聖書の引用は、新改訳2017(新日本聖書刊行会)によります。
少年イエス
イエスが12歳の時の出来事です。
ユダヤでは13歳で成人を迎えますから、成人を迎える前年のことです。
13歳になったら、自分で礼拝に参加しなければいけないので、両親は予行演習的にイエスを過越祭に連れて行ったようです。
「そして祭りの期間を過ごしてから帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。」 (43〜44節)
過越祭の時には、地域単位でツアーを組んで団体でエルサレムまで往復しました。
だいたいは婦人と幼児を先頭に、成人男子はしんがりについたようです。
また未成年の少年少女は、父親側、母親側どちらに付いて行っても良かったようです。
ですから、息子イエスの姿が見えなくても、マリアは息子がヨセフと一緒にいるものと思い,ヨセフはお母さんにくっ付いていると思って安心していたのでしょう。
しかし、夕方になって、息子イエスがどちらの側にもいないということが分かりました。
そこでヨセフもマリアも、息子イエスを神殿に置いてきぼりにしてしまったのではないかと思って、エルサレムに引き返しました。
イエスを見失って
「そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」(46節)"
両親は3日間イエスを見失って、イエスを探し回りました。
私たちも、試練に遭ったりして、イエス様を見失い、イエス様を求めて探し回ることがあります。(聖書の中を探し回ることもあります。)
しかし、やがて復活のイエス様と出会い、イエス様と再会して安心することができます。
私たちは一時的にイエス様を見失ったり、イエス様が(そして神様の愛が)見えなくなっても、あわてふためくことなく、深呼吸をして、落ち着いて、心を静めて、神様に祈り求めましょう。
父の家〜神殿と教会
「わたしが自分の父の家にいるのは当然であることを、ご存じなかったのですか。」(49節)
イエスはヨセフの子どもであると同時に、天の父なる神の御子(独り子)でもあります。
12歳のイエスは、このときすでに自分は神の独り子であることを悟っていたのです。
そして自分がやがて天の父なる神様の御用をすることになることも知っていたのではないかと思います。
――おそらくヨセフとマリアがイエスにそのことも教えていたのでしょう。
私たちはイエスのように神の独り子ではありません。
しかし、神様は私たちの天のお父様であり、私たちはイエス様の十字架を信じる信仰によって神の子とされています。
そして、イエス様が天の父なる神様の
家である神殿にいたように(神殿がイエス様にとって本当の自分の居場所であったように)、
私たちにとっては、神の宮であり、神様が臨在しておられる教会こそが私たちの本当の居場所なのです。
私たちは教会を大切にし、礼拝を大切にしましょう。
そして、文才豊かなルカは「(3章)以下の物語を,天の父の子の生涯として読んでください。」と私たちの注意を向けているのです。
今は分からなくても
「両親には、イエスの語られたことばが理解できなかった。・・・母はこれらのことをみな、心に留めておいた。」(50〜51節)
私たちは、この時のマリアのように、神様のことばや神様がなさることが分からないこともたくさんあります。
しかし、私たちが、自分の考えだけでその状況を判断しようとすると、神様の御心を見失って、間違った判断をしてしまうこともあります。
わからない事は、今はまだ必要ではないのだから、わからないままにして心に留めておくという事も、時には大切な事なのです。
必要であれば、神様(聖霊様)が、必要な時に分かるようにしてくださいまふ。
「イエスは彼に答えられた。『わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。』」
ヨハネの福音書 13章 7節
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