このところ全国で所在不明の高齢者が相次いでいますね。先日は大阪市で1857(安政4)年生まれの方が戸籍上存命であると報じていました。岩手県の1857年と言えば、大島高任が大橋(釜石市)の高炉で初めて銑鉄の製出に成功した年です。我が「私的岩手通史の旅」はまだ800年前半ですから1000年以上先の話です。いつになったらたどり着くのやら・・・。
第51回 東北38年戦争 38(奥州市水沢区 三たび北上川)
810(弘仁元)年、按察使(あぜち)が藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)から文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)に代わりました。按察使とは「岩手県の歴史(山川出版社)」によると「国府と鎮守府の統轄官」とあります。よく分かりませんが北東北支配のリーダー的なものだったのでしょう。
その5年前の805(延暦24)年に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が桓武天皇に建議し、エミシ征討を中止させたはずなのですが、綿麻呂は岩手県北部のエミシ征討に遠征しています。
翌811(弘仁2)年5月、坂上田村麻呂がこの世を去りました。その5ヶ月後、綿麻呂は774(宝亀5)年以来続いてきた東北38年戦争の終結を宣言し、兵力を徐々に縮小しきました。「東北38年戦争」という名は後世付けられたものでしょうが、朝廷側の重要人物であった坂上田村麻呂が世を去った年に戦争の終結が宣言されたことに、縁的な物を感じました。

(東北38年戦争を見つめ続けた北上川 -奥州市水沢区羽田町 2010/02/13-)
ひと言で38年と言いますが、今の私に例えれば生まれてからつい数年前までが戦争状態だったことになりますから、そう考えると長い戦でした。
2009年8月28日の一品・・・お休みでした
2008年8月28日の一品・・・お休みでした
2007年8月28日の一品・・・014)栃木散歩 石橋町(現下野市)児山城跡
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第51回 東北38年戦争 38(奥州市水沢区 三たび北上川)
810(弘仁元)年、按察使(あぜち)が藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)から文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)に代わりました。按察使とは「岩手県の歴史(山川出版社)」によると「国府と鎮守府の統轄官」とあります。よく分かりませんが北東北支配のリーダー的なものだったのでしょう。
その5年前の805(延暦24)年に藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が桓武天皇に建議し、エミシ征討を中止させたはずなのですが、綿麻呂は岩手県北部のエミシ征討に遠征しています。
翌811(弘仁2)年5月、坂上田村麻呂がこの世を去りました。その5ヶ月後、綿麻呂は774(宝亀5)年以来続いてきた東北38年戦争の終結を宣言し、兵力を徐々に縮小しきました。「東北38年戦争」という名は後世付けられたものでしょうが、朝廷側の重要人物であった坂上田村麻呂が世を去った年に戦争の終結が宣言されたことに、縁的な物を感じました。

(東北38年戦争を見つめ続けた北上川 -奥州市水沢区羽田町 2010/02/13-)
ひと言で38年と言いますが、今の私に例えれば生まれてからつい数年前までが戦争状態だったことになりますから、そう考えると長い戦でした。
2009年8月28日の一品・・・お休みでした
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