「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「御座候」を食べながら

2024年08月14日 | 日記
 お盆休みは「御座候」を食べながら、「大岡越前」と「鬼平犯科帳」、「税務調査官・窓際太郎の事件簿」を一日中見るという、理想的な日々を送りたい、送るべきである、送っているであろう。特に「窓際太郎の事件簿」を見ながら、最近小林稔侍を見かけないがどうしているのだろう、ということを考えながら過ごしていたい、過ごすべきである、過ごしているであろう。とにかく今「御座候」を一個食べたのだから、来るべき理想達成のプロセスに突き進んでいるはずである。


 Twitterを見ると、トランスジェンダーについての雑誌の「特集」をめぐって「論争」が繰り広げられていた。目次が示されているだけで、内容を読んでいないので、何も言うべきことはないが、前回書いたように、「目覚めていながら酔狂であること」はできるはずで、その目覚めてあることと酔狂の次元を清濁併せ呑む形で維持する「強度」が論文の中にあるかどうかが大事なのだろう。そして、勿論そこには矛盾を読み取ることができるかどうかの、読解の「強度」の問題も存在する。ただ、こういう議論の時、僕はジャック・デリダの歴史修正主義(者)への態度を思い出す。いわゆる「ガス室はなかった」、という類の歴史修正主義(者)に対して「歓待」はどうあるべきかを、デリダはインタビューで聞かれていたはずで、要約するとデリダは、そのような歴史修正主義(者)に反対しつつも、議論は開かれたままで、議論自体は継続されるべきであり、廃絶してはいけないという形で、限定的な「歓待」のプロセスを語っていたはずである。

 もちろんこれは、デリダ自らが出演している映画の最後の場面で、害悪を限りなく永続させてしまう「反復」は、「差異と反復」という「エクリチュール」を「祝福」するデリダも、「呪詛はしないが祝福もしない」という言葉によって「否定的」に語っていることと共に考えなければならないと思っている。デリダも「歓待」の「矛盾」をここで抱え込んでいるのだ。しかしここで重要なのは、デリダがそのような害悪を永続化しかねない「反復」さえも、「呪詛はしないが祝福もしない」という表現で、「反復」それ自体を拒絶するのではなく「留保」していることである。この「矛盾」こそが考えられるべき問題といえる。

 こういう「炎上」に類する時は、「加害」や「被害」、「当事者」や「非当事者」の「分断」などが安易に、簡単に語られてしまうことがあり、またそれがもっともらしく見える場合もある。要は差延的に考えなければならないにもかかわらず、急がせ「切迫性」が演出されてしまうのだ。だが、どのような立場であろうが、「実践」は常に、何らかの形で弁証法的に、敵対者のポテンシャルを自らのポテンシャルとして耐え抜く瞬間はあるはずで、それが「実践」の原動力になる場合がある。そしてそれがなるのかならないのかは、読みかつ議論しなければ判断できないはずだろう。そのようなプロセスを捨象して勧善懲悪的にしか物事を判断しない人がいるとしたら、それこそ、民主的なプロセスを破壊することになるのではないか。

ジジェクを読みつつ、再び今年も地元の「盆踊り」を考える

2024年08月11日 | 日記
 スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書 )を読書会で読んだ。ジジェクの「リベラル批判」が「逆張り」」的にとられて批判はされるものの、本書では重要な生政治と「ネオリベラル」への批判がなされている。そういう意味で、「woke」が批判されるのも、それなりの根拠がある。もちろん「目覚め」なければならない目覚めていない人はいて、それは常識の範囲で目覚めるべきであり、その常識とはきちんと基本的人権の尊重を守り抜くという意味で、さしあたりはいうしかないと思う。その人権の尊重を徹底するという意味でのラディカルさによって、目覚めていない人を目覚めさせる必要はある。
 
 しかしながら、最も目覚めている資本という「woke」と重なっていることに無自覚な「リベラル」は「ネオリベラル」になりうるわけであり、このような「リベラル」は以前から言われているが、批判されるべきだろう。「目覚めた」ことにより良心の疚しさを抱き、誰も達成できないような「マイノリティ」の「代表=表象」のルールを敷いて、結局はそのルールについてこられない目覚めていない人々を断罪する。本来、「マイノリティ」は「代表=表象」のルールには包摂できない「矛盾」として存在しているはずなのに、SNSでは多くの人が、生きづらさや、自らの存在の違和感を表明し、それを「代表=表象」しようとして競い合い、それについてこられない人々を、目覚めていない人として断罪していく。しかしそれは、コンプライアンスによる企業統治の厳しさと、何が違うというのだろうか。グローバル企業は、十分すぎるほど「woke」して、その「資本=woke」のルールの中で、公正に消費者を統治し、スポンサーとして人々の倫理的存在様態にまで管理コントロールの生政治的な力を及ぼしているというのに。
 
 このジジェクの「woke」批判は、絓秀実による華青闘告発の議論と通じるものがある。絓もまた、華青闘告発が「マイノリティ」という矛盾そのものが「代表=表象」には包摂できない「享楽」の次元を開くと同時に、それが「マイノリティ」を「代表=表象」しようという欲望にも開かれることとなるといっているからだ。その意味で、華青闘告発は「マイノリティ」の「享楽」を問題化すると同時に、「woke」の源流ともなる。そういう意味で、絓の華青闘告発の議論は、ジジェクの「woke」批判と重なる。ジジェクも絓も「享楽」を捨象して、結局は「マイノリティ」を「代表=表象」の枠組みに閉じ込めようとする、その倫理主義を批判するのである。「代表=表象」批判というのはあれほど、「ポストモダン」で言われたはずなのに、「ポストモダン」批判と共に、素朴な「代表=表象」の欲望がまたぞろぞろと出てきているようだ。しかも、誰かの生きづらさや、存在論的違和感を、何かの「お気持ち」として、掬い取ることのできるものとして、ケアできるものとして、「代表」しようと競い合う。そしてその「代表」を貫徹するには、ものすごく難易度の高い倫理的ハードルを越えなくてはならなくなる。おそらくこの「woke」できる倫理観のモデルというか、貫徹できるのは「皇室」かグローバル企業としての「資本」になるのだろう。
 
 さて、今年も地元の村の盆踊り大会に行ってきた。去年、僕の同級生を中心にした有志達が、盆踊りを30年ぶりに「復活」させ、実はその年限りでやめるはずだったようだが、同級生たちが、今年も骨を折って開催をしたようだ。完全なボランティアで、やはり昨今の事情もあり、地元の地区の協力は得られず、皆仕事で忙しい中、地区の行事をわざわざ「復活」するというのは、反対が多いようである。それでも、かき氷、ポップコーン、金魚すくいや風船釣り、などの露店も用意され、去年よりも規模は大きくなっている。「復活」の立役者である同級生の「会長」と、僕の家族が「副会長」となっており、いろいろ「復活」の事情を聴くと、やはり開催はものすごく物理的な意味でも労力が必要で、またスポンサーを集めるのも一苦労のようである。ここまでやっているのだから、ぜひ地区や地元の行政も有志たちの行動を粋に感じて支援ほしい、と話していた。
 
 30年前に様々な「リスク」と労力の関係で盆踊りが無くなり、子供たちが集まる場所が無くなっていった。さらに、世代の違う大人たちも交流が無くなっていき、そのような共同体としての危機を有志達は感じている。その不安を汲み取る受け皿がない。むしろ行政や人々はそんな「リスク」は増やさないでほしいという。また、この村の共同体は、もちろん家父長制的な側面がある。これは去年も書いたことだが、体育会的、先輩後輩的、権威主義的、地縁・血縁的側面の「酔狂」が発動しなければ、損得勘定抜きで人を集める場を作る人は集まってこない。村の中で「酔狂」だと思われている人が、祭りで人を集め場を作るということは、よくおこることだ。損得や「リスク」ではなく、その「酔狂」の次元で共同体を維持する欲望が発動する。「woke」から見れば目覚めておらず、解体すべき封建制の「酔狂」。「リスク」としてしか現れない存在が、共同体の危機をどうにかしたいと考える。太鼓をたたいていた町議会議員は「保守系」なのではあるまいか。
 
 共同体を解体し、「リスク」の管理をして、封建的力関係を脱構築した後に何が残ったのか。その盆踊りに参加しながら、僕の「地元ナショナリズム」がふつふつと高まってきていた。「リスク」や損得勘定を超えた「酔狂」の次元を捨象して、「リスク」と損得勘定を「代表=表象」している「リベラル」を、この村の人々は信用するはずがないのではないか。その「酔狂」の受け皿に、結局太鼓をたたきながら、なっているかのようにふるまっている「保守」の議員に、それで勝てるのか。最強の「酔狂」である「天皇」と「資本」に対抗できるのか。できるわけがないだろう。それがジジェクの「woke」への批判なのではなかったか。
 
 目覚めながら「酔狂」でいることはできるはずだ。しかしそれは矛盾を抱え込むという困難がある。だが「代表=表象」への批判というのは、その矛盾を生きるという問題であり、実践理性批判の問題であったはずなのである。
 

八月に入り『失われた時を求めて』を少し読み進める

2024年08月02日 | 日記と読書
 八月に入り猛暑が続いている。ちょうど前回のブログを書いてから、色々予定が重なり今後も年末に向けて忙しく、なかなか落ち着いて文章を書いている時間が取れず、八月に突入してしまった。時間がない時ほど、時間の使い方がまずくなる典型である。

 読書としては、井上究一郎訳『失われた時を求めて』がやっと7巻に突入した。「ソドムとゴモラⅡ」を読み進めている。『失われた時を求めて』を読んでいると、やはり「近代」の「底」、それも「無-底」を観させられている気がして、その「無-底」がプルーストの場合、マルクスでいうところの「下部構造」となっているように読める。どうしようもなさと言おうか、アルベルチーヌとのやり取りを見ても、グダグダとどうでもいいことが延々と描かれており、このグズグズが「近代」を形作っているのだろう、というモチベーションで、僕はこの「物語」をどうにかこうにか読んでいるという状態を保っていると言えそうだ。そしてそのグズグズの中に、「ドレフュス事件」への登場人物たちの距離が見えるようにも書かれている。これが印象的だと思う。前に「泡沫候補」について書いたが、もしこの小説?に別名を付けるとしたら、「泡沫候補」なのかもしれない。最初「泡沫」と書こうとしたが、そういう「はかなさ」が言いたいのではなく、民主主義や資本主義、近代の「無-底」を書いている小説という意味では、その「底」に没落して「根拠」をなすテクストという意味で、『失われた時を求めて」はまさしく、最早取り戻せぬ、「失われた時」の時代としての「底」の時間性を、ある種の遂行的次元でテクストにした小説といえるのかもしれない。とにかく、このブログ自体のタイトルのきっかけともなったテクストなので、終わりまで読んでいくのだが、まだ今からかなりの「長篇」を読むくらいの分量が残っている。

 「パリ・オリンピック」が開催されているようだが、テレビをほとんど見なくなった関係上、オリンピックの競技もほぼ見ていない。どこかの待合室でテレビが流れているときなどに見かけるだけで、その時に一部の競技の結果を知る程度だ。そのような中でネット上ではオリンピックにおける「トランス女性」についての意見が、様々出されていた。特にSNS上の議論というのは、昨今は特に深まらないばかりか、自分たちにとって「適切」か「不適切」かの意見の応酬になって、「プロセス」として議論する過程がほとんど失われている。そこでいろいろ議論してもしょうがないと思いつつ、昔、若い人に「トランス女性」が、「女性競技」に出たら「不公平」だという議論を投げかけられたことがあるのを思い出した。

 その時のやり取りを約めて言うと、トランスジェンダーの存在論的問題を、そのような「不公平」感に還元することは間違っているし、そもそも「トランス」とは、そのようなルールを「なんでもあり」にするという「越境-トランス」の問題ではなく、また流行りの「ハック」のようものでも当然ありえず、その〈あなた〉の抱く仮定上の「不公平」感でトランスジェンダーに憎悪を向けるのは間違っているという話をした。僕自身は昔ここでも書いたように、「性」というのはジャック・デリダのいう「差延」のことだと思っているので、「性」自体が常に既に「トランス」な存在であるわけで、「男女」という二元論的性差さえも、「トランス」という遂行的次元を前提にしなければ成り立たないと思っている。二元論的「男女」も一方の「性」がもう一方の「性」に「トランス」できる可能性を排除したら、存在しなくなるのだ。そしてこのような一方の性からもう一方へという比喩的な表現は本来は正確ではなく、「性」それ自体がその中に必ず「移行」それ自体の可能性を憑依させていることが重要なのである。

 さて、その時はデリダのことまでは説明し切れなかったので、ある程度相手の話を引き受けて、少し「経済的」な問題で逆に質問をしてみた。仮に君のいう「不公平」感にある程度の説得力が宿るとして、例えばオリンピックの場合は、経済的に不利な地域、資本主義的に力が弱い国家からオリンピックに出てきている国の選手のことを、どう考えるのかを聞いた。

 メダルの個数を競争し、喜々としてネットに日本のマスコミまでもが記事を張り付けているわけだが、それを見ると恐らく特定の競技以外は、アフリカ大陸の諸国はメダル獲得という意味での成績は振るわないはずだ。メダルを多く獲得しているのは、ほとんど「列強」としての「先進国」であろう。このような「出来レース」としての「不公平」をどう考えるのか、という質問をしてみた。もしこれが「不公平」ならば、オリンピックの競技は、「国民=国家」別の区分ではなく、「所得」区分で競技をし、「所得」に応じてハンディキャップを設定することで、その結果を是正すべきではないか。とにかく「先進国」が「出来レース」的にメダルを取り、それを当然だと考えていること自体の「不公平」に、君も含めた多くの人が抗議しないのはなぜなのか、と。この「不公平」に抗議しずらいのは、経済的格差は「経済的競技」として公正にでき上がった秩序だからだという偏見から来ているのであろう。アフリカ大陸の諸国が「所得」の関係上、オリンピック競技で不利になるのは、自由主義経済的には資本主義経済という「公正な競技」の中ででき上がったものであり、「自然」なものだと考えられているからである。一方、「性」の「トランス」は「不自然」のものとして、「不公正」と見做されてしまう。しかし、ここに働く判断の恣意性こそ問題だろう、と。

 このような話をすると、議論の相手は一応納得をした。したものの、結局はどういう意味で納得したのかを本当の意味では確認できない。また、こういうまぜっかえしのような議論は根本的な議論にはなり得ない。やはりきちんと、資本主義批判から、フェミニズムの問題もオリンピックの問題も考えざるを得ないのだ。そしてその議論のプロセスで結論が出なかったとしても、話し合う必要がある。基本的人権を毀損する「不公正」を自然化しているそのシステムとしての資本主義を批判することなしに、オリンピックなど見ても無駄だろう。「国民=国家」別のメダル獲得数で何位になったと言い合っている状況では、「トランス」に対する差別も、「所得」による差別も自然化されてしまい、全く見えなくなってしまう。

 それにしても、SNSを見ていても近頃は自分たちに「適切」か「不適切」かという基準で、バッサリ何事も裁断している意見をよく見る。コンプライアンスを批判している人や、相当に知識がある人も、同じように自分にとって「適切」か「不適切」かという基準で事態を判断しているように見える。最早そこには、これまで積み重ねられてきた「表象批判」などなかったかのようである。その意味では、「不適切」を主題にしたドラマは、時代的だったのかもしれない。