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「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

『文学的絶対』を読みながら「大東亜戦争」についても考える

2024年04月08日 | 日記と読書
 『文学的絶対 ドイツ・ロマン主義の文学理論』(柿並良佑+大久保歩+加藤健司訳、法政大学出版局)を読み進めているが、600ページ強ある全体の、読んだのは三分の一ほどである。現在は「『アテネーウム』断章」を読んでいるが、ラクー=ラバルトとナンシーの論文だけではなく、シュレーゲルやノバーリスなど、他のロマン派の「断章」や「断片」までも訳されているのは大変いい。なぜなら、この後にナンシーらの分析があるのかもしれないが、「断章」形式というのは、ロマン派の文学理論にとってどういう意味があるのかを考えるのは、重要だと思うからだ。確かベンヤミンが『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(ちくま学芸文庫)の中で、「断片」を「絶対的」に包摂する神秘的体系の提示がロマン主義の根本にはあると言っていたと思う。しかもそれは「断片」同士の〈反射〉における認識が、そのような「絶対的」に包摂する神秘的な体系を作る、と主張していたと、僕なりに解釈している。例えば、「ある存在〔本質〕が他の存在〔本質〕によって認識されることは、認識されるもの(das Erkenntwerdende)の自己認識、認識する者(der Erkennende)の自己認識、および、認識する者がその認識対象である存在〔本質〕によって認識されることと、同時に起こる(zusammenfallen〔一致する、同じものである〕)」というのは、その神秘的体系の様態の一つだろう。そういう「断片」同士の〈反射=思弁〉を「絶対的」に包摂する仕方を、イロニーという形で提示したのがロマン主義だとしたら、色々な「断片」や「断章」が翻訳されて掲載されたことは良いこだろう。注記を見ると、日本語以外で翻訳されているバージョンは、「断片」「断章」が省略されているのもあるようで、省略されなくてよかった。このようなロマン主義の断片性は重要だと思う。

 このロマン主義的手法は、日本文学でも1930年代の「日本浪曼派」や「モダニズム」の文学とも関わるだろう。特に「転向」以前の、共産党が壊滅する前は、このロマン主義的な「絶対」は「党」の「絶対」的な唯物弁証法の対抗理論となっていたわけで、特に30年代はマルクス主義との関係抜きにロマン主義は語れないだろう。マルクス自身も、ロマン主義のハイネと友人だったわけで、この「絶対」は、経済的絶対の体系と何らかの形でかかわっていると言わざるを得ない。そこにはヘーゲルやシェリングの問題も関わっていると思う。ヘーゲル左派とロマン主義の関係も調べてみると面白そうだ。ともかく、まだ三分の一なので。

 さて、話は変わりツイッターを見ていると、自衛隊、第32普通科連隊の公式アカウントが「大東亜戦争」と表記していたそうで、それは「不適切」だという意見があった。自衛隊の公式アカウントがつぶやいているのだとしたら、それは「不適切」だろう。「大東亜戦争」と呼称する「立場」の人がいたり政治信条の人がいるのは、それは「不適切」ではない。というか適切とか不適切とかいうのではなく、一つの立場表明である。その戦争に対する史観として、「大東亜戦争」と呼ぶ一貫性を持つ人がいることはあり得る。しかし、公式のアカウントが「大東亜戦争」を呼称する場合、そこには「天皇(制)」の問題が関わってくることを覚悟してやっているのかどうかである。同アカウントは背景画像に「近衛兵」という言葉まで使っている。それは「天皇の軍隊」を呼称しているという認識でよいのか。もしそうだとして、三島由紀夫が生きていたら、第32普通科連隊が「天皇の軍隊」になったのだとして喜ぶだろうか。しかし、それは全くの逆である。革命の力能としての「文化概念としての天皇」に立脚して、天皇制戦後民主主義を根本から批判した三島にとって、現状の「ネトウヨ」的な「大東亜戦争」と「天皇制」を賛美した軍隊など、「反動」以外の何物でもない。それともそうではなく、第32普通科連隊は、三島のいう「文化概念としての天皇」を戴いてまでも「東亜」に革命をもたらす革命軍、即ち反乱軍になる覚悟を以って「大東亜戦争」と言っているのだろうか。そのつもりなら一貫性はあるかもしれない。しかし、もしそのような革命軍になるつもりがないならば、「大東亜戦争」というのは、「不適切」である。何故ならば「大東亜」というイデオロギーは「天皇(制)」と不可分だからだ。三島はその意味で「反乱軍」を作りたかったわけだろう。政治制度としての「天皇制」ではなく、革命の根拠となる「天皇」の軍隊を作るために市谷にも立てこもったし、「226事件」にも惹かれたはずである。第32普通科連隊が、反乱軍や革命軍になるつもりもなく、単に俗情に迎合するため、安易な愛国心に便乗するためだけに「大東亜戦争」と言っているとするならば、そこには一貫性はないし、史観を全く欠いた「不適切」なつぶやきだといえる。それは「大東亜」という史観を維持しようとする右派に対する侮辱にもなるだろう。ただ、君主制も軍隊も認めてしまっている共産党がいる中で、自衛隊がこのようなつぶやきをするのは、「左・右」がむしろ一致して天皇制戦後民主主義を護持している現れなのではないか、とすら思った。それは国民の大多数が、天皇制下の軍隊(自衛隊)を無意識に認めているという意味で、今回の自衛隊のアカウントは、天皇制戦後民主主義を認めている国民の無意識を代弁したともいえる。実際、国民の大多数は無意識に「大東亜戦争」という呼称を拒否していないのではないか。これは「大東亜戦争」を批判している国民の無意識も例外ではない。

 とはいうものの、一般的な意味において、今の自衛隊が三島のいうような「文化概念としての天皇」を軍隊の原動力と考えているはずもなく、天皇制戦後民主主義を守っていくだけなのだったら、「大東亜戦争」などいう意味はない。しかも「公式アカウント」が「大東亜戦争」という憲法や天皇制の根幹に関わり、かつ東アジアへの侵略戦争を含む名称を、なんの史観や考慮や調査や検証もなく、安易に、しかも国民の俗情にべったりと寄り添うだけに発言しているのだとしたら、組織としての見識を疑う。それは組織上の欠陥ですらあると思う。軍事戦略上、統制が取れていないという意味で非常に危険な組織ともいえよう。ふつうの意味で「公式アカウント」なのだから「常識」を守れよ、と思う。

 そして、ロマン主義の断片を包摂する絶対的で神秘的体系と「大東亜」はどのような関係にあるのか、という問いは1930年代の問題であろう。

「ストイック」に大谷選手の報道を考えてみるならば

2024年04月01日 | 日記と読書
 三月は年度末ということもあり、時間が取れず、読書も進まないし、また運動不足にもなり、ブログを書く余裕も失っていた。昨日からはキーボードの打ちすぎだと思うが、左手首が腱鞘炎になって、湿布を張ることとなった。ほぼ腱鞘炎とは無縁の体であったが、ここ二年くらいは年一回くらいで左手首の腱鞘炎になることがある。これまでは数日で治るのであるが、こんなに痛いものとは思わなかった。特に左手首は、中学生の時に大きな骨折をしているので、それも要因の一つかもしれない。また、文章を書く以外に、僕はFPSをキーボードでしており、「WASD」とシフトキーが移動手段で、様々な動作を結構不自然な指の動きでやっているので、悪化したのかもしれない。昨日の夜は痛みで二時間ほど寝られなかった。今は湿布のおかげで快方に向かっている。しかしこうやって文字を打っていると、手首が疼く。

 さて、『ディルタイ全集』第三巻と『文学的絶対』が途中までだったので、読書を再開している。『失われた時を求めて』の第五巻も読み始めた。加えて、トム・ストッパード『コースト・オブ・ユートピア ユートピアの岸へ』(広田敦郎訳、ハヤカワ演劇文庫)を読みだしだ。バクーニン一家から話が始まるので読んでみたいと思っていた。こういう並行読みをしていると、全体的にペースが遅くなる。この前書いていた「東アジア反日武装戦線」の『反日革命宣言』と『狼煙を見よ』は読み終わり、ネットにある『腹腹時計』一巻は読めるとして、国会図書館に行って、所蔵されている残りの巻を通読してきた。「日帝本国」などの用語もそうだが、支配や植民地、差別を構造的に把握し、そのような把握をすると、少なくとも国民国家としての日本(国民)は、それからの責任から逃れられない。それはその通りだと思う。資本主義的搾取構造で国民が食っており、「先進国」と呼ばれる地域で生きる人々の多くは、この責任から逃れることはできないだろう。このストイックさは、ポストコロニアリズムやカルチュラルスタディーズ、フェミニズムといった学問が、ものすごく単純なたとえ話でいうと、「太平洋戦争」と呼んでいたものを「アジア・太平洋戦争」と読み換えたり、男女の二項対立に拠らない人称を使ったりするストイックさに、確かに通じるなと思った。絓秀実が『革命的な、あまりに革命的な』(ちくま学芸文庫)でいった、「華青闘告発」が、マイノリティ運動の端緒になったというのは、納得がいく。ならば、そのストイックさをある意味で引き継いでいるこれ等の学問分野は、『腹腹時計』的な「テロ」をどう考えるのか、という疑問があるし、難しい問題であるが、考えるべき問題だと思う。単純に「テロ」はいけない、で済むのか。

 もちろん程度の問題はある。しかし、差別や支配というものが構造的なものであり、その構造を名指すには無限の詳細な差異化が必要であり、その差異化を阻んでいるのが、現状の資本主義的帝国主義なのだから、それらは壊れなければならない、という結論を、先に挙げた学問は、単純に「テロ」はいけない、平和な手段で、といういい方で拒否することができるのだろうか。これは「テロ」をするほうがよいと言っているのでは全くない。そうではなく、支配と被支配、差別の問題を真剣に考えると行き着く、構造的な剰余の問題、絓の分析でいえば「享楽」の次元を無視することはできるのか、という問題である。twitterでの単純な反差別や批評的言説を眺めていると(もちろん単純じゃない方もいます)、人を元気にしたり、勇気づけたり、啓蒙したり、楽しかったり……という、それが必ずしも悪いとはいわないが、そういう見方の発端には、「爆弾」作らないとつじつまが合わないよな、と考えた人がいるわけで、しかもそのつじつまを合わせようとしたこと自体が、いま「人道的」といわれる学問の「厳密」な概念やそれを規定する概念用語の成立のストイックさと関わっていると思うと、やはりこの「反日」の問題は無視できないと思う。これ抜きで、学問的ストイックさを信じているのだとしたら、それは勘違いだろう。

 話は全く変わるが、大リーグの大谷選手のニュースがうるさいほど続いている。僕は大谷選手個人への特別な感情はないし、成績はすごいのだから、野球選手しての評価はあるのだろう、それにも特に言いたいこともない。僕は学生時代まではプロ野球が好きでよくテレビでも見ていたが、近年は全く見なくなった(いわゆる外でやってる草野球を見るのは好き)。小学生の高学年まで、野球部であった父に、たぶん野球の選手にしたかったであろう願望の下、結構練習をさせられて、基本的動作はそこそこできるのではあるが、センスがないというか、要は野球音痴で、野球選手どころか、草野球のレギュラーもすれすれという実力でプレーするのは遊びの範囲になっている。その大谷選手の「通訳」の仕事をしている男性が賭博で巨額の負債を抱えて、当初の報道では、それを大谷選手が肩代わりをした、という報道がなされたが、後ほど大谷選手の関与はなかった、知らなかったという訂正の報道があった。事実はどうあれ、法律上、大谷選手が関わっていることになると大ごとになるので、説明に梃入れがあったのだろうと思う。

 それらのニュースを見ていて、「通訳」の男性と大谷選手の関係の報道の仕方が釈然としなかった。まるで、「通訳」の男性が、大谷選手が知らないところに、とんでもない害悪をもたらして、日本の大谷選手を汚した、というような論調なのだ。もちろん博打で借金をして他人に迷惑をかけるやつはろくでもないやつだ、と思う。それは僕が身近で経験をしたことがある故に、そういいたい。僕はそいつのことを一方的に非難はするし、できれば近くにいてほしくないと思いながらも、しかし、ストイックに考えると、それ自体構造的な問題で、そいつがどれだけ能天気に何も考えずに借金をしたのだとしても、それを招く構造(資本主義的)に僕も加担しているとはいえるよなあ、と考えはした。まあ助けてやれるならできる範囲でやるしかないな、と。諦念である。まあ僕の個人的な話は置いておく。

 現在の報道から言うと、確かに大谷選手は博打をやっておらず、とばっちりということになろう。それ自体はいいとして構造的な問題から言うと、多額のお金を扱い、そして報道でも大谷選手の「通訳」の仕事を超えて、心のパートナーであるかのようにこれまでは報道していたわけであり、その地位にいなければ、たとえギャンブル依存症であったとしても、数億円も借金をすることはなかった、といえるのではないか。ストイックに構造上、二人の関係を問題とすれば大谷選手が今回の件に「全く何にも」関わっていないとはいえない。もちろんこれは現在の所の大谷選手の「法律上」の問題を言っているのではない。構造上、関係上という立場のことだ。そう考えるならば、日本のナショナリズム丸出しの、大谷選手への賛美と「通訳」男性の排除は問題がある報道だと思う。現在解っている時点での、法律上の大谷選手の責任は問うものではないとしても、そのような巨額の賭博の機会を与えた構造上の問題はある。それを大谷選手をよくも邪魔してくれたな、というような報復的報道で「通訳」の男性を切り捨てるのはおかしいだろう。報道をするならば、選手をマネジメントする際の構造上の問題を批判的に扱うべきだ。

 これは友人とも話したのだが、大谷選手の日本での報道を見ていると「反動」的なものしか感じない。何もかもを予定調和的に賛美し、新しい知性の形だ、AI世代の野球選手だ、などなど。僕のナショナリズムを丸出しにして言わせてもらうならば、大谷選手の報道にかじりついている人を見ると、「敗戦後」に古橋廣之進に対して「フジヤマのトビウオ」とかいってトラウマを癒していた人々とどこが違うのだろうという気になった。僕の家族も大谷選手の報道をyoutubeでよく見ており、なんとも言えない苛立ちを感じるたのも、その衰退する日本の素朴なナショナリズムを、洗練された選手のマネジメント能力への応援という形で糊塗していることへの苛立ちともいえる。「ギブ・ミー・チョコレート」と何が違うのだろうか、と。しかし今回、その賞賛していたはずの大谷選手のマネジメントの問題が露呈したのではないか。それは構造的に検討する問題である。選手や「通訳」の個人を詮索したり批判すること以上に、きちんと「日帝本国」の資本主義的搾取の構造上の問題を、大谷選手とその「通訳」の男性の問題から考えないといけないと思う。

高価な古本を購入する

2024年03月12日 | 日記と読書
 じんぶん堂企画室(聞き手:滝沢文那)の『柄谷行人回想録 』が面白くて、ネットで毎回読んでいる。その中の「試験勉強でつかんだマルクスの「本領」:私の謎 柄谷行人回想録⑤」では柄谷が、大学時代の試験の話をしていて、柄谷は東京大学の経済学部の出身で、大学院で英文学の研究に進み、僕は高校時代に新潮文庫の夏目漱石『明暗』の解説を書いていた柄谷の文章が面白く、また経済学部から文芸批評をしているということで当時の僕には印象に残っていた。別に経済学部から文学研究、文芸評論をすること自体は珍しがることではないかもしれないが、高校生の時は受験もあって、大学の学部というのは、将来の進路と繋がっているという単純な思考があるため、印象に残っていたのだ。当時、大学に入ってからようやくそれが文芸批評と呼ばれていると初めて知ることになる文章のジャンルを読んだ最初は、これは前にブログで書いたので繰り返しになるが、新潮文庫の漱石の小説に柄谷が解説を書いていたのを、高校生なりにこの人はちょっと他の解説とは違うものを書くな、と思っていて印象に残っていた複数の文章と、あとは『漱石とその時代』の江藤淳の「嫂」の話にフェティシズムを感じて、読みふけった評論だった。特に柄谷は大学からも単行本で出たものは、それなりに読んでいたと思う。文芸批評の文章ももちろん面白かったが、僕は『トランスクリティーク』(岩波書店)を一番興味深く読んだ。恐らく、柄谷が何を書きたいのかがおぼろげにわかりはじめたころであり、ある程度理解しながら読んだ(と思える)ことが、興味を持った原因だろう。そこでのマルクスの議論は、デリダの『マルクスの亡霊たち』(藤原書店)とネグリの『マルクスを超えるマルクス』(作品社)とトリアーデを作っている、と思って読んでいた。

 さて、話が脱線したが、「回想録」を読んで思ったのは、柄谷が学生時代どのような書物でマルクスの勉強をしたのだろうか、という疑問であった。〈柄谷通〉の人は知っているのかもしれないが、宇野弘蔵の経済学、平田清明や岩田弘の影響があるらしい程度の認識で、特に何の手掛かりも積極的に調べようとも思ってなかったが、「回想録」を見ると柄谷は学部生時代、鈴木鴻一郎編の『経済学原理論』を試験で勉強し、「わかりやすかった」と言っていて、記事の写真でも柄谷が現物を手に取って眺めて見ており、一度読んでみたいと思った。

 別に今これを読む意味はないかもしれないが、amazonで調べると、上下で3万5千円以上する。日本の古本屋ではそもそも見つからなかった。しばらく古本屋をめぐりをすると、上下で1万4千円で並んでいた。amazonの半額以下ではあるが、買う意味があるか値段の高さに躊躇したが、「回想録」の雰囲気を味わうためにも、買っておこうということで購入した。僕は読書自体は元来好きではないが、妙なところで、書物の雰囲気というか、その時代性というか、それを読んでいた人物というか、そういうものにフェティシズムを感じて、高価な古書を衝動的に買ってしまうことがある。語義矛盾かもしれないが、一過性のフェティシズムであることが多い。本には元の持ち主の人の蔵書印が押してあり、どうやら北海道の方のようで、下巻には当時の領収書がそのまま挟んであり、「680円」だったようだ。この元の持ち主である北海道の方も柄谷と同い年かその周辺の年代に大学生だったのだろうという想像をしている。西部邁は寮の天井にこの本の「まとめ」を書いて張って試験対策をした、と「回想録」には登場する。初版は1960年に出ているので、まさしく柄谷が回想している「60年安保」の年に出た書物だ。当時の大学生はどういう存在であったのか、興味がある所である。僕の家族は、親類まで広げても、僕が初めて大学に行った人間なので、それ以前の大学生がどういうものだったのかは身近な人からは聞けなかった分、憧れがあるのかもしれない。

 今は他の仕事で時間がなくて、むしろその仕事に忙殺されて心の余裕がないが、少しだけ読んだ。経済学が、ヘーゲルを想起させるような、こんな観念の運動の歴史であるかのように大学で講義されていた時代が、1960年代にはあったのか、という妙な驚きがある。自分が大学で経済学を勉強した時は、もうマルクスなどシラバスのどこを探しても存在せず、マクロ経済やミクロ経済でグラフを画いたり読み取ったりしており、理解力もなく、これは何をやっているのかとぼうぜんとしていたのだが、こういう本があったら、経済学が好きになれたかもしれない、というのは後付けに過ぎるか。そういえば大学時代にマルクスの言葉を初めて聞いたのは、哲学の先生で、勿論マルクスという名だけなら大学以前でも聞いてはいるが、学問の対象として聞いたのはその時が初めてであり、その教員はやたらと本当にマルクスは古くなって必要ないのか、という問いを常に発していた。当時は何でこの人はマルクスにこだわるのだろう、と思っていたが今思うと「68年」に学生運動をやっていた世代であった。その教員は、フォイエルバッハとシュティルナーなど、ヘーゲル左派の系譜を教えてくれ、なぜヘーゲルは右派と左派に分かれたのか、ということも熱心に講義してくれたが、それは後々ためにはなった。マルクス経済のマの字もなくなっていた僕の学部時代に、マルクスという言葉を刷り込んだのはその教員であり、柄谷のようなマルクスや大学の人々とのエリート的な出会いはしていないが、僕も大学で確かにマルクスの名前くらいには出会っていたのだろう。

付箋を貼りながら読み、栞は喫茶店のストローの紙袋。

大雪で大西巨人のことを少し考えざるを得なかった

2024年02月05日 | 日記と読書
 今日も喫茶店で読書をして帰ろうかと思ったが、雪が強くなってきているし、お目当ての店などが雪ということで早じまいをしそうな雰囲気だったので、帰ることにした。僕の住まいは都心に近いので、東京西部よりは雪が少ない傾向にある。しかし、それでも午後六時の帰り道で、すでに道路にも積もりはじめていた。ただ、雪はシャーベット状である。東京では数度しか経験したことはないが、比較的乾いた雪で30センチくらい積もった時は、皇居を探検すると面白い。誰もいないし、真っ白な森の中を歩いていると、遭難をしたような錯覚に襲われて、だんだん怖くなってくる。本当に遭難したのではないか、と思えてくる。東京の「中心」が本当に誰もいなくて、車の音も一切聞こえてこないのは大変神秘的といえる。それだけ皇居の森が広いということなのだろう。


 僕の出身地は比較的雪が降りやすく、かつ積もりやすい場所で、白くなったり数センチの積雪は普通だが、30センチくらいの積雪が冬にはめずらしくない地域だ。山側に行けば当然一メートル以上になる。よく祖父が教えてくれたのは、牡丹雪は積もらないので安心だが、乾いた粉雪が降り出すと積もる、という話だった。子供ながらに牡丹雪の方が大きいし、派手なので積もりやすいように感じるが、つもり始めは乾いた粉雪が降るという決まりである。温度とも関係があるのだろう。積もりやすい粉雪は、気温が低く地面で雪も解けにくい環境で降る雪ということなのだろう。しかしここ数年、あまり東京の都市部では乾いた雪が降らなくなったように思う。いまもどちらかというとシャーベット状だ。手でまとめて玉にしようとしてもまとまらない乾いた雪が懐かしいが、寒い地域に行かないとお目に掛かれないのかもしれない。

 そういえば最近、ドラマになった漫画の原作者が、恐らく自殺であろうという形で亡くなったことがニュースになっていた。その中で原作者と出版社、そして制作したテレビ局の関係が注目されている。この問題は、どのような契約でドラマ化をしたのかという、法的な問題も関係しているように思う。Twitterの呟きで、テレビの取材を受けた人がことごとくいうのが、テレビ局側は取材する人を尊重しないし、取材で述べた意見を都合よく局側の制作意図に捻じ曲げていく(編集してしまう)ということである。そういうのを見ていると、テレビ局側のコミュニケーション不足や、制作側の傲慢な態度が関係してる可能性は高いのかもしれない。ともあれ、どういう契約で原作者はドラマ化を許諾したのかなどは、「外野」から見ているだけではわからないので、詮索しても仕方がないところがある。ただ、話し合いをちゃんとすべきだったのだろうとは思う。

 今回の個別的な事象についてはとやかく言っても仕方がないが、この一件を見ながら、小説家の大西巨人の話を思い出していた。大西には日本近代文学の傑作中の傑作という『神聖喜劇』という小説があるが、この小説は演劇にもなり、漫画にもなり、シナリオの脚本となり、映画化も話題に挙がるような作品であった。ただ『神聖喜劇』を読んだ人ならばわかると思うが、ある場面を二時間の映画にするならばともかく、小説全体を映像作品にするのはかなり難しいのではないかと思う。荒井晴彦の『シナリオ神聖喜劇』は、「一応」、映画のためのシナリオということになっているが、それでもまだ4分の1の分量にしなければ映画には出来ないという量になっている。 のぞゑのぶひさと岩田和博の漫画版『神聖喜劇』もとてもよくできているが、漫画にしてはセリフの量が昨今の新書と引けをとらない。そういう意味でも、小説『神聖喜劇』をドラマにしようとすれば、今のNHK大河ドラマでやるしかないと思う。そういう意味ではNHKにお願いしたのは、大河ドラマで『神聖喜劇』をぜひやってほしいということである。当然、安直なポリティカル・コレクトネスを突き破る形で。

 なぜ大西巨人の話をしたかというと、僕が生前の大西の講演会に行った時に、「大西さんの小説が映像になるということをどうお考えですか?」という対談者の質問に大西本人は、難しいとは思うが、やれるならやっていただきたい、と。そして、映画化なりドラマ化なり漫画化なりが行われる場合、もうそれはまったく小説とは別個の作品になるのだから、私からその作品に対して何か注文を付けることはない、と答えていたからだ。大西は『神聖喜劇』が「翻訳」されることで生み出される映像化やほかのメディアでの上演を、「別」のもの、全く別の形態への変化なのだから、小説の形式からとやかく言うことはないと主張しており、僕は大西が作品(『神聖喜劇』)を自分の所有物としてではなく、「構造」から唯物的に把握しているのだなと理解した。文学理論には「作者の死」や「作品からテクストへ」という形で、作品は作者に属しているのではなく、それは一つの構造でありテクスト(織物)であって、作者という存在も、その構造の一部分の「効果」に過ぎない、と言われている。大西の発言は、この立場をより実践の観点から述べたものだなとも思った。簡単に「作者の死」や「テクスト」などといっても、作品の所有欲は作者だけではなく、その読者も共有しており、その所有欲に屈することが多々ある。だが、その講演会での大西は、『神聖喜劇』の映像化があるとすればそれはもう全くの別の作品だから、自分の支配の及ぶものではないと平然と言っていたが、それを聴きながら僕は、とはいうものの大西のようにはなかなか言えるものではないだろうな、と思った。まあそして何よりも、大西は、『神聖喜劇』を何かのメディア作品に翻案できるものならしてみなさい、という自信があったのだろう。それは、そのような作品を作り得たものだけが持てる自信なのかもしれない。

 作品とその所有権(者)は、法的に結び付けられているものなので、一概には言えない部分が多いが、しかし作品の所有者は作者なのか、読者なのか、という問題は本当は錯綜しており、議論の余地があるものだと思う。そしてある時期、そういう作品の私的所有を考え直し、唯物論的にそこに切断を入れようとした思考が文学理論としてあったことも事実だ。作品の生産形態、所有形態には、作者や読者の「感情」では考えることができない理論の側面があるはずなのだが、ネットで議論するのは、難しいのだろう……

精神とは骨のことである

2024年01月29日 | 日記と読書
 東アジア反日武装戦線の桐島聡を名乗る男性が、神奈川県の病院に偽名?で入院しており、重篤な病状の中で、自らが桐島だと名乗った、というニュースがあった。ちょうどこの報道の前日、虫の知らせかどうかは知らないが、夜からネットで桐島聡の情報を漁っており、仕事帰りの神社下の交番の手配写真でも桐島の顔を確認し、70代前半なら存命である可能性も高いが、この世にいるのだろうか、ということを何とはなしに考えながら家路を急いだ。ネットでは、前々から桐島の画像を加工したり、似た人物が同じように写真を撮ったりするなど、手配写真はなぜか人々の関心を惹いてきたように思う。その理由の一つには、嫌に「ハッキリ」とした顔立ちで、手配写真のために加工したのだろうかというほど、目鼻立ちがはっきりしているということがある。それはまるでモンタージュ写真を思い起こさせ、この人物は本当に存在するのだろうか、というような不気味な雰囲気を醸し出していた。所謂「未解決事件」に出会ったときの不気味さといってよいだろうか。手配写真の「笑顔」と妙にはっきりとした目鼻立ちの輪郭と、それが何かシミュラークルのような、モンタージュのような、そしてこの人物というか「顔」のフィクション性のようなものが、恐らく人々の欲望の的になったのではないかと思う。そういう意味では、まだこの「顔」はもしかしたら「対象a」のごとく、かつての出来事の幻想を繋ぎ留めるような原因になっていたのかもしれない。ただ、この「顔」のモンタージュ性というか空虚性は、その「本人」が目の前に現れたからといって、なくなるものではないし、安直に脱神話化されると思ってはいけないと思う。最早「本人」など関係がないこの空虚性こそが「実体」であり、眼差しを向けざるを得ないわけである。SNSでの発信を中心に、既に〈現前性〉に屈して久しいこの世の中で、そのような空虚なものに依拠する我慢強さを維持したいとは思う。ここまで書いてみると、桐島の手配写真がなにがしかの精神性を惹起したのは、ヘーゲルがいうように、精神は〈(頭骸)骨〉だからかもしれない。あの手配写真は「顔」を写したのではなく、精神という〈骨〉なのだろうか。

 この桐島聡を自称する人物と東アジア反日武装戦線については、ネットで漁っていたという割に、そのネットで漁った以上の情報は全く知らず、またそれらについての書物も読んでおらず、不勉強なので、松下竜一『狼煙を見よ:東アジア反日武装戦線“狼"部隊』(河出書房新社)と「復刊ライブラリー」の東アジア反日武装戦線KF部隊(準)『反日革命宣言 東アジア反日武装戦線の戦闘史』(風塵社)を購入したので、ちょっと今は仕事が忙しくて読めないが、いずれ読んでみたいと思う。この東アジア反日武装戦線は絓秀実が特に詳しく論じている「華青闘告発」と深いつながりがあるということだけは事前情報を得ているので、その部分も見てみたい。それはそうと「反日」というのは今や左翼やリベラルさえも否認する言葉になってしまったが、「反日」の肯定は考えるべき問題なのではないかと思う。「自虐史観」や「反日」といわれることを恐れ、自らのナショナリズムを批判できない左翼やリベラルは、結局資本主義の植民地主義や帝国主義のイデオロギーを受け入れざるを得なくなるだろう。そのような左翼やリベラルというのは、存在意義があるのであろうか。

 それはそうと、少し前だが日本共産党の党首の「独裁」についても、共産党の〈リベラル〉ではない党運営の在り方が批判されていた。共産党なのだから、唯物弁証法に則った必然性を体現した党の規則で運営されるべきであり、そこに物分かりのいい観念的な民主主義(リベラリズム)をもたらすのは、おかしな話だろう。党員のジャーナリストが除名された問題も、分派活動を禁止するというのはそのような唯物弁証法を守るためには当然のことというほかはない。むしろ、その唯物弁証法に則らずに、嫌悪感や気分で党員を除名しようとしたのならば、それこそが問題である。これはかつての民主党政権の時から言っていたことだが、共産党が〈リベラル〉になってしまったら、それこそ民主党や自民党と同じになってしまう。それならば共産党が存在する必要はないのだ。さっきの空虚な「顔」ではないが、その空虚性の唯物弁証法の必然的法則を守る気がないのならば、イデオロギー闘争などできないだろう。僕は別に共産党支持者ではないが、君主制の打倒と唯物弁証法による資本主義の打倒を空虚であったとしても示さなかったら、共産党の存在意義などない、と思う。少なくともそこは否認しないで明確化すべきだろう。

 君主制の打倒や資本主義の打倒など唱えると、「反日」と同じく大衆の支持を失うと思っているのかもしれないが、恐らくそんなことはない。スターリン主義批判以後の共産主義は、新左翼の課題であったと思う。しかしその新しい共産主義が結局は物分かりのいい多数決主義の民主主義であったとしたら、それはとんでもない世の中にしかならない。本当は共産党が吸収するべきだった、不条理で不平等な世の中を恨む声が、結局別のカルトや極右陰謀論政党に吸収されてしまう、という結果を見てもわかるだろう。共産党はそのような世論の現前性を信じるのではなく、むしろ空虚で実体のない唯物弁証法の〈(頭)骸骨〉をこそ、党の「実体」として、唯物性として守るべきではないか。そうしないと、民主党や自民党と同じようなくくりにされ、「少数派」や「マイノリティ」は行き場をなくすと思う。勿論それは「少数者」や「マイノリティ」が共産党支持者になるということではない。日本共産党を打倒する共産主義者=少数者たちもいなくなるという意味である。

 読書メモもしておこう。涼宮ハルヒシリーズを全巻読破した。なかなか面白かった。そして『In Stahlgewittern』もあきらめずに読んでいる。今は、一段落ずつノートに書き写し、文法的に正しく読めたら先に進めるというやり方で読んでいるので速度は落ちたが、少しは正確に読めているかもしれない。それでも精度は40パーセント以下くらいかもしれないのだが……とにかく、すでに折り返してはいるので気長に。