東京にある本社の方と共にお隣り青森県八戸市の事業場に出向きました。盛岡から行くと八戸の空気に涼しさを感じるのですが、東京圏から来る人にはその盛岡ですら涼しく感じるようです。一体東京圏はどんな気候になっているのでしょう?
第46回 東北38年戦争 33(平泉町 達谷窟)
802(延暦21)年8月13日、阿弖流為と母禮が斬首されたことで、エミシの大規模な抵抗にひとつの区切りがつきましたが、北東北のあちこちでエミシの抵抗はまだ続いていたようです。坂上田村麻呂はその後再び胆沢に戻り、抵抗するエミシ達の征討を続けます。
その抵抗するエミシの拠点だったとされるひとつが、当店で過去に2度ご覧いただいている平泉町の達谷窟(たつこくのいわや)でございます。その縁起については以前も触れましたが、この窟にこもり乱暴の限りを尽くした悪路王・赤頭・高丸らのエミシが801(延暦20)年に坂上田村麻呂によって退治され、田村麻呂が毘沙門天を祀り清水寺を模して建てたのが達谷窟であるそうです。
最初の登場・・・2009年2月15日、2度目の登場・・・2010年6月6日
年代的には阿弖流為らが降伏する前年であり、阿弖流為=悪路王という説もありますが、別人という説が一般的のようです。個人的には、「悪路王」という名前はエミシの抵抗を悪と決めつけるために後から付けられたような気がしてなりません。

(2年5ヶ月で4度訪れた達谷窟 -平泉町平泉 2008/11/19-)
達谷窟はこの辺りです
2009年8月20日の一品・・・お休みでした
2008年8月20日の一品・・・お休みでした
2007年8月20日の一品・・・006)栃木散歩 足利市(手割石)
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第46回 東北38年戦争 33(平泉町 達谷窟)
802(延暦21)年8月13日、阿弖流為と母禮が斬首されたことで、エミシの大規模な抵抗にひとつの区切りがつきましたが、北東北のあちこちでエミシの抵抗はまだ続いていたようです。坂上田村麻呂はその後再び胆沢に戻り、抵抗するエミシ達の征討を続けます。
その抵抗するエミシの拠点だったとされるひとつが、当店で過去に2度ご覧いただいている平泉町の達谷窟(たつこくのいわや)でございます。その縁起については以前も触れましたが、この窟にこもり乱暴の限りを尽くした悪路王・赤頭・高丸らのエミシが801(延暦20)年に坂上田村麻呂によって退治され、田村麻呂が毘沙門天を祀り清水寺を模して建てたのが達谷窟であるそうです。
最初の登場・・・2009年2月15日、2度目の登場・・・2010年6月6日
年代的には阿弖流為らが降伏する前年であり、阿弖流為=悪路王という説もありますが、別人という説が一般的のようです。個人的には、「悪路王」という名前はエミシの抵抗を悪と決めつけるために後から付けられたような気がしてなりません。

(2年5ヶ月で4度訪れた達谷窟 -平泉町平泉 2008/11/19-)
達谷窟はこの辺りです
2009年8月20日の一品・・・お休みでした
2008年8月20日の一品・・・お休みでした
2007年8月20日の一品・・・006)栃木散歩 足利市(手割石)

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