「清滝とうげ」
「ネコ」は「そら」に押し当てた顔はそのままに、脱げかけになった「そら」のジーンズを下ろそうとしたが、羽交い絞めのままでは上手くいかない。なんとしても抵抗の姿勢で足をばたつかせる「そら」のやわらかな内腿が、「ネコ」の強い腕に痛ましくぶつかるだけだ。そうと分かると、今度は自分のズボンのベルトを緩めだした。
カシャッ わずかな音。
突然、「そら」の身体が大きくのけぞり、「ネコ」の顔からいったん離れ、力いっぱいの ”頭突き” が炸裂した。一発!二発。 眼のまわりで何かが光った様な突然の激痛によろめく「ネコ」。 言葉をふさがれた「そら」の、顔全体での力のかぎりの抵抗は、見事、成功した。
二人ともその場から跳ね飛ぶ様に倒れこみ、ビールやチューハイの空き缶がそこかしこに飛び散り、今まで暴れるように絡み合っていた二人の物音が、急に静まり返ったこの部屋に、やまびこの様に聞こえそうだ。
・・・・・・・・・鼻血。
「そら」の形の良い小ぶりな鼻から、 ”頭突き” から一拍あけて、大量の鼻血・・。
「 ”ちぃ”出たやんか!!!! はなから ”ちぃ” や!!!!」 怒り頂点の「そら」はあちこちに転がったビールやチューハイの空き缶をめちゃくちゃに蹴り飛ばし、食べさしのスナック菓子を投げ散らした。アルコールの力も借りた大量の鼻血は止まる事はなく、口元を通り過ぎ、あごの下まで伝い、乱れたタンクトップの中までしたたり落ちた。 鼻から下の赤いマスクをした様に、顔中に広がる「赤」。 暴れながらの流血は、どれほどの惨事があったのか という程、二人の足元のあちこちに飛び散り、いくら手で拭いとっても腕や服まで「赤」に染まるばかり。 大量の流血は、「海」か「磯辺」に似た、生臭い匂いがする。 「そら」は怒りにまかせて灰皿から何から目に付くもの全てを「ネコ」に投げつけ、突然の目もくらむ痛みに顔を覆ってうずくまったままの「ネコ」は、黙して投げつけられるがままだ。 うずくまったままの「ネコ」のまわりに、部屋中の物品が積み上げられたころ、「そら」は ”ふっ” と我にかえり、改めて「ネコ」を見た。
・・・・・・・・・大きなむらさき色の ”たんこぶ” 。
「ネコ」の額のちょうど中心に、取って付けた様な、大きなむらさき色の ”たんこぶ” 。
「ネ・・・・・・ネコ、何?それ??何つけてんの?それ??」 と「そら」に言われて、「ネコ」はあらためて自分の額をさわってみた。 「あ・・・・”たんこぶ” や・・・」。
酔っていたとはいえ、自分の行った事、行おうとした事を冷静に後悔しはじめた「ネコ」は言葉につまり、取り合えず しだいに丸い形に膨れ上がる ”たんこぶ” の「へり」を指でなぞっている。 考えてみると、「6号」は、彼女とケンカして不満だった自分に率直に付き合い、酔った自分が不満勝手に作った流れに率直に乗せられて、その結果、傷ついてしまった。自分は「6号」という仲間を、者を言わない「人形」か、絶対服従の奴隷の様に扱ってしまった・・・・・。 「ネコ」はそう考えると、いよいい「今、話すべき言葉」が見つからず、ひたすら額の「丸」をなぞるしかない。
突然に「そら」が笑いだした。
「何??それぇ??!!あははは!!変な ”たんこぶ” !!まる~くて、しかもむらさきいろになってるで!!それ何??テープでピタッとはりつけた、”くらげ”がでてきたみたいやで!!!あっはっはっは!!!おもろすぎ!!!」
突然にゲラゲラ笑い出した「そら」。 笑いは止まらず、「ネコ」に近寄り、大きくなり続ける ”たんこぶ” をちょっと突付いてみてはしゃがみこんで笑っている。「ネコ」は自分が帰宅してから今までの展開を考えると、あまりに唐突なこの大笑いにア然としたが、自分のした事、「6号」がされた事を考えると、更なる後悔の気持ちと、それにしても あまりに単純に笑える「そら」の思考が、どうしようもなく痛ましく感じた。 突然、失っていた言葉が蘇ってきた。
・・・・・・・・・6号、ごめん・・・・・・・・
一旦「侘び」を口にすると、何故か心底悪い事をしてしまったという感情があふれ出し、心が痛い。 「・・・しまった・・・・6号、ほんま・・・ごめん・・・・」
撃ってはいけない者を撃つ罪悪感と似ている。 両手を広げて友好を求める丸腰の民間人を撃ち殺す兵士のような。 汚してはいけないもの。 それを汚してしまうと、汚れてしまった「それ」よりも、自分自身が汚れているような、何かに負けた感じ。
「いいよ、ネコ」 と「そら」はひとしきり笑い転げた後、鼻血のふき残りがあちこちついた、そのままの笑顔で言った。 その笑顔には、何の曇りもない。
「いいよ、ネコ。ごめんって言うたから、もう、いいよ!」
幼い頃、いつも「ネコ」についてまわっていた五つ年下の男の子がいた。 「ネコ」が同学年の仲間たちと「やんちゃ」をする時、自分もやりたそうに、いつも付いてまわっていた。 可愛い奴だと感じていた。 蜂の巣があった。 そのころからつるんでいた「ヘビ」が、一計を案じた。 ”皆で蜂を退治しよう” 。 年下の子も、その男らしい挑戦に目を輝かせた。 しかしそれは、本当に退治するのではない。 巣を落とされ、怒り狂って飛び回る蜂の大群から、明らかに逃げ遅れるその年下の子の反応を、ちょっと離れて、ふざけて見てみよう。 それは見事に成功し、逃げ遅れたその子は、怒り狂う蜂の大群に八方から取り囲まれ、それを少し離れた所から、指差して皆で笑った。
そのうち どうしても逃げ切れない、無数の蜂に刺されるがままのその子が、ついにうずくまり、顔だけを手で隠して「ううう!!ううう!!」と嗚咽ともうめきともつかない、声をあげている。 半ズボンから出た足や、顔を覆う腕に無数の赤い斑点が広がり始め、しまいには顔を上げ、中を睨んで狂った様に泣き叫びだした。 それは「蜂がしているひどい事」ではなく、「自分たちがしている、ひどい事」。 「ネコ」は、「ヤバイ!」と感じた。 皆も「ヤバイ」と感じ、あわてて皆で棒切れや虫取り網で蜂を追い払った。 この難を逃れた赤い斑点だらけのその子は、
ーーおれだけドン臭くて、ごめんーー
と言った。 その時「ネコ」の心は、何かに刺された様に、たまらなく痛かった。
もっともその痛い思い出と、今の出来事は状況も種類も違っているが、苦しい程の心の痛みは同じだった。
「ほんまに、ごめん!!6号、思っきし、殴っていいぞ!!」 「そら」は「ネコ、何回も何回も言わんでも、もう ええって言うたら もお ええの!!ごめんって言うたから、いいよ!」 と穏やかに言って、逆に「ネコ」を慰める様に「ネコ」の大きな背中を ”よしよし” して微笑んでいる。 「ネコ」は、再び撃たれた様に言葉をなくし、急に溢れてきそうな涙を隠そうと、「そら」から見えない方にうつむき「そうやんな・・・」とだけ言った。 これではまるで「そら」が「ネコ」に何かして、悲しい思いをした「ネコ」を慰めているようだった。 「ネコは、へコんでいる」と思った「そら」は、「なあなあ、ネコのその ”たんこぶ” と、おれの ”はなぢ画像”、写メールで撮ってあそぼか!!」 と つとめて明るい声で言った。 「あははは!それ、おもろいな!!でも、みんなに送ったりせんとってや!!」と「そら」の提案に乗り気になることで、上手く涙をごまかす事に成功した「ネコ」。 自分の携帯をどこのポケットに入れたかあちこち弄って探す「そら」は、かたまり始めた血痕がパラパラ落ちても気にも留めず、新しい思いつきに嬉しそうな横顔のまま、「それにしても、おれの ”ファースト キス” がネコって、これ、さいていやな!!」と笑いながら言って、「うん、ほんまやな!!」と二人で笑った。
「おい!!!なんや??このごちゃごちゃは!!!」と、残業で疲れた体を引きずってかえってきた「1号」が、「なないろ」に入るなり言った。 「おまえら、何しててん??」。
「そら」は「あ!1号、お疲れ!!」と、いつもと変わらない、元気な声だが、「ネコ」は微妙だ。
”この「ごちゃごちゃ」の理由を1号にどう説明すれば・・・・” 「いや、1号、実はオレ・・・・・」と言いかけたが、上手く言葉にならない。 「なあ、1号、カイさんもヘビも、サソリも、みんな どっか行っておもろないから、ネコと宴会やってたら、ごちゃごちゃになったわ!!!おれ、かたずける勇気ないわ!!」 「あほ!! ”ないわ” とちがう!!キチンと片付けんと、あかんがな!!たのむで!!」と1号。 この会話の流れのまま調子を合わせていればいいものを、「ネコ」は再び「1号」に、「1号、ごめん、オレ・・・・」と、反省報告を言わずにおれない。しかし、やっぱり心にこもる思いを「ことば」にあらわすのは、今の「ネコ」には困難だ。 「そら」は「ネコ」が、何を話そうとしているのか分からなかったが、とりあえず黙って「片付け」を ”イヤそうに” 始めた。
「なないろ」のリビングのあちこちについた血痕は、相当な大喧嘩の修羅場であったかのように、 何かを「1号」に物語っている。「ネコ」はそれを「1号」に話そうとしているのじゃないか? 「1号」は疲れた頭で少し考え、「ネコ」の言葉を待った。「 ”オレ” がどないしたんや?」。こんな時の「1号」の顔は、普通にしてても怒っている様に見えて、今の「ネコ」にはかなり ”キツ”い。 「いや・・・1号、オレが悪かってんけど・・・6号が・・6号と・・・・その・・」。
ーーオレが悪かってんけどーー
1号はこの一言で、もう全部聞かなくてもよかった。
「おいっ!ネコ!、そこらへんの片付けはほっといて、 ”清滝(きよたき)” 攻めに行こか!!」
「清滝とうげ」 それは、暴走族とは違い、「走り屋」とよばれる若者たちが、スピードとコーナーリングのテクニックを競い合う、S字カーブの連続した生駒山の山道だ。アップ・ダウンも多いが、山の上からの夜景も美しい。合わせて、事故も多い。 「そら」がすぐに「食いついて」来た。
「ああっ!!!きよたき!!行こ!!行こ!!」 「ネコ」の顔はいっぺんに明るくなり、「そやな1号!!一発、攻めよか!!」 「なあ、1号!おれ、1号のケツにのっかるわ!!」 「よっしゃ!決定やな!」
「清滝とうげ」に3人で向かう道中、「1号」が急に「6号、運転、かわったろか?」と言い出し、「そら」の ”ケツ” に「1号」という危険な体勢で「とうげ」に向かった。163号線を進み、少し外れたところからしだいにコーナーの急な登り道が始まる。ここを100キロ以上のスピードで上りきると、視界の隅にはちらちらと壮大な町の夜景が広がる。しかし、その美しい夜景の方に一瞬でも気を取られると、命取りのスピードである。
「ネコ」の前を疾走する、「そら」の運転する1100CCの ”ケツ” で、大柄な「1号」が、小柄な「6号」につかまったまま、うとうとしている。相当に疲れている・・・「ネコ」は「1号」に「ありがとう」と思いながら、視界の隅に広がる美しい夜景と同じくらい、夜の「とうげ」を風を切って「攻め」る自分たちが、美しいように思えた。