カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(伊藤潤一郎、吉松覚、横田裕美子訳、青土社)を読書会で読んだ。マラブーは哲学における「支配されざるもの」にアナキズムの原理を見ようとしている。西洋哲学には、特にギリシャ哲学以降、アルケーという支配の原理でありながら、同時に支配されざるものでもある、何ものかが存在する。このアルケーをめぐる「ダブルバインド」の中にアナキズムの原理を見ようとする。だが、西洋形而上学はこのアルケーを結局は、支配と被支配という非対称のエコノミーの中に回収してしまい、支配者のエコノミーにアナキズムを服従させることで台無しにしてしまう。アナキズムというのは、非-アルケー的なものであるのだが、この支配と被支配という非対称のエコノミーによって、支配と被支配の位階ができてしまい、形而上学というアーキテクトとして固定されてしまうのである。形而上学的位階制ではなく、アルケーの支配の原理でありながら同時に支配されざるものでもあるというアナキズムの原理であるダブルバインドをどのようにして維持するのか。この問題を哲学史としてマラブーは分析していく。
マラブーはアリストテレスに始まり、デリダやレヴィナス、フーコー、ハイデガー、バタイユ、フロイト、ランシエール、アガンベン……などを取り挙げて、おおざっぱに言えばこれらの哲学者も、アナキズムの原理でもあるような非-アルケーの「ダブルバインド」を考察し、形而上学的支配と被支配の非対称的エコノミーを脱構築しようとしたわけだが、しかしながらやはり彼ら哲学者もまたアナキズム的な〈アルケーなきアルケー〉を隠蔽した、ということを証明しようとする。この手つきはものすごくデリダの脱構築的な読解に似ていて、要はこのアナキズムの原理になりうる、西洋形而上学が隠蔽する〈アルケーなきアルケー〉とは、デリダがいうところの「エクリチュール」の位相ということになるのだろう。形而上学という「声」の位階を現前の基底に置く西洋の体制は、「エクリチュール」としての「死」を抑圧することで成立したのだと。西洋形而上学はこの「エクリチュール」を〈泥棒〉し、そしてその盗み自体を抑圧して隠すことでその正当性を主張するのだ(あるいは《エクリチュール=盗み》を隠蔽するともいえる)。マラブーはデリダのように〈エクリチュール=アナキズム〉を抑圧してきた哲学の問題を考えているといえるだろう。
ただ、これは読書会でも話題になったのだが、マラブーのアナキズムの擁護と、その擁護の方法には、〈現代的〉というべきか、ある種のポリティカルコレクトネスが宿っているように見える。例えばレヴィナスは哲学の中にある「支配されざるもの」を「奴隷」の形象で語ろうとする。それは「ユダヤ人」でもあるのだが、西洋形而上学やキリスト教的体制の中では異物となってしまう「奴隷」や「ユダヤ人」という形象というか存在というか痕跡というか、は「支配されざるもの」としての特異点になる。レヴィナスはここにアナキズム性を見るわけだが、マラブーはこれを批判する。レヴィナスの「奴隷」が、レヴィナスにとって「奴隷」は比喩ではないのだが、マラブーによればレヴィナスの「奴隷」は、黒人の奴隷などの、ポストコロニアリズムにおける「奴隷」の問題を全く考慮に入れていない、というのだ。それは確かにそうだし、それは批判されてしかるべきだと思うが、しかし、ポストコロニアリズム的な「奴隷」を仮にレヴィナスが語っていたとして、それでアナキズム的なものを、レヴィナスがより正確に把握することができたのかは、確かではないと思う。むしろこの批判によって、「奴隷」のモチーフは死んでしまい、レヴィナスがアルケーの支配体制に亀裂を入れようとした問題が、文化主義的にうやむやになるのではないのだろうか。
僕はこれを読んだ時に、例えばデリダには『歓待』という本があるが、このデリダのいう「歓待」が示すアナキズム性の方が、マラブーのPC的アナキズムより、よほどラディカルではないかと思った。確かデリダの『歓待』の中には、砂漠でキャンプを張っているある家族が、偶然に出会った客を「歓待」したとき、「庇貸して母屋とられる」的な歓待をし、さらに自分の「娘」を客に差し出して、それは性的暴力や性的収奪を含む「歓待」がなされたことが、書いてあったと思う。これが「歓待」の不可能性の問題になるのだが、「歓待」とはこのような破滅と隣り合わせであり、人はこのような「歓待」は事実上不可能でありながらも、しかしだからこそ「歓待」が問題になる地点に留まらざるを得ないという、それこそダブルバインドの問題が「歓待」として描かれていた。よく日本国憲法の「戦争放棄」の問題の時、敵国が攻めてきても戦わないのか、という話になるが、ここでも本当は「歓待」の問題が存在するはずである。「歓待」をすれば身を滅ぼし、「歓待」自体がなくなる。しかし身を滅ぼさない接待は「歓待」ではないのだから、それでも「歓待」は消滅する。このダブルバインドの中で、〈歓待=破滅〉を考察するデリダの方が、PC的なアナキズムに留まるマラブーよりも、よほど暴力的でラディカルといえるのではないだろうか。デリダの「歓待」のほうが、よほどアナキズム的だといえる。これはやはり68年的「享楽」(ラカン)がマラブーには欠けているからではないか、などと考えてしまった。マラブーは〈アルケーなきアルケー〉的な真のアナキズムと、アナルコキャピタリズムとしての、経営者的アナキズムを分けていたが、PC的アナキズムはむしろ、アナルコキャピタリズムに近づきはしないか?
また、このアルケーをめぐるダブルバインドは、日本の場合だと「天皇」に収斂されてしまう。日本の中で「支配されざるもの」とは支配者としての「天皇」以外の何物でもないだろう。「天皇」とは支配者でありながら、西洋形而上学的位階で表わされるような支配者ではなく、臣民と非対称ではない関係を結ぶ、とされている(もちろん実際そんなことはあり得ないが)。支配者でありながら同時に支配されざるものでもあるという、この「天皇」のダブルバインド的性質を一番よく表現したのは、三島由紀夫の『文化防衛論』である。三島のいう「文化概念としての天皇」は「秩序」と「無秩序」の両方を司るダブルバインドの存在として示されており、マラブーのいうアナキズムの原理とそっくりだといえる。そういう意味では、日本でアナキズムを考える場合は常に「天皇」の問題になってしまう、ということを読書会では確認した。西洋哲学は確かにアナキズムの原理を抑圧し続けているといえるのだろうが、日本の場合もアナキズムの問題は「天皇」に収斂しているといえよう。そういう意味で「大逆事件」や大杉栄や北一輝などの問題は、複雑に「天皇」と絡み合っていく。
マラブーにはラディカルさが足りない。それは今のいう意味でアナキズム的なものの「享楽」が、ラカン的な意味で考察されていないのではないかと思う。ソレルの『暴力論』でいうところの「神話的暴力」としてのアナキズム性のようなものが捨象されているのではないかと思う。いうなれば本書はPC的アナキズム論になってはいないのだろうか。その意味では「おもしろくない」わけである。ただ、勉強にはなった。哲学史の中で、デリダ的脱構築の手つきで、西洋形而上学が抑圧してきた〈アルケーなきアルケー=アナキズム〉を追っていくという整理の仕方はわかりやすかったし、他の分野や事情にも適用できそうだ、というヒントになるものはあった。また「解説」によれば、この本はまだ導入であって、マラブーのアナキズム論の本体は、次の書物で既に出ているということで、それは翻訳されるのが楽しみである。
マラブーはアリストテレスに始まり、デリダやレヴィナス、フーコー、ハイデガー、バタイユ、フロイト、ランシエール、アガンベン……などを取り挙げて、おおざっぱに言えばこれらの哲学者も、アナキズムの原理でもあるような非-アルケーの「ダブルバインド」を考察し、形而上学的支配と被支配の非対称的エコノミーを脱構築しようとしたわけだが、しかしながらやはり彼ら哲学者もまたアナキズム的な〈アルケーなきアルケー〉を隠蔽した、ということを証明しようとする。この手つきはものすごくデリダの脱構築的な読解に似ていて、要はこのアナキズムの原理になりうる、西洋形而上学が隠蔽する〈アルケーなきアルケー〉とは、デリダがいうところの「エクリチュール」の位相ということになるのだろう。形而上学という「声」の位階を現前の基底に置く西洋の体制は、「エクリチュール」としての「死」を抑圧することで成立したのだと。西洋形而上学はこの「エクリチュール」を〈泥棒〉し、そしてその盗み自体を抑圧して隠すことでその正当性を主張するのだ(あるいは《エクリチュール=盗み》を隠蔽するともいえる)。マラブーはデリダのように〈エクリチュール=アナキズム〉を抑圧してきた哲学の問題を考えているといえるだろう。
ただ、これは読書会でも話題になったのだが、マラブーのアナキズムの擁護と、その擁護の方法には、〈現代的〉というべきか、ある種のポリティカルコレクトネスが宿っているように見える。例えばレヴィナスは哲学の中にある「支配されざるもの」を「奴隷」の形象で語ろうとする。それは「ユダヤ人」でもあるのだが、西洋形而上学やキリスト教的体制の中では異物となってしまう「奴隷」や「ユダヤ人」という形象というか存在というか痕跡というか、は「支配されざるもの」としての特異点になる。レヴィナスはここにアナキズム性を見るわけだが、マラブーはこれを批判する。レヴィナスの「奴隷」が、レヴィナスにとって「奴隷」は比喩ではないのだが、マラブーによればレヴィナスの「奴隷」は、黒人の奴隷などの、ポストコロニアリズムにおける「奴隷」の問題を全く考慮に入れていない、というのだ。それは確かにそうだし、それは批判されてしかるべきだと思うが、しかし、ポストコロニアリズム的な「奴隷」を仮にレヴィナスが語っていたとして、それでアナキズム的なものを、レヴィナスがより正確に把握することができたのかは、確かではないと思う。むしろこの批判によって、「奴隷」のモチーフは死んでしまい、レヴィナスがアルケーの支配体制に亀裂を入れようとした問題が、文化主義的にうやむやになるのではないのだろうか。
僕はこれを読んだ時に、例えばデリダには『歓待』という本があるが、このデリダのいう「歓待」が示すアナキズム性の方が、マラブーのPC的アナキズムより、よほどラディカルではないかと思った。確かデリダの『歓待』の中には、砂漠でキャンプを張っているある家族が、偶然に出会った客を「歓待」したとき、「庇貸して母屋とられる」的な歓待をし、さらに自分の「娘」を客に差し出して、それは性的暴力や性的収奪を含む「歓待」がなされたことが、書いてあったと思う。これが「歓待」の不可能性の問題になるのだが、「歓待」とはこのような破滅と隣り合わせであり、人はこのような「歓待」は事実上不可能でありながらも、しかしだからこそ「歓待」が問題になる地点に留まらざるを得ないという、それこそダブルバインドの問題が「歓待」として描かれていた。よく日本国憲法の「戦争放棄」の問題の時、敵国が攻めてきても戦わないのか、という話になるが、ここでも本当は「歓待」の問題が存在するはずである。「歓待」をすれば身を滅ぼし、「歓待」自体がなくなる。しかし身を滅ぼさない接待は「歓待」ではないのだから、それでも「歓待」は消滅する。このダブルバインドの中で、〈歓待=破滅〉を考察するデリダの方が、PC的なアナキズムに留まるマラブーよりも、よほど暴力的でラディカルといえるのではないだろうか。デリダの「歓待」のほうが、よほどアナキズム的だといえる。これはやはり68年的「享楽」(ラカン)がマラブーには欠けているからではないか、などと考えてしまった。マラブーは〈アルケーなきアルケー〉的な真のアナキズムと、アナルコキャピタリズムとしての、経営者的アナキズムを分けていたが、PC的アナキズムはむしろ、アナルコキャピタリズムに近づきはしないか?
また、このアルケーをめぐるダブルバインドは、日本の場合だと「天皇」に収斂されてしまう。日本の中で「支配されざるもの」とは支配者としての「天皇」以外の何物でもないだろう。「天皇」とは支配者でありながら、西洋形而上学的位階で表わされるような支配者ではなく、臣民と非対称ではない関係を結ぶ、とされている(もちろん実際そんなことはあり得ないが)。支配者でありながら同時に支配されざるものでもあるという、この「天皇」のダブルバインド的性質を一番よく表現したのは、三島由紀夫の『文化防衛論』である。三島のいう「文化概念としての天皇」は「秩序」と「無秩序」の両方を司るダブルバインドの存在として示されており、マラブーのいうアナキズムの原理とそっくりだといえる。そういう意味では、日本でアナキズムを考える場合は常に「天皇」の問題になってしまう、ということを読書会では確認した。西洋哲学は確かにアナキズムの原理を抑圧し続けているといえるのだろうが、日本の場合もアナキズムの問題は「天皇」に収斂しているといえよう。そういう意味で「大逆事件」や大杉栄や北一輝などの問題は、複雑に「天皇」と絡み合っていく。
マラブーにはラディカルさが足りない。それは今のいう意味でアナキズム的なものの「享楽」が、ラカン的な意味で考察されていないのではないかと思う。ソレルの『暴力論』でいうところの「神話的暴力」としてのアナキズム性のようなものが捨象されているのではないかと思う。いうなれば本書はPC的アナキズム論になってはいないのだろうか。その意味では「おもしろくない」わけである。ただ、勉強にはなった。哲学史の中で、デリダ的脱構築の手つきで、西洋形而上学が抑圧してきた〈アルケーなきアルケー=アナキズム〉を追っていくという整理の仕方はわかりやすかったし、他の分野や事情にも適用できそうだ、というヒントになるものはあった。また「解説」によれば、この本はまだ導入であって、マラブーのアナキズム論の本体は、次の書物で既に出ているということで、それは翻訳されるのが楽しみである。
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