフルエンサーや資本家が支配する世界となっており、その意味での民主主義的敵対は無い。むしろマスクやインフルエンサーは、自らのご都合主義によって作った封建制度を「新しい民主主義」と僭称することで、現行の民主主義を壊そうとしている、ともいえる。「最悪の政治形態」という民主主義の例外性を、彼らに逆手に取られているということだろう。しかも企業的な「ポリコレ」や「コンプラ」は全く代表=代行制に敵対的ではなく、単純に企業活動のノイズを取り払うために使われている。それに依拠しているだけのマイノリティ運動と思われる行動も、実際はトヨタや電通のいうような社会の多様性を称揚するだけになってしまう危険がある。むしろ、「ポリコレ」や「コンプラ」が単に現状の資本主義と民主主義を防衛するためだけに、即ち「民意」を代表=代行するためだけに使用されるとすると、人々に対する管理コントロールの統治の側面だけが強化される結果となるだろう。実際、企業ガバナンスという形で、企業の統治形態は、一般の人々の生活にまで浸透してしまっている。マスクがこんなに人々に関わってくるのもそのためだ。そして、「新しい民主主義」への人々の欲望は、トヨタや電通、マスクへの「年貢」へと交換されて上納される。
人はそれ故にこの資本主義に基礎づけられた民主主義の潜在的な管理から逃れるように行動はしているのだと思う。それは斎藤元知事を支持している「民意」が「マスゴミ」に勝利した、と喜ぶ姿からもそれがわかる。「民意」が「マスゴミ」に勝利するという、「来るべき民主主義」、「新しい民主主義」の勝利がやってくるという一瞬の昂奮は、嘘のものではない。だがそれは、「民意」や資本主義的な統治を許容する民主主義下では必ず裏切られることになる。その勝利をした「民意」は必ず「年貢」に変換されてその付けを払わされることになるからだ。
その意味で斎藤元知事を支持した「民意」も、その対抗を支持した「民意」も同じく資本主義的な統治と、それに関わる民主主義的な代表=代行制度を支持している点で同じということになる。なにも壊せてはいないし、何とも敵対していない。「マスゴミ」と罵倒しながらも無意識では手を結んでいる。「マスゴミ」と呼べるのも結局はマスメディアの影響下で可能なことである。それによって「民意」は民主主義と代表=代行制に依拠した企業や資本家の「ポリコレ」や「コンプラ」へとさらに依拠することとなり、人々の「来るべき民主主義」への欲望は、電通やマスクへの「年貢」となり、サブスクとなって吸収されていく。そしてトヨタや電通、そしてマスクは、封建領主として、ますます「彼らだけ」が、反民主主義者として、君主として振る舞い、人々を支配するだろう。恐らく、すぐに「マスゴミ」を破った「民意」も「年貢」に変換される姿を見ることになる。それは、もちろん対抗側の「民意」も同じである。
代表=代行制への批判こそが「民主主義」になり得るという逆説を考えないといけないのだろう。昨今「選挙」が権威づけられすぎである。これはテレビ番組『笑点』がやたら権威づけられていることと関連して述べたいが、今回はそれは置いておくとしても、皆が「選挙」を称揚しすぎであるし、代表=代行制度を無批判に受け入れすぎである。これは、代表=代行制の失調に対する人々の反動化だと思うが、この反動化自体が、封建領主や「年貢」への無批判の服従に繋がっているのだと思う。資本家やインフルエンサー、マスクらが、「来るべき民主主義」を僭称しながら、「ポリコレ」や「コンプラ」、代表=代行制度(「選挙」)を変換器として、人々のそれへの欲望を「年貢」やサブスクに変換し、それを吸収しながら人々を生政治的に支配している側面こそ、批判するべきだろう。資本家やマスクといった封建領主の反民主主義的振る舞いを、人々は「来るべき民主主義」への欲望として迎えるのだが、それは端的に騙されているのであって、その欲望は「年貢」として吸収されている。この「屈辱」をこそ考えるべきではないだろうか。今回選挙に投票したすべての人が侮辱されているわけである。
この「屈辱」を意識するためには、昨今の「選挙」の権威化への批判と、多様性を僭称する封建領主的な「ポリコレ」や「コンプラ」の資本主義的で生政治的で、「年貢」への変換器となっている側面を直視し、批判することしかないと思う。この県知事選挙に内在する「屈辱」を否認して一喜一憂するのではなく、資本主義や代表=代行制への無批判的な依拠こそが問題だということを考えるべきだろう。代表=代行制度では考えられない問題を考える方法を発明することが「来るべき民主主義」であるならば、この「屈辱」を直視するためにも、資本主義と現行の民主主義を批判する側に何らかの方法で立つしかない。多くがこの封建領主に支配されるという「屈辱」を否認している。それでは「民意」は結局、「年貢」になるしかないのだ。現状最早グローバル資本主義は、民主主義ではないと考えるべきだと思う。