「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

理性の「公的使用」と「批評」

2025年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
 最近ネットで「批評」の復権とか、「批評」をどうにかしようとか、そういう議論がなされているのを見かける。その場合、「批評」とは何か?ということになるのだが、それが統一されているものでもないので、それぞれの自分なりの批評史における「批評」をたどり直すことになり、その史観の違いでしばしば論争にもなっているようだ。例えば僕にとって「批評」とは何か?というと、いくつか思い浮かぶテクストや人物はいるが、そういう具体的なものというよりも、抽象的な基準が一応ある。それはカントのいうところの「理性の公的使用」というものだ。カントには「理性の公的使用」という概念があるが、この概念は普通に考えると少しわかりにくい概念で、『啓蒙とは何か』の中で読んでも見てもすぐにはぴんと来ない。そのため僕なりの実例で説明したい。

 例えば先日(2025年1月18日)、youtubeのチャンネルで、「映画「ゲバルトの杜」及び原作本「彼は早稲田で死んだ」を徹底批判する討議」(討議参加者:絓秀実・河原省吾・吉永剛志・長濱一眞・花咲政之輔)を視聴した。そのチャンネルでは、映画『ゲバルトの杜』の問題点と、このブログでも書いた雑誌『情況』をめぐるトランスジェンダーへの差別問題にも言及され、討議された。その中で明確だったのは、そこに資本主義批判があるということだった。議論の内容はその資本主義批判を軸にして、「しつこく」、「粘り強く」おこなわれているように見えた。昨今あるような、すごく画像がきれいで、視聴者が見やすいように文字表示があったり、気の利いたサムネイルが作ってあるような放送ではなかったが、最後に絓秀実が「これからも様々な形で批判は続けていきます」という言葉通り、僕は仕事で行けなかったが、池袋のジュンク堂でも『全共闘晩期』出版イベント「ニューレフト/社会運動の持続と転形」(2025年1月25日)が開催されている。「これからも様々な形で続けていく」という、討議での絓の言葉に、僕は批評性を感じたわけだが、しかしこの「様々な形で続けていく」ということはかなり難しいことなのだ。

 きれいで見やすく、そして気の利いた演出のある動画で視聴者数を稼ぐ、あるいは有名な出版社や著名な作家や批評家とのネットワークを構築して、そこで発信することで読者を増やす。そのようなことが「批評」を復権させることだとしたら、「徹底批判」の配信は、それとは趣の違うものである。youtubeがこれほど一般化していない2010年以前に早稲田大学の大教室で、新学生会館建設反対運動のシンポジウムが開かれ、そこには絓も含めた反対派の人々が登壇していた。そこに観衆として僕は参加していたのだが、タテカンやトラメガ、ビラ配りによる反対派の意見表明に対して、観衆からそのような古臭くて読みづらい意見表明ではなく、youtubeなどを駆使した情宣をするべきだ、という意見が出され、登壇者たちはタテカンとトラメガ、そしてビラ配りにこだわりたい、という反論をしていた。僕も、そのような誘惑にかられたとしても、立ち止まって、「古いメディア」にこだわるべきだろうと思った。それから十年以上たって「徹底批判」の配信を見ながら、僕はその時の大教室での反対派の反論を思い出していた。

 組合の労働運動などでも、ネットを駆使したりSNSを使っての情宣が効果的だということはある。しかしそれは、労働運動においてビラ撒きや直接的なデモ行進をしない言い訳にされることがほとんどである。そんな古い泥くさいやり方は共感を得ないから、新しい皆が理解できるような、そして多くの人を取り込めるような動画を作りましょう。ようはCMと同じなのだ。しかしおそらく、これによって運動は批評性を失っている。もちろん運動には賛同者や人的ネットワークは当然必要である。しかし、それでは体制側が嫌がったり抵抗感を感じる運動が、マーケティングや広報に吸収されて行ってしまう。そこに吸収されないためには、きれいな動画を作るのではなく、少し時代に遅れるか、ノイズがあるというか物質的抵抗感があるメディアを維持し続けるほうがよい。その感覚を維持するには資本主義批判を常に軸に置く必要がある。

 効果が大きい、人が集まりやすい、みんなの共感を得られやすい、などなどというのは、一番資本主義が洗練した形でおこなっているのであって、それに追随するのならば、体制への批判性は自然となくなっていくだろう。資本主義の改良のための意見を言うことはできるだろうが、体制自体に打撃を与えるような言論は、そこからは生まれようがない。恐らく、批評性を維持するためには、この資本主義の洗練とは逆のことをしなければならない。それは滑稽に映ったり、時代遅れに見えたり、まったく効果のない無駄な行動に見えるかもしれない。例えば、一日配って数人にも読まれないビラまきのような行動は、忌避される。しかしその無駄なことを「様々な形で続けていく」ことこそ、カントのいう「理性の公的使用」のはずである。効果があって、世のため人のために有益になされる「批評」があり、それが数多くの読者の啓蒙に役立つから批評的行動をするのだとしたら、そのような「批評」は「理性の私的使用」に過ぎないのだ。

 僕は「理性の公的使用」を単純な意味で貫くのは難しいと考えている。資本主義の体制内で飯を食うかぎりは、そこに程度の問題という「私的」な問題が生じるからである。しかし、資本主義批判という軸を立てることで、「私的」なものに回収されない「公的」な運動や行動の持続は確保できる、と僕は考える。その「公的」な批評性というのは、人に求められたり、よく読まれたり、啓蒙したりされたりするテクストを単に作り出したり、売ったりするということとは違う。これは敗北主義や低徊趣味、ロマン主義的な逆張りで言っているのではなく、おそらく資本主義と逆のことをしなければ批評性は生まれない、ということをいっているのだ。すべてを「私的」なものに回収してしまうパワーのことを資本それ自体だとするならば、そこに回収されない「公的」なものは、資本主義の逆にしかないからだ。その意味でマルクスがこれまでの「批評」の根幹にあったことは理解できる。仮に今「批評」が振るわないのだとしたら、単純にマルクスや資本主義批判を「様々な形で続けていく」ことを「批評」が放棄し始めているからだろう。

 労働運動などでも、ビラ配りをしましょう、直接抗議に行きましょう、というとそれは古臭いとか、それは軋轢を生むと言って、もっとスマートな方法を提案しようとする。ほとんどその時はネットである。だがその様な資本主義的洗練は「私的」なものの洗練であり、いずれは大きな「私」に回収されていく運命の意識だろう。それに抗して「公的」であることを「様々な形で続けていく」ためには、弁証法的な意味で、資本主義と逆のことをしなければならない。それは『資本論』的分析を経た形で、である。現状の体制では効果がないこと、洗練されていないこと、野暮ったいこと、時流から外れていること、それを「様々な形で続けていく」ことは勇気がいる。常に「私的」な利害関係へと資本主義は誘うからである。そういえば、長崎浩をめぐるシンポジウムの会場の外には、「徹底批判」の配信の登壇者であった花咲政之輔が、ジュンク堂の出版イベントのビラ配りに来ていた。

兵庫県知事選をチラ見しつつ

2024年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 普段から選挙に関心を持たず、休日は疲れてほとんど寝てしまっており、「チラ見」程度にも実は経緯を見ていなかったので、看板に偽りありかもしれないが、それも「選挙」にはふさわしいということで書いてみる。斎藤元彦元兵庫県知事が、今回の県知事選(2024年11月17日・投票日)で再当選したようだ。「パワーハラスメント疑惑」をめぐって、議会から不信任案が提出・可決されて失職した斎藤元知事が「出直し」ということになり、「民意」もそれを支持したということになるのだろう。Twitterなどを見ると、やはり「異常事態」として捉えている人も多く、「パワーハラスメント疑惑」とそれに関わった県の職員が「自殺」しているとなると、斎藤元知事の再当選が「異常事態」として見えるのも、当然かもしれない。しかし一方では、「マスゴミ」の世論誘導によって斎藤元知事は陥れられていたのであって、「選挙」で「民意」がそれら「マスゴミ」を破り、斎藤氏は無事知事へと帰還したという、「我らの民主主義」の「勝利」を誇る意見も多数あり、確かに「選挙」に勝利したのだから、「民意」の「勝利」には違いないともいえる。

 「こういう選挙」というのはSNSやネット以前にもおそらくあった(ある)はずである。そして「とんでもない」と思われる候補者が次々と誕生していた(している)ことは、昨今の選挙結果を見ても容易に予想できる。今回の選挙戦はマスメディアやネットで注目されていたので特に目立ったが、選挙の「日常風景」といっていいと思う。いろんな場所に行けば、何故この人が?、と思うようなその地域では疑問符の付く所業の人物が、「長」になっていることはあるわけだから、不思議ではない。

 ただ言えるのは、「民意」に失望している人も、逆にその勝利を喜んでいる人もコインの裏表の関係だということだろう。双方は結局のところ、民主主義における代表制に無自覚に依拠しているからだ。「民意」を代表=代行することへの過剰な期待と依拠が、むしろこの「選挙」という代表制の失調を表しているように見える。これは「ポリコレ」や「コンプラ」に見られるような、「マイノリティ」や「道徳」を代表=代行するという昨今の傾向と、軌を一にしているのである。民主主義(来るべき民主主義?)もマイノリティ運動も、本来は「民主主義」という代表=代行制度によって毀損されてしまうような問題を考えるため思索され、実践されるもののはずだ。だがさしあたり実践的には、マイノリティ運動も民主主義と「選挙」という「最悪の政治形態」という例外の中で活動をせざるを得ないわけで、その本来性と実践のレベルの差異や亀裂をどう埋めるかが、問題化されるべきことだろう。そういう意味では、マイノリティ運動は代表=代行制度としての民主主義や「選挙」には、ある部分で敵対的になるわけであり、実際的にもこれまで敵対してきたわけである。それ故、様々な思想家がいろいろな形で表わしていた、そういう意味での「来るべき民主主義」は本来、民主主義と敵対しているということになる。SNSやネットの民主主義も、ある部分ではこの「来るべき民主主義」の一つに数えられ、まだ可能性が皆無なわけではないが、しかし、イーロン・マスクやサブスクその他の例を見てわかるように、ネットは急速的に封建化し、「サブスク」を「年貢」として人々から搾取して、封建領主として巨大化するインフルエンサーや資本家が支配する世界となっており、その意味での民主主義的敵対は無い。むしろマスクやインフルエンサーは、自らのご都合主義によって作った封建制度を「新しい民主主義」と僭称することで、現行の民主主義を壊そうとしている、ともいえる。「最悪の政治形態」という民主主義の例外性を、彼らに逆手に取られているということだろう。しかも企業的な「ポリコレ」や「コンプラ」は全く代表=代行制に敵対的ではなく、単純に企業活動のノイズを取り払うために使われている。それに依拠しているだけのマイノリティ運動と思われる行動も、実際はトヨタや電通のいうような社会の多様性を称揚するだけになってしまう危険がある。むしろ、「ポリコレ」や「コンプラ」が単に現状の資本主義と民主主義を防衛するためだけに、即ち「民意」を代表=代行するためだけに使用されるとすると、人々に対する管理コントロールの統治の側面だけが強化される結果となるだろう。実際、企業ガバナンスという形で、企業の統治形態は、一般の人々の生活にまで浸透してしまっている。マスクがこんなに人々に関わってくるのもそのためだ。そして、「新しい民主主義」への人々の欲望は、トヨタや電通、マスクへの「年貢」へと交換されて上納される。

 人はそれ故にこの資本主義に基礎づけられた民主主義の潜在的な管理から逃れるように行動はしているのだと思う。それは斎藤元知事を支持している「民意」が「マスゴミ」に勝利した、と喜ぶ姿からもそれがわかる。「民意」が「マスゴミ」に勝利するという、「来るべき民主主義」、「新しい民主主義」の勝利がやってくるという一瞬の昂奮は、嘘のものではない。だがそれは、「民意」や資本主義的な統治を許容する民主主義下では必ず裏切られることになる。その勝利をした「民意」は必ず「年貢」に変換されてその付けを払わされることになるからだ。

 その意味で斎藤元知事を支持した「民意」も、その対抗を支持した「民意」も同じく資本主義的な統治と、それに関わる民主主義的な代表=代行制度を支持している点で同じということになる。なにも壊せてはいないし、何とも敵対していない。「マスゴミ」と罵倒しながらも無意識では手を結んでいる。「マスゴミ」と呼べるのも結局はマスメディアの影響下で可能なことである。それによって「民意」は民主主義と代表=代行制に依拠した企業や資本家の「ポリコレ」や「コンプラ」へとさらに依拠することとなり、人々の「来るべき民主主義」への欲望は、電通やマスクへの「年貢」となり、サブスクとなって吸収されていく。そしてトヨタや電通、そしてマスクは、封建領主として、ますます「彼らだけ」が、反民主主義者として、君主として振る舞い、人々を支配するだろう。恐らく、すぐに「マスゴミ」を破った「民意」も「年貢」に変換される姿を見ることになる。それは、もちろん対抗側の「民意」も同じである。

 代表=代行制への批判こそが「民主主義」になり得るという逆説を考えないといけないのだろう。昨今「選挙」が権威づけられすぎである。これはテレビ番組『笑点』がやたら権威づけられていることと関連して述べたいが、今回はそれは置いておくとしても、皆が「選挙」を称揚しすぎであるし、代表=代行制度を無批判に受け入れすぎである。これは、代表=代行制の失調に対する人々の反動化だと思うが、この反動化自体が、封建領主や「年貢」への無批判の服従に繋がっているのだと思う。資本家やインフルエンサー、マスクらが、「来るべき民主主義」を僭称しながら、「ポリコレ」や「コンプラ」、代表=代行制度(「選挙」)を変換器として、人々のそれへの欲望を「年貢」やサブスクに変換し、それを吸収しながら人々を生政治的に支配している側面こそ、批判するべきだろう。資本家やマスクといった封建領主の反民主主義的振る舞いを、人々は「来るべき民主主義」への欲望として迎えるのだが、それは端的に騙されているのであって、その欲望は「年貢」として吸収されている。この「屈辱」をこそ考えるべきではないだろうか。今回選挙に投票したすべての人が侮辱されているわけである。

 この「屈辱」を意識するためには、昨今の「選挙」の権威化への批判と、多様性を僭称する封建領主的な「ポリコレ」や「コンプラ」の資本主義的で生政治的で、「年貢」への変換器となっている側面を直視し、批判することしかないと思う。この県知事選挙に内在する「屈辱」を否認して一喜一憂するのではなく、資本主義や代表=代行制への無批判的な依拠こそが問題だということを考えるべきだろう。代表=代行制度では考えられない問題を考える方法を発明することが「来るべき民主主義」であるならば、この「屈辱」を直視するためにも、資本主義と現行の民主主義を批判する側に何らかの方法で立つしかない。多くがこの封建領主に支配されるという「屈辱」を否認している。それでは「民意」は結局、「年貢」になるしかないのだ。現状最早グローバル資本主義は、民主主義ではないと考えるべきだと思う。

「劇団どくんご」の東京公演を観てきた

2024年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
 今日は「劇団どくんご」( http://www.dokungo.com/ )の東京公演を、小金井公園のいこいの広場に設営された特設テント劇場で観てきた。この劇団の存在はネットで見ていて、友人からも聞いていたが、僕自身演劇を見るということがほとんどなく、恥ずかしながら今まで「劇団どくんご」の芝居を観たことはなかった。ただ、友人から今年は全国ツアーをする予定があるというのを聴き、早速東京公演の予約をしたら運よく席が取れ、今日の観覧の運びとなった。小金井という場所には東京に住むようになって、実は初めて行った。田舎から東京に出てきて住んだところは、これまでほぼ山手線の内側だったので、東京は都市部の雰囲気しか知らない。自然が多く独特の区画で住宅地が並ぶ中を歩くと、何か都市部の秩序とは違った意味での「混沌」があるようで、少し不気味な雰囲気を感じなくもなかった。小金井公園に歩いていくと森がありそこを抜けると、いこいの広場に設営されたテントが見えた。
  

 いこいの広場に行くと既に列ができており、20分ほど待っていると開場となって、テント内の席に進んだ。観客はどんどん増えていき、最終的には客席(ベンチ)に座れる人数なのでもちろん限界はあるが、すし詰めに近い状態まで人が増えた。熱気がすごく、人と人とが触れ合う中での観劇は、自らの身体性を意識せねばならず、それはそれで劇空間とはそういうものだろうと思わされた。芝居は、そのような熱気と人々が触れ合う距離感の中、僕自身は体が大きい方なので少し縮こまってはいたが、あっという間の二時間であった。先ほども言ったように僕は観劇をほとんどせず、芝居などもほとんど見ないため、演劇についてきちんとしたことは言えないのであるが、「劇団どくんご」の芝居は、構成がすごくしっかりしており、様々なシチュエーションがアドリブを含んで輾転と変わるのだが、それをじっくりと考えたり笑ったりしながら見られる作りになっているのである。

 劇が始まる前に、俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言い、それは「意味」に収束されない身体性や、ナンセンスなシチュエーションが上演されるということなのだが、しかし、「差異と反復」というべき演劇上の構成は確かにきちんと存在していた。僕の見た所、演劇は「記憶」における「身体」や「場所」の「差異と反復」がとにかく即興的に上演されているように見えた。そこでは「記憶」が常に「欠落」として現れ、俳優たちはその〈記憶=欠落〉の周りで体を反復して動かしたり、また言葉を反復させて、そこに差異を生じさせようとする。〈記憶=欠落〉こそが、身体や言葉の「差異と反復」を生み出し、そこに即興的であり無秩序でありながらも、しっかりとした身体と言葉の構成が創造される。そのような俳優たちの「差異と反復」がテント内で「波」のように押し寄せたり引いたりするところは爽快だった。そして、そのような寄せては引くような「波」の「差異と反復」は、今回の芝居にも登場しており、一つのテーマであったといえると思う。

 芝居の後半で、劇中に「物語の洪水」という比喩で、「物語」が流れていくシチュエーションが登場する。上にも書いたように、劇の最初に俳優が「どくんごの劇には「意味」なんて読み取れない」というようなことを言ったわけで、「物語」というのはその「意味」そのものではないかと言いたくなるのだが、しかし、ここでの「物語」というのは、〈記憶=欠落〉と同じで、「物語」自体の欠落、即ち〈物語=欠落〉の流れなのだ。「物語という欠落」の流れに身を投じた俳優たちは、入れ代わり立ち代わり、その〈記憶=欠落〉の中で新たな記憶と言葉と身体性を発明しようと、アドリブで言葉を繋いで反復させていく。そのような「物語という欠落」の流れをテント内に作り、それを奔流させようという試みは、やはりきちんとした劇の〈構成〉がなければできないものだな、と思いながら見ていた。また、その俳優の「差異と反復」の芝居は、入れ代わり立ち代わり舞台に登場するので、演技が終わった俳優は舞台袖で待機しており、その待機している俳優が、今舞台上で演じている俳優をどういう目で見ているのだろうと思いながら見てみると、これもまた大変色々な想像ができる。待機している俳優が、舞台上の俳優及びそのシチュエーションのパレルゴン(額縁)になっており、その絵画的というか映画的というか、そういう芝居の構造も興味深かった。と、ここで気づいたが、今回の劇の一番最初に俳優が演じた芝居のシチュエーションは、まさしく絵画についての芝居であり、絵画が〈記憶=欠落〉を表現して、それが記憶の混濁と無秩序と重なり合いながら、俳優も狂っていくように見えるものであった。やはり劇の構成は一貫性があり、しっかりしたものだと思わされる。

 友人に教えてもらい、「劇団どくんご」を見に行くことができてよかった。テントの中から出て、少し汗ばんだ体で小金井公園の真っ暗な森を抜けて帰るのは気持ちが良かった。

学費値上げ反対と「恐怖」の問題

2024年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
 ちょうど前回、映画の『ゲバルトの杜』と『レフト・アローン』の比較?を書いたのだが、それについて友人と話した。その話は、『ゲバルトの杜』への評価であって、友人とおおむね評価は一致したのであるが、その後帰宅すると、東京大学の学費値上げ反対闘争をしていた学生に対して、学内に大学当局が警察権力を介入させたということで、SNS上で批判がなされていた。それこそ『レフト・アローン』の中で発言されていたと思うが、大学が自治の問題において警察を介入させるのは、学生を含む大学の構成員に生命の危機がある緊急事態の場合のみではないか。そういう意味で、今回の総長団交後に警察権力を介入させたというのは、大学の自治や学問の自由を守る立場の大学の行為としては、非難されるべきだろう。

 それを見ながら、ちょうどその友人と映画との絡みで、東大の学費値上げ反対闘争の話になり、しかしそれ故その時点では東大への警察権力の介入は知らなかったが、その会話のなかで、僕は津村喬の『われらの内なる差別』(三一書房)の中にある「部落、沖縄、朝鮮があるから帝大がある」という言葉を思い出して話していた。津村は「管理社会」の構造として「企業・大学」の「〈異邦人〉」に対する差別構造を批判し、この言葉は『ゲバルトの杜』でも問題にするべきはずの、大学(「帝大」)という生政治的空間、生権力の支配構造への批判の中で記されたものであった。このことは現状の東京大学にいえることだろうし、「管理社会」のモデルとなっているほとんどの大学に当てはまることだろう。僕は友人に、この言葉は「天皇がいるから部落差別がある」という差別構造の問題とも相同的なものだともいえるし、大学の構造でいえば、「教員がいるから学費値上げがある」というべきなのかもしれないなというと、友人は「そうですよ」というと、教員は「天皇の側」にいるんだから、それをちゃんと自覚しなければならないと、批判した。本来ならば、学費値上げ反対闘争における「管理社会」の構造の問題は、学費に注目する場合、それは教職員の人件費の構造的な問題に行きつく。そこには当然、国からの補助金による支配なども全て含まれている。友人の言葉は、現状において大学から給料をもらって生活している、僕への批判にも当然繋がっているのである。

 そのため、この「天皇の側」に存在し、「管理社会」の構造自体を支える教職員が、学費値上げ反対闘争の学生に対峙した時の認識は、自分が飯を食べているこの給与の環境を変革されて倒されてしまうかもしれない、という恐怖になるのではあるまいか。そういう意味では学費値上げ反対闘争は、教員にとって恐怖の対象となるはずである。この「恐怖」を前提として、運動にどう接するかは、その教職員個々人の対応としか言えないが、だがそれでもその「恐怖」は拭い去れないし、「恐怖」なしでこの問題が解決できるというのは欺瞞になるだろう。仮に「天皇の側」にいる自分たちの生活や待遇はそのままで、何ものも変化しない中で学費も上がらないという状況を願うとしたら、それは要は何も変わらない、変えないための運動を支持するという、かつてスラヴォイ・ジジェクがいった、現状を変えないための運動という、倒錯の問題である。

 この「恐怖」の問題抜きには、おそらく運動はないはずだ。

「人道的」という非人道的言葉

2023年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
 ネットや新聞の記事や、テレビでも目にすることがあるが、「人道的」という言葉が大変胡散臭く、また不誠実な形で使われることが多い。少し前は「北朝鮮」への「人道支援」という言葉でもよく耳に入った言葉だが、今回のイスラエルの一方的なパレスチナ国への虐殺と破壊においても「人道的停戦」という不誠実な言葉が使われている。なぜこの言葉が不誠実かというと、この「人道的」という修飾語によって、イスラエルが主体的におこなっている虐殺や破壊が免罪されているからである。例えば「人道的停戦」を求める場合、その言葉には理由はともかく、「人道的」には人命が第一なので停戦を要求するという意味があり、だがそれはイスラエルの軍事行動を非難するのではなく、ひとまず理由はともあれ人命が失われる行為を止めましょうという、そこでおこなわれているそれこそイスラエルの人道に反する戦闘行為の主体を曖昧にして、行為の当否を留保する効果もあるのだ。この「人道的」という言葉こそ、イスラエルの人道に反した戦闘行為を許してしまっているのである。勿論、こうやってイスラエルを免罪することで、そのイスラエルの同盟国もイスラエルとの関係を顧慮することなくパレスチナ国のガザ地区を「人道的」に救援しようという意図があるのかもしれないが、しかし「人道的」という言葉でイスラエルを免罪し続けている、ヨーロッパ・アメリカ中心主義こそ非人道的な行為の根源であり原因だというべきである。

 このような「人道的」という理念的かつ超越的な修飾語は、経験的次元におけるイスラエルという行為の主体と、本来の「人道」とという倫理の次元を逆説的に切断してしまい、イスラエルの虐殺・破壊行為と倫理との結びつきを曖昧にしてしまう。この「人道的」という言葉の使用は大変不誠実である。本来、「第二次世界大戦」で問題となった「人道に対する罪」、「人類に対する罪」、「平和に対する罪」などの法的な概念は、人間の行為が人間の実存の根源そのものを破壊し得るということを法の次元で問題化したものであり、人類や正義という概念や存在に対する「罪」の様態を明らかにするために「発明」(ジャック・デリダ)された言葉であったはずだ。それ故、これ等「人道」をめぐる「罪」の概念の「発明」は、新たな人類の倫理的な次元を拡張したはずなのだが、昨今使用される「人道的」という言葉は、逆にこの倫理的な次元を曖昧にして閉ざしてしまっている。かつてナチが「ユダヤ人」に対しておこなった、人間の実存そのものを破壊しようとした「絶滅」という暴力を、倫理的な次元で「罪」として問題化し得た「人道」という言葉を悪用することで、ヨーロッパやアメリカはイスラエルが今現在おこなっているパレスチナへの、人間の実存そのものを破壊し得る暴力を免罪させている。この不正こそ問われるべきだろう。

 そして、この「人道的」という、逆説的に倫理を毀損する言葉は、形や言葉を変えて、資本主義の日常でも使用されていることに注意する必要がある。