
イエスは中断可能です
中断をイエスのように愛する機会として捉えることを選択してください。
ヨハネによる福音書 9:1-7 新共同訳
[1] さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 [2] 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 [3] イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 [4] わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 [5] わたしは、世にいる間、世の光である。」 [6] こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 [7] そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
今日の箇所では、主はどこかへ向かう途中でしたが、目の見えない人を癒すために立ち止まりました。 簡単に通り過ぎてしまうかもしれませんが、結局のところ、イエスは多忙な人でした。 しかし、神はご自身が中断されることを許され、ある人の人生は永遠に変わってしまいました。
「わたしは世の光です」とイエスは言われ、その男の視力のない目に泥を塗りました(5節)。 視覚障害者の目に泥を入れて視力を回復させるという考えは、今日の私たちには奇妙に思えるかもしれません。 しかし、ユダヤ人の見物人たちは、これが当時の医療行為であると認識していたのかもしれません。 泥は土の塵からアダムを形成した神を思い出させる可能性があるため、彼らはそれを新たな創造行為として解釈した可能性さえあります。 もしそのような聖書の描写が実際にイエスの意図であったとしたら、イエスはまさに初めに神と共にあった言葉、つまり神ご自身と一体であったことが伝わるでしょう。
この異常な処置の理由が何であれ、私たちは汚れと唾液がイエスの癒しの手において神聖な道具となったことを知っています。 ですから、私たちが時間と注意を払って他の人を愛そうと努めるときに、神が私たちの中で何をなさっているかを考え、神の導きを祈りましょう。 自分の計画を変更する意欲があれば、私たちが神の癒しの働きの器になれるかもしれないと知るのは、とても楽しいことです。
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