新月のサソリ

空想・幻想・詩・たまにリアル。
孤独に沈みたい。光に癒やされたい。
ふと浮かぶ思い。そんな色々。

煉瓦

2025-02-03 03:25:00 | Short Short

屋上のまるい煙突カバーから煙が出ていた。
それはただの通気口だったのかもしれないが、古い煉瓦造りの、1メートルほどの四角柱の突起上にかぶせたアールデコ調のカバーが、なんだか煙突の方が似合っていると思った。

いくつもの淡い煙が屋上にふわふわと、ビルが吐いた息のように白く漂い、私は、自分がその中に身を隠していられるこの時間が、あまり残されていないのだと知りながらも、そのときは唯一ここにいることが、落ち着きを取り戻すただ唯一の方法に思えた。
実際、もう半日もここを動けずにいる。

暗くなる頃、彼が屋上の扉を開け、暮れ行く空の下に佇む私を見つけた。
どうしてここだと分かったのか、あちこち探したのか、それは訊かなかった。
私だけの時間が終わった。

もう決めなければいけなかった。

彼がそばに居る。悲しくも寂しくもない。
ただ、自分の価値がひどく落ちぶれてしまったような無力感が、彼のやさしさを上回った。
「大丈夫だよ」と彼は言う。
「そうね」と私も言った。

そうね、でもその先に言葉が何も浮かばなかった。
屋上の端に、夜のあわいに湧く白い煙にまぎれて、打ち捨てられた煉瓦がひとつ見えた。その一片がいつかどこかで、役に立つことがあるのだろうかと見つめるうちまた煙に消えた。

やさしいことが辛くなる。
自分の存在理由は、自分で保っていたかった。
私もいつかあの煉瓦のように、ただそこに在ることだけで時間が過ぎ、これまでの何もかもが徒労に終わる日が来るのではないかと、立ち並ぶビルの明かりを見下ろす足がすくんだ。

「心配ないよ。家に帰ろう」彼が言う。
「そうね」私は彼に微笑んだ。




コメント
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