「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「私人逮捕」という生政治的物語

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
 「私人逮捕」系youtuberのYouTubeチャンネルが複数あり、それがネットニュースで問題になっていることがあるが、僕は当初なにがしかの社会問題を告発する、ジャーナリスト系の活動をしているyoutuberなのかと思っていた。もちろんそのようなジャーナリスト的活動をしている、あるいは社会問題でありながらマスメディアでは光を当てられない問題に取り組んでいるyoutuberもいるとは思う。だが、ここでいう「私人逮捕」系のyoutuberはそれとは違うものとして取り上げてみたい。「私人逮捕」は警察官ではない私人でも、現行犯において逮捕権を行使でき、必要に応じて常識の範囲内で容疑者の制圧もできるようだ。おそらくこの逮捕と制圧の「過激」さがチャンネルの人気を高め、また「犯罪(者)」に「正義」の制裁を加えられる、という側面でも「悪いことではない」「良いこと」として、視聴者はその過激なチャンネル内容にも拘らず、良心の呵責を否認して、あるいは免罪されて視聴することができるのであろう。

 youtubeでいくつか「私人逮捕」系のチャンネルを視聴してみたが、「私人逮捕」という「エンターテインメント」のコンテンツは、現在の新自由主義社会の弱肉強食の秩序と、その秩序で必然的に採用されるテクノロジーと経済格差を媒介とした人間の管理コントロール、即ちフーコーのいう所の生権力による生政治的な統治の問題が色濃く出ているものに見える。youtuberが現行犯の「私人逮捕」を動画で撮影し、それが配信されるという形式は、正義が行使されるという現前性が視聴者に強い充実感を与えているのだと予想できる。ただ問題は、その動画は「基本的人権」を考慮に入れて視聴するならば、かなり人権侵害的な問題を含んでいるといわざるを得ないということだ。この場合の人権侵害が意味するのは「容疑者」の人権をまずは指す。こういう主張をすると、「被害者」は犯罪によって人権を侵害しているという議論をしたがる人がいるのだが、その言い分は感情的にはわからなくはないが、「容疑者」の人権が守られない状態は、必ず「被害者」の人権侵害にもつながるものであり、それは司法手続きをめぐる民主主義と人権を毀損することになるということである。そのような状況は「被害者」にとってもマイナスにしかならない、という視点が必要なのだ。

 僕が見たチャンネルの多くは、そのyoutuberがかつて自分自身が法を破ったことがある、あるいはそのような「犯罪」と関わった経験があるものが多く、改心(?)を経て、社会正義のために行動をしている、というようになっている、らしい。あるいはそのように解釈できるようにチャンネルが作られている。所謂、文芸批評や文学理論が明らかにしてきたような、物語構造上の〈探偵=犯人〉の構造がここにはあるし、フーコー的な意味で、法こそが法の侵犯を生み出す源泉という意味では〈法=侵犯〉の構造自体をチャンネルが体現しているのだ。最も侵犯や社会の周縁の危ない部分にいる属性の存在こそが、そのような「犯罪」に「私人」として関わることができる。探偵小説のライブ中継版こそ「私人逮捕」系チャンネルといえるのかもしれない。アニメの『PSYCHO-PASS』も、このフーコーの図式を借りてきていて、「犯罪者の脳」が社会の犯罪を未然に防ぐ管理コントロールのAIとして活躍していた。権力は「犯罪(者)」こそが最も法の代補たり得ることをよく知っているということだろう。

 そのような「私人」は自身のグレーさと重ねるように、法律のグレーな部分を使って「容疑者」(もちろん「私人逮捕」された人物が、「容疑者」ですらないことは当然あり得る)を逮捕するわけだが、そこで問題なのは、「私人逮捕」される「容疑者」の肖像権も侵害されており、黙秘権も侵されているということだ。本来「容疑者」も「被告」も自分に不利になるような証言を強制されることがあってはならない。それは例え現行犯であろうと、その場で明らかな犯行に関わる決定的証拠が見いだされようとも守られなければならない原則である。だが、多くのチャンネルではそれが守られておらず、「容疑者」の顔や表情は晒されており、そこでは「容疑者」が不利になるような証言を、正義のためと称して、youtuberの協力者たち複数人で威圧や暴力によって引き出そうとする場面さえある。これは憲法における基本的人権の尊重に抵触する違法行為だといわなければならないだろう。司法の根幹を揺るがす行為で、これは「容疑者」のみならず「被害者」の権利を今後掘り崩してしまう問題となることが予想される。

 このような人権侵害が可能なのは、「私人逮捕」系チャンネルが正義を行使しているかのような現前性を視聴者に与えており、視聴者はその社会正義に与しているような錯覚によって、「容疑者」への人権侵害の意識を免罪させられているからだろう。そしてそこには警察が対処できない揉め事や「被害者」を「私人」が代わりに裁いてくれるという意識も働いている。いわば警察権力の代補として「私人逮捕」系のyoutuberは機能しているということになる。警察が管理し切れない部分を「私人」が代わりに管理しコントロールしてくれるということだ。要は警察権力の「用心棒」として働いているともいえる。かつて法を破り、グレーゾーンでの生き方に通じている「私人」こそ、やはり最も「法」に近いという構図が、ここにあるということである。僕の感覚では、若い時に法を破り、あるいはやむを得ない事情も含め社会の周縁で生きなければならなかった存在が、警察や権力という暴力装置の代補となるのが不思議であった。そのような体制的な秩序を憎み、それに対してアクションを起こしてきた存在は、むしろマイノリティの問題を考え、権力が排除する存在の側で思考するとばかり思っていたが、そうではなく法を代補し、権力の管理コントールを助ける「用心棒」としての「私人」として、「エンターテインメント」のコンテンツで金儲けをする。しかも「私人」として警察が入り込めない民事的な部分にまで入り込み、権力を浸透させる役割を担っていくというのは、〈悪質〉だといわなければならない。本来警察権力が踏み込めない場所にまで、暴力を介入させていく。しかも「エンターテインメント」として。

 このような民事介入暴力(刑事を含む「私人逮捕」もここに含める)はかつてのヤクザや暴力団のそれであり、暴対法などでそれが暴力団では難しくなっていった時、グレーな「私人」たちがそのような民事的(かつ刑事的)なところにまで、「私人逮捕」という形で介入するようになった。これはかつてのヤクザや暴力団の肩代わりをしている、ということになるのではないだろうか。しかもこれらは、すべて権力側の管理コントロールと、人々を生政治的に統治するという暴力を代補し手助けるものとなってしまっている。先に、このような「私人逮捕」系のチャンネルによって「容疑者」に人権だけではなく、「被害者」の人権も毀損する可能性があるというのはここである。つまり、このような警察が介入できないところにまで「逮捕」というコントロールの暴力を介入させられるということは、本来「被害者」は憲法的な意味で基本的人権を守られなければならないにも拘らず、「被害者」の人権がこの「私人」の暴力とコントロールの影響下に置かれてしまうということである。暴対法以前は、警察が対応してくれない揉め事を暴力団を利用して解決したことがあったわけだが、その時点で「被害者」は私的暴力の管理下に置かれるということである。それは「被害者」の人権が「私人」によって支配されてしまうということに行きつく。

 「私人逮捕」系のいくつかのチャンネルは、そういう意味で結局、体制側の権力の補強にしかならず、しかも、警察が介入できない(しない)部分にまで管理コントロールの暴力を浸透させ、人々を管理する方向に導くという意味では、非常に〈悪質〉である。しかもそれが世のため人のため、正義のためにやっているという意味で、生政治的な側面を多分に持っている。しかも暴力による管理コントロールを批判しにくい形で巧妙に行使しているのだ。これは新自由主義下でのグローバル企業の資本家たち経営者たちの身振りと非常によく似ている部分である。コンプライアンスと法遵守という名の経済的暴力による支配。そのミクロのバージョンが「私人逮捕」系チャンネルによる生政治であり、それは体制側の生権力を代補する。警察も「私人逮捕」系のyoutuberに強く介入しないのは、警察の非公式「用心棒」となっているため、今のところ使い勝手がいいからである。しかし恐らくyoutuberたちが体制の邪魔になって管理コントロールの障害になりはじめれば、いずれ排除される運命にあろう。

 ヘーゲルによれば、法は「私」を揚棄する、「私」と「公」を媒介するものであったはずだ。しかし今の新自由主義的世界はこの「私」と「公」が壊されてしまい(資本によって脱構築され)、「私」が直接的に暴力にさらされる状況を作っている。「私人逮捕」はそのような「私」の状況であり、そのような「私」を管理コントロールする剥き出しの権力の発露として現れている。そういう意味では新自由主義的生権力がおこなう統治とは、まさしく「リンチ」そのものだといえるのだろう。

SNS上であった「元号」の使用をめぐる議論について

2023年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
 熊本で「外国出身者」から、行政文書での「元号」の使用が理解しづらく、西暦やQRコードその他の代替的記載によって、「元号」に親しまない人にも年号や暦の把握のための配慮があってしかるべき、という意見があったと、SNSのニュースで流れていた。確かに「元号」と西暦の対応関係は慣れていないと難しい。ただ、こういうニュースにしばしば起こり得る「外国出身者」への差別から、その内容は「誤解」されて伝わっていた、ということになっている。「外国人」は日本古来(?)の習慣に口を出すな、というものである。これは「誤解」というよりも、意図的な差別から起こったニュースの意図的な誤読というべきだろう。そのような「誤解」も含んだ形で、SNS上では「元号」の文書での使用の賛否が議論されていた。しかし、その議論の大勢は「元号」の使用が便利か不便かという所に焦点が当たっていたように見える。「元号」から西暦への換算は確かに面倒くさいことは無きにしも非ずだが、近代以降の「元号」と西暦の換算は、僕自身は一瞬でできる。これについては、ほぼ慣れの問題であり(近代以降の一世一元の法則に依存した慣れでほめられたものではないが)、もっとわかりにくいことは他にたくさんある、という程度の問題といえなくもない。

 僕は意外であったのだが、SNS上には研究者なども「元号」は不便だという主張をし、西暦の方がグローバルに共通しているので、便利だという意見を主に述べていたことであった。便利か不便かの問題は、それは慣れや換算するときの方法が便利になれば解消してしまうわけだが、「元号」の問題は、何よりも天皇制の問題から考えなければならい「問題」だ、といわなければならないはずである。SNS上では、なぜか主に便利か不便かが議論されているが、そうではなく文書上の「元号」での表記を廃止し西暦にするならば、それは天皇制自体も廃止するという問題と連動させなければならないし、連動しているはずなのだ。SNSで議論している人たちは、それが連動していることを意図的(戦略的)に隠しているのか、それとも無自覚なのか。僕は大方は後者ではないかと疑っている。

 日本が現在でも採用している「元号」は、もともとは中国大陸の「帝国」の「暦」制度の真似であり、皇帝が暦(時間)を支配し、臣民たちを統治するという発想から現われたはずのもので、それを天皇は模倣している。これは日本が近代化した時も、天皇制に引き継がれ、日本国臣民を時間の上でも統治しているという形式が維持されたのだろう。近代以前に中国大陸の「帝国」と、時の日本の政権が貿易をする時は、「冊封」といって「暦」を与えられて、「皇帝」への臣下の礼を形式的にとっていたと日本史で習ったが、その意味では「暦」や「元号」は「皇帝」による支配の象徴である。ということは現在でも日本で続いている「元号」は「日本国臣民」への統治が、いまだ天皇制下でなされているということの象徴だと見做さなければならない。つまり、現代の日本は近代国民国家として建前上は民主主義を標榜しているが、実際は「元号」による天皇の時間支配が継続しており、「日本国臣民」はそれを受け入れているということになるだろう。これは身分制、族称制度の容認であり、確かにだからこそ「外国出身者」が「元号」に言及することを「日本国臣民」は非常に嫌悪しているといえるのである。

 文書の「元号」の使用を問う場合は、それが身分制や族称制度という差別的構造の容認につながる、あるいはそのような差別的時間概念と、その時間概念による天皇の臣民への統治を容認することにつながる、ということがまずは問われなければならない。そしてだからこそ、「外国出身者」の「元号」への発言が、マスメディアによっても意図的に、差別的に「誤解」され誤読されて報道されるのである。便利か不便なのかということはそもそも問題ではない。「元号」とは民主主義の問題なのだ。

 ここで話はずれるが、歴史的な事象を理解する場合、「元号」による理解という側面は確かにある。それはそのような時間概念の中で出来事が生起したという、「日本」の「歴史」を問う場合は、特にそうである。そういう問い方をするときに「元号」に着目することはあり得る。しかしそれは、「元号」による天皇制による支配と統治の時間概念と、それによる差別の構造を容認していくということとは違う。それと「西暦」ならばいいのか、という問いは確かにある。「西暦」が中立的だとは言えない。それは西洋的な形而上学の歴史、神と現前性による支配の構造と密接に結びついている訳であり、それは批判されるべきものだろう。「元号」と「西暦」を共に批判していく立場や考え方はできると思っている。しかし、あまりその両方を批判している議論を見たことがない。するべきだろう。

核兵器の「無差別性」を考える(+『はだしのゲン』)

2023年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
 8月6日は78年前、広島に原子爆弾が投下された日であり、テレビを始め、ネットのメディアでも「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が放送されていた。「唯一の被爆国」という言葉は本来おかしく、すでに様々な形で指摘されていることでもあるが、実際核爆弾は、日本だけではなく複数の国家や領域で爆発し、被害を出している。最初に原子爆弾が投下されたのは、核実験をしたアメリカであり、まずアメリカはアメリカ自身に核兵器を落とし、当時の自国民と国土を被曝させているのだ。そして「実戦」で使用された最初は日本ということになっているが、何を以て「実戦」というのかは考えなければならない。アメリカがアメリカ自身に対して爆発させた原子爆弾も、「実戦」のためになされた実験であったわけだから、「実戦」で使用されたに違いがないのだ。アメリカは「実戦」でまず当時の自国民と国土を攻撃したのだと言わなければならないだろう。その点アメリカ国民はどのように考えているのか。

 確かに顕在的な「実戦」における原子爆弾の爆撃(投下)と、比較にならないほどの死者とその後に続く放射線による健康被害は、広島市とそれに続く長崎市を中心として生じたということは間違いない。だが、広島と長崎を特権化する過程で、実は原子爆弾が核実験を含めて、実際は日本だけではなく、当のアメリカの国民と国土にも及んでいたことが見えなくなる。本来はアメリカもまた、原子爆弾について怒らなければならないのではないだろうか。wikipedia情報になって誠に恐縮だが、「核実験」は、これまでどれほど行われてきたのか、というのを見てみると、2000回を超えているようだ。それは様々なレベルでの実験であり、「臨界前」という爆発を伴わないものも含まれている。しかしながら、核兵器にとって、爆発をするかどうかはあまり関係がないはずである。そもそも放射線を大量に放出する兵器であるわけであり、爆発の威力だけを強調するのはおかしい(そういう意味では原子力発電所も含まれる)。2000回以上も、少なくとも来るべき「実戦」のために核兵器は使われているわけで、そういう意味では、日本という「唯一の被爆国」だけの問題ではなく、そもそも世界自体が攻撃されていると考えねばならないだろう。要は核兵器の使用者は決して敵だけを狙っているわけではなく、無差別に攻撃をしているわけである。これはその威力から大量の人が無差別に殺されるという意味での無差別ではなく、核兵器はその性質上、「無差別性」を有しているというべきなのだ。この「無差別性」こそ思考せねばならない。

 wikiを眺めていると一つの写真が目に入った。その写真は、二人のアメリカ兵が、核実験の「きのこ雲」を背景にして、記念写真(リンク)を撮っているものであった。兵士たちは「きのこ雲」から大分離れた場所で、その遠近法を利用して、二人で「きのこ雲」を支えているポーズをとっているのである。これはネットでもよく見る、例えば遊園地やイベント会場などでもよく見られる、巨大な建造物や展示物、あるいは遊具などを背景にしながら、遠近法を利用することで、まるでそこに写る人々が、巨大な物体を手のひらに乗せているかのように写真を撮る行為と、まるで同じなのだ。例えばユニバーサルスタジオジャパンの地球のオブジェクトを、まるで手のひらに乗せているかのように錯覚させる、だまし絵的な写真などは、ネットで多くの人が見ており、あるいは自分自身もそういうことをした人もいると思う。この写真を眺めた時、またある種の「無差別性」が迫ってきた。それは、そういうだまし絵的写真を撮ることは、「きのこ雲」は不謹慎で問題だが、遊園地の建造物との撮影ならば可愛くて写真映えがして問題ない、という話ではない。そうではなく、例え撮影の対象が遊園地のオブジェクトであったとしても、そこには兵士と「きのこ雲」が写った写真と同じ問題が、おそらくは可能性としては内在しているということである。そのような本来触れられないものに触れること。触れることを錯覚させること。あるいはだまし絵的写真ではなくとも「インスタ映え」(ネットで見ると「ナチュ盛」とか「チル」ともいうらしいが、ややこしいので以下同。ただし、この文脈ではこれらの隠語(「盛り」や「チル」)は、より「問題」を含むと考えられる)というものとも大いに関わる。まさしく、二人のアメリカ兵は、「きのこ雲」を背景に、触れられないはずのものに触れるという「インスタ映え」を狙っているのである。

(前掲リンク先のwikiの画像と同じもの)

 ここで関係づけられる「無差別性」とは、「きのこ雲」を「インスタ映え」させているアメリカ兵と、普段、遊園地や飲食店で「インスタ映え」を狙って様々なものを写真に撮っている私たちの行為との、繋がりを指し示している。確かに「きのこ雲」と、例えば、ラーメン屋さんで「インスタ映え」のためにスマホに撮る「ラーメン」を繋げるのは牽強付会ではないか、というのはわかる。もちろん実践上、その二つを繋げる意味がない場合もある。常識的には繋がらない、と言いたくもなる。しかし、「インスタ映え」を狙って普段撮影している、何気ない当のものは、本当に「きのこ雲」よりも「罪」はないのだろうか。あるいは無害な全くの「別」の存在なのだろうか。「ラーメン」だけではなく、インスタグラムやネットメディアに刻印されるそれら「商品」たちは、本当は触れられないにもかかわらず、画面上でそれらに触れているような錯覚を人びとに与え続けている。『資本論』の「商品の物神崇拝的性質とその秘密」の「価値形態論」を見てもわかるように、「商品」の「交換様式」とは、本来人間には触れることのできない「価値」に触れられるという錯覚を創り出すシステムといえる。人々は写真にとることで様々なものを無差別に「商品」と変え、触れられない「価値」というものに触れているような錯覚を供給し続ける。そして写真に撮り「映え」させ、Youtube TikTokなどで商品化し価値付けされていく「商品」は、そこにそう存在させられるまで恐らく、大量生産と大量消費の過程から現われているはずなのだ。その「映え」ている存在は、実際本当は資本主義的世界の中で労働者を搾取し、人を殺し、自然を破壊して到来しているものなのである。それは資本主義の「商品」の「無差別性」であり、この夏は暑い暑いと言いながら、その気候変動の原因を作っているものは、その「映え」ている「商品」なのではないだろうか。

 そしてその資本主義の「商品」の「無差別性」による破壊とその過程における労働者からの搾取による殺戮と奴隷化は、その「映え」て手のひらに乗っている「商品」(きのこ雲)の直下で起こっていることなのではないか。原子爆弾を含む核兵器の「無差別性」は攻撃側であろうが、被害者側であろうが、敵国であろうが味方であろうが、無差別に巻き込んでいくという性質である。そもそもその制御不可能性こそが、核兵器が核兵器として機能するための条件といえる。そして、資本主義もまた、敵と味方も関係なく、全てを「無差別性」の中に巻き込んでいくのだ。「きのこ雲」に手を差し伸べるように、日々私たちもスマホに「商品」(きのこ雲)をとって、良い写真が撮れたと満足するわけである。しかしその「きのこ雲」の下には大量の虐殺が生起しているわけなのだ。

 問題はこの「無差別性」を避けることなく思考することである。もしかしたらその思考上で、この「無差別性」を何らかの形で「肯定」しなければならない瞬間は来るかもしれない。それも含めて考えておかないと、この「無差別性」に足を掬われると思う。

 さて、8月6日ということもあり、『はだしのゲン』が話題になっていた。どのような話題かというと、『はだしのゲン』は僕の小学生時代から学校の図書館に配架されており、映画もテレビや学校などで放映されていることから、〈核兵器使用・実験の反対〉の象徴になっていたが、近年その内容が批判されるようになり、また「保守系」の批判者からの要請で、学校の図書からなくなっている傾向がある、という話だった。それに対して〈核兵器使用・実験の反対〉の側から懸念が出ているというものだ。ただ僕は、ここで『はだしのゲン』が真実を描いているかどうかを検証するのは、あまり意味がないと思う。もちろんもし虚偽が描いてあるのはいけないが、そもそも作品はフィクションであり、ある意図があって発表されているわけだから、それに対して気に入らない人はいるわけで、その人たちから見れば、「虚偽」とも「真実」とも言われる次元が存在してしまうのは不可避だろう。

 ただ僕は、『はだしのゲン』は単に、反核兵器や平和思想を喧伝するだけの作品だとは、思えないし、思ってもいない。中学生の時を最後に読んで以来、今では全く読む機会は失っているが、しかし小学生から中学生にかけて『はだしのゲン』という作品を読んだモチベーションは、原爆被害の悲惨な描写と、エロティックとも見える「欲望」の表現が所々にあったからではないかと思う。これは漫画の技法や作者自身の漫画技法の出自や由来などとも関わるのかもしれないが、原子爆弾の被害やそこに巻き込まれる人々の「欲望」等に、子供心ながら、強い嫌悪感と同時に興味や快楽を経験していたのではないか、と心当たりがある。僕と同じ世代の同級生たちも、反戦や平和で読んでいたのではなく、戦争や原爆の中にある「欲望」を無意識に感じ取っていたのではないかと思う。それこそが、『はだしのゲン』が小学生から中学生に爆発的に広がった要因だったのではないか。今ネットの議論を見ていても、大分ずれているし、そもそも作品をちゃんと読んでおらず、とにかく『はだしのゲン』は反戦と平和の書物だという、ほとんど思考停止状態の意見ばかりが目立っている。このような状況は反戦や反核兵器の人々にとって、より不利に働くと思う。『はだしのゲン』を評価するとすれば、子供たちに無意識のレベルで、原爆と戦争の嫌悪感を与えたことと同時に、人間がそこに拭い難く抱いてしまう「欲望」を描いてもいたからだろう。これは「精神分析」の「享楽」の次元といってもいい。小学生は勿論原爆と戦争の残酷さや悲惨さに対して、『はだしのゲン』によって吐き気を催す嫌悪感を与えられながらも、実はその吐き気は人間の「欲望」にも繋がっているという経験も、無意識にしていたはずなのだ。原爆爆撃直後の被害を被った人々の、ある所「グロテスク」な描写も、その裏では戦争への人々の「欲望」の裏返しとして存在する。記憶をたどると、そのような『はだしのゲン』のグロテスクで時に性的な描写を読書の目的として図書館に通っていた同級生が、勿論その同級生は特異な存在ではなく、一定の人数(量)で存在していたことを思い出すことができる。むしろ反戦と平和の書物として読んでいた同級生の方が少なかったのではないかとさえ思う。

 このところ、「精神分析」でも「享楽」という言葉を乱用しすぎではないかと批判の趣きがある。わからないではないが、この「享楽」(先の言葉でいえば「無差別性」)の次元を思考しないとすぐに足元を掬われることになると思う。そういう意味では倦むことなく「享楽」を思考すべきだ。『はだしのゲン』の擁護派は、反戦と平和の書物という形で主張すればするほど、作品のポテンシャルを殺しているし、そのポテンシャルを殺して思考停止に陥ってしまうと、逆に『はだしのゲン』なんて読まなくたって他にもっといい作品がある、という論法にからめとられていくことになると思う。そうではなくて、『はだしのゲン』をきちんと作品の読解のレベルで擁護すべきである。しかもそれは、反戦や平和の書物というものをはみ出すポテンシャルがあるということを示すべきだろう。何かの作品を直示的に何かの「ため」の作品として読んでしまうと、作品自体の主張を壊す場合がある。特にネットでそうだが、『はだしのゲン』を反戦と平和の漫画としてしまうと、擁護派は原子爆弾が使用される可能性のある戦争の「無差別性」(享楽)から目を背けることになり、『はだしのゲン』がなぜあんなに熱心に子供たちに読まれたのかという、複雑な「欲望」のポテンシャルを奪ってしまうことになる。それは反戦・平和のポテンシャルを奪っているに等しい。それこそ『はだしのゲン』が読まれなくなる状況を作ってしまうことになりかねない。ここはきちんと考えるべきである。

『早稲田文学』の休刊

2023年08月02日 | 日記・エッセイ・コラム
 第10次『早稲田文学』が休刊されたというニュースが流れた。その「経緯」は「公式」のURLで発表されている 。

 主な休刊の理由は、「カリキュラム改革」によって『早稲田文学』を早稲田大学の学科コースのテキストとして使用しなくなった関係上、学費や税金を原資としている大学からの早稲田文学編集室への補助金が廃止されることによるようだ。「公式」の見解が出ているように、雑誌の内容や編集の問題ではなく、「カリキュラム改革」即ち「教育」の問題が大きいというのはその通りだろう。私自身熱心な『早稲田文学』の読者ではなかったが、ヌーボー・ロマン特集や大西巨人の記事、あるいは絓秀実の批評などが頻繁に掲載されていた時は、買いもしたし、図書館でもコピーした記憶がある。無料であった『WB』も何冊かは持っている。最近の『早稲田文学』も読んではいたが、内容として少なくとも文学部の学生に「教育」を目的として読ませても良いのではないかと思う。ただ、文芸誌が学科の「テキスト」や教科書となること自体が必ずしも良いとは思わないが。

 最近思うのは、大学の資本が特に文化、学術の側面において、相対的に大きくなっていることだ。文化・学術出版業界は「不況」の中で大学の資本に頼るようになっている。勿論、出版資本の相対的自立性は高度成長期からバブルまでのかりそめのものだとは思うが、その自立性が弱まった結果、大学資本が前面に押し出されてくるようになった。最近「批評の衰退」がネットで議論されていたようだが、批評の相対的自立性も、その出版資本の自立性と軌を一にしていたわけなので、大学資本が前景化されてくる中で、出版における批評なるものが退いていってしまうのも当然なのかもしれない。大学資本による批評の包摂ということになるだろう。『早稲田文学』もこのような流れの中にあるのではないか。早稲田文学編集室は、大学から補助金を受けながらも、相対的に自立していたはずである。休刊をめぐる「公式」の発表の行間を読むと、その自立性を維持するための、編集発行に関わった教員や学生、それらを含んだ編集員の尽力や献身という名の低賃金労働があったのだと推測される。これらは雑誌の自立性と関わることだろう。大学に資金は出させるが口は出させない、というのを維持するためには、補助金を何とか必要最低限とする必要があるからだ。むしろ僕は大学は金は大いに出して口は一切出さないというのが、出版における言論の自由に資するやり方ではないかと思っている。大学とは本当はそういう役割なのではないのだろうか。

 しかし、2022年4月に早稲田大学が「早稲田文学」を「商標登録」したとあるように、大学資本による出版の包摂が進んでいく。これは『早稲田文学』が担ってきた、創作と批評の蓄積が大学へ包摂されていく過程である。「カリキュラム改革」の結果、『早稲田文学』の「テキスト」としての役割を終えたというが、そもそもその「カリキュラム改革」とは何か?という問題がある。早稲田大学の文芸を扱うコースで、『早稲田文学』的な創作や批評性が必要でなくなる「教育」とは何なのだろうか。それにも拘らず大学は「早稲田文学」を自らのために商品化することには余念がないのだ。これは『早稲田文学』を大学のための文化的商品として作り変えることである。そのような大学による文芸誌の商品化の先に、言論の自由というのはあるのだろうか。そこでは大学の掲げる(資本主義が掲げる)コンプライアンスとリベラルな道徳主義的言論しか許容されないのではないかという懸念しかない。

 大学自体は文部科学省によって補助金による統制を受け、常に企業のように利益を上げることを要求され、内部留保を蓄積するよう暗に指令されている。そのような文科省による統治によって大学も、学内においては自らが文科省的な動きをせざるを得ない。文科省が大学にやっている統治を、大学は早稲田文学編集室におこなわざるを得ないのである。前に、大学は金を出すが口は出さないことが理想だといったが、文科省も金は出しても口を出すべきではないのだ。

 僕は「商標登録」の文字を見ながら、『早稲田文学』を創刊した坪内逍遥に大学はきちんと断りを入れたのだろうか、と思った。早稲田大学(文学学術院)よりも逍遥の批評性の方が当然〈偉い〉はずだろう。