「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『詩的モダニティの舞台』の再読と山本陽子の詩について

2023年11月04日 | 本と雑誌
 『絓秀実コレクション』(blue print)(以下、『スガコレ』)で絓秀実の批評をたどり直していると、『スガコレ2』に山本陽子論があるのだが、そこには『詩的モダニティの舞台』(論創社)にも山本陽子論があることが示唆されており、読んだはずなのだが内容を全く忘れており再読した。すると、たしか『重力』(「重力」編集会議)2号でも絓秀実、松本圭二、稲川方人、鎌田哲哉の「共同討議」で山本の詩をめぐって議論があったな、とさらに数珠つなぎで思い出して『重力』02の該当箇所を読んでみた。僕自身は元来詩がよくわからない。詩がわからないということ自体がナンセンスな言い方なのはわかるのだが、詩を読むということがよくわからないのである。小学生の時から教科書に載っている詩の意味が分からず、これはセンスがあって頭のいい人しかわからない言葉なのだ、という先入観が植え付けられ、詩に触れること自体をずっと避けてきたところがある。トラウマといえるかもしれない。そのような僕でも、山本の詩はゾクゾクというか、気味悪さというか、その気味悪さは、不可能なことだが山本陽子って人に会ってみたい、という思いと綯い交ぜになったような気持ちであり、恐らく山本陽子が現代にいても絶対会ってはくれないだろうな、という非対称ともいえる切なさを感じさせられる詩だったので、この非対称性にフェティシズムを覚え、山本の詩は手に入る範囲でちょこちょこ古本屋で買って集めていた。集めるというほどの量があるわけではないが、「視られたもの、うた」が掲載されている『あぽりあ』(あぽりあ同人会)の3号や、同誌8号に掲載された「遥かする、するするながらⅢ」が転載された、『現代詩手帖』(思潮社)の1970年10月号は、古本屋で比較的すぐ見つかり買って読んだが、よく言われるような「難解」な詩とは思わず、むしろ面白いと思った。先ほど言ったような非対称的な切なさを感じさせる詩だった。『青春―くらがり』(吟遊社)も別冊が欠けているばらけたものは手に入ったのは幸運だったのだろう。『山本陽子全集』(漉林書房)全四巻があるが、古本屋でも見たことがないし、高額というのもあり、図書館で借りて読んだ。

 さて、『重力』02では絓が、山本の詩のポエジーを肯定的に捉え、その山本の詩が持っているジャンクさとしてのポエジーが、人々を「革命」へと駆り立てた意義について話していた。これは僕自身山本の詩を読んで、山本に会ってみたいが、もし今いたとしても実際は絶対に会ってはくれないだろうという非対称に引き裂かれる経験と重なるような気がしたので、絓の意見は納得いくものであった。その「共同討議」では松本圭二が、山本の詩は死に接近しすぎだ、というようないい方で、その死に憑依されているニヒリズムというかシニシズムを絓の革命観にもつなげながら批判していたが、僕は山本の詩が死に近づくようなものとは全く思わなかった。山本の詩はむしろあっけらかんというか、シニシズムやニヒリズムのような抒情とは全く関係がない、文字通り何の存在にも関わりがないような、むしろ言葉自体にも関わらないような、ざっくばらんというか、誤解を恐れず言えば、何も考えていない人からするすると出てきた言葉(エクリチュール)のようで、ちょっとこの作者に会ってみたいなというような、〈興味本位〉で〈軽率〉な思いや行為を引き起こさせてしまうような、妙に意欲が湧いてくるものとして読んだ。たしかに、そこにアイロニーがないかといわれれば、ないとはいわないが。しかしそれは僕の問題だろう。

 山本の詩を読んでいて「僕」という一人称単数が出て来て、あれ?一人称単数って珍しいなと思って気になっていたのだが、今回の『詩的モダニティの舞台』を再読すると、絓はこの「僕」に触れていて、さすがだなと感銘を受けた。絓は「俺」にも触れていて、ああ、「俺」という言葉も使っていたかと再確認した。この「僕」や「俺」とは誰だろう、と考えると、『スガコレ2』の山本論でも、「女優」の山本陽子と〈この〉詩人の山本陽子を重ねて論じていて、山本陽子はジェンダー・セクシュアリティ的にも、現存在的にも二重の存在なのだということがよくわかった。山本陽子は「僕」でもあり「俺」でもあり「女優」…………でもあるのだろう。

 こういう山本のポエジーを絓の批評を媒介としながら読んでいると、最近の目的論的というか、自分の政治的倫理的目的に、正確かつ現前的に直結しながらネットで発言している人を見るたびに、この人たちでは人を〈興味本位〉で〈軽率〉に行動させ、扇動させることはできないだろうな、と考えるようになった。そういう〈興味本位〉や〈軽率〉さを、おそらく彼等/彼女等は駄目なものとして糾弾しさえするだろう。マイノリティをエンパワーメントし、民主主義を守り、正義を守る、そのような目的のために正確に目的に着くように書かれ続ける、正確で啓蒙的な言葉。しかし、そのようなポエジーがない(というポエジー?)エクリチュールには「(暴)力」があるのか?パワーがあるのか?正しさとは、あるところで〈軽率〉なものではないのだろうか。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(6)+涼宮ハルヒシリーズ

2023年10月16日 | 本と雑誌
 『ディルタイ全集1』を読了し、「精神科学」と「自然科学」の差異と、その差異に働く「連関」の問題が興味深いものであった。昨今、「文系」や「理系」などの区別があり、今日も仕事帰りの喫茶店で、隣の大学生が、「文系就職」と「理系就職」の差異を話していた。その二人は「理系」らしいのだが、「理系就職」というのを初めて聞き、なんとなくニュアンスはわかるが、「理系就職」の方が、生涯年収が高いということを話し合っていた。それはともかくとして、ディルタイの「精神科学」と「自然科学」の差異と「連関」はそのような、「理系」や「文系」には還元できない問題を内在させている。しかもそこには知的刺戟に満ちた問題提起があると思われる。

 ディルタイは「精神科学」を形作る「連関」を、「自然科学」のそれとは違うものと見做す。「自然科学」は因果関係を「連関」として持つわけであるが、「精神科学」は「歴史」の「連関」として現れていることになる。ならば、その「歴史」の「連関」とはいったい何かということになるだろう。例えば「歴史」の「連関」と聞くと、ヘーゲルに見るような、精神の運動としての弁証法が思い浮かぶが、ディルタイはそうは言わない。ディルタイは「歴史」の「連関」を「心理(学)」、「意識」の認識論的な「連関」として見出すのだ。そのような「心理」や「意識」の認識論的連関こそが、「歴史」としての「生」の構造連関になっているわけである。このような「歴史」の「連関」こそが「精神科学」を「自然科学」から区別する差異ということになる。するとこの「心理」や「意識」の「連関」とは何か、ということになるのだが、これはカントのいう「主観」の構造と重なり合う部分を持っている。カントが「主観」の構造から、数学がなぜ可能なのか、「自然科学」がなぜ成立するのか、そして「自然科学」とは別の自律性を持つ道徳律がなぜ成立するのか、と問うたわけだが、この問いを応用しているように見える。

 「草稿」の時点でディルタイは「精神科学」に相当する言葉を「道徳-政治」の科学と呼んでいる。ということは、カントが「自然科学」とは別の自律性を持つとした道徳律の原理と「精神科学」の原理がアナロジーであるということになる。つまり、カントが「主観」の「連関」に、道徳律を成立させるような「連関」を見出したように、ディルタイも「心理」や「意識」の「連関」に、「自然科学」の因果性には還元されない、「精神科学」の自律性を保証するような構造連関を見出していたということになるだろう。そしてその「精神科学」の自律性は「歴史」の「連関」によって保たれているということになる。何故ならば「歴史」の自律性は、「心理」や「意識」の認識論的な「連関」それ自体であるからなのだ。ディルタイにとって「歴史」は「心理」や「意識」の認識論的「連関」であり、それが「生」の構造である。「精神科学」は「歴史」的なものといえる。

 ただ、「精神科学」は「自然科学」と全く別なのか、というとそうではない。ディルタイは、生理学や物理学などと「精神科学」の「連関」を比較していることからもそれはわかる。『全集1』ではっきりとそう言っているわけではないが、「精神科学」と「自然科学」を「心理」や「意識」の「連関」で区別しながらも、そこには重なり合う「論理」も存在する。そもそも「歴史」は「自然科学」も「精神科学」も歴史化し、「連関」として成立させているわけだから、その「歴史」の「連関」にとって「心理」や「意識」は超越論的な存在だといえるだろう。つまり「心理」や「意識」の「連関」こそが歴史認識を可能にし、「自然科学」と「精神科学」の差異を成立させているからだ。ディルタイもいう「心理」や「意識」の「連関」は即ち「歴史」であり「生」であり、その超越論的連関は、「自然科学」にも「精神科学」にも権利上〈先行する〉といわなければならないのではないか。

 このように考えると、ディルタイは「歴史」を「心理」や「意識」という認識論的な問題にしているのだが、ハイデガーはこれを「存在」の問題に引き付けたといえるだろう。ディルタイの「心理(学)」的な「連関」という認識論への還元は、ハイデガーから見ればカントよりも退行しているように見えるところがある。それはフッサールの「心理学批判」の対象にもなる。ハイデガーは、ディルタイが「連関」から存在者を理解していることと、それが「歴史」の構造になっていることを高く評価しているのだと思うが、しかし、ディルタイが認識論的「連関」にとどまってしまっていると見做したのだろう。ハイデガーは、ディルタイが「連関」を見出した「心理」や「意識」の領域を、存在者の「連関」を可能にする、〈存在=開け〉と読み換えたのである。そしてこの〈存在=開け〉の構造こそが、現存在の実存論的構造を可能にしている「時間」だといえる。ハイデガーはディルタイの認識論的「連関」を、存在者の「連関」とし、その「連関」を可能にしている「開け」こそ「存在と時間」なのだ。

 また、ディルタイは、「精神科学」の「連関」を説明する時、「比喩」を多用する。しかもそこで面白かったのは、「俳優」の「比喩」である。ディルタイは「精神科学」が普遍的な「連関」でありながら、同時に多様な「個性」や「文化現象」を表象可能にするのはなぜか、という問いに、「俳優」と同じで、同一人物という統一性が、違う役柄を何役も演じることができるという多様性と同居しているというように、このような「俳優」の〈表象=代行〉の構造こそが、「精神科学」を可能にしている構造の一つだとするのである。「精神科学」にはフィクションが憑依するという好例だろう。「精神科学」はフィクションによって成立しているといえるのだ。また、ディルタイは「精神科学」の自律性を保証する「心理」や「意識」の連関構造に、「構想力」を見ている。「構想力」とはまさしくフィクションの可能性の条件だが、カントのいう「感性」と「悟性」を媒介する〈図式性=フィクション(イメージ)〉の能力が、「精神科学」の自律性を形作っているというのは、大変面白い。例えば同じ新カント派に強い影響を受けているファイヒンガーが物語やフィクションとは無縁だと思われている「数学」にも、「als ob(かのように)」というフィクションの構造が内在しなければ、その学問が成立しないとしたように、やはりフィクションというのは「精神科学」だけではなく「自然科学」も貫いているのではないかといいたくなる。ディルタイは、そこに大きな問題を見ていたように思う。それをフッサールやハイデガーは批判的に継承していったのだろう。「自然科学」と「精神科学」を貫くフィクションの構造と「連関」。それを「文系」とか「理系」といって考えようとするのは頽廃以外の何物でもないのだろう。

 今日は喫茶店で、谷川流+いとうのいぢ『涼宮ハルヒの憂鬱』を読み終わった。次に『溜息』を読もうと思う。このままシリーズ全てを読破する予定。

10年前に買った北公次『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』のことを思い出して

2023年09月29日 | 本と雑誌
 Youtubeで80年代のトーク番組やバラエティ番組の録画を眺めていると、たまたまジャニー喜多川を揶揄している場面に出くわした。しかしもちろん、それは現在おこなわれているような、ジャニー喜多川による性的虐待(刑法上の犯罪でもある)に対する批判や抗議などではなく、「同性愛者」としてのジャニー喜多川を揶揄する内容であり、揶揄をおこなっていた芸能人の単なる同性愛者に対する差別意識の開陳以上のものではなかった。しかし、その揶揄をおこなっていた人物が典拠としていたのが、北公次の『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』(データハウス)である。Amazonの古本の値段は全く信用ができないが、今見ていると数は出ているのだが軒並み二万円以上の値段がついている。この本は現在は主に「元AV監督」として有名になっている村西とおるが、「ジャニーズ事務所」と対立していた成り行きから北公次に書かせたもので、また和歌山県の田辺市が舞台になっているということもあり、「紀州」としての中上健次や「大逆事件」などの〈文学的関心〉からも読んでみようと思い、10年ほど前に古本屋で数百円で購入した。内容としては、ジャニー喜多川による北公次への性的虐待を含む、北公次の半生記ともなっており、田辺市から上京してジャニー喜多川との出会い、「アイドル」となっていく過程が書かれている。本の内容を要約する意味はないと思うので書かないが、愛憎というか単純な糾弾とは言えない〈複雑〉なものとして読むこともできる。あとから知ったのだが、ジャニー喜多川はアジア・太平洋戦争中は勝浦町に疎開していたようで、和歌山と強いつながり(人脈)があったのだろうか? また、ジャニー喜多川は朝鮮戦争に「米軍」として従軍しているというが、この問題も恐らく考えなければならないことだと思う。

 ともかくそのような関心だけで読んだわけで、こだわってジャニー喜多川について調べたわけではない。あとは友人から勧められた、藤島ジュリー景子の父に当たる藤島泰輔の『天皇・青年・死 三島由紀夫をめぐって』(日本教文社)を買ったくらいである。藤島泰輔は上皇明仁の「御学友」であり、学校から言えば三島由紀夫の後輩ということになろう。ジャニー喜多川、ひいては一般的には「ジャニーズ事務所」と呼ばれる組織の問題は、勿論「性的虐待」、「性的搾取」という犯罪の側面から糾弾されなければいけないのは当然だとしても、「紀州」の問題として、また天皇制の問題からも解明しなければならないという思いを、最近はさらに強くしている。ジャニー喜多川の犯罪行為に対する糾弾は見えやすいが、それは同時に、「ジャニーズ事務所」という組織と「アイドル」の問題は、天皇制や資本主義的搾取、排除と差別の問題、中上健次や三島由紀夫の文学的な問題などからもアプローチされるべき事柄だと思う。そうしないと構造が見えてこない。芸能とヤクザの問題などもここには関係するだろう。これは多分に文学的エクリチュールの次元においても分析されなければならない問題である。ただ僕は北公次の著書を読んだだけで、それ以後継続的に何かを調べたわけではないので、現在はこのくらいの見解しかない。

 ただし、今巻き起こっているジャニー喜多川への糾弾と大手企業の「ジャニーズ離れ」や「自粛」、あるいは「自己批判」は不誠実なものだと言わざるを得ない。冒頭でも書いたように北公次や、またその他の所属「アイドル」からの告発も40年前からあったように、本当はみんな知っていたことなのである。そのような性的搾取の上に「アイドル」が成り立っていたことも、スポンサーは少なくとも知らなかったとは言えないだろう。それが〈表沙汰〉にならなかったのは、何も「ジャニーズ事務所」の力だけではなく、それが持ちつ持たれつの関係であったからだ。スポンサーもマスメディアも持ちつ持たれつで隠蔽したのであり、「知らなかった」とか「考えが甘かった」、「その頃はそれが犯罪という認識がなかった」というのは嘘で、ようは持ちつ持たれつの関係が壊せなかった、というだけのことで、そこには社会正義とか人権とか、そういうものはおそらく何も介在していない。それらはジャニー喜多川が死んだから明るみになっただけで、人権や被害者救済のために企業は態度表明をしているのではなく、単純に現在の資本主義の規範であるポリティカルコレクトネスとコンプライアンスに違反すると市場から締め出されてしまうため、ご都合主義的に謝罪や「ジャニーズ離れ」を表明しているに過ぎない。そしてこれこそがジャニー喜多川の問題を逆に隠ぺいするのではないか。要は責任を取るのではなく、市場からの締め出しを防ぐための画策であり、企業の自己防衛であり、「ジャニーズ事務所」の対応もそれに準じるものだろう。

 これは現在における「当事者性」や「ケア」という概念を作り上げてきた議論が、かつての〈加害者〉や〈被害者〉と呼ばれる一方向性の関係を複雑化し、人権の尊重と擁護を複雑なプロセスのもとで考えられるようにしたことの一方で、特に「ケア」などの概念が、資本主義的なマーケティングと重ねられてしまう問題なのではないだろうか。本来は「当事者性」や「ケア」の理論の次元は、〈被害者〉や〈加害者〉というそれまでの一方向性の責任関係の問題ではなく、両者の非対称性、それは簡単に責任を取ることはできない、むしろ責任は負いきれないものとしてしか現れないという問題提起と、両者の非対称性がいかなる関係性なのか(時には「共犯」であることもあるだろう)を考え抜くための理論なのだと思うが、それが資本主義的な経営やマーケティングの自由主義的公正さ、それは競争の公正さともいえる、に横領されていると見るべきだろう。たとえば去年、性的少数者の「カミングアウト」という行為遂行性を、ツイッターで花王が「告白」のレベルで横領し、企業に益する資本としての消費者の〈声〉として集めようとした行為も同じである。

 ワイドショーなどでも「ジャニーズ事務所」は社名を変えなければやっていけないなどと、コメンテーターがいらぬお世話を焼いているが、これも企業存続や資本主義のルールを守れと言っているだけで、〈被害者〉や「当事者」のことは考えていない。何か、そういう資本主義のルールをうまく使いこなす行為がクールな態度だというレベルでしか、話していないように思う。最近のワイドショーのコメンテーターは、〈経営者〉のように、ビジネスの指南役のような意見ばかりを言うので、本当にどうしようもない。でもこの経済が回ればよい、資本主義のルールが守られていればよい、という態度は、かつての持ちつ持たれつの関係の中で何の責任も負わなかった「ジャニーズ事務所」とスポンサー企業、そして芸能界の関係と何も変わりがないものだろう。

 このような資本主義的な〈啓蒙〉によって払拭されていく「ジャニーズ事務所」という資本主義化(近代化)されざる封建遺制の問題は、さらなる無責任の追認になりかねない。資本主義のクリーンさでジャニー喜多川というフェティッシュを消し去ったからといって、それは責任でも何でもない。そもそも資本主義は〈クリーン〉なのか?また日本(人)は、最大のフェティッシュである天皇(制)と、ジャニー喜多川とその支援者たちと同じように、常に持ちつ持たれつで生きているわけなのだ。結局これも同じ問題なのではないか。そのためにも、ここには資本主義的な〈啓蒙〉から逃れてしまうような、芸能と天皇、差別や地域性の問題などがあるはずであり、文学的なエクリチュールの側面から考えなければならないと思うのである。

久々の読書でプルーストと外山恒一の本を読む

2023年09月05日 | 本と雑誌
 琵琶湖から帰ると、土日祝が関係のない通しの仕事が詰まっていて、暑さと疲労で気分が、何かを書こう、何かを読もうという感じではなくなっている。こういう生活はいけないなあ。

 さて、井上訳の『失われた時を求めて』は第三巻に入り「土地の名――土地」を読み進めている。僕はこの小説は、ヘーゲルの『精神現象学』や『大論理学』が「雑談」であるという意味で、〈雑談=エクリチュール〉の集積したテクストだと思っている。そしてその「雑談」とは『大論理学』の中に出てくる、「卵売り」のエピソードで語られる「通俗」の問題であるともいえる。この「雑談」は「資本」の構造それ自体なのだと思うが、この「資本」の構造こそ「私」の「雑談」を可能にしている。しかしながら、この小説の面白いところは、その「資本」の構造が、綻びや失調のような形で、うまく働いていかないところを描いており、しかしその齟齬や綻びこそが、この失われた時の世界を現前させているといえるのだ。そういう意味ではやはりこの「雑談」には弁証法的なものがあるようにも思う。イマージュや失われてあること自体が、「資本」の構造としての、失調や綻びから現前してくるというアイロニー、しかもこのアイロニーこそが「近代」という時代性であり、「通俗」と「雑談」の空間なのである。だらだらと最後まで読んでいきたいと思う。

 最近は外山恒一の本をまとめて読んでいる。外山の単行本になった本は、ほぼ集めたのであるが、まとめて読んでみると面白い。特に80年後半~90年代前半の「管理教育」に関する外山の批判は、以前にも書いた、僕が中学校の「生徒会」(外山は「生徒会」的改革を批判している)で経験した、管理教育批判の「生徒会」の立場が、実際は管理教育に加担する立場へと変容していく、という問題と「リアルタイム」でも重なっており、色々考えさせられている。これはしばらく考えてみたいと思う。今は外山恒一編『ヒット曲を聴いてみた――すると社会が見えてきた――』(駒草出版)を読んでいる。「ヒット曲」こそが時代の微妙なところに触れているというのはその通りで、80年代の漫画は、まさしく「ヒット曲」の「雰囲気」の中で描かれ読まれてきたものだと思っている。そしてそれこそが、今のゲームやラノベにも繋がっているはずなのだ。『ろくでなしBLUES』はまさしく「The Blue Hearts」的な何かを伝えようとしていただろうし、『きまぐれオレンジ☆ロード』は失われた68年的な喫茶店の問題(まつもと泉は作品に登場させた喫茶店のマスターを「かつて爆弾を作っていた経歴」といっている。明らかに「68年」的な問題を受け継いでいる)を、杉真理的なもので表現していた。それはまつもと泉が意識してやっていたことだろう。

僕は音楽をほとんど聴かない無教養人であるので、少し辿りなおしてみたい。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(4)と「涼宮ハルヒシリーズ」を購入

2023年08月06日 | 本と雑誌
 ディルタイは『精神科学序説Ⅰ』(p.147)において「神話的表象は、当時の人々が特別に意味があると考えた現象の生きた実在的な連関を表わしている。」という。「神話」は神話的世界の諸連関を表象する。この「神話的表象」は、所謂「歴史」における「生」の諸連関とは異なるものなのだが、言語を介して関係はしている。「神話」は世界の諸連関を神話的に表象するが、しかしディルタイによれば、それは「歴史」や「科学」における諸連関の表象とは違った形でなされるということになる。このような「神話」が、ある一つの認識の連関構造を形作っているという考え方は、例えばハンス・ファイフヒンガーの『Die Philosophie des Als Ob』(『かのようにの哲学』)でも論じられていたはずである。ファイヒンガーは「歴史」と「神話」を、ディルタイのように区別しながらも、「歴史」と「神話」は厳密に区別できない地点があることも指摘している。ファイヒンガーは、歴史的事実に対して「神話」はその事実の理解(表象)を助ける「Hilfsgebilde」(補助形象)として機能すると主張している。即ち「神話」は歴史的事実同士を連関させる〈糊〉の役目を果たす。例えば、単純に歴史的な出来事や事実だけを並べても、それは「歴史」としては機能しない。そこには事実同士の「連関」が存在せず、ただ事実と出来事だけが無秩序に散乱しているだけだからである。だが、その歴史的事実の無機的な羅列を人間の認識論的連関にふさわしい、「歴史」の連関の有機的体系として秩序付けるのは、その〈糊〉の役割たる「Hilfsgebilde」(補助形象)としての「神話」なのだ。つまり、ファイヒンガーにおいて「神話」は「als ob」(かのように)として、歴史的事実を〈フィクション=糊〉によって物語化する機能を担わされているのだ。ファイヒンガーは「歴史」をHypothese(仮説)とし、「神話」をFiktion(虚構・擬制)として区別し、当然前者に西洋哲学的優位を与えるのであるが、Hypothese(仮説)がHypotheseたり得るには、Fiktion(虚構・擬制)のHilfsgebilde(補助形象)の助けが必要なことも強調する。ファイヒンガーはこのように、西洋哲学の目的論の中では劣位に置かれる「神話」の「als ob」の機能を取り出して、評価しているともいえるのだ。かつて『Die Philosophie des Als Ob』を、ドイツ語の原典と英訳とを比較しながら半年くらいかけて通読したのだが、実際専門家ではないわけであり、やはり難しい部分もあったので、専門家がきちんと訳した日本語訳で読みたいものである。一通り読んで、『Die Philosophie des Als Ob』は、かなり重要な哲学書だと思った。

 このほか「神話」は、エルンスト・カッシーラーの「シンボル形式の哲学」の岩波文庫版ならば第三巻で論じられており、同じように「神話」は認識論的な連関を言語を介することで形作っているという議論がなされていたはずだ。これを受けて、三木清も『構想力の論理』で、ディルタイとカッシーラーの「神話」の認識を、構想力の論理として読み換えようとしていたと記憶する。この「神話」が認識における諸連関の構造を持っているというのは、構造人類学の神話分析やロラン・バルトのテクストにおける「神話」分析とも関わっていくのだと思う。ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』なども、まさしくフィクションの諸連関とその構造の話なので、「神話」分析と関係する。文学ともかかわりが深い議論だといえるだろう。

 現在読み進めている部分では、ディルタイはまだ「科学」に発展していない「神話」の認識論的連関を分析しながら、ソクラテス以前のギリシャ哲学からこの「連関」がどのように認識されてきたのかを哲学史として論じている。これらギリシャ哲学における「連関」は、「宇宙」(Weltall)を認識するための科学的な目的連関の〈前史〉として捉えられており、「科学」の「連関」とは違うと区別されているが、歴史的には関わってはいるのだろう。いわば「生」や「宇宙」というのは「連関」の〈ある仕方=様態〉の認識ということになる。ハイデガーがディルタイを単なるカント主義者としてではなく、存在論的な「世界」を準備する哲学者として評価するのも、ここから理解できる。ハイデガーも「世界」というのは、存在者の連関の〈仕方〉として捉えているといえるからだ。ディルタイのこの「連関」を存在論的な連関として読んだのがハイデガーだろう。ディルタイはそして、この「連関」をギリシャの哲学として最初に取り出したのは「数学」という。「数学」はこの「連関」の合理性を保証するわけだ。要は「数学」によって、「連関」を一つの法則の下で認識できるようになるということである。さらに読み進めていく。

 さて、「涼宮ハルヒシリーズ」全12巻を購入した。「なぜ今更?」かもしれないが、3巻までは読んでいたのだが、少しまとめて読んでみようと思う。まあこれも「セカイ」の「連関」の話ではあるのだから。もし何か感想がありそうなら今後書いてみます。