「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『福田村事件』を観に行く

2023年11月22日 | アート・文化
 仕事が早く終わったので、アップリンク吉祥寺で『福田村事件』を観てきた。


 先日の「太陽肛門スパパーン「放送禁止歌」祭り Vol.1@代官山UNIT」の「討議」の部にて、映画『福田村事件』の脚本を担当した荒井晴彦を中心として、「関東大震災」をめぐる「朝鮮人、中国人及び社会主義者の虐殺」の問題が議論され、そこからイスラエルのパレスチナ国への、主にGAZA地区でおこなわれているイスラエルによる「虐殺」の問題が話題に上っていた。僕も話題になっている映画であることは知っていたのだが、同作をまだ恥ずかしながら観ておらず、「討議」の内容を反芻する上でも必要と思い、早速観てきたのだ。内容としては非常に「情動的」な映画だという印象であった。現在東京都の都知事である小池百合子は、所謂関東大震災時における、主に「朝鮮人」への組織的虐殺行為を否認するという、歴史修正主義的政治姿勢を見せ、しかもこの政治的姿勢はそれを支持する人々によっても広く共有されてしまっているが、『福田村事件』は、そのような修正主義的な記憶・記録の抹消行為を批判する映画として見ることもできる。

 先日の「討議」では、同作への批判的な意見がいくつか紹介されていた。例えば、「フィクション」が盛り込まれすぎている、というものである。確かに「事件」を映画として構成する時、そして内容を二時間ほどの時間にまとめるためには、内容の「圧縮」のために「フィクション」にして象徴的な行為の中で観客に「事件」を理解させねばならない。その際に、「史実」の実証的詳細は捨象される可能性があり、現代の価値観や理解の規範に則った形で物語化されてしまう危険は常にあるといえる。それに対して「討議」では、「フィクション」とすることでその危険をおかしてまで、「事件」の「内容」を伝えねばならなかったという意図が語られており、そこには脚本・企画を担った荒井の使命感のようなものがあるのだろうというのは理解できた。物語内容や登場人物の類型化やキャラ化自体は、先ほど書いたような単純化の危険はあるのだが、その構成や操作がアレゴリーとして機能するのであれば、歴史修正主義者たちが否認しようとする〈事件=出来事=差異〉の側面を強く主張することはできる。作品に登場する、「朝鮮人」(差別語としての「鮮人」)、同じく差別語としての「支那人」、そして「部落差別」(差別語としての「えた」)は、その歴史における「出来事」の側面を際立たせるものである。この場合の「フィクション」や「アレゴリー」はそのような修正主義に対する暴力的な介入となり得るのだ。

 ただし、最初に「情動的」な映画だといったが、「討議」での絓秀実は重要な発言をしていた。同作の重要な場面で「水平社宣言」が朗読される場面があるのだが、絓はそれに「感動」してしまったが、そこで「感動」してしまって、「それでいいのだろうか」と、かなり留保をつけながら批判的に応答したのである。これを僕なりに解釈するならば、「フィクション」や「アレゴリー」による「出来事」の「情動」が、ともすると〈抒情〉となっているのではないか、という懸念だろう。その懸念は、映像に関して全くの素人である僕がいうのもなんであるが、映像の色合いや、100年前を描くというノスタルジーを感じさせるシーンやカットに感じられる気がする。あと、「田舎」の描き方には違和感を感じた。「田舎」は同作が描くような、あんなにも「意味」がある場所ではなく、もっと〈どうしようもない〉ものだと思う。もっと〈即物的〉である。そこに〈抒情〉は入り込んでいるのかもしれない。

 話は変わるが、かつて『東京朝日新聞』で「関東大震災」前後の新聞記事を読んだことがあった。これ自体は大きな図書館に行けば縮刷版で誰でも読める。1923年9月1日の震災による印刷所の被災で新聞が印刷不可能となり、翌日からは手書きのガリ版の紙面が始まる。これは実証的な検証ではないが、震災以降の紙面を通読していくと、震災が起こってからの早い段階では、新聞も行政も暴動や流言飛語を戒める記事や布告を早い段階で出しているのだが、時間がたつにつれて「((朝)鮮人」が武器を持って徘徊し始めているなどが記事として紙面に載り始める、という印象を得た。つまり、時間がたつにつれて人々は冷静になるわけではなく、むしろ時間経過によって流言飛語が力を増し、差別されている存在は、人々が抱くその恐怖心から「虐殺」という形で排除され始めるのだ。これは注意して考えておくべき問題だと思われる(【加筆】こうは書いたが、例えば『関東大震災と朝鮮人 現代史資料』(みすず書房)を読むだけでも、早い時期から地方新聞などに「朝鮮人」に対する流言蜚語はあふれているわけで、「早い段階」でも冷静でないことは判明する)。震災という破壊から秩序を回復させようとするプロセスこそ危険なのである。その秩序を回復させようというマジョリティの欲望が、「朝鮮人」や「被差別部落民」、「社会主義者」を排除しようとするのだ。これは「ショックドクトリン」というものにかなり近いことだと考えられる。「秩序」を維持し回復しようとする時、暴力は発露する。これは現在のイスラエルによる虐殺行為でもいえることだろう。そういう意味ではさらに虐殺行為は昂じる可能性があるのだ。

 僕は間接的・直接的に「阪神淡路大震災」と「東日本大震災」を経験しているが、その時も流言飛語の類は流れていた、と記憶する。よく日本では大災害時に「暴動」が起きない、ということがまことしやかに言われているが、そんなことはない。「秩序」を回復しようとする時、それはつねに起こり得るし、起こっているのである。

「太陽肛門スパパーン「放送禁止歌」祭り Vol.1@代官山UNIT」に行ってきた

2023年11月19日 | アート・文化
 太陽肛門スパパーンの「「放送禁止歌」祭り」に行ってきた。11月18日と19日の二日通しであったのだが、18日は所用で東京を離れていたので、19日のみの参加となった。
トリプルファイヤーや小室等の「放送禁止歌」の演奏・歌が素晴らしかった。帰りにCD(+「放送禁止歌」の先行シングル)を購入し、資金難で制作が中断しているLP「放送禁止歌」を応援するために、些少ではあるがカンパもしてきた。


 この「祭り」には「討議」の部もあったのだが、そこでは「放送禁止」をめぐる「自粛」や「表現の自由(規制)」の問題が話し合われた。その討議を聴きながら、僕は本来表現というものは、〈本質的に言ってはいけない言葉や表現はなく、また、もともとあらかじめ言っても良い言葉や許された表現もない〉ものだと考えていた。アプリオリに禁止されていたり、また許されているような表現はなく、そこでは行為遂行的な「賭け」の次元で表現するしかなく、それ故、一度表現されてしまった言葉や表現は、議論されたり検討されたりしながら、しかしその出てしまった言葉や表現は、最早取り返しが利かないという意味で、即ち存在してしまったという意味で、何らかの形で「肯定」あるいは「赦される」しかないものだと思っている。ただしこの「肯定」や「赦し」は超越的な存在や権力が判断を下すものではないし、恣意的に個人が下せる判断というものではない。ただそれが表現されてしまったという意味での存在は、「肯定」や「赦し」という次元でしか検討ができないという意味である。

 悪い意味での「ポリコレ」や「コンプライアンス」は、この行為遂行的で「賭け」の部分である表現の危うさや暴力性を、あらかじめ規制して「暴力」とならないように抑圧する。それこそが「正しさ」になるというのだ。だが、言葉や表現の行為遂行性を規制して、言葉の暴力性を逐次規制していけば、言葉の「暴力」はなくなるかといえば、そうではない。むしろ、言葉や表現の行為遂行性を毀損し「賭け」の次元をなくしてしまうと、言葉の力は失われ、超越的な権力者の言語や表現に抵抗できなくなってしまい、むしろ、そのような超越的な言語の「暴力」に直接的にさらされてしまうだろう。そうならないためにも、言葉や表現の行為遂行的で「賭け」である次元の「暴力」は放棄してはならないのである。それを、安易なリベラリズムと、安易な正しさと、安易な暴力性の排除によって「清潔」な環境を手に入れようとすると、超越的な権力者の言葉や表現の「暴力」に抵抗できなくなり、屈服し続けることになる。

 今年の夏、二十年以上以前に芸能界を引退した上岡龍太郎が亡くなったが、上岡はかつてのトーク番組で、上岡がまだ芸能界に入ったばかりの10代後半の時、当時の漫才の大御所の葬式に行った際の話をしていた。その漫才の大御所は犬のブリーダー詐欺のために多額の借金を抱えてしまい、それが原因で海に身を投げて自死してしまったのだ。その大御所漫才師の不幸な死を弔う葬式の場で、上岡は他の芸人仲間が「これがほんまの〈犬死や〉」といって笑い合っている情景を目の当たりにしたという。そして上岡は「こんな〈やさしい〉世界からは絶対に離れないでおこう」と誓ったというのである。今の社会ならば「不謹慎」な情景なのかもしれない。だが上岡がこの「犬死」という言葉と表現に〈やさしさ〉を感じたのは、言葉と表現の行為遂行的な「賭け」の次元を考える時、理解できるような気がするのだ。そんな「絶対に離れないでおこう」と思った芸能界を、上岡は2000年に引退している。テレビからそういう表現や言葉の行為遂行的次元(「やさしさ」)が失われていく時期と重なっているのかもしれない。「暴力」から身を守るための「暴力」の次元は、言葉や表現の芸術の根本のはずなのである。

足立正生監督『REVOLUTION+1』を見る

2023年07月08日 | アート・文化
 Twitterが不安定、かつ気まぐれな経営者によるショック・ドクトリンの横行で、最近少し嫌気がさしていたところ、一時的ではあるもののログの閲覧制限がかかったので(実際はスパムアカウントと認定されてしまい制限もかけられてしまった)、これを機に別のメディアへと発信の軸足を移そうということになった。Twitterを友人に勧められて始める前は、Blogを数年書いており、そこでは翻訳されていなかった哲学書の試訳や、その時読んでいた哲学書の要約を書くなど、かなりの記事を書いていたのだが、Blog文化の後退と、SNSとしてのTwitterの興隆という状況の中で、徐々にTwitter一本での発信となった。ただ、Twitterも13年やっていると、僕自身を取り巻く社会状況や下部構造も大分変化してしまい、なかなか「東日本大震災」前後のような、気ままなツイートも難しくなってきたので、文章量が多く書けるBlogに戻ることとなった。goo blogを選んだ理由は、昔書いていたOCNブログがサービスを廃止してしまい、そのサービスをgoo blogが引き継いでくれたおかげで、アカウントがそのまま残っていた、ということによる。これからは、Twitterに書けなかった長めの記事も書いていくつもりである。

 さて、ブログのタイトルだが、以前書いていたものは心機一転して、タイトルもすべて変えてしまおうと思う。タイトルの由来は、最近読み始めた、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(井上究一郎訳、ちくま文庫)であるが、第一巻目を5回ほど挫折しており、一巻目だけがカバーも破れてなくなってしまい、ボロボロになっていることに由来している。即ち「プチット・マドレーヌ」のところまで読んでいるのに免じて、許してほしいということなのだ。友人に言うと、「マドレーヌ」って大分前じゃないか?と言っていたが、そう、大分始めなのである。しかし、許してほしいと思う。今回は全巻読破のつもりで読み始めている。

 今日は、渋谷LOFT9に足立正生監督作品『REVOLUTION+1』を見に行った。しばらく前にネットで告知されており、前売り券を買っておいた。本作のパイロット版は、昨年既に公開されていたが、観に行くきっかけを失っており、今回が初めての視聴となる。会場では数年ぶりの友人にも出会い、ともに初見であることを確認した。本作はバージョン的には三つ目の作品であり、全てを見ている人によれば、三つのバージョンはそれぞれどこかしら作風が違うようである。内容は、勿論既に「完成」からは一年がたっているとはいえ、まとまりのある映画の内容であった。映画をあまり観ない僕からすると、当初パイロット版の視聴者の声は、まだ作品としては「完成」されていないので、観に行く人は今後徐々に完成する作品のつもりで観たほうがよい、というもので、その時の印象が強く、どこかしら未完成の部分があるのかと思って観たが、そうではなかった。

 特に音楽と映像がよく合っており、井土紀州監督作品『Leftalone』を想起させるところがあった。内容的には、タモト青嵐演じる「川上哲也」が「安倍晋三」を射殺するまでの過程とその心の葛藤を描いたもので、「川上」の「家庭」の問題を描いたものでもあった。この射殺事件のモデルとなった事件は報道等でよく知られたものでもあると思うが、やはり「統一教会」や「宗教二世」の問題が描かれ、「川上」と「母」の関係にもフォーカスされていた。モデルとなった事件の経過と事の帰結は、何度も報道されているので、特に事件の内容でいうべきことはない。

 足立監督の描き方で良いなと思ったのは、ジャック・ラカンの精神分析のいう意味で、「川上」が事件の経過を〈享楽〉しているという描写だったと思う。確かに「母」の「統一教会」への入信と献金による家庭の崩壊によって、「川上」自身は塗炭の苦しみを経験するのではあるが、それを含め、そこには〈享楽〉があるように描かれていた。「川上」が手製の「鉄砲」を作る所もさることながら、それを作り終え、「安倍」の遊説地へと向かうとき、「川上」は自分の部屋の中で暗黒舞踏のように体をくねりながら、恐らく苦しみ?を表現していたのかもしれないが、むしろその身体のうねりは、その塗炭の苦しみを引き延ばそう(差延させよう)とするような欲望に見えたのである。また、事件で「川上」が逮捕されたのち、仲の悪かった「妹」が突然、兄「川上」の行動を理解し、何らかの意思を引き継ごうとして自転車を疾走させるところは印象的だった。ただ「妹」は兄の意志は継ぐが兄のような暴力ではなく、リベラルな手段を使うというようなそぶりを見せていたので、そこに収まってしまうか、と思いはしたが、「女」(妹)が吹っ切れたような笑顔で兄を引き継ぐというとき、必ずしも兄以上の狂気(享楽)がそこに宿らないとは言えないだろうな、とも思わされた。

 上映が終わった後、足立正生・望月衣塑子・平井玄・鵜飼哲によるトークショーがあった。全体的に「山上容疑者」の「可能性」を汲み取ろうとする論旨で、それはそれで肯定できるものではあった。ただ、どう肯定するかは、そこに一定の論理が必要だと思った。そのトークショーには、会場からの「議論」も予定されていたので、僕は会場から、そこでその日一度も、映画の内容としても出てこなかった「天皇」の問題を質問した。足立監督は、「山上」が「安倍晋三」を狙ったとき、一発目は天に向かって「文鮮明」と叫んで撃ち、その後二発目で「安倍」を狙ったといった。それを受けた鵜飼氏が、「転位」という言葉を使ったが、わかりやすく〈転換〉と言い換えて、「「山上」の恨みの矛先が、「文鮮明」から「安倍」に転位」したということを発言していた。僕はそれを受けて、本来は「天皇」から「転位」した問題がここにはあるのではないかという質問をした。映画の中で、「川上」は糞のような世の中で糞みたいに生きる、搾取する奴を肯定して生きることの苦しみを恨みとしてぶつけていたが、それは即ち、「天皇」から搾取されているにもかかわらず「天皇」を肯定して生きる「日本人」それ自体への恨みなのではないか。確かネットには、「統一教会」のシステムは「天皇制」の模倣であり、「文鮮明」を戴くことは「恥」だといった「宗教二世」の手記があったと思うが、それはまさしく「天皇」を戴くことの「恥」を知らない日本国民への怒りという問題につながるだろう。かつて大西巨人は小説『インコ道理教』で、「オウム真理教」を「天皇制」の模倣として描いたが、ここには同じ問題が存在する。四人のトークショーで、「山上」の行動がもみ消されて、なかったことになってしまう問題を議論していたが、それはやはり「天皇制」の問題を外しては、決して議論できないことだと思う。あそこに登場していない「天皇」こそ、「山上」「川上」の問題で、本当はもっとも問うべき存在だったのではないか。ようは「天皇」を問わなければ全ては「転位」によってうやむやになってしまうということである。この「天皇」の質問に対して足立監督は、「天皇」は勿論映画の中で考えた問題ではあったが、それを直接入れると主題が拡散してしまうので出さなかったと、直接答えてくれた。

 その後、ちょうど映画の本を買ったので、監督にサインをもらいに行く時、もう一つ直接監督に質問をした。それは当初から気になっていたのだが、主人公の「川上徹也」が「濡れている」ことだった。ポスターでも濡れていたし、去年公開になったばかりの時もシャワーを浴びたように水をかぶっており、雨の下に濡れる「川上」の写真もあったのを記憶している。実は映画でも、実際にその場面では雨は降ってはいないのだが、画面に重なる形で雨粒が降り注ぎ(だから誰も実際には濡れてはいない)、その雨音が激しくなると、セリフなどが聞こえづらくなりはじめる。あるいは、演出として降っていないはずの雨が、今度は実際降り始め、実際に「川上」が濡れるという演出もあった。「安倍」が狙撃される際も、「安倍」の演説が聞こえなくなるくらい土砂降りの演出になり(これは前者の雨粒が重ねられる演出)、実際当日は晴れていたわけだが、その雨音の中で銃撃が行われた。そして事件後「妹」は兄の犯行を知って自転車に乗るのだが、こちらは実際に雨が降っている場面がある。この象徴的な「雨」の描き方は何だろうと思い、監督に、「あの雨は何でしょうか?」と聞くと、最初ちらっと僕を見て、「あれは川上の心の中の描写になろうとする時に雨が降る」というので、「なるほど」と僕が言うと、監督が「よかったですか?」というから、「印象に残りました」といって、握手をするため監督が手を差し伸べてくれたので、握手をして帰った。監督は「僕はああいう描き方をするんだよ」とも言っていた。映画って本当に総合的な芸術だし、綜合的な才能がないとできないものだなと、感じ入ってしまった。もちろんこれは映画をほとんど見ない僕の素人の感想である。

 その後渋谷で久しぶりにラーメン屋さんに入った。有名店らしく23時前だというのに、僕の後ろには行列ができていた。運よくすぐ入ると、あご出汁ラーメンを食べ、おいしくはあったのだが、僕の故郷の味「スガキヤ」の味とほぼ同じであった。